現存する多宝塔(明治維新以降)

現存する多宝塔:明治維新以降

名称・場所 国指定 画像 備  考
694 讃岐弥谷寺 . 図1
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明治10年頃建立。(天保2年1831建立とも云う)
一辺3.15m、高さ約12mで、切り立った岩盤上を造成して建つ。上層組物はおおむね唐様を用いるようです。本尊は大日如来。下重に三手先を用いる。
四国88ヶ所第71番札所。仁王門、本堂、大師堂、十王堂、護摩堂、本坊などの伽藍を配置する。
参考:以下の記事があり、明治になって多宝塔が建立されたようです。
「中国名所図会」巻之1:
記事:「本坊(南向き。誠に岩にそびえ。上下続きて欄干をわたし屈壁高岩に建てかけ、前には摂待所眺望をとり、上は・・・、まことに仏閤仙人の住居とも謂ひつべき霊山なり。この岩頭に多宝塔を建立せんといふて、地取りの様子を聞きけり。いまだ成就なければここにもらす。)」 以上の記事によれば、伽藍図には多宝塔が描かれていますが、これは構想上の塔婆で、実際には建立されてはなかった とと思われます。弥谷寺全図弥谷寺構想上の多宝塔(部分図)
2006/01/29追加:
丸亀ヨリ金毘羅山讃岐廻並播磨名所附:幕末頃
 「丸亀ヨリ金毘羅山・・・」(全図)  剣五山弥谷寺   「地図で読む江戸時代」より
695 土佐金剛福寺 . 画像 明治13年再建。画像は昭和50年以前撮影。
多宝塔前に九輪宝塔がある。この九輪宝塔は応安8年(1375)銘といい、かっての層塔の相輪と云う。
696 阿波霊山寺 . 図1
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明治15年建立。一辺5.92m、総高約16m。
近世風のスタイリングで、「重い」印象を受ける。
近年修理が行われたと思われる。初重正面に「五智如来」の扁額を掲げる。
四国霊場第1番札所。
聖武天皇勅願により、行基菩薩の開基という。
弘仁6年(815)弘法大師は、人間の88の煩悩の消滅のため、四国に88ヶ所の霊場を開こうと祈願。四国の地を胎蔵界大日如来の四重円壇の曼荼羅とみなし、四国各国を発心(阿波)修行(土佐)菩提(伊予)涅槃(讃岐)の地とみなした。弘法大師が霊場開設の為、当寺を訪れた時、弘法大師は中宙に光明輝く諸菩薩を感得したという。その情景は、あたかも釈迦が霊鷲山で説法している情景であり、これをもって日本 における天竺の霊山という意味で「竺和山霊山寺」と命名し、当寺を第1番札所と定たとされる。
天正年間長曽我部の兵火で焼亡。再興伽藍は明治24年に本堂と塔を残し焼失。
697 阿波地蔵寺 . 図1
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明治16年建立。一辺4.15m。初重は本瓦葺き。
基本的には和様の建築で、上重は扇垂木、おそらく銅板葺き。
多宝塔造建の石碑が建ち、それによると小松島の生島伊之五郎夫妻の建立という。
真言宗。
698 身延久遠寺 . 身延山
699 尾張竜泉寺 . 尾張竜泉寺多宝塔
700 高野山光台院 . 大正5年頃の建立と考えられる。 高野山光台院・藤田美術館多宝塔
701 阿波立江寺 . 図1
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大正7年建立。一辺5.59m。上重は銅板葺き、初重は本瓦葺き。
初重欄間に彫刻を置く。
当寺は四国88か所第19番札所。真言宗。
702 比叡山延暦寺
 横川根本如法塔
. 比 叡 山
703 大和吉野
 如意輪寺
. 図1
図2
図3

画1
画2
画3
画4
画5

大正15年建立。一辺4.6m。多宝塔本尊および須弥壇は山口玄洞氏寄進。
2004/02/07撮影:
 大和如意輪寺多宝塔       同         2       同         3
江戸初期には多宝塔が現存していたと思われるも、沿革は不詳。
 大和金峯山寺(「和州芳野山勝景図」 を参照)
○「大和名所記:和州旧跡幽考」林宗甫、江戸中期: 如意輪寺
「塔尾山如意輪寺は、本尊如意輪觀音菩薩なり。蔵王權現あり。御厨子の扉に、吉野より熊野迄の絵図あり。後醍醐天皇の宸筆の讚にいわく・・・(略)・・・」
本尊は如意輪観世音菩薩座像、開基は延喜年中(901-922)椿山寺日蔵道賢とする。南北朝期には重要な役回りで登場(太平記)する。
慶安3年(1650)僧鉄牛が、荒廃した堂塔を復興し、浄土宗に転宗。
○如意輪寺蔵王権現立像:蔵王権現立像(鎌倉・重文)を有する。
 2000/09/20撮影:蔵王権現立像(但し写真は合成)
 2005/05/29撮影:蔵王権現立像1     蔵王権現立像2
当立像には嘉禄2年(1226)南都仏師筑後検校源慶の銘あり、後醍醐天皇よりの拝領、また蔵王堂本尊のモデルとの伝承がある。
◆推定大正15年建立多宝塔相輪(塔に取付前)
 推定大正15年建立多宝塔相輪:吉野山ビジターセンター (BC)蔵:大正初期の写真と云う、
2005/05/29吉野山BCにて撮影。写真に写る如意輪寺本堂前の相輪は大正15年建立多宝塔の相輪であり、大正15年建立多宝塔に掲せられる予定で本堂前に安置されていたと推定される。相輪はおそらく新鋳と思われる。
・2010/11/22追加:「Y」氏ご提供画像
 如意輪寺本堂・相輪:絵葉書、本堂前に新造多宝塔に掲げると推定される相輪がある。
この絵葉書の写真は上掲の吉野山BCに掲げる写真と同一の写真であろう。
「Y」氏の絵葉書作成推定年代は明治40年から大正6年の間であり、吉野山BCの説明と合致する。多宝塔落慶が大正15年ということであれば、大正6年に近い写真であろうと推定される。
なお、本堂(如意輪堂)は慶安3年(1650)再建と云う。
・2010/11/24追加:「Y」氏ご提供画像
 如意輪寺本堂・相輪2:絵葉書、前出2枚とほぼ同一構図の写真であるが、相輪の状態で比較すれば、 この写真では宝鎖が垂れ下がったままで、周囲四辺角に支柱を立て宝鎖を保持する状態でないこと及び前面に立札が設置されていないことに相違がある。おそらく宝鎖保持支柱と立札設置の前の状態と推測される。
このことから、おそらくこの写真は前2枚よりほんの少し前の写真であろう。
なお、かなりはっきりと露盤の文様が分かる。相輪を写した鮮明な手持写真は所持しないが、参考のため以下の写真を掲載する。
 如意輪寺多宝塔相輪:2005/05/29撮影、露盤の文様意匠は同傾向と思われる。しかし古写真の相輪と現存多宝塔相輪が同一である確証は得られてはいない。
704 山城禅林寺 . 図2

