近 年 の 亡 失 心 礎(塔心礎石) ・ 流 出 心 礎

近年の亡失心礎・流出心礎

当ページの▲・・・▲部の出典は「幻の塔を求めて西東」から転載。

陸奥郡山台廃寺 移転現存 福島県二本松市:
「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、130×100cm、23×15cmの孔を穿つ、二本松駅前遠藤酒店の庭にある、奈良後期。
※陸奥郡山台廃寺心礎は二本松駅前遠藤酒店にあるとされるも、現在未確認。見学は困難?。
上野上植木廃寺a 亡失 心礎は相川氏宅に運び込まれていたが、後に売却という。 (売却先不明)
上植木廃寺心礎:「佛教考古学論攷」に写真あり。  

上野上植木廃寺心礎:左図拡大図
上野上植木廃寺心礎実測図

▲心礎は円柱造出二重円孔式、大きさは121×・・cmで、径72×15cmの円柱座造出と径21×14cmの孔を穿つ。▲
1982年からの発掘調査で寺域は南北238m、東西108mの範囲とされ、廻廊中の中心に金堂、その南西に塔、北に講堂が配置された伽藍と判明。塔基壇は一辺 8.5m。
かっては舎利孔(円形造出に舎利孔があったとされる)を持つ心礎と円形柱座を持つ礎石16個が存在したとされる。礎石は全て抜き取られ、現在は西側200mにある広場に6個と、伊勢崎市内相川考古館中庭に4個(瓦塔も)と散在していると云う。白鳳 −平安期の寺跡とされる。
○「日本古代地方寺院の成立」:上植木廃寺伽藍配置図
○「飛鳥時代寺院址の研究」石田茂作:土壇と思われるもの4箇所を残す。第1土壇:微かな隆起を残すのみであるが、心礎はここから発見され、実測図に示す心礎位置は発掘運搬に関係した人物の立会いで検証したものという。さらに心礎を中心にして各面4個ずつの礎石が方形に配され、一辺は2間半か3間くらいであったと云う。礎石は浅間神社その他に移されたが 、心礎は現地に残される。が耕作の邪魔で相川氏宅に移される。心礎は径約4尺の円形で、花崗岩製。径2尺4分3寸×5分の円形柱座を造出、中央に径7分2寸×4寸7分の円孔を穿つ。発掘当時は地上に5・6寸露出していたと云う。
なお塔礎石は浅間神社に11個(幢竿入場に7、八幡社床下に1、電電宮拝殿南に1、殖蓮大々講碑台に2)、矢島幸氏宅に1個、川端喜作氏宅に1個、堺村中沢氏宅に1個、伊勢崎相川氏宅に1個、東京二条公爵邸に2個残存する。(合計16個で全礎石残存・礎石はいずれも1尺4分×1寸の円形柱座の造出をもち、同型同寸という。また二条公爵邸のものは公爵の所望で寄進したもので、返礼の錫の神酒入は神社に現存とも云う)塔址であることは明瞭であろう。
第2土壇:塔土壇東方にある。金堂跡であろう。第3土壇:塔址の北東に隣接するが、瓦の散布が少なく、昔の伽藍とは無関係であろう。第4土壇:66尺×50尺の長方形の土壇で講堂跡と推定される。
上野上植木廃寺実測図  上植木廃寺心礎  上植木廃寺心礎実測図
 :写真・実測図は上掲載「佛教考古学論攷」のものと同一と思われる。
○2004/8/4「X」氏ご提供:現在、現地には塔礎石7個が並べられていると云う。
上野上植木廃寺塔礎石1  上野上植木廃寺塔礎石2
○2008/09/07追加:「群馬県史 通史編2」1991
明治36年附近の開墾で礎石が発見され、柴田常恵が踏査、この時点では西方の塔跡には心礎が存在していた。続いて石田茂作は瓦などから飛鳥もしくは白鳳の創建と考察した。
常陸伽藍御堂廃寺
(ガラ御堂)
亡失 心礎を含む全礎石(自然石)が完存していたが、宅地化により、全礎石が散逸したという。
○「常陸国分寺伽藍配置想定図」:「新修国分寺の研究」所収 :伽藍御堂の位置が分かる。
2006/04/27追加:
◎「国分寺の研究 上・下巻」 角田文衛/編(1938)所収:「常陸国分寺」廣瀬榮一、角田文次 より:
通称伽藍御堂(ガラミドウ)で塔跡と推定される遺跡が発掘された。(廣瀬発見と云う。)常陸国分寺の東約200mの地点で、現在は住宅地となる。(住宅化の過程で、全て礎石が失われたと云う。)
○「常陸国分寺附近地形図」:1/50000


伽藍御堂塔跡全景

  「・・・3個を欠くのみで他はよく存続してゐて稍々丘上の土壇上にある。礎石は総て上部を平らにせし外、加工せられないもので、甚だ其の配置が不規則で簡単な測量では到底その大要すら纏め得ず、礎石配置の実測図を示し得ないのを遺憾とする。方3間一辺21尺6寸(天平尺の1尺を9寸8分として22尺)を算し、中間は他より5寸乃至1尺程狭いようである。(・・断言は控えるが、天平尺にて中間7尺両脇7尺5分かと想像する。)檫礎は全然自然石のままで何等手を加えられていない。   ※一辺21尺6寸は6・55m
此れはもとより如何なる堂塔の礎石なるかを明らかにしがたいが、檫礎らしきものの中央に存することと、方3間なる点より塔址と考へるのは差し支えあるまい。 」
伽藍御堂塔跡全景:左図拡大図
伽藍御堂塔址の檫礎:(物差は1m)

「柴田常恵写真資料」、廣瀬栄一氏ヨリ、昭和6年 より  
常陸石岡ガラ御堂礎石
 常陸国分寺境内心礎とともにガラ御堂の礎石の写真がある。
  (昭和6年)

2009/09/14追加:
「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
伽羅御堂所在塔婆礎石:左図拡大図

(前略)
国分寺の東6,70間の所に伽藍御堂と云う塔址があった、
ここには14個の自然石を使用した礎石が配列され、
方3間一辺22尺許の塔址と考えられる。付近から奈良末期・平安初期の国分寺瓦に似た古瓦が発見される。
これは何れの寺院の塔なのかは判然としないが、ここにも奈良期の寺院が存したのであろう。 

◇2007/09/26撮影:
推定伽藍御堂廃寺跡1: 写真左上の黄色の枠付近が伽藍御堂塔跡と思われる、写真右はガラミドウ墓地。
推定伽藍御堂廃寺跡2: ガラミドウ墓地、写真を斜めに走る道路の先(上)は下っている。
常陸国分寺・伽藍御堂廃寺航空写真;俯瞰図

