慧日寺
(えにちじ)

福島県磐梯町

 

会津仏教文化発祥の地、慧日寺。
会津というよりは、東北地方に仏教が根付く拠点だったのかもしれない。
慧日寺を開いたのは奈良・東大寺、法相宗の僧、徳一(とくいつ)。

空海に言わせれば、「斗藪(とそう)して京を離れ、錫を振って東に往く」
斗藪(とそう)とは犬や鶏が身震いする様で、煩悩を振り払い、迷いや穢れを取り除く修行のこと。
徳一は都の喧騒を離れ、静かな土地で仏教の修行に専念するため会津に赴いたといわれる。
その後、天台宗開祖、最澄と三一権実論争を繰り広げた。

徳一の生年、没年は不明。慧日寺の建立時期も不明である。
存在が確実なのは空海から書簡をもらった弘仁六年(815)から、最澄との論争が終わる弘仁十二年(821)まで。

伝説ではあるが、神護景雲元年(767)生まれ、承和九年(842)入寂。慧日寺の建立は弘仁五年(814)とされる。
が、空海から書簡をもらったのは弘仁六年(815)であるから、おそらくもっと以前に慧日寺は存在していたのではないか?最盛期には寺僧300、僧兵数千、寺領18万石、子院3800と伝えられる。

明治二年(1989)、廃仏毀釈により廃寺。大正二年(1913)恵日寺として復興。
現在は、慧日寺跡として発掘調査が行われ金堂は近い将来復元されるという。


(パンフレットより)

 


 


仁王門

江戸時代後期創建。門前に立っているのは仁王様ではありません。(^^;
仁王様はこちら ↓ 江戸時代中期の作。

仁王門は、当初どこにあったかは不明。明治5年(1872)の火災を免れたあと、3回ほど移築した。
昭和45年の修理の際、柱の根元を切ったそうです。勿体無い・・・。


 


薬師堂

会津五薬師の東方薬師。
観応元年(1350)慧日寺金堂に薬師仏を安置。民間信仰の寺としても栄えたが、
天正十七年(1589)の磨上原(すりあげはら)の合戦で伊達軍によって焼かれた。
唯一焼け残った金堂も、寛永三年(1626)の火災によって焼失。
寛永十五年(1638)その跡地に薬師堂が建立された。

その後、明治5年(1872)の火災で、本尊の丈六薬師仏の頭部を残して焼失。
その頭部も明治12年(1879)の火災で焼失。
現在(写真)の薬師堂は明治22年(1889)年の建立。

会津五薬師

 勝常寺薬師を中心にして、東に慧日寺薬師、西に宇内薬師、北に北山薬師、
南に野地薬師を配した信仰。現在残っている薬師仏は勝常寺薬師と
宇内薬師のみ。勝常寺薬師如来坐像は国宝。

勝常寺も徳一が開いた寺院で、平安初期の奥羽仏教界の中心地でもあった。

 


 


不動院龍宝寺不動堂

慧日寺跡より東側の外れた地域にある不動堂。慧日寺との関係はわからない。
慧日寺が創建される以前より修験道はひろまっていたといわれる。
慧日寺の位置するあたりには羽山という山があって、古城ヶ峰、厩岳山、猫魔ヶ岳、磐梯山、吾妻山へと連なる
山岳信仰の地域でもあった。慧日寺・龍宝寺は霊山山岳への入峰路のひとつのようだ。
写真を撮る時、向かって右の縁側下に赤い光が見えてちょっとびっくりしたが、消火設備のランプだった。


 


慧日寺跡発掘現場


(写真提供:宮良男氏)

慧日寺の中心伽藍は、南北に一列に並んでいる。南から中門、金堂、講堂、食堂。
講堂と食堂の間の東側には中堂があった
初期の金堂は桁行7間、梁間4間の五間四面堂であった。金堂前面には石を敷き詰めた広場があり、
儀式空間として使用されたと推定されている。
厳しい会津の冬に備え、回廊が無く、石敷き広場があり、屋根には瓦を用いず、
奈良の平地伽藍とは違うつくりであり、また、山麓伽藍としては独特の広がりを持つ。
この中心伽藍は布教や寺院経営に使われ、背後の山中が修行の場であったと考えられる。
北方には徳一廟がある。


 


徳一廟


(写真提供:宮良男氏)

徳一の墓といわれる五重の石塔が中にある。中にあるというよりは石塔の覆堂がこの廟である。
石塔は高さ2.95b。軒先には風鐸を取り付けるための穴が設けられている。
また長い間、風雪にさらされ、また薬師信仰からか薬として削り取られたりして細くなっている。