図1
図3
昭和4年建立。一辺4.6m、高さ13m。下重銅板葺・上重柿葺と云う。
仁寿3年(853)空海高弟の真紹僧都開基する、中興は律師永観(ようかん、長元6年1033 -天永2年1111)で、浄土教教色を強める。その後、法然高弟証空も入山し、現在は浄土宗西山派西山浄土宗総本山と称する。
図2は昭和47年撮影画像、図1・3は2000/08/05撮影
2003/12/04追加:山城永観堂多宝塔(京阪三条駅のポスターを撮影。 )
山城禅林寺多宝塔「N」氏ご提供:撮影時期不詳であるが、2003/11頃撮影と思われる。
2011/11/25追加:
 永観堂多宝塔遠望1:蹴上より遠望
 永観堂多宝塔遠望2:右の伽藍は南禅寺伽藍
705 安芸仏通寺 . . 昭和4年建立。臨済宗仏通寺派大本山。山口玄洞氏寄進。
2010/10/29追加:
 安芸仏通寺多宝塔:昭和9年撮影:新聞写真
706 摂津勝尾寺 . 図1
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遠望
昭和6年建立。一辺約4.3m、高さ約13m。伝統工法による木造建築。屋根銅板葺。装飾はかなり派手で、蟇股には十二支の彫刻をいれ、両脇間は連子窓ではなくて、花頭窓とする。上重は扇垂木。良く手入れがなされるようで、現在も新築のような外観を保つ。本尊大日如来。
ただし、寺院の在り方としては、
40年くらい前・高校生の頃訪ねた時の印象と違って、幻滅する堕落ぶりでした。二階堂の法然上人もお嘆きのことと思いました。
西国33所第23番札所。高野山真言宗。開創は神亀4年(727)で、善仲・善算 (藤原敦房息)と伝える。弥勒寺と号す。天平神護元年(765)光仁天皇の皇子開成が入山。平安期には現寺名に変更。
○2010/10/26追加:新聞写真
 昭和5年勝尾寺多宝塔:撮影年代から完成直後の写真であろう。
707 山城神護寺 . 図1
図2
図3
昭和8年建立。現金堂とともに山口玄洞氏の寄進による。
一辺6.18mの大型塔である。写真撮影は若干困難である。
塔本尊として五大虚空蔵坐像(国宝)を安置。(金堂本尊は薬師如来立像<国宝>)。
和気清麿が愛宕山5坊の一つとして創建。河内の神願寺(和気氏創建)と合併して「神護国祚真言寺」と称した。空海が大同4年(809)に入山、14年間住持を勤めた。現在の伽藍は数次の興亡を経て、大師堂(桃山)を除き、江戸初期の再建による。その他多数の国宝・重文を有する。
山城神護寺多宝塔「N」氏ご提供:2003/11/25撮影画像。
2010/07/05追加:
 昭和9年高雄神護寺多宝塔:毎日新聞報道写真、建立直後の写真と思われる。
708 常陸
 村松虚空蔵堂
. 昭和9年建立。 →村松虚空蔵堂
709 尾張宝泉寺 . 図1
図2
図3
昭和10年建立。一辺4.56m、鉄筋コンクリート。 無彩色。扉は鉄製。納骨堂のようです。屋根もコンクリートのままで細部は諸略され、木造塔のイメージからかけ離れています。尤も造形としては近年の粗雑な新造塔よりは優れていると思われます。 饅頭の上に妙なお皿様の円盤の付属があり、同じ尾張妙法寺多宝塔の庇と相通ずるものがある。宝泉寺は曹洞宗。
710 讃岐伊舎那院 . . 昭和12年建立。
711 武蔵護国寺 . 図1
図2
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図6
本堂
昭和14年建立。一辺5.3m。石山寺多宝塔をモデルにした純和様の大型塔である。
護国寺略歴は以下のとおり。
天和元年(1681)桂昌院の発願により、徳川綱吉が堂宇を造営、護国寺を創建する。開山は上野碓氷八幡宮の別当大聖護国寺亮賢僧正とする。寺領300石を賜う。
元禄7年(1964)護国寺寺領600石に加増。
元禄10年観音堂(本堂・現存、重文、桁行7間、梁間7間)幕府が造営、護国寺寺領1200石に加増。
 一方、貞享3年(1686)隆光、綱吉の命をうけ筑波山知足院の住職に就任。
元禄元年(1688)隆光、知足院を江戸神田橋外に移し護持院と改め、大僧正、新義真言宗総緑となる。
元禄3年、筑波山中禅寺、500石加増1500石を賜う。
享保2年(1717)護持院は焼失、幕命により跡地は火除地とされ元地での再興は許されず、護持院は護国寺の境内に移される。本坊方を護持院、本堂方を護国寺と称し、護国寺が護持院を兼務することとなる。(寺領は2700石 となる。)
明治の神仏分離で、筑波山中禅寺は廃寺・破壊され、筑波山神社なるものが捏造される。
  (筑波山中禅寺のページを参照)
明治16年、大正15年と火災焼失、多くの堂宇を失う。
現在では観音堂(本堂)、多宝塔、月光殿(重文・ 近江園城寺日光院から昭和3年移築)、仁王門、惣門、中門、薬師堂、大師堂、鐘楼、忠霊堂などの堂塔を広大な境内に有する。
○2010/07/05追加:毎日新聞報道写真
 武蔵護国寺宝塔:宝塔は青銅製と思われる。写真タイトルは「護国寺多宝塔前に建てられた上海事変忠霊碑」とある。昭和14年撮影。
 2011/11/17追加:本宝塔は筑波山中禅寺の宝塔で、明治の神仏分離で音羽護国寺に遷され、明治25年に忠霊の塔として転用、場所を今の忠霊殿(明治35年忠霊塔拝殿として建立される)の後に移転、さらに昭和31年現在の縮小された音羽陸軍墓地に再度修理・移転され現存する。(下の詳述)
○2011/11/06追加:2011/10/29撮影:
 武蔵護国寺多宝塔11     武蔵護国寺多宝塔12     武蔵護国寺多宝塔13
 武蔵護国寺多宝塔14     武蔵護国寺多宝塔15     武蔵護国寺多宝塔16
 武蔵護国寺多宝塔17     武蔵護国寺多宝塔18     武蔵護国寺多宝塔19
 武蔵護国寺仁王門       武蔵護国寺中門
 武蔵護国寺本堂1        武蔵護国寺本堂2        武蔵護国寺月光殿
2011/11/17追加:
◆筑波山中禅寺遺物
大本山護国寺様ご教示によれば、現在護国寺には以下の筑波山遺物が現存する。
(但し、護国寺様ご教示にその典拠・根拠などの明示はなく、確証として示せるものは無い。)
◎銅製忠霊塔:
明治3年筑波山宝塔を遷す。当初は本堂向って右手(現在の元勲等の墓地付近か)に移転し、その後は現在の忠霊堂の裏に移転し、現在は音羽陸軍墓地(戦後整理縮小される)にある。(参詣は可能)
※忠霊堂は元々は忠霊塔の拝殿であり、筑波山宝塔を忠霊塔に転用すると云う。
◇「『万骨枯る』空間の形成-陸軍墓地の制度と実態を中心に-」原田敬一(「文学部論集 第82号」仏教大学、1998 所収) より
明治5年の「陸軍省第188布告」では「陸軍埋葬地之儀今般音羽護国寺近傍ニ相定候条、・・・」とあり、明治初頭には陸軍墓所は音羽護国寺に制定されたことが知られる。そしてその規模は同年の「陸軍省第297布告」に音羽の陸軍埋葬地は「一萬十四坪」とあり、広大であったと知れる。
そして陸軍墓所の英霊の塔の由来は、現在の墓地入口には「音羽陸軍埋葬地英霊之塔の由来」(日本郷友連盟<旧在郷軍人会>東京都支部、平成7年)の碑文があり、それにより窺いしることが出来る。
そこに刻まれる主旨は以下のとおりである。
「・・・本昭和31年・・護国寺第51世・・の建立によるもので、中央に英霊と仏像を安置した英霊の塔、その周囲に有縁墓地四十を配して、現在の姿に改装」。
更に、平成8年護国寺の建立した碑文「「護国寺多宝塔の由来」には以下の要旨が刻まれる。
「この多宝塔は薬師堂の西側に明治25年建立される、・・・明治35年多宝塔の正面に拝殿としての忠霊殿が完成・・・今般大修理を施し、・・この地に移転建立・・・」
 戦前の宝塔位置:忠霊殿(拝殿)北、薬師堂西に忠霊塔がある。
  ※上掲の2010/07/05追加:毎日新聞報道写真「武蔵護国寺宝塔」は昭和14年の撮影であり、
  忠霊殿北にあったころの写真である。
 戦後の宝塔位置:縮小された陸軍墓所に宝塔はある。
○銅造大仏:
明治3年筑波山から遷す。大仏・忠霊塔とも当初は本堂向かって右手(現在の元勲等の墓地付近か)に安置され、その後現在の位置再度遷される。台座(石組基壇)は再度遷座されたときのものであろうか。
大仏・忠霊塔とも当初は本堂向って右手にあったことは明治10年に境内略図<」未見>から窺える。
2011/10/29撮影 武蔵護国寺大仏1     武蔵護国寺大仏2     武蔵護国寺大仏3
○銅製金剛力士1躯、銅像地蔵菩薩立像1躯
現在は不老門付近にある(大仏の近くにある)。<未見>
 ※この2点の画像については、Web上に数点散見される。
712 山城法輪寺 . 図1
図2
昭和17年建立。高さ17.4m。屋根銅板葺。
現在、初層を保護のため?か、アクリル様の板で囲う。これは塔婆の価値を著しく損ねるものであろう。
嵐山・渡月橋西岸山腹にあり。当寺は虚空蔵の十三詣りで知られる。
2010/10/11追加:「社寺参詣曼荼羅」(目録)大阪市立博物館、1987 より
 山城法輪寺参詣図:紙本着色、法輪寺蔵。江戸初期の作と推定される。
寺伝では和銅6年(829)元明天皇の勅願で、行基の開基と云う。本図には多宝塔が描かれ、であるなら現存多宝塔は再興と云うことになる。元治元年蛤御門の変で灰燼に帰すと云う。 (この時に多宝塔が存在し焼失したのかどうかは情報がない。)
713 丹波弘誓寺 . 図1
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昭和9年着工、昭和18年建立。忠霊の扁額あるいは建立時期などから推察ずると、塔建立の目的は「報国」・靖国神社の「寺院版」と云ったところなおであろうか。扁額は陸軍大将男爵本庄繁書とある。
それは別にして、一辺6 mに近い大型塔で、かつ初期多宝塔をモデルとした設計と思われ、堂々とした塔婆ではあろう。なお当寺は「宇土観音」と呼ばれる。本堂は戦後の再建 、仁王門がある。曹洞宗と思われる。
714 信濃善光寺
 納骨堂中堂
. 図1
図2
画像
雲上殿と称する。 善光寺納骨堂。昭和24年落慶。鉄筋コンクリート製。高さ39mの多宝塔に間口55m×奥行16mの翼楼を付設した邪道な建造物です。屋根銅板葺き。
画像:「Y」氏ご提供:戦前の善光寺観光案内写真帳?中にあるもの。
715 備後耕三寺 . 昭和16年建立。 瀬戸田耕三寺五重塔・多宝塔
716 讃岐大窪寺 . 図1
図2
図3
図4
昭和29年建立。上層部は本格的な大型の木造建築のようです。 但し本来の多宝塔建築ではなく、上層のみが多宝塔形式でおそらく奥殿の堂に建っているものと思われます。本堂の真後に建立され、本尊は奥殿(内陣)内部に安置されているようで、ちょうど本堂が拝殿のような形式です。許可を得れば、近づけるのでしょうが、残念ながら、一般には塔婆には近づくことは出来ないようになっています。
四国霊場第88番(結願所)札所。真言宗大覚寺派。
行基菩薩の開創され、元正天皇の勅願寺という。唐から帰朝した弘法大師は奥院の岩窟で求間持の法を修め、 大きな窪の側に堂宇を建て薬師如 来を刻んで本尊とした。これが大窪寺の始まりとされる。大師は 四国巡行中の三国伝来の錫杖を納めて第88番結願の霊場と定めた。天正年間(1571-92)長曽我部氏の兵火でほとんど焼失。近世高松藩主松平氏が再建。再び明治33年、火災で焼失。現在の堂塔は その後の再建による。鐘楼門、本堂・多宝塔、大師堂、阿弥陀堂その他の伽藍が有ります。
717 讃岐泉聖天尊
 本廟多宝塔
. 図1
図2
図3
図4
図5
図6
昭和31年(1956) 建立。軸部は鉄筋コンクリート製で、一応細部は木造と思われます。
一辺約1.8m、高さはコンクリート製の基壇を含め約10m内外。内部には泉聖天尊、大日、阿弥陀、釈迦如来 弘法大師像を安置するようです。
地元に生まれた(文久2年)泉庄太郎が大阪で事業(桶屋業)を営むかたわら、生駒聖天を篤信し、40歳頃帰郷し、聖天尊の信仰を説き信仰を広めたという。大正7年病没したが、弟子たちによりこの地(雨滝山 中腹の泉山山頂)に本廟が建立され祭祀されたとする。
718 大和生駒宝山寺 . 画像

