|
筑前神興廃寺:福間町
塔心礎(神興神社の手洗鉢として転用)を残す。2×1.5mで、中央に径約70cmの円穴を彫る。
大正4年、延喜11年(911)の文字瓦が採取されたという。平成13年発掘調査が行われ、あおの結果、創建は奈良末期で、平安末に廃寺となると推定された。「筑前国続風土記拾遺」(江戸期)には「田の中に古瓦の割れたものが多くあり、その古瓦を拾い集めて塚(つか)のように積んである」との記載がある
と云う。
筑前駕輿丁廃寺(長者原廃寺)c:粕屋郡粕屋町
駕輿丁(かよいちょう)池は、筑前三大池の一つといわれ、元禄10年(1697)郡奉行川村茂右衛門によって築堤され、現在の形になったとされる。駕輿丁池の東側は、奈良〜平安期の寺院である駕輿丁廃寺の跡という。ここから塔心礎
が出土し、その心礎は現在、中央公民館に移される。跡地は開発で消滅したとされる。
心礎については「現地説明板」:心礎は209×103×43cmで、径56×16cmの円孔を穿つ。
「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式。205×100×40cmで、径54×5/6cmの円穴を彫る、
とある。
なお伽藍配置などについては不明のようです。
筑前駕輿丁廃寺心礎1 同 2 同 3・・・2003/12/30X氏ご提供画像
筑前筥崎宮縁起絵巻(筥崎宮蔵)
筑前筥崎八幡宮
筑前城の原廃寺:西区下山門城の原
「日本の木造塔跡」:個人邸に神宮寺(熊野神社神宮寺)心礎と伝えられる心礎がある。
心礎は1.36×1.2mで、径50/49×1,3/0.9cmの円穴がある。但し熊野神社は平安期の鎮座とされ、問題を含む。
※円穴の深さ「1,3/0.9cm」は、4寸3分〜3寸であるから13〜9cmの単純な誤りであろう。(写真もそのように見える。)
「幻の塔を求めて西東」」:一重円穴式、大きさは160×120×65cm、径48/50×12cmの円穴を持つ。
個人邸宅の庭石となるも、個人で「史跡保存の碑」(昭和63年建立、平成?年再興)も建て、その保有目的も、ほぼ打ち捨てられた状態の「千古の遺物を万世に伝へし」として
、大切にされているようです。
史跡保存の碑文より抜粋:来暦と整備目的が記されている。
「福岡西南の地拾六町字大林の丘陵俗称鐘撞堂に大日如来を本尊として真言宗智光山神宮寺を建立せられたるときの鐘撞堂及伽藍塔の心礎石」であり「他の三個の石亦同じく礎石たり」、「神宮寺は寛永の永の始今の拾六町鎮座の村社熊野神社境内に移されたる」がいつしか「旧蹟は廃墟となり之を顧みる人もなく遷古の情禁じ難きものあり此の幽壊の地祉に我が祖先伝代よりの私有地に属するを奇貨として其の散逸せしことを憂へ千古の遺物を万世に伝へしと企て茲に敢て之を邸内の小苑に移し以て碑建て来歴を誌す」
拾六町に熊野権現が現存、木造大日如来坐像(平安末期から鎌倉前期の作と推定)も現存する。
筑前城の原廃寺心礎1 同 2・・・2007/05/06「塔婆」様ご提供
筑前三宅廃寺:南区南大橋一丁目(福岡市西区拾六町)
心礎が現存(若八幡宮の手洗石に転用)する。もとは西北の山裾にあったとされる。
寺域は東西100mの規模と推定され、奈良前期の瓦、「寺」や「堂」と墨書した土器、黄銅製の匙と箸などが発掘調査で出土したと云う。
「日本の木造塔跡」:心礎は1.33×1.49m(三角形をしている)で、径93cmの柱座を造り、中央に径62×1.5cmと径59×12/11cmの二重円孔を穿つ。なお放射状排水溝1本がある。心礎には享保年中に当神社に移した彫り込みがある
。
筑前観世音寺(史蹟)
東に塔、西に金堂が配置され、塔と金堂が対面する伽藍配置であったとされる。
「観世音寺絵図」
(室町期末):観世音寺伽藍の様子が描画される。
○2006/12/10追加:「Y」氏ご提供
筑紫観世音寺古図:上記と同一のものもしくは同一構図のものと思われるが、軸装で、リアルである。絵葉書。
○「日本の木造塔跡」:塔跡には心礎のみ原位置に残る。心礎は1.9×1.6×1.05mで、径90×18cmの円穴を彫る。現在心礎は幾つかに割れている
。
○2008/07/21追加:「太宰府と多賀城」石松好雄・桑原滋郎、岩波書店、1985 より
「観世音寺村之内旧跡礎現改之図」作者不詳、文政3年(1820)、福岡市立歴史資料館蔵
観世音寺村旧跡礎現改之図
○2008/08/14追加:「天武・持統朝の寺院経営」:
観世音寺伽藍配置図
○2008/09/07追加:「仏教考古学講座 第2巻 寺院」雄山閣、1984
観世音寺境内実測図
筑前安楽寺天満宮(大宰府天満宮)
筑前安楽寺天満宮
筑前原山無量寺(原八坊)
太宰府天満宮の北西、四王寺山の山裾にあったとされ、遺構も一部発掘されたといわれる。
仁寿元年(851)円珍(智証大師)は入唐のため西下、大宰府大野山の円満山四王寺に留まる。
円寿3年(853)入唐、天安2年(858)に帰朝。
円珍の高弟8人は四王寺山鼓ケ峰から大原山山麓に、華台坊、六度寺、安祥寺、十境坊、真寂坊、宝寿坊、寂門坊、明星坊の8坊を建立し、原山普賢院無量寺と号した(円満山四王寺縁起)とされる。
※明星坊は廃絶、慶長年中に新に常修坊が8坊を構成する。
一遍上人13歳の時、無量寺の1坊にいた聖達を尋ね、ここで12年間修行したと伝えられる(一遍上人絵伝)。
また延元(南朝)元年(1336)足利尊氏が九州に落ち原八坊の一坊に入る。ここから尊氏は再起したといわれる。
戦国時代末に焼亡したとされる。
○原山無量寺古図(製作年代不明、古図を模写したものといわれる。個人蔵)
:五重塔が描かれ、古には五重塔があったと思われる。
原8坊は廃墟となった後、安楽寺天満宮に寄寓し、大部が安楽寺十衆徒(僧職)として近世存在する。
筑前竈門山
◎ここには六所宝塔の内の一つ「筑前宝塔院」が建立される。 概要:初期多宝塔