 参考:常陸国分寺 ・伽藍御堂塔跡

越後本長者原廃寺a 破壊 新潟県上越市今池にある。越後国分寺の建立場所は今も不明とされるが、当廃寺を越後国分寺に比定する有力な見解がある。 しかもこの仮説は極めて妥当性があるものと思われる。しかし現状、当廃寺の遺構はほぼ壊滅し、下記以上の新事実が出ることは期待できず、それ故に創建越後国分寺であると の断定できないというのが正直なところであろう。
▲心礎は出枘式、270×270cmで、径90×15cmの出枘を持つ。「新井市史」▲
◆Web上で次の情報がある。
「本長者原廃寺へ行ってみる。それらしき場所に近づくと看板を発見。読んでみると,塔心礎とおぼしき礎石があったらしいのだが,切石として利用され散逸してしまったとのこと。」
◆2008/07/16追加:「北陸の古代寺院」北陸古瓦研究会、桂書房、1987 より
上越市本長者原大江端・今池(今池は廃寺跡の北西数百mにあり、当廃寺から持ち込まれたと推定される瓦が出土した地点と思われる)にある。
この地は昭和40年頃に圃場整備され、一面の水田となり、地上には何も留めない。しかし「新井市史」では塔心礎の存在の記録があること、基壇と思われる畑地の高まりがあったこと、 あるいは古瓦が散布することなどから寺院跡(越後国分寺か)とした。
塔心礎は広さ9尺(2.7m)、その上面に径約3尺(90cm)・高さ2.5尺(75cm)の凸部があったと云う。(出典不詳)・・・ただし高さ2.5尺とは不審ではある。 <2.5尺は5寸(15cm)の誤り>
昭和59年確認調査を実施、塔基壇の推定地にトレンチを開け、その結果堀込地業及び版築とその礫を確認、堀込地業は方形で一辺約14mを測る。さらにここに心礎があったとされるため当遺構が塔基壇と判断された。
 本長者原廃寺基壇遺構図
 本長者原附近の地籍図:(圃場整理前):A地点でトレンチ、ここ に心礎があった、その他B及びC地点にも畑地があった。この畑も基壇と推定され、Bを講堂・Cを金堂とし、Aを塔とすれば、国分寺の伽藍配置として妥当であり (金堂・講堂を南北に並べ、塔を金堂の東南に配置する)、塔の規模も 国分寺塔としての規模を備えているといえるであろう。であるならば、本廃寺が創建時の越後国分寺である可能性は高いであろう。
 ※次項2009/05/06追加の記事が更に詳細である。
◆2009/05/06追加:「新修国分寺の研究」 より
 本長者原廃寺旧地割:「新潟県上越市本長者原廃寺の再検討(越後国分寺の一例)」坂井秀弥【「新潟史学」1983 所収】:○印は昭和59年発掘調査地点、D及び俗称は追加:
上に掲載の明治年間の更正図(地籍図)には水田中に島状の畑が3ヶ所(A、B、C)点在する。これは水田開発前の地形に左右され、人工的構築物による高まりが畑となって残存したものと推測される。
A地点:東西14m、南北12、3mでほぼ方形を呈する。この地点は「長者屋敷」と通称する。ここには「長者が蔵の礎石」と伝えられる「広さ9尺程の石の中央に径約3尺、高さ5寸の凸起あり。地表厚さ2尺位露出し、地下埋没の深さ不明なり」とあり「長者屋敷より四方百間内外の地域には地下より田畑耕耘のとき布目瓦の破片を往々発見せらる」(「頸城郡三郷村村誌」)と云われた地である。
 ※この礎石は心礎と推測される。またこの礎石は現存しない。
B地点:三筆の畑でかっては「焼屋敷」と呼ばれたと云う。Bから南22m東45mにA地点はある。
C地点:ニ筆の畑でかっては「高畑」と称したと云う。BC間は約27mある。
Aは塔、Bは講堂、Cは金堂とすれば、東大寺式伽藍配置となる。
D地点:BC地点の南約50mに長方形(20×8m)の畑がある。ここに南大門が存在した可能性がある。
 昭和59年発掘調査:発掘調査図として上の本長者原廃寺基壇遺構図と同一の図が示される。
掘込地業の中央部に礫の分布がない円形部があり、これは塔心礎の抜取穴の疑いがある。
 心礎の記録は「頸城郡三郷村村誌」にあるものと思われる。
相模国分寺a 亡失  相模国分寺跡
 
「相模国分寺志」中山毎吉、矢後駒吉著 より

 相模国分寺七重塔礎石図:左図拡大図
各間は等間で悉く1丈1尺7寸(天平尺1丈2尺)、一辺は3丈5尺1寸(天平尺3丈6尺)を測る。
礎石:今は僅かに10個を留めるに過ぎぬ。明治の初年までは17個の礎耘石を始め、間石まで欠け目なく存在していた。
心礎は径8尺許あった。上面は平坦に削刻し中央に径3尺、高さ1尺5寸許の圓壔が繰出され、その圓壔の上には径56寸深若干の穴が穿たれてあった。

なお、国分寺薬師院にも塔があった可能性が高い。明治維新後も塔の心礎と思われる礎石が残存と思われる。

伊豆国分寺a 亡失 伊豆国分寺心礎:「佛教考古学論攷」
東京小松宮別邸に移動。現在は亡失。(「日本の木造塔跡」)

伊豆国分寺心礎:左図拡大図

▲心礎は一重円孔式、
大きさは270×?で、9×12cmの孔を穿つ。▲

現地には礎石8個が残されている。形式的にはいずれの礎石も枘孔を穿ち、心礎と同一形式と思われる。
しかし心礎は、上記の大きさ(270×)を信用すれば、現地の礎石よりひと回り大きいと思われ、形式は同一でも心礎に相応しいものであったと思われる。
 伊豆国分寺
2009/05/06追加:
「遠江国分寺の礎石」柴田常恵(「歴史地理 第30巻第2号」昭和3年 所収) では「・・・・伊豆国分寺の礎石が三島町に小松宮の御別邸造営の折、町民より献納する所と為り、後ち宮家にては東京浅草なる橋場の御邸内に移されし由を拝聞する・・・・」とある。
遠江国分寺東塔心礎(推定) 亡失か 2009/01/05追加:
遠江国分寺東塔心礎と憶測される礎石の存在が文献(「歴史地理 第30巻第2号」柴田常恵の報告)にある。
戦前には既に戦前に他に譲渡され、所在不明と云う。
但し、東塔の遺構が発見されている訳ではなく、また東塔の存在自体が証明される可能性も極めて低いと思われ、この意味では柴田常恵の報告の「心礎」については、形状は心礎と思われるも、心礎や否やは検討を要するであろう。
 遠江国分寺【憶測遠江国分寺東塔心礎】の項を参照
飛騨上町塔の腰廃寺c 移転現存

