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銀屋町笠鉾「流金出世鯉」製作者について


《 は じ め に 》

 表題に掲げた銀屋町傘鉾「流金出世鯉」は、傘鉾収納箱の墨書から文政三年「山本泰助」製作であることが知られていましたが、「山本泰助」なる人物の氏素性については何もわからずに今日に至っています。

 先に銀屋町の田家と亀山焼の大神(オオガミ)家の関連を調査し、更に崎陽三画人の一人木下逸雲と町内の名家である絵師上野家の関連を調べる過程で上野家の歴代を知ることとなりました。幕末の著名な科学者にして写真家である上野彦馬の先祖は、御用時計師でもあった父俊之丞。祖父若瑞(ジャクズイ)、曾祖父若麟(ジャクリン)とさかのぼり、いずれも絵師として優れた作品を残しています。
 この度、銀屋町傘鉾の作者である「山本泰助」について新知見を得たので、銀屋町自治会として発表させていただきます。

銀屋町自治会     
 会 長 吉村 正美
 副会長 高木 忠弘

上野家の概略

 上野家は長崎の絵師の家系であり、代々肖像画に優れ、また鋳金(金属加工)の技術にも秀でていた。風頭山頂に近い上野家墓地には、初代英傅、3代道英(画号若元)、5代長英(若瑞)、6代俊之丞(若龍)、7代彦馬などの墓碑が立ち、同族である御用時計師幸野家の墓碑もある。
 上野家2代英一の養子となった3代道英(若元)は旧姓小川氏、高名な絵師にして鍔師でもある河村若芝に師事し、佐賀の鍋島綱茂に絵師として仕えた。彼は師の名を嗣いで河村若元を名乗り、「華山若芝」の落歌を用いたものもある。その長子4代長昭(若麟)は「若麟の虎」と称せられる技量優れた絵師であるとともに、山本丹次郎として出島乙名附筆者小頭を務めた。道英(若元)あるいは長昭(若麟)が出島筆者の地役人株を手に入れたのであろう。つまり、受用銀を支給される長崎地役人の立場では、家号の上野に変えて山本姓を用い、絵師としても山本若麟を名乗った。
 5代長英(若瑞)については、       、絵師としては上野家代々と同じく肖像画に巧みであった。@の系図で示したように長英は銀屋町田中家の倫と結婚、6代俊之丞(若龍)が誕生した。俊之丞は一時期御用時計師幸野家を嗣ぎ、幸野俊之丞を名乗った。それは母親倫の兄田中順三(師興)の子供である吉郎八が養子として幸野家を嗣いだあと、不祥事を起こして長崎奉行の不興をかったためである。
 ついでながら、田中順三(師興)の妻は時計細工人御幡氏の女・牧である。「続長崎実録大成」によれば、文政三年(1820年)には牧の子・幸野吉郎八の受用銀を減ずるかたちで、御幡榮三が御用時計師として新規に召し抱えられている。その御幡家も銀屋町の居住であった。
 ところで上野姓に復した俊之丞が舎密学(シャミツガク=化学)の知識を生かして、中島の宅邸(停車園と名付けられる)内に精錬所を設けて煙硝(火薬)の製造を行なったことはよく知られている。この精錬所は長崎奉行直轄となった。また、ダゲレオタイプの写真機を輸入して島津斉彬に献じた。これで斉彬を撮影したのが日本における銀板写真の嚆矢である。
 俊之丞の子が日本最初の商業写真家といわれる上野彦馬であり、その業績については詳述するまでもないが、彦馬には絵師の系譜と御用時計師の知識が流れ込んでいた。即ち、芸術と化学の融合から生まれたのが写真家上野彦馬であることを強調しておきたい。


「流金出世鯉」の作者「山本泰助長英」について

 まず、収納箱の墨書にある用語を説明しておく。「流金」とは鏤金(ルキン)のことで、金属彫刻を意味する。また「水銀箔」は水銀を使った鍍金(メッキ)のことである。即ち、銀屋町は「町印」として金色に輝く金属彫刻の「出世鯉」を傘鉾の飾りに据えたわけである。
 銀屋町は文政三年(1820)の踊町であったと思われることから、くんちで新調の傘鉾を披露したのち、収納箱に作者「山本泰助長英」はじめ大工・塗師の名前を墨書したのであろう。
 さて「山本泰助長英」なる人物だが、当自治会では各種資料を勘案した結果、上野家5代の長英(若瑞)と同一人物ではなかろうかと考えるに至った。(以下若瑞と表記する)。その根拠を、古賀十二郎先生の著作『長崎画史彙伝』及び同書引用資料を中心に詳しく述べたい。

○上野若瑞
 宝暦八年(1758)十二月生まれ、文政十年(1827)閏六月没、行年七十一皓台寺後山の上野家墓地に葬られる。法号を丹霞斎祥翁若瑞居士という。通称泰輔、字を長英、若瑞と号す。また、祥翁と号し、居を丹霞斎と云う。
 妻は田中氏、俗名倫、天保四年(1833)三月没

 「瓊浦画工伝」の山本若麟の条によれば、その子は若融、今町組頭の牛島甚左衛門のこと、若融の弟が若瑞で銀屋町の河村泰助といった、とある。「河村」は祖父若元以来の通例であろう。このように若瑞は、家号の「上野」以外に「河村」を称することもあり、父若麟の「山本」を使った可能性は高いと思われるのである。さらに山本若麟について述べよう。