六所宝塔:
安東:上野:宝塔院:在上野国緑野郡(緑野寺)、江戸期の再興塔現存 上野緑野寺跡
安南:豊前:宝塔院:在豊前国宇佐郡(宇佐神宮)→筥崎神宮寺宝塔に変更 八幡宇佐宮 筥崎神宮寺
安西:筑前:宝塔院:在筑前国:(竈門山)太宰府市内山、竈門神社下宮に礎石残存というも、
近年本谷礎石群が発掘され、この遺構の可能性が取りざたされる。
安北:下野;宝塔院:在下野国都賀郡(大慈寺) 下野大慈寺塔跡
安中:山城:宝塔院:在比叡山西塔院 比叡山
安総:近江:宝塔院:在比叡山東塔院 比叡山
◎2009/02/04追加:宝満山(竈門山)遺跡
2008年本谷礎石群の発掘調査が実施され、その概要が明らかになる。
本谷礎石群は太宰府市大字内山字本谷に立地。
昭和56年大宰府天満宮文化研究所・小西氏によりこの遺構が発見されると云う。
※当時、ここには妙見祠があったことから「妙見祠礎石群」として報告される。(「宝満山の地宝」大宰府顕彰会、1982)
※妙見祠は現在、本谷池の近くに移されると云う。
礎石群は3×3間の基壇を伴う礎石建物で、南に石階の存在が推定される遺構であり、この遺構は以下の記録より、筑前宝塔院跡ではないかと推測される。
「大宰府牒」承平7年(937):(「石清水八幡宮文書之二」所収)
「府牒 筥崎宮 応令造立神宮寺多宝塔一基事
牒 得千部寺僧兼祐申状偁、謹案天台伝教大師去弘仁八年遺記云、為六道衆生直至仏道発願、於日本国書写六千部法華経、建立六箇所宝塔、一一(?)塔上層安置千部経王、下壇令修法華三昧、其安置建立之処、叡山東西塔、上野下野国、筑前竈門山、豊前宇佐弥勒寺者、而大師在世及滅後僅所成五処塔也、就中竈門山分塔、沙弥証覚在俗之日、以去承平3年造立已成。
上安千部経、下修三昧法、宛如大師本願、未成一処塔者、謂字弥勒寺分也、伝聞弥勒寺未究千部、書写二百部之間、去寛平年中悉焼亡乎、爰末葉弟子兼祐、添歎大師遺書之未遂、寸心発企念、弥勒寺分経火滅之替、於筥崎神宮寺、新書備千部、造一基宝塔、於上層安置千部、下間令修三昧、以可果件願、然則始自承平5年、且唱於知識令写経王、且運材木捜於彼宮辺巳了、彼宮此宮雖其地異、早欲造件塔、仏事之功徳、凡為鎮国利民也者、府判依謂、宮祭之状、早造立将令遂本願、故牒、
承平7年10月4日 大典惟宗朝臣(花押) 参議師橘朝臣『公頼』」
※弘仁八年(817)伝教大師六所宝塔院造立を発願。承平三年(933)沙弥證覚、筑前竈門山の宝塔を建立。
多宝塔の構造は二層堂で、上層は千部の法華経を安置、下壇では法花三昧行を修法の機能を持つ。
平成20年大宰府市教育委員会が発掘調査を実施。
(2008年3月21日 読売新聞)記事:「筑前宝塔院か、宝満山遺跡から礎石や瓦が出土」
広さ約25m四方の土を盛った基壇(高さ約2m)の中央部で、約8m四方の正方形の建物跡の礎石と、礎石が置かれていたと見られる穴計16か所を確認した。基壇の周囲には土留めの石列があり、南側と東側には階段があった。遺構からは平安期(8〜11世紀)の土器や瓦、金銅製の仏像(高さ12cm)が出土。
宝満山には承平7年(937)筑前宝塔院が建立されたとの記録が残る。また、宝満山遺跡の上には約30年前までお社があり、ご神体には「宝塔」の文字が刻まれていたという。この遺跡について、太宰府市教委では「証拠はないが、(遺構が)宝塔院の可能性も否定できない」としている。
(2009年1月10日 読売新聞)記事:「筑前宝塔院跡?含む山林を天台宗が買い取り、保全へ」
宝満山遺構を含む山林は延暦寺が買い取るとの交渉が進展する。
なお
竈門山に建立された宝塔の位置については、当初は内山地区周辺、さらには下宮礎石群が宝塔ではないかという説もあったが、この本谷礎石群が竈門山宝塔院である可能性
が高いと思われる。勿論当初の六所宝塔の規模などは明らかではないが、発掘された堂々たる基壇および一辺の規模などから見て、当遺構は「下壇令修法華三昧」の堂の機能を
十分に果たす遺構と思われる。
○宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)のブログより転載:
宝満山推定宝塔院遺跡:見事に1間四面堂の遺構を窺うことができる。
宝満山推定宝塔院南石階 宝満山推定宝塔院西石階
※もしこの遺構が「安西:筑前:宝塔院」であるならば、この「宝塔」は平面5間の天台大塔形式や平面円形の一重塔の宝塔ではなく、
平面3間・上重円形の多宝塔か上重も方形の二重塔形式であったことになる。
しかも、その一辺長から見て、大規模多宝塔であったことになる。
○宝満山遺跡第34次発掘調査(「本谷礎石群」もしくは「妙見礎石群」)
礎石建物跡1棟を確認、基壇は一辺25mの方形で、2段もしくは3段の石列を廻らす。南側正面と東西の斜面には石階を設置。基壇上には礎石及び礎石抜取穴を確認、中央間
は3.0m、両脇間は2.4m(一辺7.8m)を測る。
◎2009/04/10追加:
2009/03/28「X」氏撮影画像:
宝満山宝塔跡土壇:遺構跡は立ち木が切られ、明瞭に塔跡土壇を窺うことが出来る。
宝満山宝塔跡1:写真中央やや右上に崩れた石組が見られるが、これが妙見祠の基壇跡で、ほぼ宝塔の中央に位置する。
この周囲には原位置を保ついくつかの礎石が露出する。
宝満山宝塔跡2:写真上やや右の石組は妙見祠檀の残礎で、写真左側縦一列に3個の礎石が並ぶ。妙見祠檀は宝塔跡中央に位置すると
思われ、だとすれば、左側縦一列に並ぶ3個の礎石の一番下は脇柱礎・中央間の1個であり、上2個は四天柱礎の2個であろう。
◎「筑前国続風土記」貝原篤信<益軒>著、元禄元年(1688)〜宝永6年(1709):
「筑前國続風土記 巻之七 御笠郡 上」:
仏教に関係する記事の抜粋は、およそ以下の通り。
○竈門山