飛騨上町塔の腰廃寺:吉城郡古川町 上町塔の腰 (セリ田・鶴巣)
心礎は円光寺(古川町殿町)本堂前庭にある。飛騨古川円光寺:正面本堂の左側にある。
元々は古川町上町塔の腰(セリ田・鶴巣、飛騨市古川町上町久中)にあり、明治初年円光寺に移されると云う。上町は円光寺の東南約1.5kmの地点にある。
古くからこの心礎の存在は知られていた(「飛州志」など)と云う。また現地では白鳳・奈良期の瓦を出土と云う。 しかし伽藍配置は全く不明。
沢廃寺と同范の瓦を出土と云い、同一氏族の建立と考えられる。
現地は未見であるが、『上町廃寺跡:寺院・旧地図名称「塔の腰廃寺」。<現況>水田』との情報があり、現状は水田で地上には何も留めないと思われる。
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、212×148×65cm、径77.8×19cm、円光寺(殿町)庫裏前にある、白鳳。
 飛騨塔の腰塔心礎1     飛騨塔の腰廃寺心礎「X」氏ご提供画像
○2009/09/14追加:「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
心礎は7尺×5尺の大きさで、中央に径2尺5寸7分深さ6寸3分の円孔がある。
○2009/11/21追加:小冊子「古川町文化財案内」飛騨市 より
上町塔の腰廃寺心礎:中央の穴底に水抜きがあるが、後世の作と思われる。
 ※水抜きについては、迂闊にも実見・確認せず。
 飛騨上町廃寺心礎1     飛騨上町廃寺心礎2     飛騨上町廃寺心礎3     飛騨上町廃寺心礎4
 飛騨上町廃寺心礎5     飛騨上町廃寺心礎6     飛騨上町廃寺心礎7

飛騨沢廃寺c 移転現存

沢廃寺:吉城郡古川町上気多字沢
心礎は円光寺(古川町殿町)奥庭にあり、蹲として転用される。
 飛騨古川円光寺:正面本堂の奥にある。
澤廃寺は飛騨市古川町上気多沢と云う。現地は未見であるが、『遺構概要:寺院。:<保存状況>グランド造成により滅失』とあり、地上には何も留めないものと思われる。グランドとは県立吉城高校グランドであろう。塔の腰廃寺と同范の瓦を出土 といい、塔の腰廃寺北東2kmの位置にあり、同一氏族の建立と考えられると云う。
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、87×83×55cm、径28.5×10cm、現在は円光寺奥庭にある、白鳳。
 飛騨沢廃寺心礎1     飛騨沢廃寺心礎2「X」氏ご提供画像
 飛騨沢廃寺心礎11    飛騨沢廃寺心礎12    飛騨沢廃寺心礎13    飛騨沢廃寺心礎14
 飛騨沢廃寺心礎15

美濃大宝寺 移転現存 岐阜市歴史博物館入口前庭に展示。
実測:現状は径64/63cm、枘孔は径18cm深さ10cm。 緑泥岩?と思われる。心礎は柱座あるいは柱穴の周囲に沿って周辺を割られ、現状のような径の円形になっているものと推測される。表面は平らに削平され、中央には舎利孔もしくは枘孔を穿つ。元々の形状は柱座造出なのか円形柱座を彫っていたのかは不明。
設置の説明板:「岐阜市文化センター建設時に出土と云う。岐阜市金町の西方が寺跡と思われる。」
※岐阜市文化センター建設の設計コンペは1981年、竣工は1984年とされるので、出土は近年のことと思われる。出土状態などの情報は不詳。
なお今の岐阜市立徹明小学校付近は、明治末まで大宝寺野と云われた農村であったといわれるが、おそらく「大宝寺」と云う寺院の由来地であったと推測される。但しこの大宝寺が古代寺院の名称を伝えるのかどうか、 また附近に現存する大宝禅寺との関係についてなどは不詳。
 美濃大宝寺心礎1  美濃大宝寺心礎2  美濃大宝寺心礎3  美濃大宝寺心礎4  美濃大宝寺心礎5
美濃宮処寺a
 (みやこ寺)
おそらく
破壊
不破郡垂井町字笹原・御所野
以下の文献等により、大正年中までは寺跡・塔心礎と推定される礎石が存在するも、近代の開発で、ほぼ破壊・消失したものと思われる。
●「幻の塔を求めて西東」に次の記事がある。▲心礎は地下式(50cm)、133×103×54.5cm。「岐阜県史蹟名勝天然紀念物調査報告書 第9輯」昭和15年。▲
 ※しかし上記の昭和15年「報告書」に示された大きさは破砕された残部の寸法と思われる。(下の引用を参照)
●「岐阜県史蹟名勝天然紀念物調査報告書 第9輯」より
「宮處寺:小川榮一報告   ・・現在北には東海道鉄道線路東西に通じ、東には垂井町より南宮神社に達する街道あり。この街道添ひ人家の西には南北に長く土地階段をなして東方に低し。其の長さは1町余りありて・・(最大段差は1尺5寸を測る)・・この階段をなす線は寺址の外郭の東辺に当る・・この階段線の南端より(北)25間の地点より西6間の所には礎石1個埋没・・発掘するに、長4尺4寸(133cm)幅3尺(90cm)高1尺8寸(55cm)ある大理石の礎石なり。・・この礎石は塔の礎石と伝え、元は地上に1尺5寸(45cm)程露出せしも、大正元年より・・の耕地整理の際、割り取り、その残りを埋めたるものにして、元は畳2畳(1.8×1.8m)程ある大石なりしといふ。この礎石の東南4間(7.3m)を距つる所にも方4尺(1.2m)程ある礎石地下1尺5寸の所に埋まるも、大正の末年に掘り出し割り取れり。又大理石礎石の西方には石積ありたりと云ふ。・・・大理石礎石より西北40間(73m)を距つる所に、石を寄せたる塚形あり・・・金堂に当るものなるべし。・・後略・・・」
  宮処寺址調査図:図中央が土壇様の高まり:
     この土壇は現在宮処寺土壇跡(推定)の中央二階建住居の宅地と思われます。
  ○宮処寺址礎石
 ※畳2畳ほどの大石とは、その形状は不明ですが、その大きさから塔心礎の可能性が大きいと思われる。
だとするとこの「心礎」は大正年中の耕地整理でほぼ破砕されたものと思われる。
●続日本記 に以下の記事があるという。
天平12年(740)12月2日、 聖武天皇、不破頓宮より宮処寺及び 曳常泉へ行幸
11月26日 到美濃国当伎郡。続紀
11月27日 賜伊勢国高年百姓百歳已下、七十歳已上者大税、各有差。続紀
12月 1日 到不破郡不破頓宮。続紀
12月 2日 幸宮処寺及曳常泉。続紀
(中略)
12月 6日 従不破発、至坂田郡横川頓宿。是日、右大臣橘宿禰諸兄、在前而発、経略山背国相楽郡恭仁郷。以擬遷都故也。
●「岐阜県史 通史編 原始」岐阜県編集、1972 より
「この廃寺は上記の宮処寺跡に比定される。・・古くから礎石・瓦類が多数出土し、一般には良く知られた廃寺である。・・・寺跡は東海道線と新幹線の間にあり、この両線のほぼ中間・寺跡の北側を掠めて国道21号線が建設された。・・この地帯は元来畑地で・・・近年は宅地として開発が著しく、遺跡の破壊の速度は著しいものがる。本遺跡も・・・発掘調査されたことがなく、寺域・伽藍配置は不明である。・・・地形的特徴から考察すると、南宮社に至る南北の道の西約100mに地点で南北約110mに渡り段差があり、この段差は北側にも認められる。・・さらに西側に南北方向の農道があり、先の東側段差の中間やや西寄りに東西約8m南北約10mの土壇が存在する。」
●現状
戦後(近年)の開発・宅地化で、寺跡を偲ぶことは困難になりつつある。
金堂と推定された土壇も住居の建築で破壊、礎石の断片も不明で、礎石の探索は困難。地形的な特徴も住宅化で辿ることは相当困難。
・「岐阜県史蹟名勝天然紀念物調査報告書 第9輯」でいう「塔」「礎石」の出土地を含むと思われる畑で耕作中の土地の人の談は以下のとおり。
「年齢は78歳、この一帯は【みやこ寺】という古代寺院があったといわれる。子供の頃あの辺り<畑の西北30〜40m>に土壇様のものがあった記憶がある。40年前?ぐらい<昭和40年前半?>前にその場所に「家」が建ち、今では何の痕跡もない。この附近の畑では多くの瓦が出る。今も畑の土に混ざり出てくることがある。」
  宮処寺土壇跡(推定):写真中央の二階建住宅宅地に土壇があった。(上記聞き取り)
「瓦があるかも知れない」ということで、しばらく畑の中で瓦の破片を一緒に探すも、残念ながら、この日は見つけることは叶わず。
●以下のように南宮山神宮寺との関連が説かれることもあるようですが、 真偽は不明。
開基は行基で、天平11年(739)本尊の阿弥陀如来像を刻み、象背山宮処寺と名付け、本州阿弥陀如来四十八願の霊刹第34番札所と定めた。その後延暦(782〜806)年中、勅命により伝教大師が南宮神社と両部習合し、寺号を大神宮寺と改めたという。
越中小窪廃寺b 移転現存

