山  城  の  塔  跡


古代中世、京都市街地には、今の殆どその姿や痕跡を留めないが、多くの木造塔が建立されていた。
現在、知られる それらの塔婆について、
著名な市街地の塔婆は「京都市街地の塔」に、 また、平安期を中心にした京都市街地の塔婆概要は「京洛平安期の塔婆」に掲載。
 
名称・場所 国指定 画像 備  考
. 山城鞍馬山多宝塔 . 山城鞍馬寺、近世の多宝塔については詳細不詳。
. 山城大雲寺 . . 大雲寺は天禄2年(971)円融天皇の勅願により、日野中納言藤原文範が真覚(藤原敦忠息)を開山として創建したと伝える。
永観3年(985)昌子内親王(冷泉天皇中宮・朱雀天皇皇女)寺内に観音院を建立。(日本紀略)
天元4年(981)余慶僧正(智弁、園城寺長吏、法性寺座主)は山門・寺門の対立の激化により、叡山を降り、寺門の僧数百人を連れ大雲寺へ入寺する。この頃寺門の拠点として三塔(大雲寺・是王寺・福泉寺)の本寺として最盛期を迎えるも、その後も寺門・山門の抗争は止まず、大雲寺はたびたび山門により焼払われる。その後、抗争や兵乱で中世を通じ、次第に衰微する。
元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼討により大雲寺も炎上する。
寛永年中(1624-)実相院門跡義尊、本堂等再建。
 ※実相院門跡は応仁の乱後、大雲院山内成金剛院の地に洛中より移転し、岩倉実相院が成立。
昭和60年、寛永年中再建本堂を焼失(不審火?)。寺地を岩座神社東に移転、再興される。
旧寺地には閼伽井(智弁水)・不動の滝・実相院宮墓・昌子内親王高倉陵などが残る。
 大雲寺絵図:岩倉実相院門跡蔵、作成年不詳、(2009年「実相院の古文書」展より)
盛時の大雲寺を描くもので、北大門を東から入り直右手(北)に堂名不明の堂と三重塔が並んで建つ。本堂位置が寛永期再興の大雲寺があった場所と思われる。三重塔の履歴は全く不詳。
本寺である園城寺の盛観とは比較にならないが、その巍々たる様子は良く表されている。
 昭和初頭?大雲院:右に水盤、石垣、本堂が見える、左は城守保養所。写真は「岩倉の伝統と近代との相克:日本のゲール」Akira Hashimoto著(「精神保健福祉論2007、シリーズ:精神保健福祉の思想と歴史」所収)に掲載。
 新撰京都名所圖會・大雲寺:巻2、竹村俊則、昭和34年、上記写真とともに、今は無き近世大雲院の貴重な記録であろう。 現大雲寺は当図の反対側・石座神社の東に再建される。
. 山城高山寺 . 高山寺
. 山城賀茂別雷神社 . 京洛平安期の塔婆
. 山城賀茂御祖神社 . 京洛平安期の塔婆
. 山城北白川廃寺 . 図版 1975及び1995年発掘調査で判明。 基壇は一辺14m、塔の一辺は約6,5m(側柱据付穴を検出)
2006/01/29追加:「北白川廃寺塔跡発掘調査現地説明会史料」京都市埋蔵文化財研究所、1995
基壇南西隅と基壇南東隅及び階段が発見され、心礎抜取穴を伴うため塔跡とされた。
塔基壇は当初は瓦積基壇であったが、後に乱石積基壇に変更されたと確認された。
(瓦積基壇が乱石積基壇で覆われていたとされる。)
基壇一辺は14m、高さは後世の削平で不明。階段の出は約1.2m。図版は現地説明会史料
. 山城広隆寺心礎 . 図1
図2
図3
楼門東南に「太秦広隆寺」の標石があり、この標石の台石に心礎が転用されている。
この心礎は元講堂の西45Mほどにあったとされる。
「日本の木造塔跡」によると、心礎は2.4M×2M×85Cmで中央に径90Cmの穴の跡がある。(穴はコンクリートが詰められていて見ることは出来ない)。おそらく延暦年間に(北野廃寺からと推定される)移転した当時の広隆寺五重塔心礎と考えられている。(塔頭十輪院三重塔との説もある)
当寺は推古31年(623)聖徳太子の菩提のため秦河勝が建立したと伝える。
「よみがえる平安京」:広隆寺模型
. 山城法金剛院 . 京洛平安期の塔婆」のページに掲載。
. 山城松尾社 . . 松尾神社及近郷絵図(全図)、松尾神社及近郷絵図(部分図):
松尾社南方に宿院があり、その前方には三重塔があったようです。
「松尾社一切経」については京都妙蓮寺の「松尾社一切経」の項参照
. 山城平野神社 . . 平野神社社頭絵図(部分):現在の様子とは全く違いますが、神宮寺があり、三重塔があったようです。
「よみがえる平安京」:平野社・施無畏寺模型
. 山城樫原廃寺 史蹟 図1
図2
図3
1967年発掘調査で、7世紀半ばに建立されたと推定される八角三重塔等の遺構(一辺6mの八角形の瓦積基壇と塔心礎)を検出。史跡指定され中門・塔・回廊跡とともに史跡公園として保存されている。
図3の想定復元図は現地案内板からのもの。
「京都の歴史1」:塔基壇は一辺5.07m、対辺距離12.27m、柱間2.2mの瓦積み基壇(八角)と推定。心礎は東西1.98m、厚さ1.05mの花崗岩に、 径85×9cmの円穴を彫る。
「幻の塔を求めて西東」:心礎は200×200cmで、径86×9cmの円穴を持つ。地下式200cm、白鳳初。
山城樫原廃寺心礎(昭和42年)
2006/11/11追加:京都市埋蔵文化財研究所「研究紀要 第9号」平成16年所収:
「樫原廃寺の再検討(上)」久世康博より:
第1次調査(1967年)結果は以下のとおりであった。
塔跡はこの調査以前から高まりがあったと云う。
発掘調査の結果、八角形の瓦積基壇(一辺5.07m、対辺の距離12.27m、現在の高さ1.17m)を検出し、更に心礎の出土を見て塔跡であることを確認した。
基壇化粧は、平瓦を縦に半裁したものを整地面に直接に平積にする。(延石などの施設はない。)