図1
図2
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図4
図5
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図7
図8
図9
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再訪。生駒聖天。
昭和32年完成、総高46尺5寸(14.1m)、一辺14尺1寸(4.27m)、塔本尊愛染明王。
大きな塔ではありませんが、伝統工法・伝統様による木造塔です。

朝日塔:明治22年建立、青銅製?。
宝山寺朝日塔

真言律宗。役行者の創建と伝説する。延宝6年(1678)、宝山湛海の中興開山。
大変な流行仏のようで、今一番隆盛な時とも思われます。
宝山寺本堂・聖天拝殿

719 武蔵歓喜院 . 画像 妻沼聖天、昭和33年建立。一辺3.7m、高さ約15m。本格的な木造塔 。平和塔と称する。
○画像:2004/08/03「X」氏撮影
○2008/01/16追加:
治承3年(1179)齋藤別当実盛(長井庄<妻沼>を本貫とする)、大聖歓喜天を祀ると云う。(寺伝)
建久8年(1197)良応僧都(斎藤別当実盛ニ男・実長)本殿を現在地に移転、歓喜院長楽寺を建立、十一面観音を本尊とすると云う。(寺伝)
近世初頭、徳川家康によって再興、寛文10年(1670)妻沼の大火で焼失、その後再建。
明治元年、神仏分離の処置で、おそらく寺院を廃し、神社に復古するなどの処置が画策されたであろうと推測されるも(史料は未検証)、妻沼郷28ケ村は聖天堂を寺院のまま護持することに決すると伝える。
 ※「(聖天宮歓喜院は)往古は白髪神社にして、延喜式に載する所の古社也。云々」の説が流布しているようである。しかし、復古神道家の常套手段から判断すれば、この説は、延喜式内白髭社などははるか昔に霧散(退転)していたのであろうが、それでは復古神道にとっては許すべからざることであろうから、白髪神社を聖天宮に付会したという 類のいい加減なものであろう。 現在、付近には白髭神社とか大我井神社(明治の神仏分離で聖天宮から分離独立)とかの「式内白髭社」の論社が存在すると云うも、所詮空虚な付会でしかない。
「O」氏ご提供画像:1995/11/05撮影
武蔵歓喜院多宝塔1    同        2    同        3    同        4
  同        5    同        6    同        7    同        8
  同        9    同       10    同       11
○2009/06/25撮影
武蔵歓喜院多宝塔31     同       32     同       33     同       34
  同        35     同        36     同       37     同       38
  同        39     同       40     同       41     同       42
  同        43     同       44     同       45
  同     仁王門      同      中門
  同    貴惣門1     同    貴惣門2     同    貴惣門3     同    貴惣門4
・貴惣門(重文):安政2年(1855)頃建立、八脚門・屋根銅板葺、屋根を三層に重ねる構造(妻側には3つの破風がある。)
 ※同一構造の門の例として弘前誓願寺山門(但し、この門は妻入・・・附:若干の弘前の寺院の項を参照)がある。
○2010/04/11追加
・聖天堂(本殿・重文真偽は不明ながら、修理完工後国宝に指定替か?):
近世の歴史は以下の通り。
慶長9年(1604)徳川家康、伊奈備前守忠次に聖天堂造営を命じ、朱印50石を付与。
寛文10年(1670)聖天堂など焼失。
享保20年(1735)聖天堂再建事始。大工棟梁林兵庫正清、彫刻棟梁石原吟八郎。
宝暦10年(1760)本殿完工、工期は25年、工費は2万両を要す。
明治元年3月28日神佛判然令に対し、住職英隆及び妻沼郷28ケ村の村役人は寺院として護持することを決する。
平成15年聖天堂保存修理開始、平成23年6月完工予定。総工費13億5千万円。
以下「O」氏ご提供、2010/03/29撮影:
 (一般人は入ることが出来ない場所からの写真で貴重なものであろう。)
 聖天堂拝殿瓦棒銅板葺屋根1:今般の修理で「チャン塗り」が復元される。
   同              2
 聖天堂拝殿軸部(部分):拝殿の4連続海老虹梁と、木鼻や台輪上の蟇股の装飾
 聖天堂奥殿瓦棒銅板葺屋根1
   同              2
 聖天堂中殿装飾:中殿は拝殿と奥殿との繋ぎの間である。
聖天堂は拝殿と奥殿を中殿で結ぐ権現造の形式を採る。
3殿の構造は以下のとおり。
 奥殿:桁行三間梁間三間、一重入母屋造、両側面軒唐破風、背面軒唐破風及千鳥破風付、向拝一間
 中殿:桁行三間、梁間一間、一重両下造、北面御供所附属
 拝殿:桁行五間、梁間三間、一重入母屋造、正面軒唐破風及び千鳥破風付
 屋根:瓦棒銅板葺
「O」氏情報:瓦棒銅板葺屋根は:「チャン塗り」と称するグレーがかった黒色塗装される。
「チャン塗り」とは、膠と何か(失念)に墨を混ぜた塗料を銅板の上に塗る技法を云う。
おそらく今般の修理で「チャン塗り」された銅板が発見され、そこから「建立時再現」として、「チャン塗り」が採用されたと思われる。
附:龍泉寺観音堂:熊谷市善ヶ島(歓喜院南東約3kmにある。)
江戸初期建立と推定、方形造。平成2〜3年度に解体修理を実施。屋根茅葺を銅板葺きに変更。
屋根裏の束の墨書には、元禄7年(1694)とあり、修理銘と思われる。
「O」氏ご提供画像:1995/11/05撮影
武蔵龍泉寺観音堂1   同        2   同        3   同        4
  同        5   同        6   同        7   同        8
  同        9
720 山城知恩院 . 画像 昭和34年建立。鉄筋コンクリート。七百五十萬霊塔(法然上人750年遠忌)と称する。
宝建設工業施工。一辺5.4m、高さ14m。上下軒とも垂木は造らず。組物は雲肘木で造形する。
2007/03/10撮影:
知恩院多宝塔1  同     2  同     3  同     4  同     5  同     6
721 山城鞍馬寺 . 昭和35年建立。鉄筋コンクリート。 →山城鞍馬寺
722 武蔵妙行寺 . 図1
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昭和35年建立。コンクリート製。施主は信徒の佐々木詩郎・晴子夫妻と記録されていると云う。
一辺4m、総高約13mで大型の印象です。残念ながらコンクリート製の故に風格を欠き、姿も鈍重な印象は否めません。
長徳山と号す。法華宗陣門流。寛永元年(1624)日善上人により江戸赤坂の地に創建。2回の移転の後、寛文5年(1665)四谷に移転、明治42年(1909)現地に移転。
「東海道四谷怪談」(鶴屋南北)のお岩の墓所。田宮伊右衛門・お岩は当寺の檀家であったと伝える。東京都豊島区西巣鴨4−8−28
723 上野泉蔵寺 . 図1
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昭和36年建立。コンクリート製。 一辺3.24m。銅板桟葺き。組物などは省略されているが、均整のとれた造形をしている。
この多宝塔は開山堂(事情不詳)と称する。塔内には数々の位牌・寝釈迦像・伝教大師像?などが祀られているが、中央には大日如来を安置。<図5>
泉蔵寺は開山を念仏僧蓮性上人と伝える。寛永2年(1625)順慶が中興、元禄年中公田村・天台宗乗明院末寺となる。
724 尾張泉浄院 . 図1
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昭和37年建立。純木造。石山寺塔婆を模すという。一辺5.5m、高さ約14m。木造本瓦葺き。
尾張信貴山と称し、昭和7年、名古屋の資産家(塚本義郎)が商売繁盛のため毘沙門天を本尊として創建。
現在は聊か寂れている様子です。
725 山城三明院 . 図1
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昭和37年建立。山城金胎寺多宝塔をモデルにしたようです。
一辺4.16m。昭和の建築とはいえ、純和様の本格木造塔で、昭和復古調の塔として後世に伝えられるべ塔であろう。
小丘陵の急斜面が境内であり、そのため、塔建築の用地確保が難しく、高いコンクリートの土台を造り、その上に塔を建造する。近くからは、大変写真の撮りにくい塔婆です。
延壽山と号する。案内には以下のように記する。「明治39年、佐竹信光師により、山形県下の山中にあった醍醐派修験寺院を当地に遷したものである。」と。 本尊:弘法大師。
「昭和の木造五重塔(7)」吉田実、史迹と美術、65(2)によると
多宝塔は滋賀県佐藤幸治氏(競輪業界)の寄進による。宮大工安田政一の設計施工。但し安田氏は京都教育委員会大森健二氏の指導を受ける。
一方参議院議員大野木秀次氏から三重塔寄進の申出があり、同じ宮大工安田氏に施工依頼をし(設計は滋賀大沼義則氏・指導は大森氏)昭和36年から木取り、部品可工が開始された。境内の地割未確定、寄進者の逝去、3世佐竹周海師の急逝などの事情で建立は中止され、加工部材は安田工務店倉庫に保存された。昭和45年鏑射寺の三重塔建立の計画があり、大森氏の周旋で安田工務店の仕掛中部材を購入し、不足の上層部部材は追加加工することで、昭和45年に着手、昭和47年落慶となった。不幸にして安田棟梁は仕掛中部材輸送中の交通事故で半身不随となる。その後の工事の棟梁は人見立一棟梁が勤める。
人見棟梁は完成後、安田工務店を退職し、讃岐志度寺五重塔工事に着手する。

