大  和  正  暦  寺  三  重  塔

大和正暦寺三重塔

菩提山正暦寺古図(天正年間)・・・正暦寺蔵 :天正古図

菩提山正暦寺古絵図表題

菩提山正暦寺古絵図:下図拡大図
(天正古図)

古は
正暦寺伽藍に三重塔
正願院門跡(法相伽藍)に十三重塔
薬師院に三重塔があったようです。

 

 

 

 

 

 

天正古図部分図1(正暦寺伽藍と中尾谷)
 ※中尾谷は図右下、下右端に蓮光御墓:図上が北
天正古図部分図2(正願院門跡、法相伽藍・浄光院)
 ※図上が南
天正古図部分図3(薬師院伽藍と報恩院家)
 ※報恩院は図左下:図上が南
天正古図部分図4(上図の中央部分伽藍図)
 ※図上が南
天正古図部分図5(上図の中央部分伽藍図)
 ※図上が北、この図は下の大和名所圖會と同一の構図

 

 

大和名所圖會:寛政3年(1791)刊に見る正暦寺

菩提山正暦寺三重塔(部分図・左図の拡大図)

菩提山正暦寺全図

記事:「竜樹院と号する。寺中42坊あり。本尊薬師仏。」

三重塔跡現状

塔跡の現状

数値はおおよそを計測したもので、厳密さはありません。

○塔基壇は切石の乱積基壇で、一部崩落しているが、ほぼ原形を留めると思われる。
○塔基壇の一辺は正面・上辺で約7.8mを測る。
○元位置を保つと思われる側柱礎(自然石・A−F)5個が残存する。
○計測するとA−Cは約3.7m、C−F(Fを東にD−E線まで移動したとして)約3.3mを測る。(約40cmの誤差があるが、計測ミスか計測数字の記入ミスか礎石が動いているかなどが考えられる)
○数字に信憑性が欠けますが、塔一辺(心心)は約3.3mから3.7mくらいと考えられる。塔の規模は一辺約3,5m〜4m位と想定される。
○また両脇間に比して、極端に中央間が大きいのも気になりますが・・・。
○塔は東を正面として、本堂(南面)に向かって左前に建つ。
○幅180cm、踏代27cm高さ18cmの4段の石段が完存する。
○塔中心位置には一本の広葉樹が立ち、中心礎石、四天柱礎は不明です。
○大和名所図會の絵では縁を廻らせてはないようで、縁束石と思われる礎石は現状は見当たりません。
 


塔跡基壇と本堂(左の拡大版)
塔跡基壇正面
塔跡基壇南面
如意経堂跡(左)塔(中)春日社(右)跡
塔跡基壇(上から)
塔側柱礎1
 同   2
 同   3
塔石段 1
 同   2
 同   3
本堂の左手前に、雛壇状に如法経堂跡、三重塔跡、春日社跡が残されています。

正暦寺略歴:2007/06/26書換・修正:参考資料「正暦寺一千年の歴史」、1992 より

菩提山竜華樹院と号する。本尊:金銅薬師如来倚像(重文・白鳳)

永祚元年(989)一条天皇、霊夢により、当地菩提山に寺院建立を発願、兼俊僧正に勅命する。
 ※兼俊僧正:関白九条兼家の息と伝えるも確認できない。別院の自坊報恩院を創建。)
正暦3年(992)兼俊僧正により、勅願寺菩提山正暦寺が創建される。
 (以上は古記録散逸のため、応永16年1409「正暦寺原記」、江戸中期「和州菩提山并舎利伝記」の中世・近世文書による。)
その後、おそらくは藤原北家などと関係を持ち、寺領の寄進を受け、発展したものと推測される。(報恩院以下86坊という。)

報恩院:開山兼俊僧正が自坊として建立、正願院を別にして、明治維新まで真言密教を奉じ、院家の筆頭であり、正暦寺一山を支配した。
現在も報恩院跡に兼俊僧正墓所が残り、十三重石塔(鎌倉期)が残存と云う。
 報恩院家:天正古図部分図3(薬師院伽藍と報恩院家) ※報恩院は 図左下:図上が南・・・上掲載図