保存の最もよい箇所で11段(高さ60cm)ある。また部分的に丸瓦も用いて積み直した部分がみら
れる。(この補修はとくに南面で顕著)。
階段は発掘調査範囲内では南面にのみあり、最下段一段が残っていた。
基壇上面は後世の削平で、礎石は遺存しない。礎石据え付け位置痕跡から、塔規模は側通柱間約2.2m、四天柱間約2.2mと推定できる。
現在の上面から下2.05mに花崗岩の心礎(東西径1.98m、厚さ1.05m)を検出した。心礎はほぼ方形をなし、各辺を粗く面取をする。中央には径84×9cmの円穴を彫る。
心礎上面には、心柱を建て、柱の根元の周囲に半焼けの瓦をくだいて多量にまぜた粘土(厚さ30cm、幅85cm)が巡る。この「根巻き」の粘土は、心礎の南側は後世の撹乱によって破壊されていたが、北半部ではよく残っていた。これの保存のため、この部分の心礎上面の調査は未実施。なお、舎利孔は上面、南・東・西の側面にはなかった。
さらに、第1次調査で、南側に基壇を持つ中門と、南面回廊及び東側・西側には築地が巡っていたことを確認した。伽藍配置は遺構の検出状況と現状の地形から、中門・塔・金堂・講堂などが一直線上に並ぶ四天王寺式であったと考えられる。
 その後、1997年(第3次調査)、続けて第4次が実施された。
但し、金堂跡や講堂跡と推定される明確な遺構は検出されず、四天王寺式伽藍配置かどうかは不明とするしかないようです。(むしろ四天王寺式として完成した可能性は低いと思われる。)
山城樫原廃寺調査区配置図  山城樫原廃寺塔発掘図  山城樫原廃寺塔基壇(南より)
2007/02/17:復原模型(1/30、昭和63年作成、京都文化博物館展示)
. 山城南春日町廃寺 . 山城南春日町廃寺  昭和56年の発掘調査で塔基壇及び心礎が発掘され、その後埋め戻される。
従って、心礎は現存するも、学校グランド下にあり、見ることは不能。
. 山城宝菩提院廃寺
  (願徳寺)
. 塔跡 現在宝菩提院心礎は近くの岡崎氏邸の庭石で現存する。非公開 とされる。心礎とは国民共有の文化財であり、であるならば、文化財として、現地に戻すなどの処置をして、公開が望まれる。
なお宝菩提院は木造菩薩半跏像(国宝・弘仁)を有する。
◆「幻の塔を求めて西東」;一重円孔式:230×130×130cmの大きさで、59.5×20cmの円孔を彫る。白鳳。岡崎邸は旧寺域から南?(東)100mにある。
◆「向日市史 上巻」昭和58年:明治時代に道路拡幅工事で本堂東南の釈迦堂前から塔心礎が出土する。 心礎は2.2×1.2×1.3mの大きさで、径55×30cmの円孔を彫る。また径85及び径65cmの円形柱座を持つ礎石各2個(計4個)が残るという。(いずれも岡崎氏邸)なお、釈迦堂前とは慶昌院前道路という。
 山城宝菩提院塔心礎
平成12年の登窯跡発掘調査等などから、願徳寺創建は飛鳥・白鳳期とされる。縁起では持統天皇の夢告によって創建されたと伝える。平安期には願徳寺と称する。鎌倉期 、東山三条の宝菩提院が、この地願徳寺へ移されたと伝える。
中世には天台寺院として隆盛であったが、応仁の乱で焼亡する。
江戸期には寺地4町寺領17石を有したが、細々と法灯を伝える状態であったようです。
明治維新後、更に衰微し、遂に昭和39年本堂・鐘楼などが解体され創建の地を離れ、西山大原野に移転する。
◆2007/12/14追加:「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 宝菩提院廃寺心礎
◆「新撰京都名所圖會 巻5」昭和38年
天台宗延暦寺末、今は本堂兼用の庫裏と鐘楼があるのみ、菩薩半跏像ほか薬師如来立像(重文・藤原)も有する。
 山城宝菩提院:解体・移転直前の貴重な圖會になりました。当時は「緩やかな傾斜地に立地し、竹林や松、椎、桜」の囲まれていた様が表現されています。現在は全くの住宅地と化し、当時を偲ぶものはありません。辛うじて「清泉」(白鳳の泉 と云うようです。)の残骸が残るのみです。
 宝菩提院心礎出土位置:慶昌院北道路が出土地、塔跡写真の左石垣が慶昌院、道路が大原野道、道路右に横断歩道マーク◇が2個ありますが、その間付近から心礎が出土。
. 山城粟生光明寺 . 山城粟生光明寺 「粟生光明寺絵縁起」に三重塔が描かれる。
. 六勝寺など洛中の主に平安期の塔婆については、「京洛平安期の塔婆」を参照。
. 山城相国寺三重塔 . 山城相国寺
. 山城豊国社多宝塔 . . 洛外洛中屏風図(池田本)豊国社部分
洛外洛中屏風図(池田本)豊国社多宝塔部分
「久能山東照宮の創建」大河直躬(久能山叢書、巻4所収):
豊国社では本地堂は存在しなかった(鐘楼・護摩堂は記録にある)が、その代わり瓦葺き・拝殿を備えた神宮寺が存在した。塔は本社には建立されなかったが、本社廻廊外の日厳院(供僧)に多宝塔があった。上記屏風絵中の多宝塔は豊国社供僧日厳院多宝塔と解される。
. 祇園感神院大塔 . 祇園感神院
. 山城誓願寺 . 山城誓願寺
. 山城妙満寺宝塔 . 山城妙塔山妙満寺
. 山城妙顕寺五重塔 . 山城具足山妙顕寺
. 山城妙蓮寺三重塔 . 山城卯木山妙蓮寺
. 山城妙覚寺多宝塔 . 山城具足山妙覚寺 ※華芳塔(宝塔)は現存
. 山城本圀寺五重塔 . 山城大光山本圀寺
. 山城本能寺三重塔 . 山城卯木山本能寺
. 山城神泉苑多宝塔 . 山城神泉苑多宝塔
. 北野天満宮多宝塔 . 北野天神
. 京都碧雲荘 . 京都碧雲荘(庭園):河内家原寺心礎、出所不明?出枘式心礎
. 京都清流亭 . 京都清流亭(庭園):河内智識寺内塔心礎(ほぼ確実)
. 京都真々庵 . 京都真々庵(庭園):出所不明出枘式心礎(出雲国分寺?)