○山本若麟
 享保六年(1721)三月生まれ、享和元年(1801)正月没、行年八十一。通称は丹次郎、諱は長昭、長英と称したものもあり、若麟と号す。また瑞翁温故斎・魯石の別号もある。

 「長崎画人伝」引用の「昭和二酉年分限帳」によれば「銀二貫八百目、内助成一貫目、出島乙名附筆者小頭、山本丹次郎」とあり、また「瓊浦画工伝」に「若麟、唐舘公用支配人、山本丹次郎」とあって、若麟は長崎の地役人として「山本丹次郎」を名乗っていた。彦馬の弟幸馬の孫に当たられる上野一郎氏の資料にも「唐舘鈔局令の苗跡を相続し山本丹次郎と称した」とある。若麟の場合、すべての資料が「山本」である。
 こうして見ると若瑞は、父若麟から諱も号も引き継いでおり、「山本」も継いだと考えるのが自然であろう。
 ところで、「流金出世鯉」の製作者「山本泰助長英」が若瑞とすれば、彼が金属彫刻(金工)の技を持っていたかが問題となろう。この点、上野家の系譜をたどれば自ずと氷解する。3代若元の師は、若芝鍔でも著名な河村若芝であって、金工の技も上野家代々に継承されていた。若元のあと、若麟・若瑞・俊之丞の歴代も若芝鍔の製作を行なっていたのである。
 また、銀屋町そのものが町名のとおり銀細工職人の町として発足したまちであり、江戸時代後期に至っても職人町の性格は残されていたと考えられる。寛政三年(1791)の「長崎地役人分限」(内閣文庫)には、次のような専門職・技術者が地役人として記されている。
 「流金道具目利」「御用御時計師」「御用御眼鏡師」「御用鍔師」「御用玉細工人」「御用銀細工人」
 「御用彫物師」「御用表具師」「御用鋳物師」「御用指物師」

 このうち「御用時計師」は幸野氏である。文政三年に御用御時計師になった御幡氏も銀屋町居住である。「御用鍔師」「御用銀細工人」などが銀屋町に居住していたかどうかは確認できないが、優れた職能集団の存在がなければ「流金出世鯉」は生まれない。そして、その職能集団の中心に上野の家が位置していたと考えられるのである。
 最後に、収納箱の墨書で気になることが一つある。これは収納箱正面に「田中記」とあるから、記したのは箱蓋内側にある「田中順三李祿・同 虎之助」のどちらかであろう。田中氏も銀屋町ゆかりの家であるが、この田中の部分はひときわ大きく書されており、田中順三・同 虎之助(父子か)が「流金出世鯉」の製作に関して取りまとめ、プロデューサー的役割を果たしたと想像できる。そして上野家縁戚系図にあるとおり、田中順三は若瑞の妻・倫に連なる人物であることを考えれば、「山本泰助長英」が上野若瑞と同一人物である説がより補強されるのではないか。
 なお「田中順三李祿」は3代続いた田中順三のうち文政十年(1827)に五十一で没した順三儔興と思われる。田中家は銀屋町から文化の頃には本籠町に移っているが、唐船修理方の職務にあたり、また材木商を営んでいたという。文学者平山芦江はこの家の生まれである(長崎南公民館 どじょう会調査による)。

<付記>
 産能大学最高顧問上野一郎氏には家伝の貴重な資料をご提供いただきました。厚く御礼申し上げます。

参考文献・他

長崎画史彙伝 古賀十二郎 昭和58年 大正堂書店
長崎の時計師 渡邉庫輔    1952年 日本時計倶楽部
肥前長崎の刀剣 大喜正勝   昭和51年 銀扇社


< ご挨拶 >

 このたび銀屋町自治会より、銀屋町の傘鉾「流金出世鯉」の作者は上野家5代の若瑞ではないか、とのご報告を受けました。
 その調査内容を拝読しましたが、私も納得のいく論考でありました。報告のとおり傘鉾収納箱に記された作者「山本泰助」が上野若瑞であるとすれば、若瑞の血を受け継ぐ私といたしましても、よろこばしいかぎりです。
 これまで上野家には芸術と科学技術の二つの流れがあったといわれてきました。銀屋町傘鉾「流金出世鯉」は、まさにその象徴的な造形であり、非常に感慨深いものがあります。
 終わりに、丹念に調査された銀屋町の皆様のご努力に対し、また190年前に製作された「流金出世鯉」を現代に引き継ぎ、保存してこられたことにも、併せて心から敬意を表します

上野 一郎


上野一郎氏略歴

大正十四年(1925)年東京生まれ。彦馬の弟幸馬の孫。昭和二十三年(1948)年慶應義塾大学経済学部卒業。米国バブソンカレッジより名誉法学博士号。現在学校法人産業能率大学最高顧問。これあで、臨時行政調査会(第一次)専門委員、通商産業省産業構造審議会専門委員、文部省大学設置・学校法人審議委員、文部省大学審議委員などを歴任。Society for Advanced of Management(アメリカ)より、Taylor Key Awardを受賞。藍綬褒章、総務庁長官賞、文部大臣表彰(短期大学教育功労者)、日本写真協会賞(功労賞)なども受けている。


平成23年01月22日公開