治承4年(1180)平重衡の南都焼討で全山炎上、廃墟と化す。
養和元年(1181)信円(関白忠通の息)興福寺別当に着任、興福寺復興に着手、文治5年(1189)復興なり、興福寺別当辞任。
文治年中以降、信円は正暦寺復興に専念する。承元2年(1208)経蔵、建保5年(1217)本堂落慶。
建保6年(1218)信円大僧正がさらに一区画の法相伽藍および坊舎数十を再興(中興開基とされる)。
金堂・弥勒堂・講堂・十三重宝塔・経蔵・御影堂・鐘楼・六所社などと別院正願院門跡などが整備されたという。

正願院門跡:信円は正暦寺経営(再建)と平行して、自坊正願院を造立する。
文明10年(1478)「大乗院寺社雑事記」:信円開山時には、正願院御堂、中門、奈良大門<正暦寺大門か>之建立、薬師堂塔、真言堂以下は後代に至って、造立了りぬ・・・。
天正古図・正願院では、本堂東南、報恩院家東北に位置する、正願院門跡は常(浄)光院と号する堂塔があり、六所社を祀る。
常(浄)光院は大講堂、御影堂、経蔵、宝蔵、十三重大塔、墓所(信円、良円・・信円弟子・九条兼実息、九条基房)からなる。と六所社は熊野・吉野・春日・八幡・白山・大龍王を祭祀。信円死後(貞応3年1224)、正願寺は弟子実尊が相続、この時から門跡は大乗院門跡が兼帯する。以降中世末まで大乗院門跡の支配が及ぶ。(法相の道場)
 ※信円は興福寺の有力院家(一乗院・大乗院・龍華樹院・禅定院・喜多院)を兼帯、また師の尋範から内山永久寺を引継ぐという。
 ※正願院は江戸初頭まではその存在が確認できるが、江戸中期には退転し、今は田畑・藪となる。
   天正古図部分図2(正願院門跡、法相伽藍・浄光院) :図上が南
   正暦寺古絵図(江戸期):正願寺部分図
 ※上記「大乗院寺社雑事記」中の「薬師堂塔」とは正暦寺伽藍三重塔なのか薬師院三重塔なのかは不明。

建暦年中(1211〜13)蓮光(法然弟子)が専修念仏を伝えるべく、中尾谷(本堂東下)に移り住み、安養院とその別院迎接院を建立する。
 ※専修念仏は一時隆盛するが、蓮光死後、中尾谷に真言宗大坊が建立され、中世末には大坊に主導権を譲り、什宝を本堂に預けるという。
 享保15年(1730)伝来の什宝を本山に寄進、迎接院本尊も本山に寄進して、その歴史を閉じる。
 迎接院跡には蓮光墓という宝篋印塔が残るという。
  天正古図部分図1(正暦寺伽藍と中尾谷) :中尾谷は図右下、下右端に蓮光御墓:図上が北