. 京都土橋邸 . 「亡失心礎」の「播磨殿原廃寺」の項を参照。
. 京都善田邸 . 「移転心礎」の「備中赤茂廃寺」の項を参照。
. 京都博物館 . 「移転心礎」の「京都博物館」の項を参照。
. 六道珍皇寺 . . 六道珍皇寺参詣曼荼羅」:.六道珍皇寺蔵
. 山城三聖寺 .

「社寺境内図資料集成 2巻」より
三聖寺伽藍図:南北朝期:東福寺蔵:中世には六角(と思われる)三重塔が存在 した。
2006/07/03追加:
「建築指図を読む」川上貢、中央公論美術出版、昭和63年より
三聖寺伽藍古図:紙本着色、1.5×1.25m。<上記の三聖寺伽藍図
伽藍は南より総門・山門・仏殿・法堂・前方丈が直線上に配置、山門左右から廻廊が出て前方丈に取り付き、仏殿・法堂にも取り付く。仏殿東は庫堂、西は僧堂、法堂西は衆寮、僧堂南に東司、庫堂東南に大蔵殿、東に行堂、行堂南に石塔、庫堂東北に耆旧寮を置く。仏殿南西は瓦葺き六角三重塔、南東は鐘楼を置く。前方丈北に方丈・附属堂宇、方丈東の塀外に独立して愛染堂(八角円堂)を配する。西は大和大路、仏殿西の位置の大和大路に二橋が架かる。山門東南の谷筋には塔頭直指庵がある。
「都林泉名勝図会. 巻之三」
○三聖寺:(東福寺)北門の内にあり。古天台宗。釈迦阿難迦葉を仏殿に安ず、唐仏なり。両金剛は運慶の作。明徳年中足利義満公建立、宝覚禅師を開基とす  愛染明王:八角堂に安ず
「拾遺都名所図会」
○三聖寺:東福寺北門の内左にあり。第一門に金剛力士の像を安ず、長八尺許、運慶の作。此像霊験の事大友興廃記に載す、初めは筑紫にありしなり。此門の中央に石あり、元とは獅子の形なり、・・・
仏殿の額、修正。本尊、釈迦仏。左、迦葉阿難開山宝覚師像。
愛染堂:同所の西、街道の東側にあり。本尊は康慶の作なり。同所に五大尊を安置す。当寺は東福寺より初めの建立にして、天台宗なり
○万寿寺:三聖寺の内にあり、九重山と号す。初めは樋口通万里小路にあり、永亨六年回禄の後此地にうつす、五山の一員なり。開祖覚空禅師
以下万寿寺略歴:
永長元年(1096)白河上皇が皇女の菩提を弔うために,六条内裏に六条御堂を建立。
万寿寺通高倉にあり、正嘉年中(1257〜59)に覚空(十地坊)、弟子湛照(慈一坊)が,円爾(東福寺開山)に帰依して禅寺万寿寺となす。
弘長元年(1261)湛照(道号東山)が開山となる。
暦応3年(1340)十刹に列し,至徳3年(1386)京都五山の五位に列す。
永享6年(1434)火災に罹り,再建はするも衰微する。
天正年間(1573〜92)東福寺塔頭三聖寺が開山(東山湛照)を同じくすることから,東福寺山内に移転。
明治6年万寿寺、三聖寺を併合(三聖寺は廃寺)。
大正11年、旧三聖寺客殿を利用して三聖医院が開設される。
三聖寺愛染堂(室町・重文)は東福寺本坊前に移され現存。本尊阿弥陀坐像(仏殿安置・藤原・重文)、やニ天門安置の金剛力士ニ体(二天門安置・藤原・重文)は京都国立博物館に寄託。
三聖寺鐘楼(室町・重文)、仁王門(桃山・重文)なども残存する。
2005/12/14撮影
東福寺塔頭万寿寺現況:東福寺山内最北端・九条通りを挟み、九条通り北にある。
写真右の鐘楼門内が現在の万寿寺、右が現在の三聖病院。現在の三聖病院が元地のままかどうかは不明。
現万寿寺鐘楼門:重文、室町中期以前の建築とされる。 鐘楼門の中世遺構として貴重な建築。元は三聖寺本堂西にあったとされる。この附近は昭和初期まで周りは畑で、里芋などの中にぽつんと立っていたという。
万寿寺仁王門1  万寿寺仁王門2:重文、明徳2年(1391)建立。
九条通り南、本町通り東にある。本来この辺りが三聖寺の伽藍が建っていたと云う。
愛染堂:重文、室町。丹塗、八角小円堂。昭和9年室戸台風で倒壊、現在地に移転再興。単層、杮葺。土間は瓦敷、本尊愛染明王。
2006/01/22追加:
旧三聖寺愛染堂:「古寺巡礼京都 東福寺」大岡信・福島俊翁、淡交社、昭和52年 より
元は本町通り東に入った本堂西にあった。
2006/07/03追加:
「建築指図を読む」:天正年中(1572〜)万寿寺を三聖寺山内に移す。
万寿寺は「今三聖寺内にあり、元洛中にあり・・・」(「山城名勝志」)
文化5年(1808)経蔵大破、取壊し。
明治6年万寿寺と合併。明治31年仏殿取壊し。
大正4年荒廃した仁王門(現地に現存)、八角堂(鐘楼(現地に現存)、客殿が存在。
 ○紀伊郡条理坪割図(東福寺附近)
   (福山敏男、法性寺の位置について):近世近代の境内の概要が分かる。
「深草 稲荷」深草稲荷保勝会、平成10年
万寿寺:江戸期には三聖寺と万寿寺が並立した。明治6年三聖寺は廃され、万寿寺が残る。
昭和10年市電東山線開通で、寺域は南北に分断された。

. 山城安祥寺多宝塔 . 山城安祥寺
. 山城城興寺 . . 「洛陽33観音巡礼」平成洛陽33観音霊場会、2005年 より
承久元年(1113)関白藤原忠実、藤原信長邸宅九条殿に寺院を建立する。
「城興寺古伽藍図」には南大門・放生池・仁王門・金堂・講堂を南北に並べ、東に多宝塔・鐘楼、西に御影堂、北に僧坊・坊舎を並べる伽藍であったという。現在は泉湧寺派の小寺と思われる。