石塔

(写真提供:宮良男氏)



戒壇跡


(写真提供:宮良男氏)

慧日寺中心伽藍から北西、少し離れたところに戒壇跡がある。
戒壇とは、簡単に言えば一人前の僧になる儀式をするところ。
在家信者は得度を経て、半人前で弟子を持てない沙弥、沙弥尼(しゃみ、しゃみに)になる。
沙弥、沙弥尼は受戒を経て、一人前で弟子を持てる比丘、比丘尼(びく、びくに)になる。
その受戒をうけるところが戒壇である。授けることを授戒、その戒律を具足戒という。
ちなみに比丘には守るべき戒律が250もあるらしい。それどころか一般の在家信者でも五戒といって、
守るべき戒律が5つある。不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒である。
つまり、むやみに生き物を殺さない、他人の物を盗んだりしない、配偶者以外の異性と性交渉を持たない、
嘘をつかない、酒をのまない。の5つである。私は不殺生、不偸盗、不邪淫は完璧にできると思うが、
絶対に不飲酒(ふおんじゅ)は無理。毎日戒律を(しかも大量に)破っている。(罰)

さらに予備知識。戒壇の設立は鑑真(688〜763)による。僧尼になるには経典の勉強や修行を経て、
国の許可を得る必要があった。が、国の許可を得ず私立の僧や呪術のための修行僧も増えた。
そこで、きちんとした規律を確立するために唐の高僧、鑑真が招聘された。
鑑真は東大寺に戒壇院を設け、規律を正した。
東大寺戒壇院、下野の薬師寺戒壇院、筑前の観世音寺戒壇院が公認の戒壇院であった。
スーパーエリート最澄も19歳の時、東大寺で具足戒を受けた。
しかし最澄は、小乗仏教の三戒壇に対し、独自の大乗戒壇を比叡山に設けた。
最澄没後のことであるが、その比叡山の戒壇院も認められ、以後中世まで四戒壇が公認の授戒の場であった。

さて、慧日寺戒壇跡であるが、結論をいうと戒壇ではない。
調査の結果、慧日寺の別院花輪寺の祖師の火葬墓であるという可能性が高い。
花輪寺は鎌倉末期から室町初期に廃寺になり、中世に祖師の火葬墓であるという事が忘れられ、
その後、土地の方位や形状から戒壇と呼ばれるようになったという。


最澄と論争した徳一

 徳一は法相宗の僧で、仏教界のスーパースター最澄と「三一権実論争」を繰り広げ、両者の名声は全国に轟くほど有名になった。(とはいえ、最近まで私は徳一の名前すら知りませんでした)(笑)
 論争は、弘仁八年(817)から弘仁十二年(821)まで続き、最澄の死によって終わった。どっちが勝った負けたは無く、両者が批判をしてその回答を現して行くことにより、最澄の思想は最澄独特のものになって行った。最澄のもとから、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元などが育ったことを考えると、徳一は日本仏教の思想に多大な影響を与えたものと思われる。

 空海の真言宗も批判したと言われるが、空海から徳一に当てた手紙を見ると、空海は徳一のことを徳一菩薩と呼んで尊敬しているし、徳一は真言宗を批判した「真言宗未決文」という著書の最後に「ここに述べた疑問は仏法をそしる行いで、無間地獄に落ちる報いを恐れます。ただ私の疑問を解決して智恵の理解を増したい」と書いており、空海の教学を批判しているわけではない。実は徳一は密教を専門にしたかったらしい。空海との関係はあまり悪いものではなかった。

 それに比べ、最澄への天台教学批判の徳一の著書等は、「仏性抄」「中辺義鏡」3巻、「遮異見章」3巻、「恵日羽足」3巻、「破原決権実論」「破通六九證破比量文」「中辺義鏡残」20巻という膨大なものであり、対して最澄側は「照権実鏡」「守護国界章」9巻、「決権実論」「通六九證破比量文」「法華秀句」3巻 というこれまた膨大な著書等で批判に応え、また徳一への批判をしている。
 実に、徳一と最澄の「三一権実論争」を理解するには、このような膨大で難解な書物を47巻も読まなければならない! (もっとも、徳一の書いた著書は一冊も残っていないようです。) 
 空海が徳一のことを徳一菩薩と呼んだのに対し、最澄は麁食者(そじきしゃ)=真実にあらざる教を受けた者。とか、北轅者(ほくえんしゃ)=南へ行くのに北に車の轅(ながえ)を向ける人。とか、短翮者(たんかくしゃ)=短い羽を持つ者。などと呼んだ。

