紀  伊  東  照  宮  三  重  塔

紀伊東照宮三重塔

紀伊東照宮三重塔

紀伊國名所圖會 巻之2

和歌御宮(別当和歌山天曜寺雲蓋院・天海僧正開山)・・・東照宮・・・
仏堂として楼門、三重浮図塔(本宮の東にあり。本尊大日如来)その他護摩堂、薬師堂等があった。
  (かっては三重塔が存在した。)

紀伊東照宮三重塔:左図拡大図
   (2009/11/05:拡大画像入替)

2010/01/03追加:サイト「紀州よいとこ」 から転載
 紀伊國名所圖會:紀州東照宮部分図

紀州東照宮など絵図

和歌山・厳島図(屏風絵):<作製年代不詳>

和歌浦の部分図
(下図拡大図)

東照宮・三重塔の部分図:(下図拡大図)

 


紀伊和歌浦図巻(2006/02/17追加)



紀伊和歌浦図巻:天明2年(1782)桑山玉洲筆、所有者の情報なし
(左図拡大図)

2010/01/03追加:サイト「紀州よいとこ」 から転載
 紀伊和歌浦図:紀州東照宮部分図

紀州和歌浦會圖(2006/02/17追加)
 紀州和歌浦會圖1:江戸後期;全図 : 中央が紀伊東照宮・右下が海禅院 (2009/11/05:画像入替)
 紀州和歌浦會圖2:紀伊東照宮及び紀伊海禅院 付近:部分図。左上御宮が東照宮三重塔・右下が海禅院多宝塔

2009/11/07追加:「紀州東照宮の歴史」特別展図録、和歌山県立博物館、1990 より
東照宮縁起絵巻
 27段までは日光東照宮縁起絵巻と同一内容で、28段の紀州東照宮造営が独自のものと云う。
  東照宮縁起絵巻1:紀州東照宮造営の部分図
  東照宮縁起絵巻2:紀州東照宮部分図:三重塔の初重のみが描かれる。
東照宮縁起下絵
 寛永21年直後の下絵と推定される。(東京藝術大学藝術資料館蔵)
  東照宮付近の部分図
和歌浦図
 江戸前期と推定
  和歌浦図・全図:左に東照宮・雲蓋院など六坊、中央に養珠寺・妙見宮・妹背山・海禪寺、右は紀三井寺
  和歌浦図・東照宮部分

略 歴

紀州東照宮
徳川頼宣の創建で元和7年(1621)完工。社領1000石余を有する。
正保2年(1645)東照大権現の宣下により、東照宮と社号を変更。
本殿、拝殿、楼門、回廊、本地堂(薬師堂)、三重塔、護摩堂、開山堂、唐門、鐘楼などの伽藍を有する。
明治5年7月、神仏分離で本地堂、三重塔、鐘楼などの堂塔が取壊され、雲蓋院は廃寺となる。
雲蓋院
元和7年徳川頼宣、山麓に別当和歌山天曜寺(雲蓋院)を創建。(天台宗・天海開基・本尊薬師三尊)
開基は天海、2世は日光院円空、3世上野真如院豪俔。
徳川家位牌所と定められ、位牌安置の霊屋が設置され、歴代紀伊藩主の位牌も安置される。
太相院、十如院、和合院、玉泉院、宝蔵院、正法院の6ヶ院が設置される。
雲蓋院寺領は200石、子院6ヶ院も各々40石の寺領を持つ。寛文年中には末寺32ヶ寺を有する。
明治2年霊屋は廃され、明治3年徳川宗家位牌は和歌山城西の丸へ、歴代藩主の位牌は◎長保寺へ移す。
明治5年雲蓋院は子院5院とともに、子院の大相院に移住する。
無住となった堂宇は兵営などに充てられた後、東照宮山下の坊舎は全て取壊される。
明治20年大相院に移った雲蓋院ほか6院は合併し、大相院を雲蓋院と改号、再興する。
大半の寺宝は現雲蓋院が所持するが、御成門は和歌浦養泉寺、通用門が和歌浦窓養寺、南竜院廟所厨子が西照寺本堂須弥壇厨子として現存するという。
明治8年天曜寺跡には南竜神社(祭神:頼宣)が建立される。大正6年には東照宮へ合祀される。
 (なお別当雲蓋院の跡地は全て薮と化している。:神社側説明)