. 山城伏見稲荷社 . . 応仁の乱で稲荷山の骨皮道賢を西軍が攻め、山上山下の堂舎(社殿、本地堂、大師堂、多宝塔、文殊堂、・・・)が悉く焼失したという。御本地像、御正体、文殊像、大師像などは取出し東寺に預けたという。
「深草 稲荷」深草稲荷保勝会、平成10年
稲荷社:応仁の兵火からの再興は多くの勧進僧・勧進沙門が活躍した。彼等は本願といわれ、元禄頃には本願所として、愛染寺が確立する。(楼門内北側に位置する。)愛染寺は神主より経済的・政治的に上位にあった とされる。愛染寺は幕末徳川家茂、一橋慶喜の伏見街道往来時の休息所として10回使用されると云う。
. 山城栢杜三重塔跡 史跡 山城栢杜三重塔跡
. 山城勧修寺 . 「京洛平安期の塔婆」の勧修寺を参照。
. 山城小野曼荼羅寺 . 「京洛平安期の塔婆」の小野曼荼羅寺を参照。
. 山城大宅廃寺 . 図1
図2
図3
図4
図5
昭和33年の発掘調査:南門(痕跡)・中門(痕跡)・金堂・講堂と推定される南北に並ぶ四棟の寺院建物跡発掘された。創建は白鳳期で、平安期に全焼、のち小規模堂舎が再建されたとされる。大宅廃寺と命名される。この廃寺は,大和興福寺の前身山階寺跡(中臣鎌足創建)、あるいはこの地の大宅氏の氏寺などに比定される。
2004年の発掘調査:南北約4mに渡り、瓦積基壇(高さ約30cm)が発見された。
基壇上には、3箇所の径約2m柱穴跡がある、塔「水煙」と推定される破片が附近から出土。
以上から、大宅廃寺は、北に講堂、西に金堂、東に塔が建つ法起寺もしくは観世音寺の伽藍配の可能性もあるとも云われる。
山城大宅廃寺水煙1    同     基壇左図「X」氏ご提供
. 山城法琳寺   図1
図2
北小栗栖の西方の山腹にあり。この一帯のみ住宅化から取り残されて田園風景を残す。
天智天皇の代、藤原鎌足の長子・定恵が建立したと伝える。江戸期には若干の堂宇が在ったと伝えるも、早くから廃絶する。盛時には三重塔・弥勒堂・薬師堂等の伽藍があったと伝えられる。
現状、伽藍地と思われる平坦地は竹林(竹子畑)・雑木林となり往時を偲ぶものは何もない。僅かに近年建立の法琳寺跡の石柱のみがあり、それと知れるのみである。
2001/9/13追加:「X氏」から2001/8/30日京都新聞の関連情報を入手。以下は同記事の要約。
「古代寺院・法琳寺の遺構とみられる礎石が、同寺遺構としては初めて、伏見区小栗栖の発掘調査で検出。」 「丘陵の平坦部の試掘で、三個の礎石と、瓦などを発掘。礎石は大きさの不均一の自然石を利用し、最大で幅約1.2M。大きな二つは東西に約7メートル離れて並んでいた。また、瓦は、法隆寺で使用と同型の<複弁八葉蓮華紋>といわれる軒丸瓦などが出土した。」「孝徳天皇の願いで657年に創建。最盛期には三重塔、弥勒堂、薬師堂、太元堂を配したという。平安後期、醍醐寺・理性院の管理下に入り、江戸時代には廃寺になったとされる。」
2003/8/18追加:「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
旧記云、孝徳天皇御願、昔時堂塔4宇有り、三重塔、弥勒堂、薬師堂、斉明天皇御願定恵和尚造立・太元堂・・・、
2007/12/14追加:「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
附近の幡山竹次郎は礎石と思しき巨石1個を蔵する。
. 山城御香宮塔心礎
(推定紀伊寺塔心礎)
. 図1
図2
図3
図4
図5
以下「X」氏ご提供情報。平成5,6年頃の京都新聞掲載記事
御香宮南門を入ってすぐ左(西)に「伏見義民碑」がある。この碑の据付石が、塔心礎からの転用であろうと推定される。(古代学研究所<中京区>の江谷寛教授)
石の柱穴の大きさや周囲の出土遺物の年代などから、江谷教授は「紀伊寺の心礎」と推定する。
据付石は長径2mの自然石で、「中央に直径約80cmの柱穴があり、碑が下部を削った上ではめ込まれている」とのことであるが、現状は碑が嵌め込まれ 、さらにモルタルで固められ、「柱穴」を見ることは不能。しかし心柱の湿気を抜いたと見られる溝(一筋、幅3Cm、深さ1Cm)は明瞭に見てとれる。
紀伊寺に関しては「広隆寺来由記」などの古文書に、紀氏の氏寺とされる紀伊寺が、7世紀に建立されたとの記述があると云う。現状、紀伊寺の故地は特定 されていないが、これまでの調査で、碑の周囲をはじめ神社近辺から、飛鳥時代〜平安後期の軒丸瓦や遺構の一部などが出土していることから、この付近が あるいは紀伊寺に比定できるのかも知れない。
なお「伏見義民碑」が建立されたのは、明治19年と云う。
2005/02/04:天保義民碑のある裏には「石塔残欠」の写真のように、その由緒・謂れは不詳であるが、石塔類残欠が廃棄物同様に放置される。
心礎実測値:大きさは約190×180cm、円穴の径は約80cm。
 山城 紀伊寺心礎1   同       2   同       3   同       4
