大 和 龍 田 本 宮 塔 ・ 大 和 吉 田 寺 多 宝 塔  ・ 大 和 龍 田 新 宮

大和龍田本宮塔・大和吉田寺多宝塔・大和龍田新宮

龍田本宮塔

壬申検査ステレオ写真(重文)に「龍田本宮塔」のタイトルの多宝塔写真がある。

  ○明治5年龍田本宮塔:下図拡大図:2010/07/16「明治5年龍田本宮塔」の写真入替
 

「東京都江戸東京博物館資料目録 ガラス原板1」2006 より

龍田本宮塔:明治5年6月6・7日撮影とある。
2010/03/08追加:
 ※明治5年6月6・7日撮影とは推測の間違いで、正しくは6月29日撮影であろう。
6月6・7日は熱田神宮での調査日であり、龍田本宮を訪れたのは6月29日である。
ちなみに、明治5年龍田本宮の写真は明治5年6月28日撮影とある。
 ※しかしこれも、「奈良の筋道」蜷川式胤によれば、6月29日の撮影が正しい。

  (参考:「明治5年龍田本宮塔」の写真入替前の当初掲載写真

江戸東京博物館は壬申検査ステレオ写真原板を所蔵するが、当館は写真原板をフィルム化したフイルム原板も所蔵する。
2010/07/16追加:
 ○明治5年龍田本宮塔2:部分図2      ○明治5年龍田本宮塔3:部分図3
写真原板は恐らく経年で劣化、さらには当時の写真精度の限界などがあったものと思われ、これ以上に写真の精度を上げることは困難と思われる。例えば初重中央間中備は殆どその意匠は分からないが、これ以上に中備の意匠の詳細を知ることは困難と思われる。

2010/03/01追加:
◇壬申検査ステレオ写真とは:
東京都江戸東京博物館が所蔵する壬申検査ステレオ写真の原板(257点)を云う。
平成4年博物館が蜷川家より蒐集、平成16年重文に指定される。
このガラス原板はコロジオン湿板法による撮影であり、撮影指揮は蜷川式胤、写真技師は横山松三郎である。

◇本写真の名称について:
 (本写真の名称は「龍田本宮塔」か「熱田本宮塔」か・・・被写体は龍田本宮塔か熱田本宮塔か)
図書「東京都江戸東京博物館資料目録 ガラス原板1」2006では、この写真の「名称」を
「龍田本宮塔」、番号90363771、大きさ10.7 *15.8 *(単位はcm) とする。
一方、
「江戸東京博物館」サイトの「収蔵品検索(Web)」では
番号 90363771、作品名/資料名「熱田本宮塔」、作家/制作者 横山松三郎/撮影、寸法 10.7 *15.8 *  とする。
 つまりこの写真の名称は、当初は「龍田本宮塔」であったが後日「熱田本宮塔」に変更されたと推定される。
要するにこの被写体は龍田本宮塔と熱田本宮塔との間で揺れているということであろう。
その理由は以下と思われる。
壬申検査ステレオ写真の「名称」及び「撮影日」は、「東京都江戸東京博物館資料目録 ガラス原板1」の凡例によれば
 名称は江戸東京博物館の情報システムに登録されている名称である。
 撮影年代は蜷川式胤「奈良の道筋」の調査年月日から推定して記載している。
とある。
 以上から類推すれば、写真には「名称」も「撮影日」の記入(記録)は無いのであろう。博物館側が被写体を観察検討して「名称」を付与、「撮影日」を推測していったものと思われる。
写真の中には「名称」が不明もしくは推定とされるものが散見されるが、このことは以上の推測を裏付けるものであろう。
 当初この写真の名称を「龍田本宮塔」としたが、一方撮影日は一行が熱田の調査にかかっていた6月6・7日とした。しかし名称は大和であるが撮影日は尾張という矛盾を抱えていた。
江戸東京博物館おそらくそのことに気 づき、撮影日と撮影場所の齟齬を解消すべく、名称を「龍田本宮塔」から「熱田本宮塔」に変更したものであろうと推定される。

※しかし、この写真は後段で検証するように、間違いなく「龍田本宮」での写真であり、「熱田本宮」とするのは間違いである。
 (撮影場所は龍田本宮拝殿前石階の向かって右から斜めに撮影したことは確実である。)

◇明治5年に多宝塔が「熱田本宮」にあった可能性
近世末の熱田太神宮の様相から判断して、熱田神宮では、幕末には塔(多宝塔)などは存在せず、古くに廃絶していたと云うのが実態であり、
明治5年に熱田に塔などの存在は考えられない。
 (明治初頭まで熱田に多宝塔が存在した情報・文献に未だ遭遇せず。)
  ※熱田神宮寺を参照
なお明治初頭まで熱田に多宝塔が存在し、熱田より近隣に多宝塔が移建された可能性も考えられるため、念のため現存する尾張周辺の多宝塔の中に写真と姿が一致するような多宝塔を探すも、姿の一致する塔は無いと思われる。
(というより、尾張の多宝塔・・・以下に列挙・・・は明らかに違う姿をしている。)
 ※笠寺、大樹寺、知立明神、荒子観音、竜泉寺、長谷院、密蔵院、稲沢萬徳寺、大塚性海寺、豊橋東観音寺、尾張一宮福寿院(焼失)、尾張祐福寺(残欠)