小窪(おくぼ)廃寺心礎は現在小久米(おくめ)神社の境内にあり「いぼ石」と呼ばれ、民間信仰の対象でもあったと云う。
心礎は砂岩製で、ほぼ径1.6mの円形で高さ63cm、中央に径80cm、深さ16cmの穴を彫る。
この心礎はかつて小窪の「塔のすま」にあり、元禄2年(1689)久目永福寺(小久米より南方1.5km)へ城端別院から嫁入りがあった時、手水鉢として搬出したが、重さ故、途中の小久米( 小窪より南2km強)で放棄したと伝える。その後明治末に路傍から現在地小久米神社へ搬入したと云う。
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさ160×150×60cm、径82×16cmの円孔を穿つ。
○2008/07/16追加:
「北陸の古代寺院」北陸古瓦研究会、桂書房、1987 より
昭和40年小窪廃寺付近の圃場整備で大量の布目瓦が出土するも、工事の都合で、トラック数台分を低地に埋めたと云う。心礎は「塔のスマ」と云われる所から出土し、今は約2km南の小久米神社にある。心礎 の大きさは167×165cm、厚さ約53cm。
 小窪廃寺心礎実測図
廃寺の近くには小窪廃寺に瓦を供給した小窪瓦窯跡がある。
○2009/11/25追加:
小窪廃寺心礎実測値:大きさは180×170cm高さ60cm、径86cm深さ15/16cmの柱穴を穿つ。
小久米神社は国家神道色が強い近代の捏造神社に近いと思われるが、丘陵の中腹にあり、重機の無い時代に心礎を運び上げたのは大変な労力であったと思われる。
 越中小久目神社参道:この参道のさらに1段上に社殿・心礎がある。
この地に嫁して30数年と云うご夫人の以下の言を得る。「心礎は小窪から移したという、移したのは何時の時代かは知らない、昔は心礎の水でイボが取れるといわれていたのを覚えている。」
 越中小窪廃寺心礎1    越中小窪廃寺心礎2    越中小窪廃寺心礎3    越中小窪廃寺心礎4
 越中小窪廃寺心礎5    越中小窪廃寺心礎6    越中小窪廃寺心礎7

越中増山城跡心礎 移転か? 「幻の塔を求めて西東」では「和田川沿いの千光寺から遷す」と云う。(その典拠・根拠は不明。)
但し、芹谷山千光寺から増山城に搬入した可能性は多いにあると思われる。
 「甲信越北陸諸国の塔跡」の該当項を参照
越中宮後キンケン塚心礎 宮後キンケン塚(塔土壇か?)から
池尻真光寺に移すも
現在所在が不明
宮後キンケン塚塔心礎石:キンケン塚は東砺波郡井口村宮(現南砺市)宮後、心礎は池尻真光寺所在と云うも、真光寺での所在が不明。
◆「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさ96×80cm、径21×11cmの円孔を穿つ。元位置から移転、奈良後期。
◆2009/11/25追加:
◇宮後キンケン塚心礎実測図
◇「井口村史 下巻」井口村史編纂委員会、平成4年
              (南砺市教育委員会様ご提供) より
池尻真光寺庭園には宮後キンケン塚から出土と伝える礎石がある。
大きさは100×80×高さ50cmで、中央に径21×深さ11cmの枘孔がある。石質は凝灰岩もしくは安山岩と見られる。
キンケン塚からは他に枘孔を持つ礎石が3個出土し、宮後八幡社の礎石に転用されたと云う。また境内にあるキンケン石も塚から出たと伝える。 また左記以外にも、多くの大きな石が出たとも云う。最後に出た大きな石は井波瑞泉寺に運ぼうとしたが、重くて断念し真光寺に納めると云う。
以上の状況から真光寺の礎石は心礎であろうと考えられ、であるならば、キンケン塚は層塔・多宝塔の基壇であった可能性が高い。
塚の位置は宮後山下正雄氏邸車庫付近と伝える。また宮後吉田喜三氏邸には塚付近から出土した宝篋印塔笠や五輪塔残欠があったが、今は真光寺に移すと云う。
 宮後キンケン塚心礎実測図:左図拡大図
◇2009/11/12聞取:
宮後キンケン塚(在池尻真光寺)心礎は現在亡失と思われる。真光寺にあるとされる心礎は現在真光寺に認めることが出来ない。
真光寺住職は先年他界、現在住職は子息(?)が継ぐ。
先住職の夫人の言はおよそ以下の通り。
「夫人はここに嫁いで50年になる。現在、この寺にはそのようなもの(心礎)は見当たらない。先住職からはそのようなもの(心礎)があるとは聞いていた。(しかし、 その心礎を先住の夫人がはっきりと見たわけではない様子。)(先住職が生きていてば、はっきするであろうが、今となってはそれも叶わぬ。)
現在心礎がないとすると、およそ以下のように思われる。以前寺の南側の町道が拡幅されたときに、少し庭が削られたが、そのときに心礎が工事関係者によって処分(不要物として持ち去られた?)されたのだろうか。あるいは、残っているとすれば、石燈籠(高さ6尺を越える大きさの・業者から購入したから古いものではない)があるが、その台石になっている石が心礎であるかも知れない。
真光寺は宮後から移ってきた。檀家は(従って)宮後に多い。(真光寺は宮後の東約500mの池尻にある。)」
◇許可を得て、真光寺庭園を探索するも、心礎に該当する礎石は発見出来ず。
石燈籠とその台石はある。石燈籠台石はほぼ台形で、大きさは140×120cm、高さはほぼ地中にあり全く不明である。「村史」で云う心礎の大きさより一回り大きく、 かつ石質も花崗岩と思われ、心礎である可能性は低いであろう。また石燈籠据付の時期は不明であるが、心礎のような遺物に無神経に据付をするような「蛮行」も考え難く、この点からも可能性は低いであろう。
 越中池尻真光寺:真宗大谷派、東から撮影、正面奥が本堂、本堂裏が庭園。元は真言宗と云う。
 池尻真光寺石燈籠     池尻真光寺台石1     池尻真光寺台石2
◇宮後八幡社・宮後キンケン塚
 宮後八幡社全景:社頭に三段重石碑がある。奥に写る民家が山下正雄氏邸(正雄氏は故人)
 宮後山下正雄氏邸:山下氏邸裏付近、この付近にキンケン塚(塔土壇?)があったのであろうか?
 宮後八幡社社殿:豪雪地帯特有の覆いが堂宇を取り巻く。内部の子細を観察は困難。
 宮後八幡社転用礎石1     宮後八幡社転用礎石2     宮後八幡社転用礎石3
  :何れも写真は不鮮明ながら、これ等はキンケン塚からの転用礎石であろう。
 宮後八幡社三段重石碑1     同宮後八幡社三段重石碑2
  :この石碑は無銘であり、何の石碑か分からない。聞き取りでも何の石碑か知らないと云う。 あるいは「井口村史」で云うキンケン石とも推測できるが、そうであるならば、キンケン塚出土の礎石類であろう。三段重石碑中段の石の大きさは90×70cm高さ35cm を測る。
 宮後八幡社五輪塔残欠:八幡社境内にある。「井口村史」の記載のように、ここには何等かの寺院があったのであろうか? 。
越前室谷廃寺b 移転現存