726

尾張法妙寺 . 図1
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昭和40年(1965)。あるいは昭和53年か?。三重多宝塔と称するようです。 詳しい仕様は良く分かりませんが、コンクリート製と思われ、木調風な彩色をしているものと思われます。屋根は銅板葺き。饅頭の上に庇を付け、多宝塔の形式から外れ、その意味では一種の邪道と思います。 撮影当日は門が閉まり、境内外から撮影。妙法寺 は日蓮宗単立寺院のようです。おそらく昭和の創建と思われますが、これは全くの推測です。住職の逝去により、現在は寺院活動は停止しているようです。

727 河内重願寺 . 図1
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昭和41年完成、中型塔。
木造無彩色の一部禅宗様を交えた本格的な塔婆で、古風な外観を見せる。
当寺(浄土宗)は豊臣秀吉の本願で文禄年間に創建され、元は大阪谷町8丁目(寺町)にあり、昭和37年現在地に移転と云う。なお現伽藍地は真言宗不動寺跡(明治6年廃寺)と云う。
多宝塔安置の聖観音立像は江戸期には大阪33所観音霊場の第17番札所として信仰を集めたとされる。
728 安芸万年寺 . 図1
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昭和41年落慶、一辺3.5m、総高12m、正規の木造多宝塔建築。基本的に和様の意匠から成る。屋根銅板葺。本尊大日如来。二階建RC造納骨堂の上に建立される。平和塔の扁額を掲げる。
萬年寺は元亀元年(1570)伊予喜多郡長浜に建立され、僧智園の開基と伝える、寛政年中に火災焼失と云う、明治33年安芸の現在地に移り再興される。真言宗醍醐派、本尊不動明王、湯舟山と号する。
図1:萬年寺境内俯瞰
729 山城大覚寺 . 図1
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昭和42年復興。鉄筋コンクリート。塔は主要伽藍の外(東北)・大沢の池の北に位置している。なお当寺には古くは五重塔・多宝塔が存在したようですが、早期に失われたようです。
「よみがえる平安京」:嵯峨大覚寺模型
2006/12/10追加:「Y」氏ご提供
大覚寺伽藍図:絵葉書、「後宇多法皇御在住当時之大覚寺」とある。紙本著色。
後宇多法皇時代の大覚寺伽藍古絵図と伝える。徳治3年(1308)大覚寺に入寺、元亨元年(1321)には寺観が整うとされる。但し絵図そのものは江戸中期のもので、寺観は復元的な描写でしかない。建武3年(1336)火災で灰燼に帰す、その後この景観の再興は見ない。
当図によると、(文字の判読が不能で詳細は不明)本寺に多宝塔1基、御殿区画に多宝塔1基、北側山麓に五重塔1基、その東に塔1基があったと思われる。但し、遺構などがるわけではなく、詳細は不明。
730 北九州阿弥陀院 . . 昭和42年建立。鉄筋コンクリート。阿弥陀院は承久元年(1219)創建で、元は京都醍醐寺の山内子院であった。明治に醍醐寺を離れ北九州を転々とした。
731 河内大聖勝軍寺 . 画像 下の太子と呼ばれる。高野山真言宗に属する。寺伝では聖徳太子が物部守屋と戦うに当たり、信貴山の四天王に祈願しその加護により勝利を得た。以上に報いるため本寺を建立したとされる。
多宝塔はご覧のように鉄筋コンクリート製で残念ながら正規のものではなく、期待はずれのものです。平和塔と称する。昭和46年(太子1350年祭)にあたり建立した。
本堂(地蔵堂)は明治21年の台風で倒壊し、昭和46年太子堂が復興した。この太子堂も鉄筋コンクリート製の趣味の悪いものです。
732 攝津本法寺 . 画像 昭和48年(1973)建立。鉄筋コンクリート製。本法寺は本門佛立宗寺院。塔は今次の大震災で傾いたが、修復した由。
733 土佐安楽寺 . 図1
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塔本尊
昭和49年建立。軸部は鉄筋コンクリート製(但し組物などは正規の木造の造作のようです)。
一辺は3.9mで、基壇は何かの収納の用途があるようで、極めて高い。
屋根は銅板葺、上層は二手先を用いる。中央間のみ蟇股。塔本尊は弥勒菩薩。
軸部は鉄筋コンクリート製とは云いながら、基壇を除けば、伝統工法に忠実な建築と思われます。
安楽寺は、土佐配流中の高視朝臣(菅原道真長子)によって、道真没後、筑紫菩提寺に因んで創建されたと伝える。また現在は四国88ヶ所第30番札所の奥の院とされる。元来第30番は土佐一宮の別当百々山善楽寺であったが、明治の神仏分離で善楽寺は廃寺となり、本尊阿弥陀如来を安楽寺に遷座し、安楽寺が第30番札所となった。一方善楽寺は昭和4年元の地に東明院(埼玉県与野市)を移し、国分寺に遷座していた大師像を迎え入れ再興されたという。第30番札所について正当性の争いがあったが、昭和39年安楽寺を奥の院にすることで決着したようです。
734 尾張正法寺 . 図1
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図5
昭和50年建立。RC製。多宝塔形式の外観を持つ本堂と推測される。その他詳細は不詳。
天台宗。大悲山と号する。近年諸堂が焼失したが、ほぼ再建されたようである。
正法寺は天福元年(1233)天台僧徹円阿闇梨の創建で、鎌倉期の武将鎌田兵衛正清念持仏であった毘沙門天(本尊)を祀るという。寺地は鎌田氏の館跡と伝える。
735 紀伊白浜金閣寺 . . 昭和51年(1976)建立。写真によると醜悪。
736 備後神勝寺 . 11
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参考:「神勝寺略史」天応山神勝寺、2009改版
多宝塔:昭和61年落慶。近江石山寺多宝塔を写す。本格的木造塔。一辺586cm<実測値・中央間210、両脇間188cm>。(高さ16m)。屋根銅板葺。相輪はオリジナル。本尊大日如来。
設計は中村昌生(京都工芸繊維大)、棟梁野田善満。
神勝寺:昭和40年常石造船社長神原秀夫氏建立。臨済宗建仁寺派。諸堂宇は以下を構える。
無明院(仏殿・・RCの大建築、本堂、寺務所、鐘楼門、護摩堂、保久里堂、鐘楼、鎮守天満宮、納骨堂などを具備)、永照院(大和小泉慈光院書院を写す)、非仏堂、開山堂(高野山国宝不動堂を写す)、一日座禅堂(RCの大建築なるも今は放置され廃墟と化す)、山上鐘楼(放置・荒廃)、山門(京都南禅寺山門を模す、柱は鋼管) 、薬師堂、観音堂、西念坊などの堂宇、元大方丈の神勝寺温泉、弥勒之里美術館などを併設。更にテーマパーク、各種スポーツ施設なども併設。意識したかどうかは不明なるも、生口島耕三寺に似る。
(寺院の威容は耕三寺に及ばざるも、娯楽施設の併設で商業主義では耕三寺に勝る)
但し、当地で行われると思われる常石造船研修会・行事などは外部から見ると異様であるが事実は如何であろうか。
神勝寺本堂    神勝寺仏殿    仏殿内部    開 山 堂    山   門
 ○神勝寺多宝塔1     神勝寺多宝塔2「X」氏ご提供画像(2002/02月撮影)
737 信濃温泉寺 . 図1
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昭和53年建立。本堂裏に建つ。純和様の木造塔で大型塔に属する。一辺4.47m。 総高約14m。屋根銅板葺。
この多宝塔には「諏訪上社鉄塔」が安置される。「鉄塔」とは明治の神仏分離まで諏訪上社神体として拝殿の内陣にあったもので、明治の神仏分離で撤去放置され、一時は近くの天神山に1社を建立・祭祀する計画であったが、国学者の反対で実現せず、当寺に安置されたと云う。
ただし「鉄塔」とはいうものの現在は「石製」となる。鉄塔は弘法大師が上社に法華経を納めたときに造立し、後に源頼朝が再興したが、天正10年武田氏攻略の織田軍が毀損した。現在のものは寛永8年(1632)、高嶋藩2代高嶋忠恒が「石」で再造したものとされる。
臨江山と号する、臨済宗妙心寺派。諏訪忠信の開基で、高嶋藩の菩提寺。
○「日本塔総鑑」:
 信濃温泉寺多宝塔:昭和53年撮影、工事中・初重内部の石造宝塔が写る。
参考:「信濃諏訪社神宮寺(上宮神宮寺・下宮神宮寺)」の「諏訪神社に於ける神仏分離」:
「4.堂塔器具の処置及び社僧の還俗」の項を参照。
○2009/07/23追加:「諏訪市史 上」 より
 上社本宮境内御鉄塔:「上社古図(伝天正年中)」より
※鉄塔は上社本宮の通常は立ち入り出来ない場所に安置されていた。
 「諏訪市史 中」 より
  温泉寺上社鉄塔・・・・鉄塔銘の終りの部分に「寛永8年辛未如意珠曰 諏訪出雲守平忠澄再興畢 台嶺銘之」とあると云う。
※鉄塔は上社「御神体」にかわるもので、近世には如法院が年に1度その中に納経をした。軸部正面には鉄製の扉をつける。この扉は実際に開閉可能で、これは納経を行うためのものである。なお鉄塔は天文9年(1540)台風によって毀損という記録がある。天正10年織田信長が上社を焼いたとき、鉄塔も破壊されたと推定される。
鉄塔は嵯峨天皇の勅を奉じ弘法大師が上社に法華経を納め奉納したものとされる。後に源頼朝が再興、この再興塔は天正10年織田信長の軍によって破壊と云う。
○2008/11/14撮影:
信濃温泉寺多宝塔1      同        2      同        3
  同        4      同        5      同        6
○2010/12/10追加:「諏訪大社」信濃毎日新聞社編、1980 より
現存する御鉄塔は高島藩2代諏訪忠恒が再興してものである。
高さ2.7m、屋根一辺1.3m、胴は空胴で鉄扉が付く。
御鉄塔は上社最高の御神体であったが、神仏分離により明治元年10月28日夜、温泉寺に荷車で送られる。
温泉寺では近くの天神山に安置し、奉安するお堂の建立のため、材木の蒐集に着手する。
しかしこの企ては国学者の反対で頓挫する。国学者は御鉄塔を傷め、材木を焼く。この火は温泉寺堂宇に飛火し、類焼する。
その後御鉄塔は補修され、境内に小堂を建立し、ここに納めていた。昭和53年には新しいお堂(多宝塔)が完成する。
 温泉寺多宝塔安置御鉄塔
なお、かって御鉄塔内に安置されていたと云う舎利塔が現存する。
 御鉄塔内安置舎利塔:銀製、高さ20.2cm、現在の御鉄塔と同時期の作品と推定される。温泉寺蔵。
738 駿河正応院 . 図1
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図3
昭和54年落慶。伝統的な木造塔で白木の優秀な塔婆と思われる。屋根は銅板葺。
今般「X」氏から写真をいただき、初めてその存在を知る。地元大工の造作。
「X」氏ご提供画像
739 摂津甲山神呪寺 . 図1
図2
図3
昭和55年建立。総檜・彩色。高さ12m・一辺3.1m。天長8年(831)淳和天皇妃(如意尼)の発願で弘法大師が開創したと伝える。甲山大師の名で 知られ、今なお多くの信仰を集める。甲山の中腹に位置する。今回約40年ぶり位で再訪する。
740 伊予法雲寺 . 塔1
塔2
昭和55年建立(「X」氏情報)、一辺約2.9mの小型塔である。小型塔ではあるが、以下の細目を除けば、木造(おそらく檜)正規の多宝塔建築と思われる。無礙光殿の扁額を掲げる。屋根銅板葺。
初重の床は土間、四天柱は省略、羅漢像を安置。初重中央間は扉などの装置はなく、吹き放ちである。相輪は層塔風のものを用いる。
法雲寺は真言宗、金亀山と号する、本尊は阿弥陀如来とあり、これが多宝塔を無礙光殿と称することに関係するのであろうか。
松山市古三津1-26-48
741 土佐最御崎寺 . . 昭和55年建立。コンクリート製。一辺5.5m、高さ約20m。
742 武蔵円乗院 . 図1
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図3
図4
舎利宝塔本堂
 