2010/03/08追加:
「蜷川式胤奈良の筋道 / [蜷川式胤原著] 」米崎清実、中央公論美術出版、 2005.2 より
 ※壬申検査の一行の日程は以下のように記録される。
5月27日の早朝東京を出発、6月6・7日には熱田神宮、6月13日は伊勢、(その後京都を調査、奈良に向かう)
東大寺・手向山は8月11・12日、東大寺正倉院は8月13〜20日、春日明神は8月20・21日、興福寺は8月24日、般若寺・桂離宮は8月25日、法隆寺は年8月26・27・28日、法起寺及び龍田新宮は8月28日、信貴山・龍田本宮は 8月29日の調査となる。
 「28日 早朝より法起寺へ参る・・・三重塔有り、是れより西法林寺へ参る、是にも三重塔有り、・・・法隆寺へ一統参る(・・・宝物不残宝蔵に入れて・・厳重に封印・・)・・・・信貴へ向け行、法隆寺より龍田新宮に至る、是迄7町、次に龍田川に至り、・・・・・、是迄45丁、・・・・信貴山に至る、・・・・つゐに日暮頃山上に至り、毘沙門天の堂の舞台より東し、龍田川を一見し、・・・次に
光明院に着き、(夕食)・・・・。
 29日 早朝舞台へ参る、・・・・宝物一覧す・・年預宝龍院(一覧した宝物の目録がある・・・・これは殆どが現在宝物館に納められているものと思われる。)・・・・・
早昼にて山を下り、立野へ廻る、龍田本宮を一寸見に行く、社少さシ、紅葉道に少々有り、次に瀬屋へ参る・・・・」
 ※法隆寺より、立田新宮には立ち寄るも、小吉田吉田寺付近に立ち寄ったと云う記録はない。
 ※信貴山より下山し、昼過ぎに立野龍田本宮に立ち寄る。「社少さシ、紅葉道に少々有り」と云う感想が記される。
 「東京にて申達度見込」の一項として、「熱田・龍田、今一層盛んに大社の様仕り度こと」とあり、熱田・龍田の衰微を認識していたと思われる。


大和龍田本宮

龍田本宮とは何か。
大和立野にある龍田社(龍田明神、明治以降は龍田大社)を云う。
龍田本宮とその関連情報を整理すると、
龍田本宮は生駒郡三郷町立野にあり、概ね大和法隆寺の西約1里にある。風神を祀ると云う。
大和法隆寺との関係は以下のように説かれる。
聖徳太子が法隆寺建立の地を求めていた時、龍田本宮の祭神・龍田明神が老人の姿で現れ、好地として斑鳩の里を示し、法隆寺守護神となることを伝えたという。 そして斑鳩の地に法隆寺が建立される。勿論「もっともらしい創作話」ではあろう。
その守護神を祀ったのが龍田新宮(今の龍田神社)で、明治維新までは法隆寺鎮守であったが、明治の神仏分離で龍田神社として分離する。
龍田新宮は法隆寺西約10町にある。新宮南約3町ほどのところに吉田寺がある。

2010/02/24追加:
「大和名所圖會」寛政3年(1791)刊

龍田本宮は東面し、本宮拝殿向かって左手(南)に多宝塔と思われる塔婆がある。

龍田本宮・本宮社殿塔婆部分図

大和名所圖會龍田本宮全図

社殿は東面し、第一石階の上に鳥居は建ち、参道の正面・拝殿前に数段の第二石階があり、一段上に一対の狛犬が置かれ、舞殿(推定)、拝殿(唐破風付設)があり、その左手(南)に塔婆(多宝塔か)が建つ。
現在は第一石階、鳥居(造替か)・参道・第二石階、狛犬が残存、第二石階両脇に天保12年(1841)銘の常夜灯がこの圖會(寛政3年(1791))の刊行後に設置され・現存する、舞殿は退転、多宝塔は 今はなし、現拝殿は明治期に新造、唐破風付旧拝殿は明治期にほぼ多宝塔位置に移建(神社の見解、また移建後の拝殿には唐破風はない)、何やら複雑な本殿があるが、全く興味なし。
 ※なお、名所圖會の記事には興味を引くものは全くなし。(多宝塔は勿論、堂舎の様子を伝える記事は皆無である。)

2010/07/17追加:
「和州平群郡立野龍田本宮図」:

墨摺木版絵図(別当東一坊蔵版)、三郷町立図書館蔵、
大きさは424×612mm。

 ○和州平群郡立野龍田本宮図:部分図:左図拡大図

年代は不詳、慶長19年年紀の記事があり、江戸期のものには間違いないであろう。三郷町立図書館の入手経路は不明と云う。

本宮朱印は12石、東を正面に鳥居、石階、拝殿、瑞垣、南北に2殿が直線的に並ぶ。
多宝塔は拝殿手前左下(石階下にあるのは不審)に描かれる。
鳥居は入り、左に別当があり東一坊と称したことが知られる。

和州平群郡立野龍田本宮図2:部分 図2、上図の周囲を含む、西側に本宮奥院道(?)浄寺、北側馬場北に太子旧跡善福寺、南西に東照宮云々(云々は判出来ず)、南方向に神南備森がある。但し、奥院道(?)浄寺、善福寺、東照宮云々は不明。
和州平群郡立野龍田本宮図3:全図、北東は龍田新宮・法隆寺・中宮寺門跡、南東は片岡王寺村、北西は信貴山などを描く。

2011/01/18追加:
「法隆寺古絵図集」奈良文化財研究所編集・発行、2001 より
○龍田社景図

龍田社景図:左図拡大図

年紀は不明
本社の周囲に多宝塔、堂宇の名称は判読不可であるが、
寄棟造の堂(大和名所圖會では護摩堂)、宝形造の仏堂と思われる堂宇が並ぶ。
正面鳥居脇には別当屋敷(社僧)がある。

2010/03/08追加:
「和州寺社記」寛文6年(1666)
平群郡 竜田本宮社 寺領12石奈良より坤方五里余
立田大明神の本宮は立野と云所にまします人皇十代崇神天皇の御宇に鎮座し給ふ、・・・・・・・(法隆寺と竜田新宮の寓話)・・・・
本宮は立野にあり。其社は
東向ニ殿・・・、北向ニ殿・・・、南向三殿・・・・、坤の小社は吉野の蔵王権現、
その外多宝塔は毘沙門天護摩堂は不動明王如法経堂は三十番神、御宝堂は地蔵菩薩、薬席堂、拝殿、御供所、舞屋、鳥居あり。・・・・」
 ※江戸初期に多宝塔があったことが知れる。本尊毘沙門天。