要するに、中世正暦寺は、真言宗報恩院が寺務を執行し、また中興信円の法相(興福寺)も修せられ、また浄土教も安養院・別院仰接院を中心に行われた。

康正元年(1455)兵火により、堂塔および坊舎の大半が焼失。
文明8年(1476)堂塔子院の大半の復興なる。延徳3年(1491)伽藍旧観に復する。
永正4年(1524)伽藍坊舎火災により灰燼に帰す。大門のみ残る。寺領1000石。
大永4年(1507)伽藍坊舎(82坊)再興なる。(法相は正願院門跡、真言は報恩院が差配。)
慶長6年(1601)の寺録約987石の配分は以下のとおり
伽藍修理料(173石)、報恩院家(118石)、西福院(15石)、金蔵院(25石)、顕識坊(1石)、珍蔵院(6石)、妙観院(13石)、最勝院(5石)、成福院(6石)、時之坊(4石)、三蔵院(10石)、善勝院(1石)、蓮春院(5石)、春禅坊(9斗)、金剛院(6石)、小坂坊(2石)、円満院(5石)、了禅坊(1石)、西音院(13石)、角之院(16石)、円勝坊(3斗)、宝光院(37石)、興善院(9石)、向之坊(6石)、阪ノ上坊(2石)、明王院(5石)、観音院(3石)、新坊(1石)、瞬聖坊(4石)、口ノ坊(2石)、蓮華院(7石)、西之坊(10石)、普門院(8石)、浄瑠璃院(4石)、文殊院(8石)、威徳院(6石)、徳蔵院(6石)、浄宗坊(2石)、宝蔵院(5石)、大福院(13石)、霊仙院(10石)、瞬宗坊(5石)、辻坊(9石)、福寿院(21石)、春顕坊(13石)、知足院(43石)、大坊(11石)、観瞬坊(3石)、宝幡院(15石)、安楽院(46石)、浦之坊(5石)、実相院(5石)、多門院(8石)、奥ノ坊(4石)、拾宝院(28石)、勝瞬院(12石)、西方院(11石)、光蓮院(6石)、中之坊(4石)、宗顕坊(4石)、了識坊(1石)、成身院(6石)、一心院(7石)、賢浄坊(11石)、祐瞬坊(1石)、吉祥院(3石)、勢至院(1石)、南坊(9斗)、釈迦院(1石)、金剛幢院(18石)、返照院(6斗)、前之院(1石)、北ノ坊(3石)、端ノ坊(1石)、西転経院(7石)、教順坊(1石)、仏光院(20石)、二階ノ坊(5石)、春陽坊(12石)、持宝院(25石)、前ノ坊(2石)、良春坊(6石)、浄勝坊(1石)の82の院坊があった。
*石以下(斗以下)は全て切り捨て

寛永6年(1629)堂塔坊舎焼失。寺録は300石となる。(多くの坊舎を抱え、いよいよ菩提山は財政的に窮乏する。)
焼失前の様子については「菩提山伽藍図」に全容が知れる。
本堂、三重塔、護摩堂、観音堂、地蔵堂、灌頂堂、鐘楼、経蔵2、如法経堂、御影堂、十三重塔、弥勒堂、六所明神、鎮守などがあった。
その後順次堂塔坊舎は復興される。しかし法相は順次廃絶していく。
寛永7年(1630)82坊、延宝8年(1680)80坊余り(学侶坊32、下僧坊20、30は兼務、寺僧49人余り、下僧20人余り)
元禄13年(1700)ほぼ伽藍が再興される。
江戸中期からは仁和寺末となる。
享保12年(1727)40坊、寛政3年(1791)有住20坊、天保6年20坊(有住15坊)
(なお宝蔵院・大坊は大峰当山派で大先達を兼ねる。)
天保7年(1836)諸伽藍焼失。観音堂・地蔵堂・施餓鬼堂・宝蔵などのみ残るという。
嘉永7年(1854)9坊(内無住1)、僧侶8人
文久4年(1864)本堂再興(但し資金不足のため、屋根は杉皮葺のまま放置されるという。)

※坊舎跡
坊舎跡1(南東法相伽藍の入口付近の坊舎跡)  坊舎跡2(惣門付近北側坊舎跡)   石  塔(法相伽藍の東側あたりと思われる場所)
 惣門跡から本堂伽藍地まで、菩提仙川左右に多くの坊舎跡の石垣が残されている。
 また本堂伽藍地の東方山中一帯にも坊舎石垣や伽藍平坦地が山林の中に残る。
 本堂伽藍地南方は踏み込まなかったので、状況は分かりません。

明治維新で僧侶の離散が相次ぎ、なお一層荒廃する。
寺院明細帳:本堂・宝蔵・惣門・施餓鬼堂(昭和初期に退転)4宇と寺中9寺。
坊舎は普門院、吉祥院、大福院、多門院、宝蔵院、福寿院、徳蔵院、成身院、報恩院というが、実態はほとんどなかったようです。
実際に坊舎があったのは福寿院、徳蔵院、吉祥院、多門院のみと思われ、僧侶は1名のみで兼務であったという。
明治17年観音堂(寛永7年再興堂)焼失。
大正5年本堂を建替。大正14年鐘楼再建。
大正11年六所明神(神社)を春日神社に合祀。
昭和36年第2室戸台風で惣門倒壊。
 ★倒壊前惣門(山門)写真< 山門は室町期のものだったと思われます。>
   写真は正暦寺所蔵、再興を試みるもついに再興に至らずとのお話でした。