☆以下は円乗院様HPからの要約です。
 円乗院多宝塔;画像は円乗院様ご提供。
・昭和56年5月17日落慶。弘法大師1150年御遠忌記念事業を建立。
・1階には十二支守本尊(八仏)、薬師如来、水子地蔵尊、2階は祖師堂と称し、弘法・興教両大師と併せて不動尊・輪蔵(大般若600巻)、3階には観音菩薩をそれぞれ安置。
・今回縁あって、インドより仏陀釋迦牟尼の真骨を頂戴し、塔中央に奉安。
・塔は高さ30m、間口7.5m、高野山、根来寺に次ぐ大塔。
・構造は骨組は鉄骨・鉄筋、造作は木造。京都奥村組施工。
舍利宝塔:文化5年(1808)円乗院十八世法印淨珊代、与野・井原芳章の作という。
総高100.4cm。宝塔は木造、台は黒漆箱の上に反花座と基礎を重ねる。基礎には十二支の浮き彫りはある。また宝塔四隅に四天王像を配す。内部の蓮台は荷葉座、蓮肉、三重に葺いた蓮弁に受け座を設け、五点の仏舎利を安置するという。
略歴:安養山西念寺円乗院と号す。建久年中(1190〜99)畠山重忠が、道場村に創建という。
慶長年中当地に移建、賢明上人を中興とする。慶長19年(1614)、徳川秀忠より、15石の朱印を受く。 真言宗智山派。本尊五大明王。
2007/11/06追加:「O」氏ご提供(1997/12/28撮影)
 武蔵円乗院多宝塔1    同        2    同        3
743 陸奥福泉寺 . 図1
図2
昭和57年完成。遠野市。宮大工菊池恭二氏作の本格的木造塔のようです。 総高60尺、初重一辺18尺2寸4分。青森ヒバ白木造り。屋根瓦棒銅板葺。五大明王と四天王を安置。
なお平成2年五重塔を建立。遠野市。真言宗豊山派。法門山と号す。大正元年、当寺の開山宥尊師あh寺籍簿に寺名のみを残す江差市福泉寺を現在地に移し、開創する。宥尊師の大願は明治維新 の神仏分離で廃絶した早池峰山妙泉寺(現早池峰神社)を再興することにあったとされる。現在伽藍は山門、仁王門、本堂、護摩堂、鐘楼があり、さらに山上に観音堂、多宝塔、五重塔を備える。 寺域6万坪という。「X」氏ご提供画像
744 陸奥国分寺 . 昭和57年完成 陸奥国分寺
745 武蔵本覚院(拝島大師) . 図1
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大日堂
仁王門
本覚院多宝塔。建築年代、寸法など不詳。昭和57年建立か。
総欅造り、斗栱は唐様を主に用いる。
拝島大師は大日八坊の一本覚院にある。拝島山本覚院三大師堂と称する。大師とは慈恵大師(元三大師・良源)を云う。(拝島大師別当が本覚院であった。)
元亀2年(1571)織田信長比叡山焼き討ち、敬甚(けいたん)大僧都が慈恵大師像を救出、諸国を遍歴、天正6年(1578)現在地に安置して本尊となすという。
大日堂は天台宗拝島山密厳浄土寺大日堂と号する。天暦6年(952)多摩川氾濫時に漂着した大日如来木像を祀ることに始まるという。中世には滝山城の鬼門として、北条氏の庇護を受る。天正6年(1578)北条氏照家臣石川土佐守が娘おねいの眼病全快を感謝して大日堂及び8坊を造営寄進という。
8坊のうち、普明寺(本尊大日如来、天正年中創建)・円福寺(本尊阿弥陀如来、天正年中創建)・大日明王院(元は多摩川寄りにあったが流失、大日堂隣に移建)は現存する。8坊のうち知満寺・竜泉寺・蓮住寺・密乗坊は既に文化文政期には廃寺となり、現在はその位置も明確でないようです。
幕府より大日堂領10石(普明寺4石、その他の7坊各1石の配分)を受ける。
なお日吉神社が大日堂西に現存する、元は山王社でおそらく明治維新の神仏分離で社号を改め、強制分離されたものと思われる。
746 兵庫霊法会 . 図1
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昭和57年建立。総檜造と云う。かなりの大型塔と思われも、霊法会も含め、実態は判然とせず。
塔は神戸岡本天王山の山頂近くにある。阪急御影-岡本の車窓から見える。(JRからも同様)
甲南大学(理学部)のすぐ北東側、かつて二楽荘へ登る施設のケーブルカーが出ていたと思われる付近に教団の詰所とゲートがあり、ここで信徒と思われる複数の若い人に入山を拒絶される。
詰所の問答で漏れ聞こえる言辞は位下のとおり:「一般の方が入山などはとんでもない」、「一般信徒も通常入れない」、「ご奉仕様(特別な信徒?)だけ入山可能である」、「しかし正月三が日には一般信徒も登山できる」、「塔には先代の教祖様の舎利を祀祭する」、「落慶は昭和57年11月1日である」、「霊法会は霊友会から戦後分派した教団である」云々。
以上から「日蓮宗系の新宗教」に多少知識のある人はおおむね霊 法 会の教義・性格 を推測することが可能か?。
図1、2は2001/04/29撮影、図3、4は2002/12/23撮影
2011/12/08追加:2011/12/04「X」氏ご提供画像
屋根本瓦葺、相輪は層塔風なものを用いる。塔身には豪奢な装飾が施される。
 神戸岡本霊法会多宝塔:遠望、撮影場所は霊法会西側の十文字山(妙法寺神戸仏舎利塔境内隣接地点)からと云う。
747 武蔵泉蔵院 . 図1
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昭和58年建立。明和3年(1766)銘(裏面)がある石塔の建っていた塚があった。口伝では経塚と呼ばれていた。この塚の位置に他方塔が建立されたようです。寸法等は不詳ですが、小型塔の部類と思われます。和様を基調にした一部唐様を取り入れた端正な塔です。総檜造り白木・屋根銅板葺き。
当所は大沼田新田といい、享保年中に入植開拓した村であった。新開地のため寺院が無く、当初から寺院建立のための寺領寄進などの準備をしていた。しかし当時は幕府の新寺建立の規制が厳しかった時代でもあった。
寛保3年(1743)名主当麻氏(当麻弥左衛門、当麻伝兵衛など)は青梅今寺の報恩寺住職と諮り、寺中の廃泉蔵院を引寺建立することに合意する。同4年(延享元年)本寺深大寺及び東叡山覚王院の落書を請い、寺社奉行に引寺の願いを提出、同年寺社奉行より免許。同年仮堂建立、宝暦9年(1759)本堂が再建される。開祖は運承法印。天台宗延暦寺派。
なお附近には稲荷神社があり、この社は引寺と同時に青梅今寺から鎮守として泉蔵院に勧請された社という。宝暦3年・弘化5年には稲荷本社より証書を受けるという。
明治元年、(おそらく神仏分離の処置により)村の中央の現在地に遷座し、明治6年には村社に列するという 。どこにでもありそれゆえ恐ろしい典型的な国家神道の歴史があったようです。
小平市大沼町2-673
748 讃岐八栗寺 . 図1
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昭和58年建立。昭和59年落慶。典型的な和様建築。檜造。総高57尺(17.3m)。本尊金剛界大日如来坐像。
 八栗寺伽藍と五剣山:右本堂、左聖天堂
 八栗寺本堂
○「伸和建設資料集」より:伸和建設の手になる 。
  八栗寺多宝塔   八栗寺多宝塔立面 かなりの大型塔、一辺18尺(石山寺は一辺19尺2寸)。
749 周防桜地蔵院 . 図1
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昭和58年落慶、一辺3.2m、総高15.5m、屋根銅板葺。正規の木造多宝塔建築。 基本的には和様であるが、頭貫・台輪の木鼻は唐様の造りで極端に大きな木鼻を用いる。また初重実肘木や上重の紅梁鼻もかなり装飾性のあるものを用いる。屋根銅板葺。塔は花崗岩製の基壇に建つ。本尊大日如来。 (この地方の大工の手になると云う。近隣の一の滝寺三重塔・・昭和54年建立・・も同一の大工の手になると云う。この多宝塔の立ち姿は一級品であろう。)
真言宗醍醐派。創建は江戸末期で、一人の行き倒れた六部を桜の木の下に懇ろに葬り、そこに地蔵菩薩を祀り、その後一宇を建立したのが始まりと云う。 現在も地区民の篤い信仰があると思われ、本堂・多宝塔・鐘楼など本格的な木造建築が建てられ、境内はきれいに清掃される。
六部:六十六部のこと。 六十六部廻国聖のことを云う。基本的には法華経を66部書写し、全国66カ国を巡り、1国1カ所の霊場(固定されてはいない)に法華経1部を納める修行僧を云う。少なくとも中世には存在し、近世にはかなり の数の廻国があったとされる。
750 讃岐道隆寺 . 図1
図2
昭和58年建立。四国88ヶ所第77番札所。本堂横に多宝塔が建つ。木造白木。相輪がやや短い、小型塔。 一辺3.5m、高さ約13m。
