"Bayan Ko"(我が祖国)について

2006年5月23日 朝日新聞朝刊に
『「母国への愛」 革命に力
フィリピン 抵抗の歌「バヤンコ」』
という記事が掲載されました。
内容は、1928年に作曲された"Bayan Ko"が現代までどのように
歌い継がれているかとともに、民衆の抵抗の歴史を追ったものです。

その中で、"Bayan Ko"の日本語訳が『フィリピンの事典』より転載されました。
しかしそれは実は"Bayan Ko"の訳ではなく、「フィリピン共和国国歌」の訳なのです。
訳者の寺見氏よりいただいたメールをここに掲載します。 (2006/6)

追加情報をいただきました。一番下になります。 (2006/7)


寺見元恵からのお願い

5月23日の朝日新聞朝刊に『フィリピン抵抗の歌「バヤンコ」』が掲載され、歌詞の一部が寺見元恵の訳とありました。
それは1992年に同朋舎から出版された『フィリピンの事典』の385ペイジから引用されたものです。しかしそれは編集ミスで上段の『国歌「朝の
国」』は誰かが英語の国歌から訳したもので私の訳ではありません。下段の『わが祖国(バヤンコ)』は私の訳のフィリピン国歌です。それが間違っ
てバヤンコの訳として掲載されました。フィリピンの事典は第2版が出なかったので訂正されませんでした。その編集ミスのバヤンコが新聞やウェ
ブサイトに引用されているのは遺憾な事です。朝日新聞から訂正記事を載せる方向で新しく訳して欲しいと依頼がありましたので、私の訳を送りま
す。
Ang bayan kong Pilipinas lupain ng ginto't bulaklak
Pag-ibig ang sa kanyang palad nag-alay ng ganda't dilag
At sa kanyang yumi at ganda dayuhan ay nahalina
Bayan ko binihag ka nasadlak sa dusa.

Ibon mang may layang lumipad 
Kulungin mo at umiiyak
Bayan pa kayang sakdal dilag
Ang di magnasang maka-alpas
Pilipinas kong minumutya
Pugad ng luha ko't dalita
Aking adhika 
Makita kang sakdal laya.
わが祖国フィリピンよ、黄金と花に満ちた国
心の優しと美しさが輝く;それに魅せられ外国人がやってきた
今は彼らの囚われ人
苦しみに喘ぐわが祖国よ


空飛ぶ鳥でさえ籠にいれられたら
自由を求めて泣くだろう
それが 気高き一国なら
自由を求めないはずはない
我が愛しいフィリピンよ
涙と苦しみに満ちた国
わたしの願い
それはあなたが自由になること

このことについては、『フィリピンの事典』編集委員の早瀬晋三氏の
ブログ(2006年5月30日)にも掲載されました。編集ミスが発生した経緯がわかります。
そちらも併せてお読みください。
『早瀬晋三の書評ブログ』
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2006/05/

また、日本国内では、Lahing Kayumanggi というバンドが歌っています。
http://lahing.hp.infoseek.co.jp/
Ang Bayan Ko (Waga Sokoku)
*Traditional Philippine patriotic song
(Lahing Kayumanggi version)

Ang bayan kong hirang, Philipinas ang pangalan
Perlas ng Silangan sa taglay niyang kariktan
Ngunit sawin-palad sa minimithing paglaya
Laging lumuluha sa pagdaralita.

Ang bayan kong Pilipinas lupain ng ginto't bulaklak
Pag-ibig ang sa kanyang palad nag-alay ng ganda't dilag
At sa kanyang yumi at ganda dayuhan ay nahalina
Bayan ko binihag ka nasadlak sa dusa.

Koro:

Ibon mang may layang lumipad 
Kulungin mo at pumipiglas
Bayan pa kayang sa pa layang sakdal dilag
Ang di magnasang maka-alpas
Pilipinas kong minumutya
Pugad ng luha ko't dalita
Aking adhika 
Makita kang sakdal laya.