「・・・前略・・・天武天皇の御宇、心蓮上人といふ僧、初て此山に寺院をかまへ、宝仲寺と号す。法相宗なり。
心蓮上人は白鳳12年6月10日寂す。仏頂山東尾寺其居所なり。即ち仏頂山に墓所あり。仏頂山はかまど山の北に在て、竈門山より高し。其後やうやく繁栄して、有智山、南谷、北谷。三所の僧舎すべて370坊ありしとかや。此内300坊は衆徒方とて、もっぱら経説を学ぶ。70坊は行者方とて、専戒行をつとめて、入峰を事とす。今もむかしの僧坊の跡三所に残りて昭々たり。
文武天皇の御宇に、役小角登山して、・・・・修験道者、・・・此山を以修法の場とし、・・・・
延暦21年伝教大師入唐安穏のため登山して、竈門神に祈り、薬師仏7体を作り、7ケ所に安置す。此比より変じて天台宗となり、叡山に属せるならん。・・・中略・・・
延暦21年弘法大師登山して、・・・求聞持の法を執行・・・求聞持同あり。・・・・
弘仁9年4月、伝教大師有智山の辺におゐて、宝塔院を建つ。是日本国六所宝塔院の一也。所謂六所宝塔院は、・・・・・
弘治3年豊後の国主大友宗麟、・・・検地せんとす。・・・宗麟・・寺院僧坊に課役をかけ、堂社破壊・・其跡を墾きて田となす。・・・270区ありし僧坊も衰微して、わずかに25坊に成ぬ。今所在の25坊は是皆行者方なり。衆徒坊猶2坊ありしが、その後滅びぬ。2坊は善如坊・浄泉坊是也。・・・・
文禄2年小早川隆景登山あり。・・・隆景米100石寄進・・・隆景宝満の社造営あるべきとて・・・慶長2年に至て作り終わる。神殿、拝殿、講堂、神楽堂、鐘楼、行者堂、末社等、・・成就せり。・・・
寛永18年2月、火災おこりて、講堂、神楽堂、鐘楼、行者堂、一時に焼失す。・・・
慶安元年、国主忠之公、・・・当社造営の事始あり。・・神殿(方2間半)、拝殿、(2間3間)講堂、神楽堂、鐘楼、行者堂、薬師堂、護摩堂当旧慣(ママ)に復せり。・・以下後略・・・」
※心蓮上人:法相宗僧、元興寺僧・道昭と同時代の元興寺寺僧。白鳳2年(673)年、筑紫大宰府の背稜・宝満山(竃門山、三笠山)を開山、同山に法相宗・竃門山宝仲寺、その山頂に草庵(仏頂山東居寺旧東尾寺)を建立し、修法を行う。心蓮、同山にて玉依命の神託を受け、天武天皇の勅を得て竃門山上宮を建立。
◎概要
竈門山は上宮、中宮、下宮と配置されていたとされる。
中宮には講堂、神楽堂、鐘楼、石の鳥居、荒神社、法華塔、九重塔などがあったが、今は全て廃絶する。
江戸期の座主坊である楞伽院は上宮を少し下ったところにあったと云う。
◎2008/07/21追加:「太宰府めぐり」伊東尾四郎、森岡書店、明35.4
竈門山:宝満山とも云ふ。古来修験者の修法場として名高く、維新前では修験25坊存したり。
「筑前国続風土記」では:
白鳳年中に年心蓮上人、初めてこの山に寺院を構え宝仲寺と号す。法相宗なり。
その後繁栄し、有智山・南谷・北谷、三所の僧舎370坊在しとかや(三百は衆徒、七十は行者と云う)
文武天皇代、役小角登山し修法す。延暦21年伝教大師登山し、祈願、天台宗に転ず。
今所在の25坊は皆行者方なり。寛永の初めまでは衆徒方2坊(善如坊・浄泉坊)在しがその後滅びぬ。・・・
「太宰管内志」では:
坊舎25坊は山上に住す。坊号は
平石坊、南ノ坊、東院坊、福寿坊、大聖坊、修蔵坊、中谷坊、福泉坊、浄行坊、松林坊、浄善坊、井ノ本坊、道場坊、鳥居坊、新坊、尾崎坊、財徳坊、伊多坊、亀石坊、奥ノ坊、西井坊、大谷坊、福蔵坊、経蔵坊以上25坊なり。或道院は当山の無常院なり。
「竈門山水帳写」寛文11年(1671)では
修蔵坊、富倉坊、歓明坊(大聖坊)、南之坊、楞迦院(平石坊)、福泉坊、経蔵坊、東院坊、浄善坊、道場坊、鳥居坊、新坊(財行坊)、尾崎坊、福寿坊、松林坊、井之本坊、財徳坊、市坊、伊多坊(栄門坊)、亀石坊、岩本坊、金凝坊、福蔵坊、大谷坊、浄行坊、寂光坊、普内坊、奥之坊、仲谷坊 の名があると云う。
筑前塔原塔跡(史蹟):筑紫野市。
<武蔵寺>
塔心礎が1個残る。花崗岩製で、大きさは約1.8×1.7m×70cm、上面は平面に加工され、中央に径98cm、深さ11cmの円形孔があり、さらにその中央に方形2段刳り込の舎利孔が穿た
れる。
蓋受孔は方19.7×1.8cm、舎利孔・方13.9×12.4cm。
付近から白鳳−奈良初頭の瓦を出土。
そのほかの伽藍は不詳。心礎は原位置を移動しているとされる。
「筑前国続風土記」(貝原益軒著・江戸初期):「十王堂と称し、塔が建っており、故に塔原といふ。」
塔跡南500mに武蔵寺が現存する。
現武蔵寺東には伽藍跡と思われる雛壇状の造成がある。出土品から中世の武蔵寺跡と思われ、付近には正法寺・善正寺・蓮衣寺・宗正寺・石水寺・池上坊などの字を残す。おそらく現武蔵寺も左記の寺院と同様の旧武蔵寺の子院であり、本寺退転のため、名跡のみを継いだものと想像される。武蔵寺は「梁塵秘抄」「宇治拾遺物語」(いずれも平安期)にその名が見え、大伽藍であったと
云われる。
武蔵寺縁起1 武蔵寺縁起2:武蔵寺蔵(武蔵寺縁起絵掛軸5幅のうち)、時期不詳(室町〜江戸)
2007/12/24追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
筑前武蔵寺心礎:方形舎利孔
なお般若寺↓の項も参照ください。
筑前般若寺:大宰府
心礎を残す。2度の発掘調査で塔跡も確認される。
「上宮聖徳法王帝説」裏書には白雉5年(654)筑紫大宰帥蘇我臣日向(身刺・無邪志)が般若寺を建立、とあり、この般若寺は
前項の塔原廃寺であるとされる。
「日本の木造塔跡」:心礎は1.66×1.5mで、径73×15cmの円穴を彫る。放射排水溝が1本ある。
般若寺と塔原廃寺と武蔵寺の関係は以下とされる。
白雉5年に塔原廃寺の位置に般若寺が建立され、この寺はその後(奈良期)大宰府に移建され、これがこの般若寺跡とされる。現在の武蔵寺は平安期の創建で、名跡のみ継いだものとされる。