「竜田大名神御事」応永32年、「諸社根元記」、「二十ニ社徴考」などをはじめとする由来書及び「南都名所集」、「大和名所記 和州旧跡幽考」、「奈良名所八重桜」などの近世の地誌類 (上記「大和名所圖會」、「和州寺社記」を除く)で、多宝塔及び堂舎の様子を伝えるものは皆無である。
従って、龍田本宮の多宝塔・神宮寺の様相については、殆ど分からない。
2010/07/10「和州平群郡立野龍田本宮図」を発見し、近世のある時期別当は東一坊であり、多宝塔も健在であると辛うじて知ることができる。

 龍田本宮社殿:2010/07/10撮影:全て近代の建築と云う。

壬申検査ステレオ写真(龍田本宮塔)の現地での検証

2010/02/24追加:
上に掲載「明治5年龍田本宮塔」(壬申検査ステレオ写真)は、龍田本宮にあった多宝塔写真である。
その根拠は以下のとおりである。
1.大和名所圖會・寛政3年(1791)刊の龍田本宮の図に多宝塔が描かれている。
 少なくとも、寛政年中初頭には龍田本宮に多宝塔があったと確認できる。
 また、「和州寺社記」寛文6年(1666)にも多宝塔記事(上掲)がある。
2.多宝塔前左右に写る「常夜灯」と同一と思われる石燈籠2基が現地にある。(文字・形・位置がほぼ同一)
 向かって右の石燈籠には常夜灯(縦書)、氏子中(横書)とあり、文字位置も同じである。
 下層石積基壇、その上の3段積石基礎、竿、中台、火袋、笠、宝珠など全く同じ形をしている。
 設置されている位置も、石階の両脇であり、壬申検査写真と全く同一である。
 但し、常夜灯の銘は天保12年(1841)とあり、寛政3年(1791)刊の「大和名所圖會」には描かれていない。
  第ニ石階右石燈籠1:壬申検査「龍田本宮塔」に写る石燈籠と推定される。
  第ニ石階右石燈籠2:  同上  、なお写真左に右狛犬が写る。
  第ニ石階右石燈籠年紀:天保12年とある。左石燈籠も同一の年紀が刻される。
  第ニ石階左石燈籠・左狛犬:壬申検査「龍田本宮塔」に写る石燈籠と狛犬と推定される。
   背後の建物は移建された旧拝殿で、多宝塔跡地付近と推定される。なお狛犬には年紀の刻はない。
3.多宝塔前に写る「狛犬」と同一と思われる狛犬2基が現地に残る。
 (形はほぼ同一と思われるも、位置はややづれるか?)
 年紀は見当たらないが、大和名所圖會にあるので、寛政年中より前の作であろう。
 現在の位置は明治5年頃の位置とはほんの少し動いているような印象を受けるが確証はない。
  第ニ石階上左狛犬:壬申検査「龍田本宮塔」に写る狛犬と推定される。
  第ニ石階上左狛犬2:2010/07/10撮影
4.多宝塔のある平坦地に上る「石階」とほぼ同一の石階が現地にある。
 但し、現在の第二石階は7段であるが、写真の石階は3段程度と思われ、この食い違いは後に改造されたためであろうか。
5.神官と思われる一人の人物が写る。
 写真に写る人物は僧形・袈裟着用ではなく、神官・衣冠束帯の姿のように見える。
 もしそうであれば、この写真は寺院ではなく、神社境内で撮影された可能性が高い。

以上から、大和名所圖會に描かれる多宝塔位置と現地にある「常夜灯」「狛犬」「石階」との位置関係から、「壬申検査の龍田本宮塔」の写真の構図は現地の様子にほぼ無理なく当て嵌まる 。

「龍田本宮塔」撮影アングル1:実際の撮影アングルはもっと向かって右に寄った
  アングルであろう。左に石燈籠が見える。
  多宝塔は左の木立の奥にあったと思われる。

「龍田本宮塔」撮影アングル2:左図拡大図:
 これも実際の撮影アングルは向かって右に少し寄ったアングルであろう。
 狛犬の背後に写るのが移築された旧拝殿であり、
 この付近に多宝塔があったと推定される。
 残念ながら、向かって右の石燈籠は写真に入っていない。

龍田本宮参道:手前から第一石階・鳥居があり、中央に第二石階・新拝殿などが写る。

2010/07/10撮影:
「龍田本宮塔」撮影アングル4
明治5年の写真と比較すると、石階は段数が増やされたは勿論、幅も拡幅されたように思われる。

多宝塔跡地:今は其の痕跡を何も残さない。

多宝塔跡地は明治5年の写真及び大和名所圖會から推定すると、現在の旧拝殿が建っている付近と推定される。
社務所の説明によれば、現拝殿は明治に建替えられたものと云う。旧拝殿は拝殿の向かって右側(南)に移築され現存すると云う。
 明治5年龍田本宮(壬申検査ステレオ写真・重文)の写真では、唐破風の付いた割拝殿が写る。この拝殿は、大和名所圖會に描かれる拝殿と酷似しているので、おそらく江戸期のものが明治5年にも建っていたのであろう。
明治5年以降の明治期に新拝殿を建築し、旧拝殿は多宝塔跡地に移築・保存したものと思われる。
 龍田本宮旧拝殿1:大和名所圖會によれば、この場所に多宝塔があったと推定される。当然多宝塔を偲ばせる遺構は全くない。
 龍田本宮旧拝殿2:正面5間の建築であるが、明治5年龍田本宮の写真や名所圖會の絵からは7間の建築と思われる、
  移建に際し、中央の通路部分を潰すなどで、正面5間に改造されたのであろうか。
 龍田本宮旧拝殿3:写真や絵図のような唐破風を架した割拝殿の面影は留めない。
 龍田本宮旧拝殿4:2010/07/10撮影
2010/03/01追加:
・「式内社調査報告 第2巻」式内社研究会、昭和57年 より
(神輿庫)旧拝殿(鎌倉前期)を移し改装した。
正面桁行7間、梁間3間、桟瓦葺。(もと割拝殿の跡)

龍田本宮塔の消息

大和名所圖會に描かれた多宝塔は、写真が残るので、少なくとも明治5年6月28日までは存在したのは確かであろう。
しかし、この多宝塔のその後の消息については、現段階では全く不明である。
では、この龍田本宮多宝塔はどのようになったのであろうか。
おそらくは、明治の神仏分離の処置で明治5年6月29日以降に取壊され たのか、他の場所に移築(例えば吉田寺など)されたのかのどちらかである可能性が高いであろう。