751 美作大聖寺 . . 昭和59年建立。鉄筋コンクリート製。一辺6.5m。総高17.8m。銅板葺き。写真で見る限り、組物は省略 と思われる。当寺は天平年間、行基の開基と伝える。中世には23の院坊があったと云う。
752 高野山東塔 . 高野山
753 河内明王寺
(滝谷不動)
. 図1
図2
昭和59年建立。コンクリート製とはいえ、正統的な造りで好感が持てる塔である。塔は本堂等背後の山腹の斜面にあり、写真は撮影し難い。弘法大師1150年紀で、伽藍復興の一環として建立され る。
明王寺は弘仁2年(811)弘法大師創建で、本尊不動明王は楠木正成の守護神といわれ、流行仏の様である。現在の伽藍そのものは近年復興されたようで、言ってしまえば各地にある「成田山別院」を想像していただければ 、といえば乱暴であろうか。
754 讃岐与田寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
昭和59年建立。一辺4m、高さ13mで、近江石山寺多宝塔をモデルとする。
伸和建設の設計施工(「伸和建設資料集」より転載:多宝塔 平面図 一辺 13尺3寸 )
寺伝では天平11年行基の開基といい、行基自作の薬師如来を本尊とする。
当山真図−虚空蔵院(与田寺、江戸期) かっては図に向かって右上中腹に三重塔があったと思われる。
755 山城今熊野
    観音寺
. 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
昭和59年(1984)年建立。「医心方」千年を記念して建立。医聖堂と称する。本格的木造建築。
塔は本堂裏山を造営して建立された。
今熊野は現在大本山泉湧寺寺中のの一つで、西国観音15番札所。
観音寺は大同2年(807)、弘法大師がこの地に熊野権現の出現を見、1寸8分の観世音を授かった。大師は自ら1尺8寸十一面観音を刻み、授かった観世音を体内仏として一宇を建立した。
弘仁3年(812)、大師は嵯峨天皇から官財を受け諸堂を造営した。
現在泉湧寺山内寺院として以下の寺院が残存する。
即成院、戒光寺、法音院、新善光寺、悲田院、今熊野観音寺、善能寺、雲龍院
応安4年(1371)後光厳上皇、雲龍院・龍華院の別院を建立。
文明5年(1473)新善光寺、後土御門天皇の勅で泉湧寺に移転。寛元元年(12343)後嵯峨天皇勅願で建立。本尊は信濃善光寺と同仏同体という。
天文20年(1551)善能寺、泉涌寺山内に移転。
天正12年(1584)法安寺・楊柳寺、伏見より山内に移建。
正保2年(1645)戒光寺、山内に移転、復興。鎌倉期曇照律師の創立。
正保3年(1646)悲田院、山内に移転・復興。平安京に東西2箇所に置かれた西の悲田院が移転。
明治年中、即成院、山内に移転。正暦3年(992)恵心僧都が伏見に建立、寛冶元年(1087)に伏見桃山に光明寺を阿弥陀堂として移転。
法音院:嘉暦年中後醍醐天皇の創建。
来迎院:大同元年(806)弘法大師が荒神尊を安置したのが始まりと伝える。
2000/10/22撮影:今熊野多宝塔1  今熊野多宝塔2  観音堂(本堂) ・多宝塔
伸和建設資料集」より:伸和建設の手になる
 宝今熊野多宝塔 今熊野多宝塔平面図 一辺 15尺2寸。(4.6m)
2009/03/09撮影:
 今熊野観音寺多宝塔1     今熊野観音寺多宝塔2
2010/04/01撮影:
 今熊野観音寺多宝塔21     今熊野観音寺多宝塔22     今熊野観音寺多宝塔23
 今熊野観音寺多宝塔24     今熊野観音寺多宝塔25     今熊野観音寺多宝塔26
 今熊野観音寺多宝塔27
 ○大本山泉涌寺諸堂:右仏殿(重文)、左舎利殿
 ○泉涌寺寺中善能寺祥空殿:方3間の仏堂に相輪を載せる。昭和47年完工・伸和建設施工。
756 武蔵興禅寺 . 図1
図2
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図7
塔本尊
本堂
昭和62年建立。常陸法円寺多宝塔(758)は同型同寸と 云う。また阿波安楽寺(767)も同型と云う。
薬王殿と称し、本尊薬師如来。
横浜市港北区高田町1799
円瀧山と号す、仁寿3年(853)慈覚大師の開山と云う。
元応2年(1320)桃井直常(当時に領主)が再興。
本堂は文化3年(1806)建立。(本堂は改修中)
757 備中明王院 . 画1
画2
画3
昭和63年新造。純木造本格塔。総高16.3m。
多宝塔設計:近藤豊工学博士、施工:金剛組。
大護寺明王院と号する。天台宗。今なお広大な境内を有し、近年堂塔の新築・復興が盛んに行われているようです。7間7間重層(大和薬師寺金堂様?)の新本堂の復興(新築)計画が進行中のようです。
本堂、大仙堂(地蔵堂)・・写真8の相輪のある堂、不動堂など多くの堂宇が建立される。
この地は六条院と称する。これは平忠盛が、この地を白河法皇縁の六条院に寄進(後に長講堂領、八条院領へと繫がる)したことに由来する。
明王院は最澄が入唐の帰路立ち寄り、慈覚大師が開山したと伝える。
寛文(1666)池田光政、岡山藩の寺院淘汰を断行。(日蓮宗379ヶ寺中348ヶ寺、真言宗401ヶ寺中183ヶ寺、天台宗148ヶ寺中102ヶ寺などを棄却、不受不施派の弾圧と儒教思想による藩政の実現などがその根底にあったとされる。)しかしながら、上野寛永寺末備前金山寺は幕府に光政を提訴、上野寛永寺門跡の政治力もあり、幕府は天台宗備前棄却寺院35ヶ寺は金山寺、備中棄却19ヶ寺は明王院に返還するように命ずる。
延宝4年(1676)に東叡山輪王寺(寛永寺門跡)の末寺となる。
2008/01/31撮影
 備中明王院多宝塔1    同        2    同        3    同        4
   同        5    同        6    同        7    同        8
   同        9    同       10    同       11    同       12
   同     仁王門    同      本堂
758 陸奥龍宝寺 . 昭和63年建立。陸奥龍宝寺八幡多宝塔
759 相模本連寺 . 平成元年建立。片瀬龍口寺・本蓮寺
760 常陸法円寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
平成元年(1989)竣工、平成2年多宝塔落慶。総高14.5m。
鉄筋コンクリート製。松井建設設計施工。武蔵興禅寺多宝塔(754)と同型同寸という。
また阿波安楽寺(767)も同型と云う。
医王山と号する。浄土宗。慶長5年(1600)深蓮社信譽存廊上人(不詳)により開山。
昭和24年本堂・庫裏・鐘楼を焼失。昭和59年本堂、昭和61年山門・鐘楼を再建。
761 石川心蓮社 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
平成元年完成。小型塔。富山県砺波市(株)白井大工施工。
その他の詳細は不詳。
心蓮社は浄土宗、金池山と号す。慶長17年休誉(能登七尾長氏の出身、京都清浄華院に入り、清浄華院法主となり、隠遁の後金沢に来たりと云う)の開基という。
 ※(株)白井大工施工塔婆は越中氷見永明院五重塔、越中高岡山藤三重塔加賀心蓮社多宝塔がある。
白井大工永明院五重塔
加賀心蓮社多宝塔「X」氏ご提供画像
762 摂津鷲林寺 . 図1
図2
総欅・素木。鉄筋コンクリート製の箱型の位牌堂の上に建立されている。ちょうど位牌堂が基檀を兼ねている構造であろう。建築時期不詳・平成初期か?。
当寺は弘法大師の開基と伝え(古義真言宗)中世には76ヶ坊を持つ大寺院となる。天正7年(1580)荒木村重方の足利義親・赤松氏等がこの一帯に陣を構え、織田信長と合戦し、信長に焼き払われ るとされる。敗戦後は小規模の堂(観音堂)が存続するのみとなる。かっての院坊あとは開発が間近まで迫るも、深い林の中に眠ると思われる。(今のところキリスト教会等の私有地 とも思われる。)
763 大和円成寺 . 多宝塔:平成2年再建塔。
室町期の再興とされる旧多宝塔は、大正9年まで存在したが、老朽化のため鎌倉に移築と云う。
大和円成寺
764 武蔵満願寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
平成2年(1991)建立。開帳日のみ拝観可能と云う。
木造檜造、総高16.7m。饅頭は金箔を張る。屋根は檜皮葺。大型塔に属すると思われる。
満願寺:致航山と号する。真言宗智山派。本尊は大日如来。文明2年(1470)世田谷城主吉良氏により創建。慶安元年(1648)朱印13石。不動堂(等々力不動と通称し、現在は満願寺別院と称する)が寺領内にあった と云う。
765 武蔵正覚院 . 図1
図2