※知恩院本「上宮聖徳法王帝説」裏書;曾我日向臣、宇無耶志臣、難波長柄豊碕宮御宇天皇之世(645〜654)、任筑紫太宰帥也、甲寅年(654)十月癸卯朔壬子、為天皇不悉、起般若寺
筑前大分廃寺(史蹟):筑穂町
(現飯塚市)
現状塔跡は高さ約1mの土壇と、心礎と礎石15個(四天柱礎4、側柱礎8)を残す。塔跡以外の遺構はない。
心礎は花崗岩で円形柱座(装飾か)を造り出し、径約82cm、深さ約9cmの孔があり、外に向けて約90度の角度で排水溝が彫られている。
ほかの礎石は全て円形柱座を造り出し、柱間は2.4m等間とされる。
塔跡西方で礎石の存在の伝承がありこれが金堂跡とすると法起寺式伽藍配置と思われる。奈良前期の瓦を出土。
「日本の木造塔跡」:心礎は1.5×1.5m、径1.33mの円形造出を造り、径88×10cmの円穴を彫る。塔一辺約7m。
●以下は【旧豊津町HPより要約・転載】(当サイトは閉鎖と思われる。)
わずかに土壇を残し、心礎及び原位置を保っていると思われる十数個の礎石を残す塔跡がある。
この遺跡については、「太宰管内志」、「筑前国続風土記」(江戸期)に記載がみられる。
また、「東大寺文書」の穂波郡高田庄に関する記録:天慶3年(940)に「依大分寺所公験明白也」とあり、「大分寺」はこの廃寺のことと推定される。
平成3年の発掘調査(塔跡整備)では、塔の平面規模は柱間八尺等間で一辺が24尺(7.3m)の建物であることが判明したが、基壇については基壇化粧がすべて喪失のため詳細は不明ながら、掘り込み地業の輪郭から一辺およそ44尺(13.3m)程度、基壇高は四尺前後ではなかったかと推定される。塔跡以外は顕著な遺構が残存せず、
伽藍配置は不明。出土瓦などから、少なくとも9世紀までは存続したと推定される。
※筑穂町中央公民館にて大分廃寺塔復元縮小模型・発掘当時の写真、古瓦などの出土遺物を展示という。
2009/02/24追加:
※「太宰管内志」穂波郡大分八幡社の条:社僧坊云妙見山長楽寺円光坊天台宗也、社僧の坊も昔は大寺にして其子院の名も畠の字に残れり。八幡宮より七八町東の方田の中に輪蔵の跡あり。大なる礎多し。大石を切て柱をすゑたる跡あり。
※「筑後国續風土記拾遺」(文化11年):長楽寺は比叡山末、天正期に焼失し、秋月氏が再興。なお長楽寺はその後養源寺と改号し八幡宮東に現存する。
筑後高良山高隆寺(御井寺)
筑後高良山
肥前辛上廃寺心礎
「X}氏報告:塔心礎石が、廃寺の南方の辛上橋西の集落の祠?付近に現存
する。大正時代に移されたと云われ、その時に手水鉢用にほぞ穴が拡大されてしまったと云う。
本来の穴の径は一尺八寸三分(55.5cm)、深さは四寸ほど(12cm)花崗岩製です。
発掘された寺跡は現在ビニールシートがかぶっており、様子は分からないが塔跡の土台があると思われる。吉野ヶ里遺跡の一部として発掘が始まった
と推定される・・。:
辛上の地名は「蕃神(からかみ)」に由来するとされ、出土瓦から寺院は奈良期創建とされる。
肥前辛上廃寺心礎 ・・・X氏ご提供画像
「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、140×110×33cm、径55×12cm、移動している。民家志岐氏宅下にあると注記。
肥前寺浦廃寺塔跡(晴気廃寺)・心礎
:小城郡小城町大字畑田字寺浦 塔跡と念仏石と称する礎石1個を残存すると云う。
「X」氏報告:土壇の高さ約1m、東西約9m、南北約8m。
心礎の大きさ1.8mほど、穴の大きさは径48cm、深さ21cmほどの花崗岩。:
・塔跡の東に多数の礎石が並んでいた(金堂跡と推定)と伝えられ、瓦出土状況、小字名から法隆寺式伽藍と考えられている。奈良期の創建とされる。
・数次の発掘調査により、建替がある回廊とその内部南寄りに金堂、西側回廊と重複する位置に塔があり、回廊廃絶後に塔が建てられたと推定される。
肥前寺浦廃寺塔跡 同 心礎・・・X氏ご提供画像
・「日本の木造塔跡」:心礎は一重円孔式、大きさは181×166×40cm、径48×23cmの円孔がある。原位置を保つ。白鳳。
2008/08/14追加:「天武・持統朝の寺院経営」:
肥前寺浦廃寺伽藍配置
肥前輿止日女(淀姫)神社(河上神社)心礎
:佐賀郡大和町川上 輿止日女(淀姫)神社(河上神社):祭神は輿止日女命。肥前一ノ宮の地位にあった。
また川上川流域には多くの淀姫神社が祀られているようです。
別当は河上山実相院と号し、西側に現存するようです。
実相院(神通寺)は行基の開基と伝え、その後河上神社社僧円尋(天台僧・現在は御室派)が河上別所に移し、室町期以降実権を握ったとされる。戦国期には
80坊を擁したと伝える。
天明5年(1785)には実相院、観音院、円通寺、光明院、明王院、宝珠院、竹内坊、菩提院、大門坊が存在したようです。(河上御領絵図)この他にこの頃までに廃寺となった坊舎に理趣院、学頭坊などもあったようです。
嘉永7年(1854)の火災で実相院、観音院、大講堂等が焼失したが、仁王門などは焼失を免れたという。
当社は中世には大きな勢力をもち、また多くの中世領主の保護を受けたようで、ごく一般的な神社の在り方として、塔婆・本地堂などが存在したのはごく自然なことであったようです。
金堂には本尊は薬師如来を安置するようです。
「X」氏報告:塔心礎は社殿の左前方に現存する。神社の説明では、塔は神仏習合の名残であり、中世のものであろうとのこと。穴は二段であったが、雨水がたまりボウフラがわくので砂で埋めているとのこと。外側の穴の径はおおよそ50Cm弱。
:
心礎の詳細は不明ですが、古式な心礎とも思われます。神社側の認識である神仏習合が行われて
いたとの説明は肯定できますが、中世のものなのかあるいはもっと古い心礎なのかは判断できません。