【多宝塔に関する龍田本宮大社の認識】
龍田本宮の見解は以下の通り。
当社に多宝塔があったという認識はない。であるから、この写真の多宝塔については良く分からない。
古い記録もなく、せっかくのお参りにも拘らず、お役に立てず申し訳ない。
 ※後刻電話で「名所圖會で多宝塔の絵が確認できる」と伝えるも、格別の反応はなし。

【多宝塔に関する大和吉田寺の認識】
大和吉田寺の見解は以下の通り。
 まず、吉田寺の「縁起」は次の通りである。
吉田寺は天智天皇の勅願により創建される。
 ※現在本堂西に間人(はしひと)内親王(天智天皇妹・孝徳天皇皇后)を祀る清水古墳(宮内庁管理)があるが、この因縁を示唆することかも知れない。
延元元年(987)恵心僧都源信が開基する。本尊丈六阿弥陀如来坐像(藤原・重文)は恵心僧都が母の三回忌追善で感得した仏である。
 ※「相伝僧都。嘗過吉田寺。其地本八幡宮之旧阯也。偶得栗樹。・・・因伐之彫弥陀丈六尊像・・・」(「恵心院源信僧都行実」)とある。
多宝塔は室町期の建築(重文)である。心柱には「寛正4年(1463)・・俗別当立野信賀大勧進衆・・・」とある。
本尊は大日如来坐像(秘仏)で僧都の父卜部正親の菩提追善のため造立と伝える。
 ※つまりは多宝塔は古から吉田寺固有の由緒を持つものである。
以上が大前提である。
つまり信仰上から当寺の縁起が全てであり、当寺の縁起を信ぜよとの前住職の遺訓もある。
縁起で云うように、多宝塔は恵心僧都ゆかりの大日如来を祀る塔であり、室町期から当寺にあるものと伝えられるし、以上を信ずる。
また
明治5年龍田本宮塔」写真の多宝塔は屋根の反りなど当寺の多宝塔とは違う印象である。
さらに、この写真には狛犬などが写り神社境内と思われる。(吉田寺多宝塔ではない)
 なお
当寺の多宝塔が移築であるという人がいるのは承知している。
 (「但し、どこから移築されたかは聞いてはいない。」)
しかし移建説には移建されたという合理的な理由がない。
仮に龍田本宮塔が移建されることがあったとしても、無関係の当寺になぜ移建されるのか、全くその理由がない。
龍田本宮で神仏分離が実施されたことがあったとすれば、神社の塔は廃毀されるしかないであろう。

 ※住職との面談まで、「多宝塔移建説」があることは知らず、住職の口から移建説のあることを初めて知る。
 ※信仰上、縁起で云う大日如来は恵心僧都父君の菩提追善のためであることは譲れないということであろう。
 しかし、この縁起は大日如来の縁起であり、塔そのものの由緒を直接に語るものではないことも事実ではあろう。
 (塔の移建の後、大日如来が塔本尊として奉安されたとも考えられなくもないが、所詮推測の域をでない。)

なお、明治5年龍田本宮塔の写真が吉田寺多宝塔を撮影したものである可能性はあるだろうか。
それは全くない。
なぜなら、上の「壬申検査ステレオ写真(龍田本宮塔)の現地での検証」の項で検証したように、龍田本宮での撮影に間違いないからである。
しかし念のために吉田寺での撮影の可能性を検討してみるも、現在の吉田寺には写真に写っているような場所が全く見当たらない。
これに関しては、明治5年以降に境内が大幅に改造された可能性もあるが、寺院側では
 古いこと(明治以降から前住職の時代まで)は分からないので、当寺境内が明治5年の写真のようになっていたかは分からない。
とのことである。
ついでに、
「日本の塔総観」(近畿地方篇・増補改訂版、中西亨、昭和48年)に
 ◆「吉田寺古図」 (増補版で新に増補された絵図)がある。
まず、この「古図」自体の素性・年代が全く分からない。(今はない南門・客殿などがある。絵のタッチや字体は近代のもののような感じである。)
しかし、確かに、多宝塔斜め前には石階が描かれるも、大きな手掛かりである石燈籠・狛犬などは描かれてはいない。
つまりは、この写真が吉田寺で撮影されたと推定させる材料が殆ど無いのが実情であろう。
寺院側では
 多宝塔向かって左手には本堂が写るはずであるが、その痕跡がない。従って当寺の多宝塔ではない。
との指摘をする。(しかし、この写真は本堂が写るには無理なアングルと思われる。)
何れにしても、この写真の多宝塔の建つ場所が吉田寺である可能性はまず殆どないと思われる。

2010/07/16追加:
龍田本宮塔と大和吉田寺塔の比較

明治5年龍田本宮塔」写真は詳細部分がやや不鮮明であり、例えば下重中央間蟇股の意匠などが判明せず、 龍田本宮塔と吉田寺塔とが同じ多宝塔であると断ずることは困難と思われる。
しかし敢えて、2点の対比写真を以下に掲載する。

龍田本宮・吉田寺多宝塔1:上図拡大図

龍田本宮・吉田寺多宝塔1小:上図縮小図



龍田本宮・吉田寺多宝塔2:上図拡大図

全体として、非常に良く似た塔婆であることは事実であろう。
しかし、同じ塔婆であると断定することは出来ない。
特に、明治5年龍田本宮塔写真の初重中備意匠がはっきりしないが、写真の比較では中備のシルエットは微妙に違うように思われる。即ち吉田寺の中備は中世風な蟇股の意匠を持ち、中央に梵字を廃する意匠であるが、龍田本宮塔写真では微妙にそのようには見えない。
しかしながら、中備蟇股の上段には高さの低い板蟇股が置かれるが、龍田本宮塔にも置かれているようにも見える・・・