Tulay:

Sokoku ni ikiru sono tsurasayo
Gaikoku no tame dorei ni sarete
Kurushimu kuni yo tatakai ni tate
Higashi ni jiyu no yoake ga kuru

(Ulitin ang koro)
わが祖国
(ラヒン・カユマンギ バージョン)


わが愛する祖国よ
その名はフィリピン
その美しさゆえ
東洋の真珠と呼ばれる
しかし自由を探し求め続けても
見つけられぬ不運よ
抑圧のため涙を流し続けている

わが祖国フィリピンよ
黄金と花の国
やさしい人の心
美しく輝く
だが異国の船が
この平和をおかして
祖国を奴隷の苦しみにつなぐ

籠の鳥も自由
求めてはばたく
とらわれの祖国も
解放をもとめる
フィリピンよ涙と
悲しみの国よ
解放の日を待ち望む

祖国に生きる
そのつらさよ
外国のため
奴隷にされて
苦しむ国よ
たたかいに立て
東に自由の夜明けが来る
※ Lahing Kayumanggi version では、わが祖国・・・以降の歌詞は、もともと
日本語になっていたものを流用しています。聞くところによると、フィリピンの民衆運動に
連帯し活動していた日本人が訳して、日本語バージョンを広めたらしいということです。


また、上記を寺見氏に読んでいただき、下記のようなコメントをいただきました。


『Ang bayan kong hirang, Philipinas ang pangalan
Perlas ng Silangan sa taglay niyang kariktan
Ngunit sawin-palad sa minimithing paglaya
Laging lumuluha sa pagdaralita.』これはオリジナルにはありません。
きっと反マルコス運動の中でつけくわえられたと思います。また、

『祖国に生きる/そのつらさよ/外国のため/奴隷にされて
苦しむ国よ/たたかいに立て/東に自由の夜明けが来る』は
“Mahirap Mabuhay sa Sariling Bayan――”で始まり、
“Silangang ay Pupula――”東方が赤くなる、つまり共産主義の勝利を歌った歌詞ですが、東の夜明けとも受け取れるように
ちゃんと逃げ道を用意して、活動家たちが特に反マルコス運動の中で盛んに歌っていました。フィリピンらしい抵抗の仕方だと
思われませんか?Jose Corazon de Jesusのオリジナルには勿論ありません。


ということです。
歌詞の変遷にも時代が影響しているのですね。
貴重なお話ありがとうございました。 (2006.6)


********** 上記の記事をサイトに掲載したところ、追加情報をいただきました。 **********

"バヤン・コ"の変遷については『フィリピンと出会おう』国土社、2002、の68ページに詳しいです。
(赤松さん)

ありがとうございます。読んでみます。

なるほど、「サリリン・バヤン」という曲の前半部分が「バヤン・コ」の前に、
後半部分が「バヤン・コ」の後に加わったのですか。
そしてLahing Kayumanggi から「日本人が訳して」と伺いましたが、
当事者が名乗り出てくださいました。
以下、堀田正彦さんからのメールを転載します。