  同       5    同       7  御香宮石塔残欠類
「山城国紀伊寺」江谷寛より:
隆城寺:「又名を紀伊寺、孝徳天皇に奉、秦川勝の弟和賀が建立、丈六釈迦牟尼仏」とある。太秦広隆寺末寺の一つとされる。:「広隆寺来由記」(「山城州葛野郡楓野大堰郷広隆寺来由記」)
この紀伊寺の跡としては、現在知られている深草の7箇所の古代寺院址の内、この御香宮廃寺が有力であろう。
御香宮から奈良前期及び平安後期の瓦が出土、特に今義民碑の建っている場所が多い。義民碑に転用された心礎はこの位置もしくは近くにあったものと考えられる。
 山城紀伊寺心礎実測図
2005/07/11:御香宮の神仏分離:「伏見叢書」(昭和13年)
近世には共僧(三僧)として3院<金蔵院(10石)・大善院(7石)・正徳院(8石)>があった。堂宇としては本社・拝殿・湯殿・絵馬堂・御供所・東照宮・末社のほか薬師堂(2間×2間半)・護摩堂(6間×4間半)・鐘楼(1間2寸四方)などの仏堂があった と云う。
明治維新以降ノ御香宮:「御香宮ノ神宮寺タル大善院正隠(ママ)院金蔵院ハ解散ヲ命セラレ・・社僧は還俗ヲ命セラル。・・仏像は京橋大蓮寺・桃山善光寺等に送ラレ、敷地は京都府に没収、・・第7小学校ノ敷地トシテ・・・」
「都名所圖會」を観察すると、護摩堂の位置は不明であるが、拝殿手前向かって右に本地堂・鐘楼がある。薬師は拝殿向かって左にあったと思われる。金蔵院・大善院・正徳院は表門を入って右の現在桃山天満宮の ある付近にあったと思われる。
参考:
表門・蟇股(重文、表門は伏見城大手門を移築したもので、寛永2年徳川頼房の寄進と伝える)
拝殿正面唐破風下拝殿正面通路左上拝殿軒下蟇股1同 2同 3(拝殿は徳川頼宣の寄進と伝える)
本殿正面向拝本殿西妻(本殿は慶長10年徳川家康の再建とされる)
東照宮本殿向拝(非常に小規模で あるが、近年修理・復元されたと思われる。ただし拝殿前の石灯篭の年号は「嘉永」とあり、この時期の建立とすれば江戸後期となる。)
2005/02/04撮影:
御香宮内東照宮1  御香宮内東照宮2  御香宮内東照宮3  御香宮内東照宮4
. 山城おうせんどう廃寺(深草廃寺) . おうせんどう廃寺心礎
 「亡失心礎」の「山城深草廃寺」の項を参照。
. 山城與杼姫社多宝塔 . おそらく幕末頃まで、豊臣秀頼再建による多宝塔が存在していた可能性が極めて高いと思わる。
山城淀姫社
. 石清水八幡宮
多宝塔・大塔・小塔
. 石清水八幡宮 ※宝塔院多宝塔(琴塔)、西谷大塔、西谷小塔、駿河三昧塔(馬場末塔・多宝塔)
. 山城足立寺塔跡
(山城西山廃寺)
. 図1
図2
図3

画1
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画1
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画4
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画7
堂跡

西山廃寺。石清水八幡宮の西南の丘上にある。 廃寺跡より約100〜200m西南は摂津であり、山城の国堺に位置する。現在は住宅地の中の公園に移設され、史蹟公園として整備・保存される。
「山州名跡誌」等によれば、この地には、弥勒菩薩を本尊とする寺院と和気清麿を祭神とする神社があったと云う。和気清麿は弓削道鏡の命で、宇佐八幡宮へ赴くが、道鏡追放の神託を受けるも、それをそのまま復命したため、道鏡の怒りに触れ、両足切断・流刑を受けると云う。ところがその切断された両足は八幡 神の加護で治癒し、その報恩のために足立寺を建立したと云う。
 塔基壇は一辺10mで、塔の一辺は約5.2mを測る。塔礎石はほぼ原形をとどめる。
塔心礎はほぼ三角形であり、その各辺は約2m・2m・1.6mの大きさである。中央に直径36cm深さ18cmの円穴があり、北側には円穴に隣接して舎利孔が穿ら れる。これは他に類例を見ない形式の心礎である。舎利孔の大きさは長径13cm、短径10cmで深さは円孔と同じく18cmを測る。
心礎以外に四天柱礎2個、側柱礎10個を残す。礎石は何れも自然石を用いる。
もともとは当廃寺は昭和41年42年に、ここから西南 50mの斜面の造成地から出土したもので、東に塔・西に堂跡を配置したものであった。この堂塔跡は現在地にそのまま移設・保存される。
なお出土品から見て、当廃寺は和気清麻呂の時代の前約100年頃に建立され、平安後期に土砂に埋もれ廃絶したものと推定されると云う。 清麻呂の国家神道的な話は別にして、現在の山城高尾神護寺の前身である清麻呂建立の神願寺、は河内に建立されたとも伝え(諸説がある)、この神願寺の可能性が無きにしもあらずとも推測される。
なお塔跡東に並んで建立されていた堂跡も移設される。 (但し堂跡は中世のもので、地層一層目に奈良期の礎石・瓦があり、その上に室町前期に構造された堂跡と云われる。基壇は一辺10m、堂は一辺8.5mの3間×3間の建築 である。)