多宝塔心柱墨書

多宝塔心柱には「寛正4年(1463)・・俗別当立野信賀大勧進衆・・・」の銘があると云う。
立野信賀とは不詳ながら、立野氏の一族と推定される。
立野氏の本貫地は大和国平群郡立野であり、この地に龍田本宮は鎮座する。
立野の地名は延久2年(1070)の「興福寺雑役免東西諸郡」に「大和国平野郡立野郷竜田」と記されるのを初見とする。
南北朝期には立野庄は興福寺一乗院領の立野下庄、大乗院領の立野上庄となり、興福寺灯油免田となる。(諸資料に見える)
この頃、立野の地に自立した武士(立野庄の荘官であった可能性あり)が立野氏であったと推測される。
応永21年(1414)、康生3年(1457)立野氏は武士団(国人)としてあらわれる。(典拠不明)
永享10年(1438)大乗院門跡経覚が立野に隠居(立野氏が迎え入れたものと思われる)。
嘉吉4年(1444)経覚、龍田本宮に参詣、国人も供奉というから立野氏も供奉と思われる。「経覚私要録」
文安6年(1449)立野信衡、吉井信俊とともに経覚を訪問、翌宝徳2年(1450)秋、立野氏出陣と云う。(典拠不明)
要するに、大和国内の戦乱に立野氏も翻弄され続けたということであろう。
長禄4年(1460)10月10日、畠山義就が河内から大和に侵入し、立野を焼払うと云う。「経覚私要録」
その後応仁の戦乱・戦国の戦乱の中で、
立野氏は「けだし松永とともに滅びしならん」(「大和志料」)とされ、中世末期には没落したものと思われる。
なお、上重西側入口上に寛正3年の釿始立柱の銘があると云う。

以上のように、「俗別当立野信賀」とは立野郷に本拠を置く国人・立野氏の一族であったと推定される。
また以上の資料に見られるように、立野氏と龍田本宮との関係が深かったことは明らかと思われる。

注目すべきは、「経覚私要録」では長禄4年(1460)畠山義就が河内から大和に侵入し、立野を焼払う」とあり、この時龍田本宮も焼けた可能性 が高いと云うことであろう。 であるならば、この時焼けた龍田本宮の造営の別当(俗)として、「立野信賀」が寛正4年(1463)勧進を遂行した可能性は高いと云えるであろう。
つまり、吉田寺多宝塔心柱の墨書の意味するところは、長禄4年(1460)焼失した龍田本宮造営のため、寛正4年(1463)立野氏が俗別当として「現在吉田寺にある多宝塔」を勧進・造営したとも云えるであろう。
そして、この多宝塔は明治初頭まで龍田本宮にあったが、明治の神仏分離の処置で、明治5年以降、多宝塔は吉田寺に移建され、それが今日吉田寺に残存するのではないだろうか。
一方、中世末に立野氏と吉田寺あるいは浄土教との関係を示唆する史料については、もともと吉田寺に関する資料が殆ど無いこともあり、全く分からない。
従って、「俗別当立野信賀」が多宝塔を「吉田寺塔」としてを「勧進」したのか、あるいは「龍田本宮塔」として「勧進」したのかは、現在のところ、全く分からない。
さらに付け加えれば、この塔が仮に「龍田本宮塔」として勧進されたとしても、それがなぜ「吉田寺」にあるのかは、全く史料がないので分からないというのも現状である。

大和龍田本宮の若干の神宮寺情報

2010/07/16追加:
「国立歴史民俗博物館研究報告 第112集」2004年 より
○福安寺伽藍図:推定江戸期、葛本家文書
 福安寺伽藍図
福安寺についてはWebに次の情報がある。
福安寺は今は廃寺、五百井山と号する。五百井の伊弉冊命神社の場所にあった。釈迦堂・方丈・羅刹女堂・白山権現宮・観音堂・湯屋・風呂屋などの伽藍と東之坊・北之坊・西之坊・三里坊の坊舎があった。現在は白山神社(伊弉冊命神社)、個人邸の堂(福安寺の堂宇か)、厚さ1mほどの福安寺土塀残欠を残すと云う。( 但し、地図で確認すると、福安寺は復興しているとも思われる。・・・現地での確認は未済)
 ※絵図表題には「龍田大明神本地仏」(龍田の本地は釈迦三尊とする)とあるので、龍田本宮とは距離が離れているが、神宮寺であったと思われるも確証はない。

2010/07/16追加:
「龍田案内 竜田乃里屋叢書」保井芳太郎、龍田町、大正13年 より
仙光寺:龍田村北庄にある。元は龍田神社本宮の神宮寺であった。本尊は十一面観音(秘仏、身丈4尺余、貞観期、国宝)。
 なお仙光寺は龍田本宮の神宮寺と云うも、以下のWeb情報もある。
元は法隆寺末寺、現在は融通念仏宗、本尊脇侍の「木造十一面観音立像」(重文・延久元年<1069>7月11日 銘)、「地蔵菩薩立像」(国重文・平安初期)を安置する。


大和吉田寺多宝塔

大和吉田寺の寺伝は上述。
なお当寺は「ぽっくり寺」(浄土教による阿弥陀如来の救済)として有名。

室町期寛正4年(1463)建立・・・心柱墨書銘による。
一辺3.12m、高さ12m(40尺)の小型塔。

2001/02/22撮影:
    図      1     図       2
2002/07/14再訪:
  多 宝 塔 1       同     2      同     3
   同      4        同      5       同      6
2010/01/10撮影:
 大和吉田寺多宝塔11    同        12    同        13
   同        14    同        15    同        16
   同        17    同        18    同        19
2010/02/21撮影:
 大和吉田寺多宝塔21:左図拡大図
 大和吉田寺多宝塔22     大和吉田寺多宝塔23     大和吉田寺多宝塔24
 大和吉田寺多宝塔25
2010/02/24追加:
 大和吉田寺多宝塔31:吉田寺発行ルーフレット より
 吉田寺多宝塔本尊:大日如来坐像、吉田寺発行ルーフレット より

2010/07/10撮影:
 大和吉田寺多宝塔41     大和吉田寺多宝塔42     大和吉田寺多宝塔43     大和吉田寺多宝塔44
 大和吉田寺多宝塔45     大和吉田寺多宝塔46     大和吉田寺多宝塔47     大和吉田寺多宝塔48
 大和吉田寺多宝塔49