 論争の始まり。最澄は19歳の時に東大寺戒壇で受戒すると、比叡山に入った。が、山中では学問しようにも本が少なく、31歳の時、弟子を派遣して写本させた。その写本をしてくれたのが道忠という僧。。今の栃木、群馬、埼玉付近に大きな勢力を持っていた。その道忠が2000冊もの写本をして最澄に贈った。道忠は鑑真の弟子。最澄に写本してあげたときは5、60歳か?道忠門下生の中から第2代天台座主円澄、3代円仁、4代安慧、徳円(5代円珍の先生)が出た。実に天台宗の初期は道忠系の人々によって支えられていた。こういった経緯から最澄は東国に縁があった。
 道忠亡き後、弟子の広智という僧が東国の教団を仕切っていた。すでにこのころから東国の弟子達と徳一の論争は始まっていたらしい。広智の教団が「天台法華義」を書いた。それは法相宗の法華経理解と三乗思想に反するので徳一は「中辺義鏡」を書いて批判。また「仏性抄」を書き、数ある仏教の経典の中で、天台宗が最高かつ真実の経典としている「法華経」は、単なる教化の手段(方便)としての経典にしかすぎないとしている。

 最澄は弘仁七、八年(816、7)ころ、弟子を引き連れ東国を訪れた。その際、弟子と徳一の間に起こっていた論争を最澄が引き受けて、徳一と最澄の論争という図式ができあがった。
 最澄は徳一の「仏性抄」に対して、法華経を真実の経典とする根拠を挙げた書「照権実鏡」を東国にいる間に書いた。さらに比叡山に帰ってから徳一の「中辺義鏡」を批判した「守護国界章」を書いた。
 数ある経典の中でどれが最高なのか、釈尊の考え方に一番近い経典は何か?というようなことを論議することを教判論という。この教判論が決定的に違うらしい。法相宗では解深密教という仏の説いた経説に基づくもので根拠があるものであるけれども、天台の教判論はどこにも経典の根拠がなく、中国天台宗の開創者天台大師智(ちぎ)が、研究の結果勝手に作ったものにすぎず釈尊の事実に反すると批判している。
 また、天台の実践論「摩訶止観」についても、止観というのは止すなわち心を統一し、観すなわち真理を体得していく修行者の心のあり方をいうのに、天台では観察の対象そのものに止も観もあるというがそれはおかしいと批判している。

 「中辺義鏡」の内容。法華経に対する見方の根本的違いは、天台では法華経を仏教の中の最高の経典であるというのに対し、法相宗徳一の方では、法華経を一部の人々を成仏に導くための手段にすぎない経典としてみている。その具体的教理は一乗三乗論争で議論となる。

 天台宗最澄の一乗思想。一つの乗り物という意味で、悟りの世界へ導く乗り物はひとつのものであるという思想。
小乗の人は小さな乗り物に乗っているけれども、小乗の教理に達すると、それから大きな乗り物すなわち大乗仏教に乗り移り、最終的には皆が同じ乗り物に乗って全員が悟りの境地に導かれ成仏できるという考え。
 対して法相宗は三乗の立場にある。三乗思想とは小さな乗り物(小乗仏教)と大きな乗り物(大乗仏教)の区別は絶対的なもので乗り換えるものではないと考える。小乗を声聞乗と縁覚乗の二つに分け、大乗を菩薩乗といって三つの乗り物があるとする。この三つの乗り物は行く先が別。声聞乗と縁覚乗は阿羅漢という比較的レベルの低い悟りの境地に到達するのに対し、菩薩乗は仏になるという最高の境地へ乗客を運ぶ。つまり菩薩乗に乗った人だけが成仏できるということである。
 では、菩薩乗に乗るにはどうすればいいか? 法相宗ではすべてのものは心の一番奥底にある種子(しゅうじ)の発現であると考える。残念ながら悟りの種子は生まれながらに持っているもので決定される。声聞の種子を持っている者は声聞の境地へ、縁覚の種子を持っている者は縁覚の境地へ、この両者は阿羅漢の境地にとどまる。菩薩の種子を持っている者だけが菩薩の悟りに至る。菩薩の悟りこそ仏である。
 人はどのような種子を持って生まれてきたのか5種類に分類できる。
・声聞定性(しょうもんじょうしょう)=声聞の種子を持って生まれた人。阿羅漢になる。
・縁覚定性(えんがくじょうしょう)=縁覚の種子を持って生まれた人。阿羅漢になる。
・菩薩定性(ぼさつじょうしょう)=菩薩の種子を持って生まれた人。仏になる。
・不定性(ふじょうしょう)=二種類あるいは三種類の種子を持って生まれた人。努力次第で阿羅漢になったり仏になる。
・無種性(むしゅしょう)=何の悟りの種子も持たない人。悟りに関係ない人。