おそらく古くから塔婆はあり、それが中世まで伝えられたと解釈することも可能と思います。(裏づけはありませんが)
なお、「河上神社神領絵図」(天明5年1785)によると,境内南西部に観音堂が、また仁王門を入ると八角堂が描かれているようです。
淀姫(輿止日女)神社心礎・・・X氏ご提供画像
2003/6/10:「幻の塔を求めて西東」より:160×150×60、円孔 51×20、下円孔 13×13、創建;白鳳期
なお、山城淀姫社(与杼神社)は応和年中(961-963)僧千観内供が肥前佐賀郡河上神(與度日女神)を勧請したものと云う。
肥前塔塚廃寺
肥前塔塚廃寺:心礎破壊
肥前大願寺廃寺:佐賀郡大和町大字川上字大願寺
遺跡は約2町四方が想定され、五社明神地区に基壇と造出を持つ礎石が多く残り、伽藍中心地と想定される。
礎石は約60個ほど残存するようです。(塔跡などの存在は不明)
豊前天台寺跡(上伊田廃寺):田川市上伊田鎮西公園内
豊前天台寺跡:心礎は埋め戻され、現在見ることはできない。
豊前椿市廃寺(福岡県行橋市)
発掘調査により四天王寺式伽藍配置が確認される。(但し金堂遺構は未検出)
真言宗願光寺参道に心礎を残す。心礎は現位置の南20m地点で出土と云う。なお講堂礎石も残存すると思われる。
「日本の木造塔跡」:心礎は2.1×1.6mで、径64cm×13cm。放射排水溝が1本ある。
●以下は【旧豊津町HPより要約・転載】(当サイトは閉鎖と思われる。)
現在、廃寺の伽藍中心部には真言宗叡山願光寺の庫裏・仏殿が現存する。
『太宰管内志』(江戸期)には「[旧記]に京都郡黒田郷福丸村うち有古刹号叡山願光寺僧行基経歴諸国之草創当寺云今安置之薬師仏之行基之刻也当寺住昔有伽藍天正之兵火悉為灰燼其礎今在田間」とある。心礎以外の礎石も石塔の土台石や垣根の基礎などに転用されている。また、庫裏の付近には原位置を保っているとみられる礎石が残っている。
昭和31年小田富士雄氏(現福岡大学教授)によって測量調査が行われ、庫裏の位置は講堂跡に相当すると考えられ、その南方130尺の地点に塔心礎があったということから塔、金堂、講堂が南北に並ぶ四天王寺式の伽藍配置が想定されている。昭和52−55年及び平成4年の発掘調査で講堂の建物規模が明らかになった。基壇は花崗岩の玉石積みで、東西88尺(26.7m)、南北60尺(18.2m)で、基壇高さは約1.5尺(45.5cm)であった。
基壇上には礎石が6個原位置を保ち、これから桁行7間(77尺・23.3m)、梁行4間(48尺・14.5m)に復元される。
山門の際にある心礎は地元古老の談によると、もとは現在の位置から約20m程南へ寄った所にあったという。この地点は講堂の中軸延長線上にあり、調査の結果ではL字型に連続するとみられる溝が検出され、中軸線で折り返すと一辺が15メートル程の方形になる。しかも、この方形に囲まれた溝の中心は、かつて心礎があったという位置に一致することから、この地点に塔があった可能性は大きい。
○2008/08/14追加:「天武・持統朝の寺院経営」:
豊前椿市廃寺伽藍配置図
豊前菩提廃寺(福岡県京都郡勝山町松田)
「日本の木造塔跡」:全礎石を残す塔跡が残存する。心礎は2×1.7mで、径68×2cmの浅い円穴を彫り、その中央には径32×高さ7cmの椀形の突起がある。つまり円穴は
枘溝と見られ、溝幅は18cmとなる。
四天柱礎、側柱礎は全て自然石。塔一辺は5.15mで、中央間が相当大きい。
なおこの寺院は平安初期創建の宝積寺と云われる。
●以下は【旧豊津町HPより要約・転載】(当サイトは閉鎖と思われる。)
国道201号線の新仲哀トンネルを抜けた左手(北側)の民家の庭に塔跡がある。
昭和28年、定村責二氏(地元の郷土史家)は地元の古老の案内で障子ヶ岳の東側山麓の緩斜面の竹藪のなかを踏査し、そこに輪状の掘り込みのある礎石とそれを取り巻くように整然と並んだ礎石があること、さらにそこから少し離れた雑木林のなかにも十数個の礎石があるのを発見した。その後原口信行氏(郷土史研究仲間)と共に調査、実測を行い、塔跡と金堂跡であることを確認した。
『太宰管内誌』(江戸期)の豊前国京都郡「菩提院」の項:「京都郡菩提村鷲尾山菩提院寳積寺者天台宗之旧跡也正徳元年八月再興寺院以龍池山石窟本尊虚空蔵安置此寺又自一町許南一寸坊塔者五輪大塔也又自寺四町許北谷有輪蔵礎又寺上有四十九院宅跡皆為竹林」とあり、原口氏の見解は五輪大塔は宝積寺の庭池に現存する石層塔であり、輪蔵礎は現存する塔心礎であろうという見解のようです。
金堂跡とした遺構は礎石の配列から桁行32尺(9.7m)、梁行25尺(7.6m)程度の四面庇付建物ではないかとしている。
昭和61年の塔跡の発掘調査では、17個の礎石のうち西辺の側柱礎石一個を除いて、他はすべて原位置を保っているとされ、塔の平面規模は側柱の両脇間が5.5尺(1.7m)、中央間が7尺(2.1m)の一辺18尺(5.5m)四方とされる。
心礎は出枘式であるが、周囲を削って枘部を造出したものではなく、上面に幅18cm、深さ3cm程度の溝をめぐらし、その中央部に径約30cmの高まりを残して柱座を形成する形態のものである。
基壇化粧は西南隅で二重の石列が検出されている。内側の石列は側柱の心から9.5尺(2.9m)、外側の石列は、さらに4尺(1.2m)外側にある。一見、二重基壇風であるが、石列の高さなどから内側石列が本来の基壇であったと考えられ、外側の石列は後の補修によるものと考えられる。
豊前上坂廃寺(福岡県京都郡豊津町)
※※現在、この心礎は地下に埋められ実見することはできない。従って、心礎舎利孔の形態は方形とも円孔とも判断がつかない。
恐らく方形と思われるも、以下の諸資料によっては、円孔とも解釈できるものもあり、判断は留保せざるを得ない。