室谷廃寺:今立郡今立町
○「幻の塔を求めて西東」(天理図書館蔵「手書き資料」):一重円孔式、148×115×85cm、径13×13cm、奈良後期。
○実測値:大きさは160×112×82cm、径14×深さ13cmの円孔を持つ。
○「福井県史」:当廃寺は特異なあり方を示す。狭い谷間に位置し、通常みられる古代寺院の立地条件とは様相を異にする。廃寺の存続は出土遺物から奈良時代後期〜平安初期とされる.。心礎を残すのみで伽藍は全く不明。
○現在心礎は福井県立歴史博物館が所蔵、5年程前から常設展示から外れ、現在は博物館収蔵庫に眠る。
 (見学には事前に見学希望の申し出が必要、心礎は収蔵庫の暗闇に眠る。)
現地遺跡(旧今立町室谷)は圃場整備が行われ、廃寺の遺構は残らないと云う。
 越前室谷廃寺心礎1     越前室谷廃寺心礎2     越前室谷廃寺心礎3
 越前室谷廃寺心礎4     越前室谷廃寺心礎5

越前野々宮廃寺
小丸城本丸跡心礎)
心礎かどうか疑問がある。 越前野々宮廃寺心礎の1個が付近の小丸城本丸跡石垣に転用とされるが、心礎であると云う確証及び心礎であるとしても、野々宮廃寺心礎である確証は無い。
伊勢天花寺廃寺
<津市渋見町鈴木家前>
移転現存
あるいは
亡失
二重円孔式。心礎の大きさは120×120×62cm(復原寸法)で、径39.5×15cmと径18×8.5cm。白鳳。半裁された心礎が津市渋見町鈴木家前にある。▲
○「日本の木造塔跡」:上記の心礎は、石田氏論文にある天華寺心礎より小さいので、別の寺院の心礎かも知れない。
石田氏論文 「塔の中心礎石の研究」では伊勢天華寺:長径80寸(242cm)・短径60寸(182cm)、円形刳込径20寸(61cm)深5尺(15cm)、溝無し、白鳳 とある。確かに別の心礎である可能性はあるが、「幻の塔を求めて西東」の復元寸法なるものが本当に信憑性があるのかどうか不明のため判断は保留。
○伊勢天花寺概要
白鳳期寺院。「勢国見聞記」(嘉永4年)では塔・金堂の礎石の存在の記載があり、また大正期まで心礎が露出していたという。
1979-80年の発掘調査により塔(東)、金堂(西)とされる(法起寺式伽藍配置の)版築基壇が確認される。
礎石、六角形せん仏、塑像が出土したという。
寺跡の現状は田畑もしくは山林で何も見るべきものはない。
当寺は孝徳天皇が建立した瑠璃光院と云い、また孝謙天皇の発願した法華寺の一院と伝え、天平15年に天華寺と改号したと云う。永禄年間、織田信長の兵火で焼失。元和3年(1608)現地より北西の丘上に再興され、現在も法統を伝えています。 
 伊勢天華寺跡1   伊勢天華寺跡2
伊賀三田廃寺 おそらく
亡失
「飛鳥時代寺院址の研究」:阿山郡三田村三田地:JR関西線伊賀上野駅すぐ北という。
但し現在は工場敷地になり消滅と思われる。
古老の「言」として以下の紹介がある。
「明治中頃までは、推定廃寺跡には方形の芝地があり、そこには天王社と2個の礎石があった。その一つには中央に径2尺、深さ2尺くらいの円穴があった。 」
芝地は消滅していると思われる。(原因不明)明治の地籍図には約12間四方の芝地が表されている。
出土瓦より創建は飛鳥期と推定される。さらに瓦は奈良・平安・鎌倉・室町のものが出土し、寺院はこの頃まで存続したと思われる。
三田廃寺跡付近地籍図
上記方形芝地とは塔土壇跡であり、径2尺×深さ2尺の円穴を持つ礎石とは心礎の可能性が大変高いと推測される。しかしその後のこの心礎の情報は皆無。
近江高宮廃寺 おそらく
亡失
滋賀県埋蔵文化財センター」等に以下の情報がある。
高宮廃寺は明治44年と昭和10年に塔心礎や礎石が発見される。(左記以外に情報なし、詳細不詳)
しかし、その正確な位置は現在不明となると云う(遊行塚遺跡とする説が有力)。
 ※国道八号線、彦根市高宮交差点の北側付近に位置すると想定。
  近江高宮廃寺位置図
藤原宮式の複弁八葉軒丸瓦と扁行唐草文軒平瓦が出土。
遊行塚遺跡については以下の記載がある。
遊行塚遺跡:高宮町(彦根市)、散布地、奈良期、高宮廃寺跡?
遊行塚遺跡:高宮町、散布地、奈良期、平地 宅地、白鳳期移行の瓦出土
 ※何れにしろ、この地点に何らかの遺跡(廃寺)があったことは確かと思われる。
近江安養寺廃寺 亡失 「古代近江の遺跡」:大正頃まで礎石を伴う基壇や巨大な心礎が存在していた。現状は水田と化し、面影を留めない。近江蒲生郡誌によると元亀2年織田信長に焼かれたとする。出土瓦は白鳳期 が主体をなすという。
近江八幡市安養寺町。
安養寺の部屋安養寺廃寺のページに以下の掲載が ある。・・・部分転載
白鳳期から中世末期までの寺院。「輿地志略」は安養寺村の項で「相伝、往古安養浄土寺と号する大伽藍地にて、当村悉く其境内なりといふ。今石仏石塔等散在す其の遺跡なり」と記す。明治時代までは伽藍遺講がある程度まで推測できたもようで「蒲生郡志」には「寺跡方十六町あり、其内に大金塔、六字塔、灌項堂、経堂、観音堂、梵鐘堂、等の跡を存し、残礎数ふ可し。又塔の心柱の巨石は其の長さ一丈、幅六尺余あり。中央に柱心挿入の穴を穿つ。穴の径三尺五寸あり。(中略)布目瓦の破片所々に磊落ちたり」とみえる。地名に荘巌坊・奥坊・瓜坊などが残る。安養寺町地先にある石造五重塔(鎌倉・重文)や荘巌寺蔵木造釈迦如来立像(鎌倉・重文)木造聖観音像(平安・重文)木造空也上人立像(鎌倉・重文)も当寺の遺品と伝えられている。
以上によると、心礎の大きさは約3×1.8m、径約105cmの円穴を持つ相当な大型心礎であったと思われる。
※その後の心礎の消息は知られず、心礎は亡失と思われる。
2007/08/15追加:
「近江の古代寺院」小笠原 好彦/〔ほか〕、近江の古代寺院刊行会、1989<図版篇を含む>より
以上の「蒲生郡志」(大正11年刊)の引用がある。現状遺跡は耕地整理・圃場整備・新幹線工事などで、正確な位置は不明と云う。
京都国立博物館 由緒不明 一重円孔式、313×225×69cm、径76×3/4cmの円孔、白鳳。出所不明、昭和7年賀茂川河畔から出土。▲
2006/06/10追加:
京都国立博物館西の庭に「礎石」の展示がある。この展示の礎石が上記「幻の塔を求めて西東」に記載の心礎であるか否かは、以下の理由で、不明。
1)展示品の寸法が不明、2)写真で見る限り、ニ重円孔式に見える。3)写真で見る限り、石自体が心礎にしてはやや「いびつ」と思われる。
2003/10/05「X」氏撮影画像
 京都国立博物館推定心礎1  京都国立博物館推定心礎2  京都国立博物館推定心礎3
2006/09/22追加:2006/09/17撮影:
屋外展示・西の庭に「礎石」として展示がある。但し「礎石」とのみ表示があるだけで、由来・伝来などは全く表示がない。(他に心礎ではない礎石が2点展示されているが、各々「礎石:本館敷地西南隅出土、当館蔵 」、礎石:奈良市佐紀町出土、奈良時代、当館蔵」と解説がある。)
大きさはほぼ、「幻の塔を求めて西東」に合致する。但し、ニ重円孔式で、記事とは一致しない。
実見する限り、この礎石は形状から、心礎であることはほぼ間違いないと思われる。しかしながら、伝承などが全く不明のため、京博展示心礎とするほかはない。
 京都博物館所蔵心礎1  京博心礎2  京博心礎3  京博心礎4  京博心礎5
写真5に写っているメジャーは長さ1m。
山城おうせんどう
廃寺
(山城深草廃寺a)
亡失  山城おうせんどう廃寺心礎