昭和42年仁和寺から独立、菩提山真言宗大本山と称する。

※以上から、三重塔の興亡は以下のように推定される。

寛永6年(1629)三重塔も焼失と思われる。
少なくとも、元禄5年(1692)頃までには、三重塔も再興されたと思われる。
 ※元禄5年「明細帳」では三重塔の書上げがある。(下記参照)
寛政3年(1791)刊:大和名所圖會には三重塔が描画されている。
天保7年(1836)三重塔も火災・焼失、以降再興はされず。

2003/7/18追加
元禄5年奈良奉行宛て「明細帳」:大和志(上)所収


 真言一宗
1.御朱印300石和州添上郡菩提山正暦寺
1.開基・・・
 伽藍
1.本 堂 本尊薬師如来
1.灌頂堂 本尊大日如来
1.地蔵堂 千躰仏
1.如法経堂 毎日三時不退御祈祷
1.三重塔 本尊釈迦如来多宝仏
1.鐘 楼 一宇
1.施餓鬼堂 本尊阿弥陀如来
1.宝 蔵 一宇
 神社
1.鎮守一社 春日大明神
  末社 土公神、善女竜王、牛頭天王、弁財天、閼伽井明神、石荒神
1.六所明神 春日、八幡、吉野権現、熊野権現、白山権現、善女竜王
  末社 新宮
1.峯弁財天 一社
 寺家
院家 報恩院
・大福院、・福寿院、・金蔵院、・実蔵院、・成身院、・霊山院、・経蔵院、・迎接院、・多聞院、・光幢院、・蓮華院、・拾玉院、・興善院、・西福院、・徳蔵院、・明王院、・威徳院、・文殊院、・西音院、・珍蔵院、・西方院、・知足院、・普門院、・妙感院、・釈迦院、・橋之院、・北之坊、・松之坊、・峙之坊、・実光院、・吉祥院、・東遍照院、・地蔵院、・弥勒院、・仏光院、・岸之坊、・中之坊、蔵之坊、・杉本坊、岩之坊、前之坊、宝珠院、前之院、竹林坊、梅之坊、下之坊、浄瑠璃院、谷之坊、角之坊、転経坊、上之坊、三蔵院、多楽院、金剛幢院、光蓮院、西遍照院、大門之坊、花蔵院、実相院、東之坊、成就院、安楽院、椿之坊、・奥之坊、南之坊、西之坊、満蔵院、観音院、小坂坊、新坊、持宝坊、十輪院、辻之坊、坂之坊、浄土坊、桜之坊、東橋之坊、
寺数83株
       以上

但し寺家83は株数で、元禄の頃は・(点)を付した40余坊という。

福寿院

現在、唯一現存する坊舎で正暦寺の管理にあたる。護摩堂・客殿・庫裏・土蔵・山門を有する。
 ★客  殿:延宝9年(1681)再興<棟札>、重文

2007/06/26追加:「正暦寺一千年の歴史」、1992 より
神仏分離
 以下の仏像が現存するようです。(墨書銘による)

慶応4年、三輪大明神若宮から仏像・仏具などを受入(55両さらに42両を奉納)
 日光・月光菩薩像:三輪大御輪寺安置像

内山永久寺より
 五大力明王像:内山徳蔵院安置像
 阿弥陀如来立像:北東院持仏堂安置像、十一面観音像:普門院安置像、毘沙門天立像:徳蔵院持仏堂、弘法大師像:徳蔵院安置像

桃尾山龍福寺より
 吉祥天像:吉祥院本尊
 十一面観音像:安楽院本尊


2006年以前作成:2007/06/26更新:ホームページ日本の塔婆