画1
画2
画3
画4
画5
画6
画7

平成2年建立。鉄筋コンクリート製であるが、木造に似せて精巧に造ると思われる。
一辺約5m弱、高さ約15m強、本尊大日如来。本瓦葺。
真言宗豊山派。長禄年間(1457〜59) 太田道灌が江戸築城の時、この地にあった天満宮の別当として創建したと伝える。西に今も現存する氷川神社は末社・天満宮(北野社)がその起源と いう伝承もあるようです。それ故、山号を天満山と号する。明治の神仏分離で多くの什宝・記録を失う。
練馬区豊玉南2-15-7
なお、山門は開くも、見学や写真撮影の入山は拒否する姿勢と思われるので注意。
図1−2:「X」氏ご提供画像
766 阿波金泉寺 . 画像 建立時期は平成(推定)、RC造。一辺2.5m、高さ約10m。阿弥陀堂の扁額を掲げる。本堂裏手にあり、残念ながら、塔婆としては上品であると評価は出来 ない。
四国霊場第6番札所。現在ある場所の北西の山中に安楽寺谷があり、ここには温泉が湧き出でていたと云う。弘法大師がこの地を訪れたとき、薬師如来を刻み、堂宇を建立し、温泉山安楽寺と命名したと云う。天正年間長曽我部の兵火で焼亡。万治年間に、瑞運寺を併合して現在の地に移転再興されたと伝える。戦後、遍路の火の不始末から再び堂宇を焼失。
767 和泉長慶寺 . 長慶寺・海会寺跡
768 下総光明寺 . 図1  図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
平成4年建立。木造塔、伝統様式(一部唐様を混ぜる)で造作される。木割はやや貧弱な印象を受ける。屋根黒褐色彩色銅板葺。高さ約14m。
 多宝塔図1     多宝塔図2「X」氏ご提供画像
補蛇落山と号す、真言宗豐山派。寺伝では文亀2年(1502)覚鑁(興教大師)を開祖とし、尊慶が開基したと云う。※北朝年号康永4年(1345)2月の陰刻がある板碑が墓地の奥にあると云う。<縦210cm、幅46cm>本尊は金剛界大日如来。
 光明寺阿弥陀堂:寛文年中(1661-73)の建立伝える、阿弥陀三尊像を安置、寺伝の「土中よりみずから光を放った」阿弥陀如来はどうかは不明。
その他近年の建立になる山門、本堂、鐘楼、開山堂などの堂宇を有する。
 光明寺山門     光明寺山内
船橋市飯山満:飯山満は中世以来の歴史を持つ地と思われる。
769 阿波安楽寺 . 図1
図2
図3
平成5年完成。一辺3.5m、高さ約13m。鉄筋コンクリート製。松井建設施工。武蔵興禅寺塔 (754)、常陸法円寺塔(758)と同型・同寸と云う。
形はそう悪くはないようが、装飾は悪趣味と思われる。
四国霊場第3番札所。当寺は聖武天皇の勅願により、行基菩薩が、開基したという。のち、弘法大師が当地を訪れたとき、黄金の泉が湧き出、そこに堂宇を建立し、寺号を金泉寺と命名したという。
770 武蔵三宝寺 . 図1
図2

画1
画2
画3
画4
画5
画6
画7

平成8年完成。「大毘盧遮那如来法界體性塔」と称する。高野山の初原の大塔の名称が「毘盧遮那法界体性塔」であり、それに因むと思われる。要するに初原の高野山根本大塔(大日如来塔)の再現を意図したものと思われ る。(それ故?「根本大塔」と称する。)
下重の一辺は約4間(7.28m)、上重目円筒形の径約15尺(4.55m)、総高約10間(18.2m)。
下重は勾欄付縁を廻らす。下重二手先、上重四手先。屋根銅板葺、軒ニ重繁垂木。
下重は胎蔵界大日如来五仏、普賢・文殊・観世音・弥勒の四菩薩を安置。上重に金剛界大日如来を安置。総工費は約10億円。青木国工務店設計施工。
但し、根本大塔と称するも、建築様式で云う「大塔」ではなく、「多宝塔」の形式です。
しかし規模は超大型で、木造・伝統様を採用する正規の建築です。
三寶寺は応永元年(1394)鎌倉大楽寺の大徳華尊法印の開基と云う。創建当初の建立場所は下石神井村小仲原といわれる。その後、豊島氏の庇護を受ける。
文明9年(1477)豊島氏は太田氏によって滅亡する。そのため、太田道灌が、豊島氏菩提のため、現在地に移すと伝える。
近世には徳川幕府の保護を受け、真言宗関東11談林(蕨三学院、新井総持寺、中野宝仙寺など)の一つとなる。また当時は寺中6院、末寺59余りを有する。氷川神社などの別当を兼ねる。
練馬区石神井台1-15-6、図1−2:「X」氏ご提供画像
2007/11/06追加:「O」氏ご提供(1998/01/03撮影)
武蔵三宝寺多宝塔11    同        12    同        13    同        14
  同        15    同        16    同        17
771 美作長法寺 . 図1
図2

図4
図5
図6
平成8年(1996)落慶。木造・復古調の本格的建築である。無彩色。屋根銅板葺き。高さは約17m。
城構えのような長法寺境内から、かなり登った山腹 (甘南備山中腹)に建つ。
開山1150年記念として建立。設計施工は金剛組と云う。
当寺は金光山と号し、貞観2年(860)慈覚大師の創建と伝える。数度の火災に遭い、漸次衰微する。
772 筑後東照寺 . . 平成10年落慶。木造本格塔婆のようです。一辺4.6m、高さ約15m。中山身語正宗。
773 甲斐妙善寺 . 図1
図2
図3

画1
画2
画3
画4
画5
画6
画7
画8

平成10年完成。一辺2,73m、高さ12,3m。伝統工法による木造素木の塔。屋根銅板葺。
山城常寂光寺塔をモデルとする。内部には日蓮上人坐像を安置し、檀信徒の位牌堂として機能する。
大工棟梁は地元の宮大工藤本芳郎で、甲斐長禅寺三重塔・甲斐定林寺五重塔建立に加わる。総工費4500万円。
なお藤本氏は現在建立中の当寺山門を最後に引退すると云う。
建立中妙善寺山門1       同     山門2
日蓮宗。多宝塔のほか、本堂、庫裏、七面堂?、鐘つき堂、檀信徒会館などの堂宇を備える。