深草廃寺心礎:左図拡大図

比較的多くの写真及び実測図が残る。
詳細は山城おうせんどう廃寺心礎のページを参照。

山城泉橋寺a 亡失  山城泉橋寺

山城橋泉寺心礎:左図拡大図

比較的多くの写真及び実測図が残る。
詳細は山城泉橋寺のページを参照。

心礎は売却、(寺院側では売却先を公にしない。神戸との感触あり?)

山城東小廃寺 山城東小廃寺:「佛教考古学論攷」に当廃寺心礎の写真あり。

山城東小廃寺心礎:左図拡大図
実態は不詳。東小廃寺とは「東小田原寺跡」あるいは「東小随願寺跡」のことと思われる。
現存か亡失かは不明。
20年前後?前であるが現地はなぜか柵がしてあり、立入禁止になっていた記憶がある。<未調査>
随願寺跡は岩船寺と浄瑠璃寺の中間の東小の春日神社付近と伝える。長和2年(1013)の開創と伝え(浄瑠璃寺流記)、本堂(本尊大日如来)・三重塔・湯屋等があった (明応2年1493の記録)とされる。中世以降漸次衰微し、明治維新には荒れた堂宇が一、二残っていたが、自然に衰退したと伝える。
大和郡山城跡心礎 由緒不明 築城に当り、近隣の廃寺などから搬入されたと思われるも、消息は全く不明。
 
大和郡山城跡心礎
大和日向寺a 破壊 ・「飛鳥時代寺院址の研究」:
香具山の南麓にある。寺は大日堂・本堂・庫裏兼用の一宇が残り、塔跡はその堂跡の東南にある。
聖徳太子建立と伝える。
土地の古老上田清右衛門氏談:「塔跡は今より3尺ばかり高く、方形の土壇をなしていた。明治8年頃土壇を壊し、そのとき表土下5寸くらいの所より、「日向寺塔址礎石配列記憶図」(下を参照)のような配置で礎石を発掘した。就中、現在の弁天祠のある位置から、全長8尺位の中央に径4尺の円形刳り込みがあり、さらに中心に径7〜8寸の穴を穿つ大石が出土した。これ等の礎石は割って橋板・石垣に転用した。」
なお大日堂安置の大日如来は塔本尊と伝えるが、近世のもののようです。
また付近には日向寺の礎石と思われる円形造出を持つ礎石が法然寺庭園に2個、法然寺川石垣に1個、法然寺川スリカイ橋下に1個残存するようです。
・「飛鳥時代寺院址の研究」より転載:
日向寺境内実測図  日向寺塔址礎石配列記憶図  日向寺塔址
橿原市南浦町、現寺は天照山と号す。本尊阿弥陀如来、浄土宗。
日向寺現況:
住宅の中に辛うじて土壇を残す状態の塔跡は今も健在です。
境内の外にあるという礎石は確認できませんでしたが、大日堂の縁に礎石と思われる石が置いてある。
飛鳥日向寺塔跡1  飛鳥日向寺塔跡2  飛鳥日向寺推定礎石
・2008/05/29「大和上代寺院志」保井芳太郎:
大和志では廃日向寺は推古天皇時造と云う。現在も浄土宗日向寺があり、大日堂・弁天堂を残す。その弁天堂附近が塔跡であった。古老の談によれば、ここに心礎と思われる長さ78尺くらいの巨石があり中央に穴があったと云う。その3方にも礎石があった。建立時期は古瓦より見て推古朝は無理で白鳳期と思われる。
大和日向寺略図
大和唐招提寺 破壊 東京椿山荘にあったが、近年プールを取壊、移転するにあたり壊れたと云う。
 大和唐招提寺の椿山荘心礎の項

