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銀屋町と銀細工

長崎における銀細工の歴史

銀屋町の誕生は江戸時代の初期とされ、銀細工職人が居住した町とされています。寛永11年(1634年)にくんちが始まった際、銀屋町の乙名「河本庄五郎」が当人の任に就き、祭事に関与したとされ、それまでには町が成立していました。

ところが、その銀細工職人や商店に関することを、私は何も知りません。2004年4月3日、長崎新聞のコラム「水や空」は長崎銀細工を取り上げていました。それによると、長崎市歴史民族資料館で、銀屋町の銀細工商に纏わる展示をしているとこことでした。

インターネットで検索しても、そこに紹介されている「糸岐商店」については確認できず、資料館を訪ねてみました。応対していただいた館長の「永松」氏からこのサイトでの写真掲載の許可も戴き、いくつかのお話もお伺いできました。( 右の年表は、長崎市歴史民族資料館の資料を元に作成しました。 )
銀細工
1583年 堺の金銀細工職人「ジュスチノ・カザリヤ」夫妻が、長崎を訪れ、本博多町で福祉事業を行なったとあります。
宝永5年
1708年
「犯科帳」に、今紺屋町の銀細工職人「久保田権左衛門」を密輸の罪で投獄した。
文政年間
1818〜29年
川原慶賀が銀細工道具を描く。
(オランダなどに絵が残っている)
天保14年
1843年
「犯科帳」に、寄合町の遊女「あづま」は盗品の銀金具を簪につくりかえたのが発覚し、刑を受けた。
慶応元年
1865年
分限帳(ぶんげんちょう)に、二人の銀細工職人がいるとの記述あり。
明治16年
1883年
糸岐 千代蔵が糸岐商店を銀屋町に開店する。
明治30年
1897年
長崎で開催された、九州沖縄8県連合共進会に金銀細工を出展。
明治40年
1907年
長崎で開催された、第2回関西九州府県連合水産共進会に出展。
船大工町 糸岐 千代蔵
本石灰町 安田 謙吾
銀屋町 武藤 倉吉
糸岐商店製作「銀製髪飾」(明治44年頃の作)
塩谷 須恵 氏 寄贈
長崎市歴史民族資料館 所蔵
年表において、「1865年の『分限帳』に二人の銀細工職人がいるとの記述あり。」としていますが、併せて「その先祖は、享保年間(1716〜35年)にさかのぼることが記されている」とありますので、この二人は銀屋町在住の銀細工職人であろうと推測しています。
糸岐商店は船大工町にも出店し、糸岐 千代蔵は一代で財を成します。1924年没とされますが、その後は、二人の息子が後を継いでいます。その長男「鶴一」が、1924年銀屋町49番に在住との記録が残っていました。
その後も、三菱長崎造船所から記念品などの注文を受けるなど順調であったが、昭和恐慌を堺に状況は一変します。更に戦争に向かう中、昭和8年に船大工店閉店。銀屋町本店も昭和18年に閉鎖となっています。

銀と銀細工(銀工芸)

銀は全ての金属の中で、最も強い輝きを持つ金属です。しかし、金やプラチナと違って化学変化を起こしやすく、すぐに変色してしまいます。また、金属の中で、一番電気を通しやすい、熱伝導率が高い、高周波特性が良いなどの特性を持つ為、装飾以外においても様々に利用されています。
銀製品の純度は千分率(「1000」の銀が、銀100%)で表されるそうです。それによれば、「1000銀(100%純銀)」は、柔らかくそのまま使われることは少ないそうで、「950銀(5分落ち)」がハンドメイドで多く用いられ、「925銀」は最高硬度が得られる為、貨幣(銀貨)や装飾用、工業用として幅広く使われているようです。
銀細工には、「鋳金(ちゅうきん):溶かして鋳型に流し固める」「鍛金(たんきん):叩いて伸ばしたり、縮めたりする」「彫金(ちょうきん):表面を掘ったり、透かしたり、別の金属を埋める」「銀線細工:線にして加工する」「鍍金(メッキ):他の金属に被せる」などの方法があるそうです。

長崎の銀細工

長崎は銀の産地ではありません。長崎開港当時の銀山は、現島根県大田市の石見銀山(1526年発見)が中心で、その後兵庫県の生野銀山や新潟県の佐渡金山、秋田の院内銀山などで産出されています。しかし、1668年には銀輸出禁止例が出され、1685年には長崎貿易制御令が出されるなど、銀の輸出は制限され銀に変わって銅が輸出の中心となります。

なお、銀は輸出されるばかりでなく「棒銀」と呼ばれる投機にも多く使われていたとのエピソードを紹介するページを見つけました。読売新聞西部支社九州発「負けぬが勝ち〜博多商人列(http://kyushu.yomiuri.co.jp/spe-3/shonin/frshoninmain.htm)」です。これによれば、1614年〜1644年にかけて外国向けに大量の銀が融資されたようです。

長崎における銀細工とはどのようなものであったでしょうか。一つは平戸の銀細工のようなものであったと推測されます。現在の平戸には、当時の技術を受け継ぐものが無いようですが、秋田に伝わったと紹介されてされます。それは、平戸藩と秋田藩の江戸屋敷が隣同士であったらしいということと、秋田には銀山があったという二つの幸運によるものらしいのです。秋田の工芸品などを紹介するサイトで「銀線細工」を見ると、そのルーツは平戸にあり、それを伝えたのはオランダ人であったとされています。
歴史的に見ると、貿易港として平戸を望んだポルトガル、その後のオランダ、イギリスなどは有力者(豊臣秀吉や徳川幕府)の干渉を嫌ったものと想像されます。一方、徳川幕府は貿易を独占する為に平戸(藩)から長崎(天領)に港を移し、鎖国を行なったと考えられます。貿易の拠点(オランダ商館等)が移ったので、平戸在住の銀細工師達が長崎に移り住んだことは自然な流れだったと思われます。
また、『当時の銀細工は「武具の飾り」や「かんざし」が造られていた。』や、『江戸時代、金銀のボタンを出島に輸入して帯留め等に細工するのが流行った。』などとされ、長崎における銀細工が偲ばれます。なお、明治に入ってからは「髪飾り」や「ブローチ」「ペンダント」などが造られたようです。

平成16年4月21日公開、平成16年4月29日更新