2009/11/07追加:
「重要文化財東照宮本殿・石の間・拝殿ほか二棟修理工事報告書」和歌山県文化財研究会編、1981 より
「東照宮縁起」:
元和六年紀伊太守源大納言頼宣の選地・造営による。
「紀伊国名迹志」:
本社は東照宮左は山王明神、右は摩多羅神なり。社の西の側に薬師堂あり。これ本地の真身なり。層塔、護摩堂、鐘楼、御供所あり。山の下に寺あり、雲蓋院となずく。天台宗なり。和合院、正法院、玉泉院、宝蔵院、円成院、大相院これを六坊となずく。・・・
「和歌山県文化財総合調査報告書(T)」:
元和7年東照宮竣工、頼宣は同時に山麓の浜に東照宮別当を建立し、和歌山天耀寺と号する。天海は江戸から来和し、自ら開山となり、東照宮別当を兼務する。正遷宮の儀式のあと、2世として叡山日光の円空を指名する。
天耀寺(雲蓋院)には、家康の臣で後に頼宣に付随して紀州に移った重臣たちが寄進した六子院が建立された。
 和合院・元和8年筆頭家老安藤直次起立。別所和合院慶順が開祖。
 宝蔵院・元和9年次席家老水野重仲起立。駿河宝蔵院慶順が開祖。
 大相院・寛永5年家老彦坂九兵衛起立。山門南光坊円移が開祖。
 玉泉院・寛永年中、粉河三池坊天英が開祖。・・・・以上鳥居の東にある。
 円成院・寛永3年以降、江戸上野栖生坊亮盛が開祖。(享保2年国照院と改号、さらに後に十如院と改号)
 正法院・寛永20年家老水野義重起立。吉野山慶海が開祖。
さらに寺外六坊があった。
 寺外六坊・今福明王院(海部郡吸上)、高松円珠院(和歌浦)、名草郡坂田了法寺、吹屋町功徳寺、新町浄福寺、広瀬浄願寺
天耀寺(雲蓋院)伽藍:当初は寺地5反1畝の地に客殿・御装束所・小書院・庫裏・台所を建立、ただし御装束所・小書院は頼宣の命で駿府城から移築される。
寛政12年(1800)10代藩主治宝、南竜院霊屋を改築、12×6間の本堂を寄進、南竜院霊屋をその中に祀る。
天保2年治宝は寺地を拡張し、南竜院廟を建立、これによって東から綱紀霊屋、頼職・治員の相殿、宗直・宗将・斉順の相殿、治宝・夫人の相殿、歴代裏方の相殿、南竜院霊屋、光貞霊屋が並ぶこととなる。
 (別当<雲蓋院>における明治の神仏分離の処置・廃寺の経過は省略・・・概要は前項「雲蓋院」の記述と同じ)
「紀伊続風土記」天保10年の雑賀山の項:
○東照宮 境内方八町
 本社三座 前殿(5間×2間半)
  本地堂(方4間本尊薬師如来脇立日光月光四天王十二神将)
  三重塔(方2間本尊大日如来左右八幡神愛染明王) 鐘楼 護摩堂 神輿舎 御供所 宝蔵 竹臺 唐門 東西廻廊 楼門 慈眼堂
  拝殿 経蔵 御橋 御池(竹生島弁財天社あり) ・・・・
  別当 雲蓋院(和歌山天耀寺 天台宗) 本堂 大書院(御装束所・駿府より移築) 小書院 新書院 内仏殿 方丈 外庫裏
      内庫裏 表玄関 内玄関 四足門 通用門
  三重塔中八幡宮愛染明王は多田満仲出陣の守本尊にて新田義重寄附の鰐口と鉄の小さき鳥居あり今塔中に蔵む。
※神仏分離の処置で、明治4年10月、三重塔、鐘楼、鐘、薬師堂、護摩堂、神輿2基など破壊湮滅する。