大和唐招提寺東塔心礎:左図拡大図
大和大官大寺a 破壊 心礎は橿原神宮造営で搬出し、おそらく (ほぼ100%)破壊。
 大和吉備池廃寺・大官大寺

岡本桃里の塔跡図:左図拡大図

大和大官大寺塔跡

大和紀寺a
(大和小山廃寺)
破壊 伽藍配置は南面し、南門・中門・金堂・講堂が一列に並び、塔は金堂前面東に配置、回廊は中門から講堂に取り付く。なお心礎は明治初頭まで残されていたが亡失。
現状は公園として残され、金堂あるいは講堂(と思われる)土壇を見て取ることができるが、塔跡は素人には判然としない。なお当寺は平城京移転とともに 平城京へ移転するとされる。
大和紀寺金堂跡  大和紀寺塔推測地
▲心礎は円柱造り出し一重円孔式、139×90.9cm、径69.5×5.4cmの円柱造り出しと径13.5×13.9cmの円孔。保井芳太郎「大和上代寺院址」▲
◎2007/05/01追加:「大和の古代寺院跡をめぐる」より
津川長道「卯月日記」文政12年:「法然寺に詣で、その後西に行く。田の中に大きな礎石有り。此も塔の礎と見ゆ。・・・」とある。
明治初期、岡本桃里の描いた図の中に礎石図があると云う。そこには塔心礎と思わせるような彫り込みがあり、中に「水」という文字があったあるいは四天柱礎と思しき礎石があったとする。
しかし数次に渡る発掘調査でも、肝心の塔跡は不明のままである。
◎2008/05/29追加:大和上代寺院志」保井芳太郎 より:
「卯月日記」に記録された心礎は明治維新後も残っていたが、明治10年頃割って石垣にしたと云う。
これを記憶する者の談によれば、この心礎は頗る巨大でありその周囲に四天柱礎を立てかけられた形にあったと云う。

岡本桃里・紀寺心礎図:左図拡大図:
円柱を受ける凹座があり、その中央には枘孔もしくは舎利孔(水とある)があったと思われる。また上記の「談」のように心礎四隅には四天柱礎が立てかけられたように見える。
紀寺址概要図
明治20年頃、紀寺址地は畑地より水田に変更された。塔址の西北は今も畑地で周囲の水田より1尺ばかり高く、この間も礎石の出土を伝え(金堂跡か)、またその北の水田中にも数個の礎石のある事を地主は伝える(講堂跡か)。
大和紀寺礎石:由緒は不明
大和願興寺a 亡失

大正8年東京大山柏氏邸に移動。現在は亡失という。 (「日本の木造塔跡」)
寺跡がある位置には弘仁寺を乗せた尾根が東から西に張り出しているが、その尾根の西の終端が平地に到達した地点(現状は水田)に寺跡はある。 通称「塔の丸」という地点で、大正7年に心礎が掘り出されたという。(この心礎はその後東京大山柏氏邸に移動されたと云う)。
 ※大山柏とは不明であるが、陸軍元帥大山巌次男・陸軍少佐・公爵・考古学者・「史前学研究所」を設立・・・という異彩な経歴を持つ人物とも思われる。
なお、この廃寺が願興寺であることを考証したのは田村吉永氏、堀池春峰氏の功績とされる。
平成9年緊急発掘調査:塔基壇は一辺12.7mの正方形で、一辺34mの築地塀(瓦葺き)で囲まれ塔院を形成する。塔基壇は上面は削平されていたが、周辺には自然石を敷設した犬走り(幅70cm)があり、さらに自然石を敷いた参道(南参道は幅6m、北参道は幅2m)が発見された。中央には5m×4mの心礎抜き取り穴があった。石灯篭破片の出土もあった と云う。金堂などその他の遺構はまだ明確ではない。
塔跡現状は何の案内もない水田(休耕田)であり、地上には見るべきものはない。下記の写真撮影時周辺にはまったく人影がなく、撮影した場所は地形図との対比で行 う。従って撮影位置には多少の見当違いがある可能性はあります。
大和願興寺概要図  大和願興寺塔跡  大和願興寺塔跡
▲心礎は亡失。東京都にあるというが。円柱造出一重円孔式。210×219×?cm、円柱造出径=90cm高さ不明、円孔径不明深さ35cm。▲ ※左記の出典不明。
2009/03/03追加:「大和志料」願興寺
東大寺要録(末寺章)に願興寺右和銅元年・・・小野中納言忠を為し、願興寺を建て、山口寺と字す。・・・巳廃し址詳らかならず、延暦19年の古文書に虚空蔵山寺の四至を記して西は願興寺の東の横道を限るとあれは今の和邇の東山口の地にありしなるへし