・奈良後期の創建とされる。水田中に完全に埋没している心礎があるとされる。心礎は2m×3mmp大きさで、中心に柱穴を彫り、さらにその中央に四角形の舎利孔を持つとされる。
「幻の塔を求めて西東」:二重円孔式、2.8×2.2m、径85×22cmと(方との記載なし)17.5×11.4cmの孔を持つ。原位置、白鳳創建。
●以下は【旧豊津町HPより要約・転載】(当サイトは閉鎖と思われる。)
現地には水田中に塔の心礎が埋没しているほか、付近から古瓦が採集されている以外は、見るべき遺構はない。
塔心礎はこれまでに二回ほど掘り出され、実測が行われた。心礎は長径約3m、短径約2.6mの長円形をした花崗岩で、その上面に径85cmの円形の柱座の掘り込みがあり、さらにその中心部に径
(径と記載する)17.6cm円形舎利孔が設けらる。
発掘調査は昭和58年僅か二日間行われたのみで本格的な発掘調査は行われていない。調査は心礎の北側および西側に試掘溝を三本ほど設けて行われたという。
調査時の所見によると塔心礎は掘り込み地業による版築を行った上に据えられており、原位置にあるものと判断されるが、基壇の痕跡は未検出で推測の域を出ない。この心礎から西へ約22mから44mの範囲で瓦を多量に含んだ溝や瓦溜まりが検出され、金堂跡
と推定される。
また、心礎の北側では27mおよび35mの地点から礎石がそれぞれ検出されている。そのうちの一つには径66cm円形柱座の造出がある。これらの礎石の西側約20m程離れた所から、かって礎石が出てきたという地元民の話があり、この付近に礎石建ち建物が存在した可能性が強い。塔心礎との位置関係からみて講堂跡に推定される。
2009/09/20追加:
「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
豊前国分寺末寺に上坂村観音寺があり、「御郡中真言寺院由緒記」によれば、ここは国分寺経蔵の地であったが応永年中に焼亡、寛文年中に再建と云う。ここに大礎石がある。大きさは約7尺×6尺で、径2尺8寸深さ9寸の円孔を穿ち、その中央に径5寸深さ5寸の舎利孔を持つと云う。(※伝聞の書き方で、実見はしていないと思われる、舎利孔は径と書き、円孔の書き方をしている。)
2009/09/20追加:
「塔原廃寺」のページに「上坂廃寺心礎」写真がある。
(但し、写真の取り違えがあるようで、塔原廃寺心礎となっているがこれは上坂廃寺心礎と思われる。)
豊前上坂廃寺塔心礎:写真は小さく、舎利孔の形態は円孔とも見えるが、断定不能。
「上坂廃寺の塔心礎の写真は故酒井仁夫撮影のものを借用した。」と注釈がある。
豊前木山廃寺(福岡県京都郡犀川町)
塔心礎は半裁され、木山集落の賽の神として祀られている。
「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、180×90×80cm、径55×5cm(大破しているため復元寸法)、白鳳期創建。
●以下は【旧豊津町HPより要約・転載】(当サイトは閉鎖と思われる。)
地元古老の談によると寺院跡推定地一帯は、明治9年頃に土地の改修事業が行われ、その際に多量の瓦と塔心礎が出土したという。この寺院跡推定地の東北にある木山の集落の一画に「塞三柱大神」と刻んだ石碑が立
つ。
この石碑は塔心礎を半裁したもので、長さ180cm、幅90cm程の花崗岩で、その側面に半円形の掘り込みがある。少々いびつであるため正確さを欠くが、この円弧から復元すると直径55cm、深さ15cm程になる。また、もう一方の側面には「明治九年丙子四月」とあり、明治9年頃に土地の改修事業が行われたという古老の話と一致する。
昭和49年に推定地の発掘調査が行われたが、寺院跡に関係する遺構としてはわずかに瓦溜まりを検出したのみで、建物等の遺構は何ら検出されなかった。おそらく明治九年頃に行われたという土地改修事業の際に削平されてしまったものと考えられる。
豊前求菩提山護国寺ニ層塔
求菩提山護国寺 明治33年台風にて倒壊
。
豊前相原廃寺:中津市鶴居
心礎、金堂基壇の一部などが遺存する。
「日本の木造塔跡」:瑞福寺境内にあるが、元は100m離れた貴船神社境内にあり、明治10年に移したとされる。心礎は2.14×1.98×1mで、ヶ尾67×12cmの円穴を彫る。出土瓦から奈良期の創建とされる。元地には金堂礎石も残ると云う。
豊前宇佐八幡・弥勒寺 宇佐八幡宮・弥勒寺
豊前宇佐法鏡寺跡(史蹟) 宇佐八幡宮に連なる辛島氏の氏寺と推定される。7世紀後半の創建とされ、伽藍配置は法隆寺式であったと
推定される。
現状は田畑と化し何も見るべきものは無いと思われる。
現在、確認されている遺構は金堂跡および講堂跡と考えられ、塔遺構は未確認である、金堂・講堂の配置から法隆寺式の配置が想定されているが、金堂・講堂を含めて
実態は不明と思われる。
2008/08/14追加:「天武・持統朝の寺院経営」:
豊前法鏡寺伽藍配置図
豊前虚空蔵寺跡 宇佐八幡宮神職を努めたの大神氏の氏寺で、開基は法相僧の法蓮と
伝える。7世紀後半の創建とされ、伽藍配置は法隆寺式であった
。
現状塔跡は良く保存され、土壇・心礎・四天柱礎全部・側柱礎11個が残存する。
土壇は10m×11mの大きさで基壇は瓦積みであったとされる。
○「日本の木造塔跡」:心礎は1.76×1.6mで、径60×15cmの円穴を穿ち、穴底に環状排水溝を造る。さらに巾約9cm深さは穴の底に達する放射排水溝(1本)を穿ち、穴底の環状排水溝に繋がっている。
○豊前虚空蔵寺塔土壇 ○豊前虚空蔵寺塔心礎1 ○豊前虚空蔵寺塔心礎2
○虚空蔵寺塔跡:瓦積基壇面が
発掘される。
○2008/08/14追加:「天武・持統朝の寺院経営」:
虚空蔵寺伽藍配置図
○2008/09/07追加:「仏教考古学講座 第2巻 寺院」雄山閣、1984