○吉田寺情報

近世の地誌では、吉田寺は殆ど取上げられない。
唯一、江戸前期の「大和名所記 和州旧跡幽考」(延宝3年(1675)・下に掲載)に「塔一基」の記述がある。
もし、この「塔一基」が現存する多宝塔の記載であるならば、龍田本宮塔が明治の神仏分離の処置などで吉田寺へ移建された説は成立しない。
しかしながら、この延宝3年の記事以降、江戸期の地誌類には全く多宝塔の記事は見られない。
延宝3年以降、吉田寺多宝塔の確認ができるのは、明治28年の「和州寺社大観 第7号」を待たねばならない。
 ※明治28年の「和州寺社大観 第7号」では、多宝塔が存在し、塔本尊が大日であることが確認できる。

2010/02/24追加:
◇「吉田寺古図」:「日本の塔総観」近畿地方篇・増補改訂版、中西亨、昭和48年に掲載。 ・・・・上に掲載。
まず、この「古図」自体の素性・年代が全く分からない。(今はない南門・客殿などがある。)
絵のタッチや字体は近代のもののような感じであり、江戸期のものとは思われないが、作成時期の確認がとれない。
要するに、何時の時代・時期の「古図」なのか分からないため、近世末期や明治初頭に多宝塔があったことの確証には現時点ではならない。

2010/03/01追加:
◇「南都名所集」延宝3年(1675)刊・・・・・情報なし
◇「奈良名所八重桜」延宝6年(1678)・・・・・情報なし
◇「大和名所記 和州旧跡幽考」林 宗甫、延宝9年(1681)刊
巻6平群郡 清水の墓:
新龍田より三四町南の清水という所に、清水山吉田寺とて堂一宇、塔一基あり。その二町ばかり南の田中につかあり、是れならんか。
清水の墓は間人女王の墓なり。大和の国平群郡、竜田の清水にあり(延喜式)。孝徳天皇の后舒明天皇の皇女、天智天皇御妹也(釈日本紀)。とある。
 ※江戸前期には吉田寺に「塔一基」があったことが知られる。もし、この塔が現存する多宝塔であれば、当然ながら、塔移建説は成立しない。
◇「大和名所圖會」寛政3年(1791)刊・・・・・情報なし
◇「藺笠のしづく」谷森善臣、安政4年(1857)
(竜田ノ新宮)鳥居の前にかへりて、茶店の前より半町ばかり南にゆきて、清水山吉田寺といふ寺あり。是はこの南なる小吉田村に属たる地なり。東に折れて西向きの門を入れば、左方に南向に八幡宮の小社あり。その東に本堂あり、丈六の仏おはします。此本堂と八まん宮との間を、北の方に少登れば、社の北後、これ古塚なり。・・・・・間人女王の竜田清水墓とはこの塚か。
 ※この描写には多宝塔についての言及がなく、あったのか無かったのかは定かでない。
 しかし境内の描写はかなり詳細であり、もしこの時塔を目にしているのであれば、全く言及がないのは不自然ではあろう。

2010/07/06追加:
「斑鳩風土記」蔭山精一、2009 より
大和興福寺に「末寺帳」(江戸初期)が残る。
この「末寺帳」のため吉田寺の提出した文書では、吉田寺は興福寺大乗院末であり、本堂(5間四方瓦葺・本尊阿弥陀如来)・多宝塔・鎮守五社があり、古は6坊であったが今は1坊となり、真言宗であるとしている。
6坊のうち、現在のものは南ノ坊と推定される。駐車場の南が見光寺の字がある。
 ※この「末寺帳」の詳細が不明であるが、江戸初期には吉田寺に多宝塔があったと知れる。

2010/03/01追加:
◇「和州寺社大観 第7号」明治28年(1895)刊
・・・・本堂、多宝塔、地蔵堂、鐘楼、庫裏、土蔵などあり。・・・多宝塔は本堂の巽位にあり方1間半高さ3丈3尺永延2年立つる所と称す中に大日ノ像を置く。・・・・
◇「増補 大日本地名辞書」吉田東伍、明治後期
清水墓:
延喜式云、清水墓、間人女王(天智天武之妹)在平群郡、兆城東西三町南北三町。書紀通証云、今墓上建寺、曰清水山吉田寺、在龍田村南小吉田。県名勝志云、吉田寺は永延元年僧恵心の開創なり。
◇「大和志料」大正4年(1915)刊・・・・・情報なし
◇「斑鳩町史」昭和54年(1979)刊
吉田寺:小吉田小字清水
「吉田寺因録」では元禄3年(1690)浄土宗に改まり、無本寺であった。中宮寺門跡の信心浅からず、安永3年(1774)梵鐘が寄進され、翌4年鐘楼が建立される。
文久3年(1863)住職が四方に勧進し、本堂再建。
本尊阿弥陀坐像は藤原末の様式、恵心僧都像(元禄3年修理銘)、阿弥陀立像(鎌倉期)、阿弥陀坐像(室町期)、薬師坐像(室町期)、阿弥陀坐像(桃山期)、地蔵坐像(桃山期)などを本堂に安置する。
多宝塔は上層西側入口に寛正3年(1462)釿始柱立の銘があり、心柱に寛正4年の立野信賀大勧進衆などの銘がある。
昭和33年・34年に修理工事、この時寛正6年、文正元年(1466)、永正11年(1514)の銘や大工・瓦大工の墨書が発見されると云う。
願隋寺:小吉田小字清水
小吉田の東部にある。寺伝によれば、この地は恵心開基の紫雲山顕光寺の旧地で、願隋寺は明徳2年(1391)に創建された。明応3年(1494)浄土真宗に転じ、そのころ島田信治(生駒城主島田氏の一族)が小吉田に住し、願隋寺を中興する。本尊阿弥陀如来立像は恵心が顕光寺開創の砌り、栗の大木から製作したしたと伝えられる。今の寺門は旧顕光寺の門であったと云う。
◇「奈良県の地名 日本歴史地名大系 巻次 : 30」昭和56年(1981)刊
吉田寺:
「相伝僧都。嘗過吉田寺。其地本八幡宮之旧阯也。偶得栗樹。大数十囲。奇文燦非庸材因伐之彫弥陀丈六尊像。建堂塔安之。至感応影響」(「恵心院源信僧都行実」)と見える。
寺伝では天智天皇の勅願による間人皇女の陵寺で、永延元年(987)恵心僧都が一寺を建立したという。
 ※なお「奈良県の地名」では、吉田寺寺伝(縁起)では触れることのない以下の注目すべき記事がある。
しかし、地元では恵心僧都が開いた寺は紫雲山顕光(けんこう)寺と云う寺であったと云い、現吉田寺の本尊はその寺の本尊と伝える。いま吉田寺のある小字清水垣内の西に接し、小字見光(けんこう)寺が残っている。ニ寺の関係は不明であるが、ともに同地に伝承し、同じ伝説を持つところからすれば、この地に顕光寺なる寺があって、所在地の地名から吉田寺と称した可能性も認められる。
 ※以上の意味することははっきり分からないが、恵心僧都が開基した寺は吉田寺ではなく顕光寺であり、後に何らかの事情で顕光寺は廃寺となり、吉田寺がその本尊と伝承を引継いだとも解釈できなくはない。
また小吉田願随寺の縁起では、顕光寺の本尊と由緒を引継いだのは願随寺と云い、吉田寺の縁起とほぼ同一内容の縁起が伝わるは興味深いところであるが、このことが何を意味するのかは良く分からない。