2009/11/07追加:
「重要文化財久能山東照宮[本殿・石の間・拝殿、唐門、東門、廟門、玉垣、渡廊、末社日枝神社本殿、神庫、神楽殿、鼓楼、神厩、楼門、廟所参道]保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会、2009 より
瑞垣の西にある仮殿と神輿舎は大正7年合祀された南竜神社の遺構を移築したものである。

別当雲蓋院現況:2007/03/28撮影:
 紀伊東照宮別当雲蓋院: 雲蓋院現況、寺暦は未掌握。本堂は新築されたと思われるも、今なお境内は未整備と思われる。
  同  雲蓋院歴代墓所:推定であるが、歴代の墓標と思われる。 (大相院が子院の内で、東照宮鳥居の外に営まれたのは、
      「神領の境内は死者を忌むゆえに、雲蓋院并に5ケの塔中に亡僧などある時は早速大相院に送りて葬儀などをなす」為と云う。)

紀伊東照宮三重塔跡現状

紀伊東照宮三重塔跡:下図拡大図
本殿向かって左の社叢が三重塔跡

2007/03/28撮影:

三重塔跡に至る石段
今般、三重塔跡への立ち入りは拒否されるも、
三重塔に至る石階は健在である。


社殿のある壇右に石階(A)がある。
三重塔 跡に至る石段 :下図拡大図

三重塔跡想定地には土蔵様な建物(壁をトタン板で覆う)がある。
塔跡土蔵様建物:下図拡大図



三重塔跡想定図:下図拡大図


その土蔵様建物には石階(B)が付属する。
この石階は塔婆に至る階段もしくは
基壇に至る階段の可能性があると思われる。
土蔵様建物石段(B):下記拡大図

(神社側の説明では塔に続く石階が残っているとのことであったが、(A)なのか(B)なのかは確認不足で、判然とせず。 )

日光東照宮は五重塔現存、駿河久能山東照宮は五重塔跡ほぼ完存、紀伊東照宮三重塔は跡地もほぼ壊滅

紀伊東照宮現状

本殿(桁行3間、梁間3間・入母屋造・桧皮葺き・重文)
石の間(桁行3間、梁間1間・桧皮葺き・重文)
拝殿(桁行5間、梁間3間・正面向拝3間千鳥破風・桧皮葺き・重文)、東西回廊(重文)
社殿の前に平唐門(重文)および楼門(3間1戸、梁間2間・切妻造・本瓦葺き・重文)などが残されている。
いずれも精巧な細工がなされ、極彩色が施されている。

 紀伊東照宮社殿1     同     社殿2  2007/03/28撮影:紀伊東照宮唐門1      同   唐門2      同   唐門3
   同     楼門1      同     楼門2:楼門1、2は2007/03/28撮影画像に代替
   同     楼門3      同     楼門4      同   楼門5      同   楼門6      同    楼門7     同   楼門8
2007/03/28撮影:紀伊東照宮楼門A        同   楼門B

2009/11/16追加:
不老橋:
嘉永3年(1850)大御所徳川治宝は東照宮御旅所の場所替えと道筋の普請を命ずる。
嘉永4年御旅所の普請が完成、次いで「御旅所裏道」に架かる石橋が完成する、この石橋は「不老橋」と呼称される。
この普請の背景には御旅所付近の塩田化・耕地化の進展があり御旅所と云う聖地の俗化が進行したと云う事情があった。それに加えて元御旅所付近は風波の被害を受けたこと、当時の飢饉などで貧窮対策事業の実施が要請されたという事情も重なったとされる。
(新御旅所は元御旅所の東南方向・入江の入り口付近に移動する。)
 2007/07/31「O」氏撮影画像
  紀伊東照宮不老橋1     紀伊東照宮不良橋2
 2007/03/27撮影:
  紀伊東照宮不老橋3


2006年以前作成:2010/01/03更新:ホームページ日本の塔婆