虚空蔵寺塔跡実測図:1954、1971に発掘調査、方400尺の寺域と法隆寺式伽藍配置が想定されるようになる。
塔一辺は17.5尺(中央間6.5尺、両脇間5.5尺)と推定される。
豊後万寿寺五重塔
府内(現大分)万寿寺に五重塔が存在したとされる。
詳しくは「豊後万寿寺五重塔」のページを参照ください。
また「大友館復元」については「大友館と豊後(大分)府内復元」のページを参照ください。
豊後柞原八幡宮多宝塔
柞原社(由原宮)多宝塔
日向今山八幡宮
かっては多宝塔が存在したようです。(詳細は不詳)
延岡図
・今山八幡:江戸初期のものと推定
絵は不正確ですが、二層塔様のものがあります。おそらく多宝塔と思われます。
天平勝宝3年に宇佐宮を臼杵荘に勧請したというが、成立は平安期であろうとされる。
中世には正殿、申殿、若宮殿、善神王殿、松熊、弥勒堂、南大門、西大門、東大門、御輿宿、宮蔵、饗所、御庁、冥婦殿、酒殿、御炊殿、安息殿などがあったという。
近世は80石、別当は善龍寺。
肥後中村廃寺:山鹿市中小字権現森
奈良期
肥後十連寺
塔心礎が現存する。径約40×10cmの円孔を穿つ。平安期か?。「いぼだらさん」と呼ばれ、民間信仰の対象のようです。
肥後稲佐廃寺
熊野神社境内に塔・金堂礎石を完存する。
心礎は1.7m×1m、径55×5cmの円穴を穿つ。塔一辺は6.3m。四天柱礎、側柱礎は自然石。
昭和26年の調査により講堂、塔、金堂(5間×3間)、中門等の位置や塔心礎が判明、法起寺式伽藍配置とされる。
出土した瓦・礎石などから、奈良期から平安期を通じて存続した寺院と推定される。
2008/08/14追加:「天武・持統朝の寺院経営」:
肥後稲佐廃寺伽藍配置図
肥後宮寺廃寺(延命寺跡):熊本市二本木三丁目
心礎はもとの宮寺村にあ
り、延命寺跡地にある。心礎は原位置を保つとされる。
当村にあった天台宗延命寺遥拝山妙智院(現在は廃寺)は天平期行基の開基とし、行基作千手観音を本尊とする。
現在は僅か観音堂1宇が残り、本尊千手観音立像、不動明王立像、毘沙門天立像、阿弥陀如来立像を祀るという。
またさらに当地には天台宗善逝寺(現在は廃寺)もあったとされ、行基開基で、行基作本尊薬師如来及び脇侍・十二神将を祀る。
勿論いずれも真偽は疑わしいが、いずれにしろ奈良期の寺院があったことが推測され、心礎のあった寺院は延命寺などに法灯が継がれたとも推測される。
出土瓦は奈良後期から平安前期のものとされる。
肥後宮寺廃寺心礎1 同 2 同 3 同 4・・・2003/12/28「X」氏ご提供画像
肥後水前寺廃寺
水前寺成趣園入口の西、出水神社と玄宅寺の間のボウリング場入口にある。
出土瓦から平安中期の塔跡とされる。心礎のほか礎石4個を残す。基壇は版築の跡が認められる。
肥後池辺寺(史跡):熊本市池上町字平山
金子塔(南北朝期)銘文・「池辺寺縁起絵巻」(文化元年・1804書写)などでは池辺寺は和銅年中(708-715)の創建と伝える。
百塚・堂床では平安初期の遺物が出土すると云う。(平安初頭に百塚・堂床附近に堂塔が営まれたものと推定される。)
百塚地区には、東向きの礎石建物群跡とその背後斜面に石積遺構群が残存する。
石積遺構群からは、石製の相輪や宝珠が出土していることから、石積の上には、石組の塔が立てられていたものと推定される。
石塔は一辺2.4mの石積で、縦横10列づつ整然と並ぶ。(金子塔では「百塔」と記載と云う。)
その後、中世には池辺寺は現在の池上神社附近に移ったものとされるも、明治維新後廃寺となる。
なお堂床には塔心礎が残存する。大きさなどの詳細は不明(小形で平安初頭の心礎と思われる)。写真によると一段円孔式で、1/3が欠失すると思われる。また建物跡は未検出と云う。
肥後池辺寺心礎:「史跡 池辺寺跡」熊本県教育委員会発行小冊子 より、写真手前が心礎
池辺寺跡概要図
2006/10/31追加:
「池辺寺跡 日本の遺跡38」網田龍生、同成社、2009
昭和33年熊大学生横尾泰宏が堂床地区で古瓦を採取、報告を受けた教授松本雅明らにより再踏査が行われ心礎石が発見される。「池辺寺考」(松本雅明)では池辺寺は11世紀に堂床地区を中心に建立された山岳寺院とした。
堂床地区の心礎のある地点の現状は果樹園に造成され、畑から瓦が多く採取される。その後、発掘調査が数次実施されたが、削平が著しく、明確な遺構の出土を見ない。
塔の遺構はほぼ壊滅であるが、心礎の現存・瓦の大量散布・下に掲載の伝承などにより、この地に塔婆が建立されていたのは確実であろう。
数十年前この地の畑は削られていて、以前は畑に高まりがあり、そこに心礎があり周囲にいくつかの石があったらしいと云われる。
心礎は安山岩で、1/3を欠損する。現在は1m強の大きさで、高さは30/40cm、中央に径16/18cm、、深さ10cm弱の円孔を穿つ。
円孔周囲の痕跡から柱の径は約30cmと推定される。
◎肥後池辺寺心礎2 同 心礎3
明治3年頃廃寺となり、独鈷山にあった山王社(池辺寺は天台)を近世池辺寺本堂跡(上段)に移し、池上日吉神社と改号する。
下段には池上村役場が置かれる。明治40年中段に日露戦争紀念堂(2000年に池上公民館に建替)が建てられ
廃池辺寺の仏像・什器が置かれる。最上段は墓地であり、この最上段と上段に近世池辺寺堂宇があったものと推定される。
池辺寺本尊浮木観音:聖観音坐像、池辺寺跡財宝管理委員会蔵
池辺寺護摩堂本尊:不動明王立像、池辺寺跡財宝管理委員会蔵
近世池辺寺堂舎配置図:文政9年飽田郡池田手永寺社本末御改め付寺院間数改帳
近世池辺寺は、門・中門・本堂(5×5間、向拝、瓦葺)・庫裏(2×5間、瓦葺)が東向に配置され、本堂北に観音堂(7間四面、本尊浮木観音)・護摩堂(3間四面、本尊不動明王)・独鈷堂(2間四面、向拝)・地蔵堂(1間四面、向拝)、本堂南西に愛宕堂(2×3間がある。