図1〜図3:「X」氏ご提供画像

774

常陸神崎寺   図1
図2
図3
図4
図5
平成11年落慶。一辺19尺(5.7m)、高さ約16m。屋根銅板葺き。
形の整った白木の和様の伝統的木造建築と思われる。近江石山寺多宝塔がモデルと云う。
翠雲堂施工。
真言宗豊山派。創建は不明。中興は元亀3年(1572)とされる。
775 武蔵東長寺 . 図1
図2
図3
図4
本尊
平成13年建立、一辺約3.15m、RC造、細部の造作は省略する。塔本尊として多宝如来、釈迦如来の二仏を祀る。
新宿区四谷、曹洞宗。文禄3年(1594)雪庭春積和尚により開創。開基は土井家二代目孫兵衛と云う。雪庭和尚は徳川家康の帰依を受け、近世には隆盛する。
明治元年の火災、昭和20年の空襲にて焼失。
戦後順次復興し、現在では山門、本堂、観音堂、開山堂、羅漢堂、書院、食堂、庫裡、鐘楼、多宝塔などを具備し都会の喧騒の中を生きる。
776 安芸満願寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
図6
図7
図8
図9
平成13年頃竣工と思われる。総高14m、正規の木造多宝塔建築。基本的に和様を用いる。屋根銅板葺。聖観音菩薩を安置。千光院木食上人菩提のため建立 と云う。(千光院木食上人とは不詳、この塔は開山堂とも称すると思われる、おそらく満願寺開山か中興上人であろう。)
萬願寺は真言宗無本寺、慶長元年(1596)水野重政の建立と伝える。その後衰微し廃寺、文化年中(1804-)には廃寺跡に宮の原観音堂一宇があったと云う。
明治になり再興され、昭和45年以降伽藍を整備、本堂・講堂・経蔵・鐘楼・山門・五重塔・多宝塔が建立される。本尊十一面観世音菩薩。三登山観音院と号する。
777 陸奥円満寺 . 画像 平成14年(2002)完工。欅の木造塔と思われる。施工:折原シブヤJV。
岩手県一関市山目字館。画像は「シブヤ建設工業様サイト」より。
一辺5.2m、屋根本瓦葺。正規の多宝塔建築と思われる。
778 山城成願寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
伸和建設資料集」より:伸和建設の手により完成(2002年3月現在)。2002年3月に落慶法要 の予定。
 ★
平面図
一辺3.024m、高さ10.711m。石山寺塔婆をモデルにしたといい、規模は約2分一とする。和様の木造塔。彩色、銅板葺き。木割はキャシャな印象を受ける。おそらく石山寺塔婆を忠実に2分一に模すということでそういう印象を受けるなら、材の寸法は大胆に変更すべきなのであろうかと思案する。
当寺は北野天神の七保(道真の隋従者が造営した天満宮御供所=北野神人)の七ノ保社を起源とし、道真自作の十一面観音(現在は西運寺に遷座)を祀り、成願寺と号した。元禄2年(1689)三井両替商の番頭・吉崎傳右衛門(教仏坊日行、大本山妙蓮寺日貞上人に師事)が三井家を檀越とし、法華宗として再興した。以降三井家祈願所となり、隆盛期を向かえる。明治の廃仏毀釈で破壊され、社殿・拝殿は 北野天満宮に移される。明治10年本堂再興(妙心寺禅堂という)さらに宗祖700年遠忌で現本堂を新築。上記のように法華宗妙蓮寺の門流と思われる。
779 大和南法華寺 . 壷坂寺。大和南法華寺
780 尾張興正寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
2003年建立、構造:RC造(一部S造)、延床面積:607平方m。(かなり大型)
「圓照堂」と称し、地下1.2階は永代供養納骨堂と云う。
おそらく床面積を広く採るほうが、収益を多くあげられるので(推測)、立面的に見て相当程度異形(上から圧縮し潰れた形)であると思われる。
またRC造としては当然と思われる大雑把な造作で、「永代供養納骨堂」であるならば、無理に多宝塔形式にする必要もないとも思われる。
設計監理:(株)浦野設計、施工;(株)鴻池組名古屋支店
781 和泉久米田寺 . 図1
図2
図3

画1
画2
画3
画4
画5
画6
画7
画8
画9

2003/10/26落慶。伝統工法(和様)による本格木造塔。
高さ17.73m。設計は南一建設株式会社・高瀬章雄氏(宮大工と思われる)。
暦応2年(1339)足利直義によって奉安された利生塔仏舎利は現存するとされ、多宝塔はその仏舎利奉安のために4百数十年ぶりに再興されたと云う。その他の詳細は不詳。
臥竜山隆池院と号する。天平10年、聖武天皇)の勅願によって、橘諸兄を檀越とし、行基が開創したと伝える。 隆池院は行基建立の49院の一つで、久米田池の維持管理にあたる役割もあったとされる。しかしその後の推移は必ずしも明確では無い。
「隆池院縁起」:「五間四面堂一宇。奉安釈迦如来、普賢、文殊像、各一体。塔婆一基、鐘楼、経蔵、僧坊ニ宇、余房二十宇」と云う。
建治3年(1277)安東蓮聖(北条得宗家被官)が熊野権現の託宣を受けて 、荒廃(金堂・多宝塔・寺院2,3宇のみ存し、他は礎石ばかりという有様だったという)していた久米田寺の再興に尽力する。この当時、当寺は南都東大寺の兼帯所であったが、執権北条時頼の助力もあり、東大寺別当実玄より譲渡を受け、南都西大寺行円房顕尊(叡尊高弟)を招じて中興開山とし、華厳・戒律・真言の兼学道場として再興する。
南北朝期には和泉国の一拠点として南北両朝の間で複雑な動きがあったとされる。当初は後醍醐天皇綸旨や南朝禁制が当寺に下されるが、 北朝が勢力を増す頃には、足利直義の「久米田寺に利生塔を建立の旨」の御教書が発せられ、さらに久米田寺塔婆の修造を命じた光明院の院宣も下り、直義が同塔に仏舎利2粒を安置するなど、北朝との関係が強化される。なお、久米田寺利生塔造塔は全国66ヶ所の利生塔建立の嚆矢とされる。
久米田寺文書:「奉安置、和泉国久米多寺塔婆、仏舎利二粒、一粒東寺・・・・」
永禄5年(1563)久米田合戦(三好実休×畠山高政)により、堂塔が焼失する。但し、宝物・古文書は槙尾寺に避難し無事であった。今日の伽藍は江戸期に復興に着手し、延宝2年(1674)にようやく一応の再興を果たす。天保14年の寺社覚では、高野山宝性院末とする。
現在金堂、大師堂、精霊殿、観音堂、大門、行基堂、聖天堂、鐘楼、宝蔵、寺務所などの堂宇を有する。また寺中として多聞院、五大院、華厳院、明王院、阿弥陀院(当院の実態は疑問)を現在残す。什宝として南北朝期の文書、星曼荼羅図等多くの国指定重文を有する。
和泉名所圖會より:「当寺縁起は・・・・5間4面の堂一宇、・・塔婆一基、・・・」とある。
画9:落慶案内中の画像、図1〜3:「X」氏ご提供画像
2009/12/13撮影:
 和泉久米田寺遠望
 和泉久米田寺多宝塔11     同         12     同         13
   同         14      同         15     同         16
   同         17      同         18     同         19
 久米田池の冬枯
   同  開山(行基)堂     同      観音堂     同      金堂
   同      大師堂      同      精霊殿
 久米田寺寺中華厳院     同   明王院門前     同   明王院本堂
   同   明王院融通堂     同     五大院
※なお寺中多聞院は現存するも、写真撮影をせず。
2010/12/22追加:「日本佛教史 第4巻」辻善之助、岩波書店、昭和35年 より
久米田寺文書:足利直義仏舎利奉納状
782 武蔵安養院 . 11
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2005年建立、和様を基本とする大型木造多宝塔建築である。
木造無彩色、屋根銅板葺。本尊:金剛界五仏。
その他の情報は不詳。
板橋区東新町
武王山最明寺と号する。真言宗豊山派。正嘉元年(1257)北条時頼(最明寺入道)の開山と伝える。
多宝塔の外、山門・本堂・大師堂・鐘楼・庫裏・書院?などを備える。
. 武蔵戒行寺 . 11
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建築年不明(2006年建立か)、木造塔であるが、かなり簡略に造る。やや小型塔である。
初重正面は擬似3間、側面は擬似2間に造り、組物は用いない。上重は亀腹を造り、平面は円形に造るも柱は、小型塔の関係かおそらく8本のみを建てる。組物も通常の多宝塔上重は4手先を用いるが本塔は変形の2手先を用いる。屋根銅板葺。本尊多宝仏 。
妙典山と号する。文禄4年(1595)麹町に創建、寛永11年(1634)現在地に移転。開山は玉泉院日養、開基は旗本士宮重作兵衛重次。身延山江戸惣末寺中の五箇寺の一つと云う。往時は圓立院など四寺中を有すると伝える。新宿区須賀町 。
. 肥前高野寺 . 図1
図2
2008年完工。信者の写経「般若心経」を納める「心経宝塔」と称する。詳細は不詳、外観は正規の多宝塔の様式を採ると思われる。 高さ約12m、屋根銅板葺。本尊大日如来。
肥前高野寺空撮:高野寺HPから転載
「X」氏ご提供画像
. 阿波鯖大師 . 図1
図2
阿波八坂山鯖瀬大師堂(八坂寺と称する):海陽町鯖瀬:高野山真言宗。
多宝塔は般若心経塔と称する。
平成21年5月完工。平成22年5月落慶予定。総工費3億円。
近江石山寺多宝塔をモデルとする。正規の木造塔(和様を用いる)。
(但し「背面は扉と窓を省略し白壁」とする。)
大きさは不明であるが、稀に見る風格の多宝塔であろう。
もともと、鯖大師堂は行基庵(行基来錫と伝える)と称したと云う。享保2年(1717)真言宗より曹洞宗に転宗、昭和16年再び真言宗に転宗し、鯖大師教会と称し、四国霊場の番外となる。現在は弘法大師を本尊とし、行基菩薩は脇侍と云う。「阿波名所図会」では「行基さん」とある。
要するに四国遍路が隆盛になり、(時流の流れに乗るというような意味で)行基が弘法大師に替わったという見解があり、 事情は恐らくそのとおりであろうと思われる。
図1・図2:「X」氏ご提供画像
2010/01/19撮影:
阿波鯖大師多宝塔11       同        12       同        13
  同        14       同        15       同        16
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  同        32       同        33
. 越中法縁寺 . . 白井大工のサイトに「平成21年:法縁寺多宝塔新築工事(富山県砺波市)設計施工中」とある。
(株)白井大工施工塔婆は越中氷見永明院五重塔、越中高岡山藤三重小塔、加賀心蓮社多宝塔がある。白井大工永明院五重塔
なお法縁寺に関するWeb情報は殆どない。
. 武蔵実相院 . . (2011/08/24追加)多宝塔建立中:設計施工は翠雲堂、翠雲堂に概要の記載がある。
平成23年7月着工、平成24年9月竣工予定。木造多宝塔、一辺19尺(5.75m)、総高約61尺(18.5m)、大型の本格木造塔と思われる。
 実相院多宝塔完成予想図
世田谷区弦巻3-29-6、曹洞宗、鶴松山と号する。勝光院末。
天正16年(1588)開基は吉良左兵衛佐氏朝、天永琳達(勝光院中興山)の隠居寺として創建と云う。
慶安元年(648)10石の朱印を受ける。
明治維新以降の多宝塔:
新造塔の内、余りに程度の悪いものは多宝塔と称していても、当ページへの掲載はしない場合がある。
 
2006年以前作成:2011/12/08更新:ホームページ日本の塔婆