 足立寺移設塔跡・堂跡(左が塔跡)     足立寺移設塔跡     足立寺心礎・四天柱礎
 足立寺心礎1     足立寺心礎2
 足立寺心礎3     足立寺心礎4     足立寺心礎5     足立寺心礎6
. 山城離宮八幡宮多宝塔   大山崎(離宮八幡・寶積寺・相應寺・廃西観音寺)
. 山城相応寺塔心礎
(離宮八幡宮内)
  大山崎(離宮八幡・寶積寺・相應寺・廃西観音寺)
. 山城大鳳寺跡   画像 現地には大鳳寺という寺名が伝承される。数次の発掘調査により、白鳳期創建の金堂(瓦積基壇)跡を検出。法起寺式伽藍配置 が想定されると云う。現状はこの一画だけが畑地として残り、金堂跡と思われる土壇を見ることができる。塔跡付近は地上には何も残らない。
. 山城浄妙寺跡 . 図1
図2
浄妙寺は、藤原道長の建立と云う(「御堂関白記」)。
この地(木幡)は歴代藤原氏の葬祭の地であり続けた。浄妙寺は道長の現世栄華と木幡に眠る一門の御霊の鎮魂と今後の一門の繁栄の祈念の象徴として建立された寺院であった と推定される。
2回の発掘調査により、三昧堂(一辺15.7m)とその東に同規模の建物跡(多宝塔・寛弘4年<1007>落慶・規模の大きさから大塔とされる)を検出。現状遺跡は小幡小学校校庭に埋め戻され、現地には案内柱のほか見るべきものは 何もない。
2003/8/18追加:「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
浄妙寺:土人云、木幡村東北山に大門跡塔壇等あり・・・・。
塔:百錬抄云、寛弘4年左大臣木幡の塔供養。本朝文スイ云、浄妙寺塔供養。日本略記新造多宝塔。
2005/10/21追加:「木幡浄妙寺跡発掘調査報告」宇治市教育委員、1992
唱和42年の発掘で、5間四方の堂跡を発掘で、三昧堂基壇と判断した。今回の発掘で三昧堂基壇東に土壇検出したが、一部検出のみでかつ大部分が攪乱を受け、現段階では性格を明らかにすることができないが、文献の検討から多宝塔跡の可能性が高いと判断する。但し、発掘規模が小規模なことに加えて、他の堂宇の状況も明らかでなく、多宝塔跡との断定は避けるという見解です。
三昧堂跡:基壇面では9ヶ所の礎石抜取穴(礎石は全て抜き取られていた)と束石(縁礎石)を8個と7ヶの抜取穴を検出。その結果などから一辺31尺の5間堂と復元される。
推定多宝塔跡土壇:三昧堂跡のすぐ東にあり、東西推定15.6mの基壇が推定される。それ以外の詳細は不明。
  多宝塔跡トレンチ実測図  全トレンチ実測図
「平安時代仏教建築史の研究」:藤原道長創建。本尊:釈迦・多宝 とする多宝塔の初例。
以降天台系多宝塔本尊は釈迦・多宝の二尊となっていく。これは円仁・円珍によって密教化した天台が良源・恵心僧都源信により再び顕教化することに軌を同じくするものと考えられる。
. 山城岡本廃寺心礎 . 図1

図2
図2

まったく知られていなかった寺院だったが、宅地開発に基づく発掘調査(昭和60年)で、法隆寺式伽藍配置の金堂(瓦積基壇)・講堂(掘建柱)・塔跡・ニ重の塀跡等が確認され、出土品から白鳳期創建、奈良時代前半に改修された寺院と判明。塔跡から心礎と思われる巨石が出土したとされる。ただし発掘調査報告を読んだわけではありませんので断定は出来ませんが、塔跡の明確な遺構が検出されたようではないようです。また心礎とされる石は自然石のようで白鳳期に自然石を心礎として使用したことには疑問があると思われます。現状は小公園(塔跡)の隅に心礎が説明板とともに保存されていて、金堂跡などは全く住宅地に変わっています。心礎とされる石には楔跡が連続して残されています。これも何時の時代なのか気にかかる点です。図1:「X氏」ご提供 画像
2005/10/22追加:
「宇治市埋蔵文化財発掘調査概報 第10集」宇治市教育委員会、1987より
従来、岡本瓦窯跡とされていた遺跡を発掘、金堂跡と思われる瓦積基壇を発掘し、「岡本廃寺」と命名。
 岡本廃寺トレンチ図:B2トレンチが金堂跡で南半分は全壊であるが、北半分より土壇及び東より瓦積基壇を発掘、上面は後世の耕作で削平され、礎石跡も検出は出来なかった。
 金堂東部瓦積基壇1  金堂東部瓦積基壇2
B1トレンチ中央下から掘立柱建物跡を発掘。桁行6間、梁間3間(切妻屋根)南北に1間の庇を持つ。講堂跡と推定。
 A2トレンチから、巨石は発掘された。
A2トレンチ図:直系約2mの円形土擴内に花崗岩が埋められていた。<SX200>大きは1.9×1,1mくらいで重量は約3.3トン。このトレンチ部分は約1mほど削平されている所で、耕作土除去の後、すぐに土擴と花崗岩を発見。石は小作土表面には露出していない。
石には鏨の跡が残り、割られた表面は余り風化が認められないため、石は現状より大きな部分が恐らく近世に割られ土擴の中に埋められたものと推定される。旧状を留める部分には明瞭な加工の痕跡は認められない。
 A2トレンチ1(発掘時)  A2トレンチ(石を反転させた状態)
以上の状態から、A2トレンチの遺構は近世のものであるのは明瞭であるが、