◇紫雲山願隋寺縁起
 ※願随寺サイトに願隋寺縁起の掲載がある、以下はその全文。
開基 明応三年(1494)   釈顕信上人
本寺ハ後小松天皇明徳二年ノ建立ニシテ旧天台宗紫雲山顕光寺ト呼ヘリ 後地震焼亡崩壊ス 且ツ旧顕光寺ハ開基不詳ト雖モ片桐一守ノ御祈念アリシ寺ト申スナリ
顧ルニ本寺ハ聖徳太子法隆寺御建立ト同時ニシテ 往古恵心僧都大和国ヨリ山城国ヘ御通行ノ節当地ニテ紫雲アリ 見給ヘハ栗ノ大樹ヨリ大光明ヲ照ルヲ以テ此木ニテ丈六像ノ阿弥陀佛座像ト御丈壱尺九寸ノ立像佛ヲ彫刻ナシ給フ 即チ丈六像ハ同字吉田寺ニ安置ノ佛是ナリ 且ツ立像ハ旧顕光寺ノ本尊即チ願隨寺ノ本尊是ナリ 今尚地所ノ字ニ古寺トモ云ヒ顕光寺トモ云フ古跡是有リ
将ニ亦 聖武天皇明応三年ニ中興再建セシハ釈顕信ノ房是ナリ コノ顕信房ノ由来ハ 大和国生駒ノ城主嶌田左近ノ将紀ノ一盛ノ祖父嶌田信治ト申ス人ニシテ 此地我領分タルヲ以テ平群郡龍田町大字小吉田ニ止マリ住居サレシニ 其後入道シ真宗八代目蓮如上人ニ帰依シ直弟トナリ給フテ即チ釈顕信ノ法号ヲ給ハリタル人ナリキ
明応三年浄土真宗ニ転宗シ其レヨリ浄土真宗ノ式法ニ改メラレタリ
 ※歴史考証的に問題のある箇所がありますが、原文のまま掲載
2010/07/16追加:
この願隋寺縁起は、天台宗顕光寺縁起であり、その由緒の大意は吉田寺縁起と同一といえるであろう。
願隋寺住職談:
この縁起は真宗願隋寺が天台宗であり顕光寺と号した時代の縁起で、当寺に伝わるものである。
吉田寺住職からは「そっとしておいてくれ」との主旨?の依頼?があり、特に強く吉田寺の同一性などを主張する意図はない。
 大和願隋寺:2010/07/10撮影
山門・本堂が近年に造替される。本堂は入母屋造妻入本瓦葺の小宇であった。(本堂写真は「斑鳩町史」にあり。)
また寺門は旧顕光寺の門であったと云うも、今はない。

次の2つの絵図は下にある大和龍田新宮の項から転載する。
何れも、図版の状態が悪く、断定は出来ないが、吉田寺多宝塔が描かれているとは思われない。
2010/07/16追加:
「国立歴史民俗博物館研究報告 第112集」2004年 より
○龍田新宮芝絵図:推定江戸後期、福井家文書(福井家は龍田政所とも称され、龍田新宮別当東之坊の流れをくむと云う。)
 龍田新宮芝絵図:部分図
図版の状態が悪く、良く判読できないが、
中央に龍田大明神、その東に大日堂などが描かれる。
なお、龍田新宮南に吉田寺の境内と思われる森が描かれるも、殆ど判読できず、多宝塔の有無を明確にすることができない。
○龍田新宮明細絵図:明治2年、御宮司家蔵
 龍田新宮明細絵図:部分図
この図版も状態が悪く、良く判読できないが、
中央に龍田新宮があり、その東方には神宮寺関係の堂宇が残るものと思われる。
また、上と同じく、龍田新宮南に吉田寺の境内と思われる森が描かれるも、殆ど判読できず、多宝塔有無を明確にすることができない。

2010/07/16追加:
「龍田案内 竜田乃里屋叢書」保井芳太郎、龍田町、大正13年 より
この図書の刊行年度からみて、大正13年以上の撮影と推測される吉田寺多宝塔写真がある。
 大正年中吉田寺多宝塔:清水山吉田寺、顕光山清水寺とも云う。

なお、吉田寺境内には、現在も元八幡宮の小祠が残る、明治の神仏分離で寺から分離する。
 吉田寺元八幡宮社殿:2010/07/10撮影:5社が並ぶ。
5社は八幡大菩薩・天照大神・住吉明神・弁財天・春日大明神であり、古制を残す。


大和龍田新宮

龍田新宮の現況は明治維新の復古神道の残滓を今に引きずり、見るべきものは何もない。
また、龍田本宮との関係は一時期本宮の末社になったと云うこと以外に殆ど関係はなく、吉田寺との関係も全く見られない。
但し、古図によれば、中世もしくは近世初期には「塔」の存在が知られ、その意味では注目すべき存在である。