 たしかにこれは私が英語版から訳したものです。
 ただし、最初のバラードの部分は私ではないと思います。
 私は、1978年にインドで開かれた「アジア農村演劇ワークショップ」に参加して、PETAの参加者と出会い、インドからの帰国の途中にフィリピンに
立ち寄り、そこで初めてPETAの活動と、フィリピンの地方で行われていた演劇ワークショップ活動に出会いました。
 翌年1979年に三ヶ月間、PETAのサマーワークショップに参加。その時は寺身元恵さんのお宅にも寄らせてもらい、いろいろ勉強させていただき
ました。寺見さんを紹介してくださったのは、故・鶴見良行さんでした。私にとって最初のマニラ滞在となったその年、帰国後ですから、多分8月の
夏休みの時だったと思いますが、当時文京区の白山にあった『自主講座』グループの中の「フィリッピンへの公害輸出反対運動」を展開していた
『反公害センター』の人たちと私がワークショップを行い、川崎製鉄がミンダナオ・カガヤンデオロ市に建設した製鉄工場の公害問題を題材にして、
劇作品に仕上げ、文京公会堂での集会で上演しました。私は演出を担当したのですが、最後のシーンにこの『バヤン・コ』を是非入れたくて、英語
の歌詞から翻訳したものです。その時のフィリピン滞在で私の心に最も残ったモノが、小さな村で上演された村人の即興劇の中で歌われた『バヤ
ン・コ』でした。その時の感動をそのまま東京の劇の中に再現したいと思って、メロディーに合う日本語にして訳したものです。
 たしか、訳したものを寺見さんにも見ていただいて「メロディーに合わせたので意訳になってはいるが、ほぼ正しくできてるわ」とほめてもらったこ
とを記憶しています。
 ちなみに『川崎劇』(当時はそのようにこの作品を呼んでいました)の最後のシーンは、製鉄所建設の為に土地を追われたフィリピンの人々が、デ
モを起し、製鉄所に押しかけると、その門前で、軍隊に蹴散らされ、全員が地面に倒れてしまいます。一時シーンとなる中、かすかにバヤンコの出
だしのバラードが聞こえてきます。そして、「わが祖国フィリピンよ…」で、血まみれになっていた少年と女たちが歌いながら立ち上がり、「ものみな
美しく…」で男たちがおもむろに立ち上がり、「籠の鳥はいつも…」から全員の大合唱になり、最後はこぶしを高く突き上げたまま「…東に自由の夜
明けが来る」と、舞台中央に全員寄り集まって遠くの空を見上げる中で、照明が消えていく。という演出でした。
参加者全員素人でしたが、とてもよくできたプロパガンダ劇で、見に来ていた黒テントの友人たちが、とても興奮して、賞賛してくれたことを思い出
します。当時上智で教鞭をとっていたアビト元神父が、「この劇をマニラで上演したらみんな即投獄されますよ。でもよかった。」と言ってくれたのを
思い出しました。
 そんなわけで、この歌詞は私の翻訳に間違いありません。
 ただ、この後で、作曲家の高橋悠治さんが結成した水牛楽団では、私の訳の中の文語的な言い回しを平易にし、受身的になっていた部分をたと
えば『解放へともにたちあがろう』と動きのあるものに改善した歌詞があります。そのほうが運動の中で歌われるにはふさわしいなと思いました。
以上

そうだったのか…日本とフィリピンの民衆はさまざまなレベルでつながっていたのですね。
こうなると高橋悠治さん訳の「バヤン・コ」も知りたいですね。

というわけで探してみると
CD『水牛楽団』の12番目に「わが祖国 (アン・バヤン・コ)のタイトルがありました。
http://www.cdjournal.com/main/cd/disc.php?dno=3201020814

しかし残念ながら購入できない模様。マメに中古CD屋を巡るしかないか?
念のため、高橋悠治さんのサイトに歌詞が載っていないか探しました。
http://www.suigyu.com/yuji/

最近のCDについての情報しかないですね。でも水牛楽団はやり続けていらっしゃいます。

ちなみにウィキペディアの
「高橋悠治」の項目
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%82%A0%E6%B2%BB

著書『水牛楽団のできるまで』が気になります。

というわけで、この項まだまだ続きそうです。 (2006/7)


********** 上記の記事をサイトに掲載したところ、追加情報をいただきました。 **********


Bayan koの歌詞ですが、寺見さんの追加説明 “Mahirap Mabuhay sa Sariling Bayan――” のところで、私はまた別のバージョンを
よく聞いていました。1986年頃のことです。私の知っているバージョンは、出だしが “Kaysarap Mabuhay sa Sariling Bayan――”
と歌いだすもので、つまり「祖国に生きるすばらしさよ」と謳いあげてから「たたかいに立て」と鼓舞するパターンです。
いろいろな活動家がいろいろな局面でいろいろな解釈をしながら歌詞を変えて歌っていたのだろうと思います。
ナショナリストの運動でも一つに固まらない、自由に自分たちの気持ちを表現するフィリピン人気質からくるものなのでしょう。
(松浦さん



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