 仏になれる人は菩薩定性であり、仏になれる可能性のある人は不定性の人である。仏になれる可能性のある不定性の人に対して、教化して仏にならせるための経典が法華経であり、全体的な絶対の真理ではないと法相宗徳一は説く。これに対して最澄は「守護国界章」を書いて全面的に反論した。
 徳一は最澄の「守護国界章」を異見(仏教の真理とは異なる見解)として斥けるために「遮異見章」を書いた。内容は同じように一乗が不定性の人だけの為の教化の手段(方便)としての文なのに誤って全体に及ぶ真実の経典としてしまった事への批判である。同じ頃書かれた「恵日羽足」も天台の法華経の理解は間違っているということを書いている。
 その後も、最澄は「決権実論」を書いて「中辺義鏡」「遮異見章」「恵日羽足」の内容をまとめて、方便の教と真実の教(権・実)について反論。

 論争後期では、中国法相宗の開祖、慈恩大師・基の書いた「成唯識論枢要」に記してある徳一の主張の根拠になっているものを批判する書、「通六九證破比量文」を最澄が書き、それに対して徳一は「破通六九證破比量文」で反論。またそれに対して最澄は死の前年、「法華秀句」を書いた。この「法華秀句」が論争最後の書となった。

 私なりの見解。三一権実論争とは、法華経は権(手段、方便)か実(真実)かを三乗、一乗思想に則って論争したということになるのでしょう。

 どちらかというと、誰でも仏になれる天台宗最澄の一乗思想の方を私は支持したいです。不飲酒の戒律を破ってますが、誰でも成仏できるなら幸せです。そういう仏教界の母胎、天台宗に対して真っ向から論争した徳一の存在はある意味痛快でもあるし、もっともっと評価されてもいいはずです。


 


現在の恵日寺

明治の廃仏毀釈により廃寺になった慧日寺も、今では恵日寺として復興されています。
趣のある山門と近代的な向背を持つ恵日寺の前で、私は施無畏印と与願印を結んでみました。
まったく菩薩には見えませんネ。
私は、悟りに関係ない無種性なのかも・・・。
(ま、その方が不飲酒の禁を破ってもいいので楽か)(厳罰)

 

(2005.11.7)
私に、徳一という僧の存在、並びに写真を提供してくださった宮良男氏に衷心より感謝申し上げます。
また、宮さんが慧日寺を訪れたのが2004年10月30日。
私達が慧日寺を訪れたのが2005年10月30日。
全く同じ日だった事にただならぬ因縁を感じます。


番外編

慧日寺の帰り、観光ガイドパンフレットを頼りに、達沢不動滝に寄りました。

この達沢不動滝は母成(ぼなり)というところにあります。
その母成という地名の伝説が観光パンフレットに書いてありました。
「前9年の役(1051〜1062)の戦いのとき、敵に追われていた源義家は、身を隠すため山中の洞窟に逃げ込んだ。
追手から逃げなければと、祈りを込めて折った紙の鳩を飛ばしたところ、
鳩は鳴き声をあげながら飛んでいったという。
それを見た敵は、死んだ義家の魂が鳩になったと思い込み、油断。
義家はその隙を突いて敵を討ったと云われている。
義家の命を救った洞窟を、母のふところに例え「胎内潜り」と呼び、母の思いが義家を救い勝利に導いた峠と
して母成峠と呼ぶようになったと云われている。」

福島にも前九年の役の伝説が残されていたというのも新鮮な驚きでした。
しかし、それ以上に驚いたのはその内容です。

@「追手から逃げるために折った紙の鶴を飛ばした」
敵から追われて洞窟に逃げ込むという非常事態に折紙の鳩を飛ばすとは・・・理解できない。
ちなみに折紙で鶴は折れるが鳩は折れない。

A「それを見た敵は、死んだ義家の魂が鳩になったと思い込み、油断。」
敵というのはもちろん安倍の貞任軍でしょうが、安倍軍が義家の魂が鳩になったと思い込んで油断・・・
ってのはないでしょう。
いくら末端の兵だとしてもちょっと油断しすぎ。

(2005.11.12)


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