 大和龍田新宮社前:2010/01/10撮影
 大和龍田新宮拝殿:2010/07/10撮影:拝殿はRCで再建されるも、悪趣味の典型であろう。

2010/03/01追加:
龍田新宮に関する補足
「式内社調査報告 第2巻」式内社研究会、昭和57年 などより
明治以前は法隆寺から当社に別当坊を置き、例祭には30口の僧侶を供し、法要を勧修する。明治の神仏分離で法隆寺から分離する。
明治維新で堂宇・坊舎を棄却すると云う。
龍田社の古絵図は永正4年(1507)、天正13年(1585)のものがあり、東には塔と経堂があり、門前、北坊、新坊、かや坊、法心坊、惣坊、東之坊があった。

2011/01/18追加:
「法隆寺古絵図集」奈良文化財研究所編集・発行、2001 より
○永正4年龍田大明神旧絵図

永正4年龍田大明神旧絵図:左図拡大図

下に掲載の「龍田新宮境内図」とほぼ同一の絵図である。

本殿東には東には塔と経堂があり、更に東方へ小坊、門前屋敷、門末屋敷、その南に惣坊、法心坊、かやノ坊、新坊、東坊が描かれる。
その南は傳燈寺(胎金堂、本尊大日如来、大日堂)がある。
 

2010/07/16追加:
「国立歴史民俗博物館研究報告 第112集」2004年 より
龍田新宮に関する以下の数点の絵図が収録される。
○龍田新宮境内図:推定江戸初期、福井家文書

 龍田新宮境内図:左図拡大図

本殿東には東には塔と経堂があり、更に東方へ門前、北坊、新坊、かや坊、法心坊、惣坊、東之坊が描かれる。(但し門前以下は図版の状態が悪く、判読できない)

「そぞろ歩き・斑鳩の里V」蔭山精一、奈良新聞印刷、2007 の表現を借りれば
本殿の東方には塔と経堂が立ち、さらに7つの坊屋敷が集まっていた。
新宮拝殿東方に大日堂が立ち、胎金堂とも称し、これは本地堂であった。今の保育所のある付近である。これは傅燈寺とも号する。
楼門西には3つの仮屋(北坊・いなばや・与三郎)があり、鳥居の東西にも仮屋(東はとかわ、西はみさと)があり、西の仮屋の西に鐘楼があり、さらに西南に観音堂があった。
 (※仮屋は祭礼に際し、各地区の宮座が使用する家屋であった。)

○龍田新宮芝絵図:推定江戸後期、福井家文書(福井家は龍田政所とも称され、龍田新宮別当東之坊の流れをくむと云う。)
 龍田新宮芝絵図:部分図
図版の状態が悪く、良く判読できないが、
中央に龍田大明神、その東に大日堂などが描かれる。
なお、龍田新宮南に吉田寺の境内と思われる森が描かれるも、殆ど判読できず、多宝塔の有無を明確にすることができない。

○龍田新宮明細絵図:明治2年、御宮司家蔵
 龍田新宮明細絵図:部分図
この図版も状態が悪く、良く判読できないが、
中央に龍田新宮があり、その東方には神宮寺関係の堂宇が残るものと思われる。
また、上と同じく、龍田新宮南に吉田寺の境内と思われる森が描かれるも、殆ど判読できず、多宝塔有無を明確にすることができない。

○龍田新宮境内建物配置図:明治2年、御宮司家蔵
 龍田新宮境内建物配置図
新宮東に大日堂、東ノ坊などの存在が描かれる。(この図版も状態が悪く、良く判読できない)

○龍田新宮境内図:明治2年、御宮司家蔵
 龍田新宮境内図
新宮東に大日堂その他の若干の堂宇の存在が描かれる。

2011/01/18追加:
「法隆寺古絵図集」奈良文化財研究所編集・発行、2001 より
龍田新宮社略絵図
龍田新宮絵図:文化5年(1806)
上記の2絵図はほぼ同一の絵図である。

2010/07/16追加:
「龍田案内 竜田乃里屋叢書」保井芳太郎、龍田町、大正13年 より
龍田神社・・・・本殿、末社、楼門、多宝塔、観音堂など甍を並べ・・・
 ※多宝塔とは良く分からないが、三重塔の錯誤の可能性があろう。
傅燈寺跡:神社の東隣今は空地であるが、そこに俗に胎金堂と呼ばるる堂があった。本尊は大日如来で大日堂とも称されてゐた。屋根瓦は「享徳2年卯月吉日龍田傅燈寺・・・の銘文が刻まれている。
楼門:本殿拝殿前にあったもので「徳治3年・・・」と嘉元記に見えているも、今はなし。
東の坊:今の社務所である。延宝7年地頭片桐又七郎の新営にかかり法隆寺の別当坊であった。

2010/07/16追加:
「そぞろ歩き・斑鳩の里V」蔭山精一、奈良新聞印刷、2007 より
明治の神仏分離で、傅燈寺は分離され恐らく廃寺、一時学校となる。
明治20年小学校は他所に統合され、その後は「床は落ち、縁は崩れ、雨が漏って地元は困っていた」と云う状態であったと云う。
この廃寺の堂は修理もままならず、日野法界寺の申し出により、金500円で売却されると云う。
かくして、明治34、5年頃あるいは明治37年、大日堂(胎金堂)は山城日野法界寺薬師堂(重文、5間×4間)として移建される。
 ※傅燈寺大日堂は康正2年(1456)の建立。
 (明治34、5年頃とは土地の古老の話であり、この頃に解体か、明治37年移建とは日野法界寺の見解である。)
なぜ日野法界寺に売却かといえば、次の人物の「地縁」であろうと推定される。
当時の日野法界寺住職松岡秀徳は平群郡椿井村生まれであり、法隆寺で得度、明治初頭に松尾山福寿院住職、明治27年法界寺に転任、大正12年遷化、松尾寺に墓所があると云い、この 「地縁」によるものであろう。


2010/01/23作成:2011/01/18更新:ホームページ日本の塔婆