寛政3年には門・中門・観音堂・護摩堂・独鈷堂・地蔵堂は既になく、愛宕堂は規模を縮小と云う。境内582坪。
百塚地区は初期池辺寺の中心と考えられ、特殊な信仰形態であったと推定される。百塚と称するも塚ではなく石塔であったと発掘調査で推認される。百塔前の礎石建物群は百塔の礼拝施設であった可能性が高いと推定される。
百塚地区遺構全図 同 遺構発掘図:100基の石塔が整然と並ぶ。
百塚地区礎石建物群全景 同 建物群発掘図 同 建物群復原図:全て瓦葺として復原
百塚地区礎石建物跡 同 建物発掘図
百塚地区雨落溝遺構 同 2
:類例のない精美な雨落溝の加工で、これに百塔の遺跡が続く。礎石建物は百塔の礼堂的建物と推定される。
肥後陣内廃寺:下益城郡城南町陣内
一重円孔式、190×180×120cm、径52×25cm(あるいは20cm)、原位置とされる。
穴の周囲には半分は磨耗した柱座の造出しが微かにあると云う。
法起寺式伽藍配置と推定され、心礎は砂岩製とされる。近くの八坂神社境内に側柱礎と思われる礎石5個を残す。
肥後浄水寺
塔跡が残り、礎石13個(5,6個以外は動いているようです)を残すようです。心礎は残っていないようです。
奈良期末の創建で、天長5年(828)定額寺に指定、境内には延暦9年(790)の南大門碑(創建の碑)、延暦20年(801)の燈楼の竿石、天長3年(826)の寺領の碑、康平7年(1064)の如法経塔の碑を残す。
肥後古保山廃寺:松橋町古保山
「日本の木造塔跡」:心礎は1.5×1.2mで、中央に径30×16cmの孔を穿ち、周囲には径67・深さ2cmのほり込みがあり、半分は磨耗している。出土瓦から奈良期後半の創建とされる。霊雲寺と称し、焼失の後再興され、小西行長の兵火で廃寺となったと云う。「えぼ石」として民間信仰の対象であった。
肥後興善寺
(肥後明言院):八代市興善寺町 一重円孔式心礎が現存する。167×89/90×62cm、孔の径38p、深さ15cm(あるいは5cm?)。
明言院の前身は、敏達天皇12年(583)日羅の創建とする。大化の改新により八代郡寺となるが、天平の大災害で倒壊。
治承2年(1178)月山禅誉和尚を一世として、寺名を竜ケ峯山興善寺とした。その後衰退し廃寺。
正平7年(1352)懐良親王の祈願寺として興善寺跡に護国山顕孝寺を建立、大方恢和尚を一世として臨済宗となる。
以後顕興禅寺と改称、天正16年(1588)、小西行長の兵火により廃寺となる。仏像などは地元に伝世される。
万治2年(1659)真言宗明言院秀盛を一世として竜ケ峯山明言院として再興される。木造毘沙門天立像(重文・藤原)を伝える。
肥後悟慎寺(妙見中宮護神寺塔心礎):八代市宮地
「日本の木造塔跡」:禅宗悟慎寺の傍らにある。心礎は1.2×1,1mで、径25/24×4cmの孔があり、周囲には径55cm深さ1cmのほり込みがある(半分は磨耗)。
悟慎寺:中宮山と号す。曹洞宗。元中7年(1390)良成親王の命により菊池武朝が懐良親王の菩提寺として建立と伝える。
この地は妙見中宮社僧中宮山護神寺(天台宗)の旧地という。
小西行長の時、退転、慶長7年加藤清正の時、再興、寛永9年加藤正方が寺領寄進、延宝5年(1677)細川氏より30石寄進。
伝来する心礎は平安末期の妙見中宮の護神寺心礎と伝える。上記寺暦から、その可能性は高いと思われる。
寺域から平安後期の布目瓦が出土という。
肥後安国寺および利生塔 以下「歴史の足跡」の番外「泰平山安国寺」より抜粋。
熊本市横手に泰平山安国寺がある。寺暦は「加藤清正が建立した弘真寺が忠広時代に退転荒廃。細川氏の小倉時代に建立された安国寺の住僧梵徹が、細川氏とともに肥後に入国し、弘真寺に住居し祈祷所とし、安国寺と改称した」という。
従って本来の意味での肥後安国寺では無いようです。
「境内には数多くの石造物がある。」が、そのうちの一つに「本堂裏の墓地に巨大な有角五輪塔の「蒲生秀行供養塔」がある。」高さ3Mを越すもののようです。今般「歴史の足跡」様から「蒲生秀行供養塔」(石造)の画像をいただきました。
参考として掲載させていただきます。
肥後安国寺秀行供養塔1 同 2 同 3 以下「歴史の足跡」の肥後安国寺より抜粋。
本来の安国寺とされるのは
菊池郡泗水町豊水に「小堂(安国寺釈迦堂)が残り、足利尊氏・直義が全国に設けられた安国寺跡と伝えられる。」
その根拠などについての詳細は表記ページを参照ください。
また宇土市花園佐野に佐野寺(天台)が存在し、かっては寿勝寺と呼ばれ、安国寺とされたとも云われるようです。
利生塔については、現状では不明確と思われますが、
以下「歴史の足跡」の三日山如来寺より抜粋。
宇土市の如来寺に利生塔が建立されていたとの「説」もあるようです。
辻善之助「日本仏教史」では肥後安国寺は菊池郡泗水の寿勝寺とする。(肥後国誌、肥後名勝略記、白雲東明語録)
薩摩利生塔 以下以下「歴史の足跡」の医王山泰平寺より抜粋。
江戸期の「三国名勝圖會」からの絵が転載されています。(上記URLを参照下さい。)
利生塔は石造五輪塔であり(残念ながらこの五輪塔は現存しないようです。)、
その銘文は
「奉造立五輪塔一基
(略)歴応三年二月時正、勧進、沙弥成道、大檀那善行
(三国名勝図会から引用)」 というものであり
「利生塔=五輪塔は三国名勝図会の説明文の塔婆銘文から歴応3年(1340)に作成されたもので、足利尊氏の指令により作られたものである。利生塔は一般的には五重塔又は三重塔と考えられているが、薩摩の場合五輪塔が建てられたという貴重な証拠である。」
確かに利生塔とは木造の層塔であるというのは「思い込み」で石造のものもあるというのは大いに可能性はあると思われます。
辻善之助「日本仏教史」:薩摩利生塔は薩摩郡東水引村泰平寺とする。
2006年以前作成:2009/09/20更新:ホームページ、日本の塔婆
|