1.花崗岩はこの附近には産出しないため、人為的にここまで運搬されたと思われる。
2.金堂西・金堂からの距離などから、発見地点に塔を想定しても無理はない。
3.寺院跡が耕作地となった場合、礎石は割られ、孔に捨てられることはしばしばある。
4.発掘された石はその大きさから考えて、通常の礎石ではなく、心礎と考えるのが自然であろう。
以上のような類推から、この巨石は心礎と推定された。
※恐らく心礎の残欠である可能性は高いと思われますが、後世の削平・開墾などで塔の存在を証明する遺物の発見が無く、また心礎と思われる加工痕跡もなく、心礎と断定することは不能と思われます。
推定心礎残欠実測値:110×180cm高さ130cm(おおよそ)
心礎であるならば、恐らく枘孔などがあったと思われる上面が割られ、土擴に捨てられたものと推測される。
(推定)
山城岡本廃寺心礎残欠1   同         2   同         3   同          4
. 山城平等院
    多宝塔跡
, 図1
図2
図3
1994年平等院鳳凰堂の南東約150mの地点で、4m×2 mの範囲の石の集積を検出し、多宝塔跡と推定されている。現在は鳳凰堂基壇を参考に塔婆基壇が小公園中に復元されています。文献によると康平4年(1061)多宝塔が藤原寛子によって建立。塔基壇が小規模であり、多宝塔ではなくて宝塔であった可能性もあるようです。現地説明板の復元図も宝塔として描画されています。
2003/8/18追加:「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
扶桑略記云、康平4年宇治平等院の塔供養、皇后宮職寛子多宝塔1基造立、・・・・・
2005/10/21:追加:
「宇治市埋蔵文化財発掘調査概報 第26集 平等院旧境内多宝塔推定地発掘調査概報」より:
礫の全部を検出、この礫は地業の最下層が辛うじて遺存したものと考えられる。この礫は一部後世の攪乱で一部破壊されているが、概ね5.5mの四方に収まる。また東と南に張り出しが認められる。この張り出しは階段の地業の基礎と思われる。それ故に、この礫は東と南に階段を付設する建物基壇の地業の礫と考えられる。またこの土層の出土遺物から、この層は平等院創建のものと判断される。さらにこの位置は「平等院境内古図」の建物跡描写位置にほぼ一致し、このことも建物基壇の最下層の礫との判断を裏付けるものと思われる。多少の攪乱は見られるものの、この礫の発掘状況からは、比較的小規模の正方形基壇が想定される。(平面は一辺5.5mの正方形で、階段を2方に持ち、時期は11世紀中葉)
 推定多宝塔跡礫1:北西から  推定多宝塔跡礫2:北西から  推定多宝塔跡トレンチ図
この想定小規模正方形基壇の建物の推定:
平等院塔は藤原寛子(頼通娘・後冷泉皇后)建立(康平4年・1061)の多宝塔と藤原忠実(頼通曾孫)建立(長承2年・1133)の塔があるが、忠実建立塔は宇治橋南1町の本僧坊内に建立(境内最北の位置)され、また時期的にもこの遺跡の建物ではない。創建から11末頃までの存在した建築としては以下画確認できる。本堂、阿弥陀堂、法華堂、多宝塔、五大堂、不動堂などと北・西大門、経蔵、鐘楼、小御所がある。以上のうち存在しているもの、遺構が確認されたもの、近世まで存在していたもの、記録でその位置が明らかであるものを除けば、法華堂か多宝塔かと結論になる。(経蔵は鳳凰堂の南であるが、経蔵には廻廊が付設していたので除外。)法華堂の規模は不明であるが、1間四面堂としても、今回発掘基壇は小規模であり該当しないと思われる。 「山槐記」の指図などの諸記録から、当時の伽藍は「平等院伽藍復元図」の様に復元できる。法華堂位置は該当せず、多宝塔が該当する。
近世の古絵図との照合:「平等院境内古図」乙図(最勝院蔵:江戸期)
この図の裏門通りに東西に多くの建物跡が描かれている。江戸期には多くの堂跡が残っていたと考えられる。それは浄土院所蔵の他の古図絵の照合からも確認できる。この図の「跡9」は今般の発掘調査地点にほぼ一致し、諸文献から復元できる「多宝塔」跡とほぼ照合 できるではないかと思われる。
なおこの多宝塔はその推定基壇規模・形状及び文献考証から「多宝塔」ではなくて「宝塔」である可能性が高いと結論づけられる。
 ※参考:平等院鳳凰堂の彩色文様
2005/10/20撮影:
 多宝塔復元基壇1  多宝塔復元基壇2  多宝塔復元基壇3  多宝塔復元図
2006/12/10追加:「Y」ご提供
山城宇治平等院古図」、最勝院蔵、絵葉書
平等院絵図は各種現存するようです。「山槐記」治承3年(1179)3月3日条指図:塔・経蔵などの位置が明示されている。
平等院古図は最勝院と浄土院に各々各2幅(計4幅)残されている。最勝院乙図と呼ばれるものは上記のもので、甲図と呼ばれる絵図が今般のものであろう。浄土院絵図は 詳細不明。
なお南方に五重塔が描画されているが、寡聞にしてその記録は不詳、また遺構も現在では全く不明。
. 山城平川廃寺 史蹟 画像 久津川古墳群のただ中にある。白鳳期に創建され、法隆寺式伽藍配置であり、一辺17.2mを測る巨大な塔であったようです。 礎石はまったく残存しませんが、基壇は瓦積基壇とされる。七重塔?か。寺域は東西1町半、南北1町とされる。なお塔基壇17.2mは現在知られている奈良時代の塔基壇規模では東大寺、相模国分寺に次ぐ規模とされる。 久世廃寺が南方約400mにある。
2003/5/7:史跡の草の刈り込みが行われて、明確に塔跡が確認できます。
山城平川廃寺塔土壇:金堂跡(東)から撮影、  同    金堂土壇:塔跡(西)から撮影。
  同    伽藍図:現地説明板から
2006/07/10追加
「城陽の指定文化財」城陽市歴史民俗資料館、1995 より
 平川廃寺塔瓦積基壇
「かく甦える城陽の文化財」遺跡と語る会編、城陽文化を語る会発行、1996 より
 平川廃寺塔跡基壇2
2006/11/23撮影:
平川廃寺塔土壇1:東側金堂跡から撮影   同        2:同左
. 山城久世廃寺 . 画像 この一帯は久津川古墳群として知られ、附近には大小多くの古墳の存在が知られる。
そして北から広野廃寺・平川廃寺・久世廃寺の存在が知られる。
廃寺は現在の久世神社境内に塔・金堂の土壇を明瞭に残し、この一角だけは宅地開発から残され鬱蒼とした社叢を残す。寺院は法起寺式伽藍配置をとり、白鳳期に創建された とされるが、沿革等はまったく不明。
調査により、塔基壇は一辺12.4m。金堂基壇は26.7m×21,3m、講堂は23.5m×13m、寺域は115m×135mと確認される。なお礎石はまったく残存 しない。
先年の台風で金堂跡の大木が数本根こそぎ倒壊し、大量の布目瓦が姿を現す。
2003/05/07:
山城久世廃寺塔土壇1:北から撮影、  同         2:東北東から撮影、右は金堂土壇。
  同   推定築地跡:築地跡と思われる。南門跡から法起式伽藍配置の金堂・塔の中間に向かって築地塀跡と思われる跡が約10m位認められる。古代寺院のもの ではなく、築地塀付近に散乱する瓦は近世のものと思われ、おそらく近世の久世神社に関係するものと思われる。
2003/11/15追加:以上の築地は久世神宮寺(若王寺)のものの可能性が高いと推測される。
2006/11/23撮影:
山城久世廃寺塔土壇1:北から撮影   同        2:南から撮影
2008/03/25撮影:
久世廃寺塔・金堂土壇:北から撮影(向かって左は塔、右は金堂土壇)
山城久世廃寺塔土壇1:北から撮影  山城久世廃寺塔土壇2:北から撮影
山城久世神社拝殿:重文・社殿の色彩の退色が眼に付き、最近解体修理に取り掛かる。
2008/05/14撮影:
山城久世廃寺伽藍配置図:現地説明板
山城久世神社透塀:かなり破損・退色する。
 ※久世神社本殿は重文・室町期の遺構。 → 久世神社
. 山城山瀧寺心礎 .

山瀧寺および山瀧寺塔心礎

. 山城普賢寺心礎 . 山城普賢寺
  山城泉橋寺心礎   山城泉橋寺 心礎は亡失。
. 山城高麗寺跡 史蹟 山城高麗寺跡
. 山城笠置寺 . . 建久4年(1193)貞慶、興福寺から笠置山に隠棲、それ以降中世前期に笠置寺は大いに栄える。
 ※貞慶:久寿2年(1155)−建暦3年(1213)、解脱上人、笠置寺上人。藤原氏、法相宗の僧。
建久5年(1194)般若台(大般若経安置の六角堂)堂建立。
建久7年(1196)俊乗房重源、梵鐘(現存)や宋版大般若経を施入。
建久9年(1198)木造十三重塔建立、解脱上人発願、源頼朝建立と云われる。
元久元年(1204)源頼朝、弥勒磨崖仏礼堂再興費として砂金を寄進。
元弘元年(1331)後醍醐天皇、笠置山に篭城、笠置山落城の折、十三重塔を始め伽藍炎上。
鎌倉後期には、十三重塔跡地に石造十三重塔(重文)が建立される。
その他、次の什宝が残る。
笠置寺本尊弥勒磨崖仏:高さ15m、再三の戦火で線刻弥勒菩薩は消滅、後背のみ残存、奈良期。
虚空蔵磨崖仏:高さ10m、線刻、平安後期。
2006/11/10追加:
開創絵巻物:笠置寺什宝、天平勝宝3年実忠和尚笠置山正月堂に観音ノ修法の図、絵葉書:「Y」氏ご提供:これは笠置寺絵縁起の場面で、当時は三重塔があったと思われ る。
笠置寺絵縁起1(上記と同一の絵図)
笠置寺絵縁起2:元弘の変の場面と推定。塔が描画される。
2007/09/02追加:
笠置曼荼羅図」(重文):大和文華館蔵
この曼荼羅図に十三重塔と弥勒磨崖仏とが描かれる。
「笠置山及附近写真帖」田中市之助編、東京:東陽堂、明42年 より
 笠置山弥勒石薬師石十三重塔
. 山城燈明寺跡 . 山城燈明寺 ※三重塔
. 山城随願寺跡 . 跡地は岩船寺と浄瑠璃寺の中間の東小の春日神社付近と伝える。長和2年(1013)の開創と伝え、本堂・三重塔・湯屋等があったとされる。中世以降漸次衰微し、明治維新で全く廃絶した 。
当寺の心礎の有無あるいは亡失か否かは不明。  「亡失心礎」の「山城東小廃寺心礎

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