大和放光寺跡
 (片岡王寺・
   片岡僧寺)
破壊 ◎「飛鳥時代寺院址の研究」:
聖徳太子の建立とされる。金堂、講堂、食堂、五重塔、経蔵、鐘楼、三面僧房、諸門、浴室、回廊を備えた大伽藍と伝える。現王寺小学校の地が片岡王寺の故地とされる。永承元年(1046)落雷で焼失、弘和4年(1384)金堂再建落慶供養。元亀3年(1572)松永久秀の乱により再度炎上。
明治20年頃まで、金堂跡、塔跡は芝地として、講堂跡は藪地として残っていたと云う。
古老数人の立会いのもと現地を確認すると、塔跡は高さ約5尺一辺約6間の方形の芝地として残り、塔屋敷と通称する。金堂跡は塔跡北約10間の所に、周囲より一段高く、芝地として残り、金堂屋敷と通称する。講堂跡は金堂北約15間にあり、高さ約2尺の藪地として残り、礎石の散在もあった と云う。
 片岡王寺址実測図:塔などの土壇は地籍図・古老の立会などで追加記入と思われ る。
 推定塔扉残欠実測図:小学校校舎増設に当たり、畑の土取に際し、発見。6尺7寸×1尺8寸(厚さ2分)一枚板の扉で反面は火災で黒く焦げている。発見位置及び大きさからして、大堂の扉では無くて、塔の扉と推測される。
「放光寺古今縁起」:審盛著:永保年中、五重塔朽損し、因って三重に縮む。との記事がある。
◎2008/05/29追加:大和上代寺院志」保井芳太郎 より:
「放光寺古今縁起」:正安4年(1302)・僧審盛著、放光寺蔵では
敏達天皇第3王女(片岡姫)が建立、金堂に続いて講堂、五重塔、経蔵、伝法堂、湯殿、回廊、諸門、鎮守、南塔院、光明院、如學院、知足院(以上4個別院)などが完備する。
永承9年(983)伽藍焼失、建久年中俗別当沙弥阿妙再興えを企てるも成らず。焼け残った講堂・食堂も腐朽し、五重塔も朽損したため永保年中俗別当吉高がこれを三重に縮め銅の相輪を鉄に改めた。
僧審盛は再興を図るもその事蹟は不明。その後元徳元年(1329)金堂落慶、しかし元亀3年兵火により全焼。その後は隠元により黄檗宗として寺地を転じて再興される。(片岡山放光寺)
 放光寺跡概要図:明治20年頃土壇礎石はすべて取除く。
この図は保井芳太郎氏の幼少の記憶より推してほほ正確とする。
塔跡は今水田であるが、かっては34尺の土壇の上に中心礎を廻って約10個の礎石が残っていたといわれる。その北10間ほどにして金堂の土壇があり礎石が1列をなして78個あったと老人は記憶している。その北約20間にして講堂があり、土壇は金堂よりずーと低く、67個の礎石があったようである。
大和平群寺
 (平隆寺)
破壊 ◎「飛鳥時代寺院址の研究」:平群寺は現在の平隆寺(融通念仏宗)境内とその周囲が寺域であった。
飛鳥期創建で平群氏の氏寺とされる。
嘉吉元年(1441)の興福寺官務牒疏:「平群寺・・・僧宇32坊・・・」。天正年中松永久秀の兵火で灰燼に帰す。
「寺社惣堂除地改帳」元禄15年:「施鹿寺金堂屋舗(4畝12歩)、施鹿寺講堂屋舗(1畝26歩)、施鹿寺塔屋舗(1畝歩)、聖徳太子御建立・・・今ハ古跡ニテ御座候、・・」
<ただし、この頃は太子建立の施鹿寺と平群寺が同一されているようですが、同一かあるいは平群寺と施鹿恩寺が別寺かどうかは決め手がないようです。>
 □勢野村古地図」江戸期:保井氏蔵:
塔址、推定金堂跡芝地および付近には関係すると思われる地名が表示されている。
塔跡という地は今は畑地であるが、これは明治20年の開墾によるもので、それ以前は小高い芝地で中央には五輪石塔があり、5〜6個の伽藍石が列をなしてしたと云う。開墾に際し、五輪塔は平隆寺境内に移し(現存)、その下から発掘した大伽藍石は大きすぎて搬出できず、森川某に売却し小割りして搬出した。およそ35駄あったと云う。なお隣の金堂跡と思われる芝地も同年開墾された。ここにも2〜3個の伽藍石が南北に並んでいたと云う。現平隆寺本堂は若干の高みの上に立ち、おそらく講堂跡と思われる。礎石4個(円形柱座造出がある)を現平隆寺境内に残す。
 □平群寺跡地籍図:明治初頭のものと思われますが、まだ江戸期の面影を伝えています。
◎周囲はまだいくらかの田畑を残すも、住宅地に変り、上の古地図や地籍図にある塔跡の区画は寺なのか個人所有なのかの判断はつかないが、住宅の庭地になっていると思われ る。そのため、立ち入ることを躊躇せざるをえず、塔跡の現況は実見していない。また平隆寺は(訪問時は日中)固く閉門していて、境内地に はいりことが不可であった。
大和平群寺現況:写真中央(左平隆寺と右住宅建物の間で道路に面した生垣の中が塔跡と思われる。
昭和49年の発掘調査では、参道東で創建当時の心礎の搬入孔と抜取り穴が発見され、また現本堂の下層から東西棟と推定される建物跡が発見された。それ以外の遺構は発見されなかったが、大量の飛鳥期の瓦が出土したという。
なお、上記写真の生垣の中(塔跡)には「心礎抜取穴」と標す石柱と抜取穴の位置を示す石臼様の石製加工物があり、塔の中心の「しるし」としているようです。
◎2008/05/29追加:大和上代寺院志」保井芳太郎 より:
施鹿恩寺(施鹿薗寺):太子伝暦などによると聖徳太子建立寺院とする。
「斑鳩古事便覧」では承元4年(1210)法隆寺西郷に移り金光院と号し、天福2年(1234)さらに法隆寺北方に移る。元和8年(1622)法隆寺律学院回録の際金光院も類焼、その跡に宗源寺が建ったとする。その際金光院の一部を大念仏寺末浄念寺に移したので浄念寺を施鹿恩寺と称する。
「和州平群郡西勢野村寺社惣堂除地改帳」:
「1.除地 施鹿恩寺金堂屋敷4畝12歩 施鹿恩寺講堂屋敷1畝26歩 施鹿恩寺塔屋敷 1畝歩  
 2.借リ地 摂州平野大念仏寺末寺 平隆寺道場 右ハ施鹿恩寺金堂屋敷之内借地仕六拾弐年以前造立候 
   元禄15年」とある。
以上によれば、移転後の施鹿恩寺は元禄期も広い跡を残していた。塔屋敷は金堂の東南にあたり、明治20年頃開墾し水田と為す。塔屋敷には五輪塔と2個の礎石が残り、その五輪塔下から一大礎石を発掘する。しかしこれは小割にして森川某に売却と云う。(35駄ありと云う)
 大和平隆寺跡概要図
なお平群寺(平隆寺)と施鹿恩寺(施鹿薗寺 )はおそらく別の寺で、平隆寺は寺址は不明であるが現位置とは別にあり、中世には隆盛であったが、兵火で焼失し寛永18年に至り、施鹿恩寺金堂屋敷を借地して再建され (上記の「改帳」)現在に至ると云うことと思われる。
大和西安寺
 (久度寺)
破壊 聖徳太子建立の一院といい、寺跡は船戸神社境内(船戸神社現況:写真は神社社叢)とされる。
西安寺跡現況:舟度神社境内の遺跡状況については下記の予備知識があればある程度推測が可能。
 □大和西安寺塔跡1  大和西安寺塔跡2: 本殿北東部にある塔跡です。
不明確ですが、微かな隆起は見られると思われる。塔跡1は北西から、塔跡2は南から撮影。
 □大和西安寺金堂跡:大量の破砕片と基壇の段差と思われる地形が残ってい る。
 □金堂跡・礎石破砕地:今も大量に破砕片と布目瓦片が散在してい る。
◎「日本の木造塔跡」:心礎(長林寺式)と断定は出来ないとの記述がある。
 (心礎と伝承する礎石は正光寺所在と思われる。)
◎推定金堂跡南の畑地を耕作中の人の聞き取り:随分昔、現地から北西の方向数百mにある真宗大谷派西光寺(船戸神社を管理している)に礎石は移したと聞く。 その当日、正光寺に足を運ぶも、正光寺住職不在のため 詳細は不明とのことであったが、あえて西光寺境内地(前庭)を拝見、しかし礎石らしきものは発見不能であった。
◎「飛鳥時代寺院址の研究」:
西安寺は舟度神社境内及びその周辺にあったとされる。神社本殿北東に径約5間(9.1m)くらいの不正形の隆起がある。正光寺住職の記憶によれば、明治15、6年頃まで、その中央(現在の狛犬の東3間位の位置)に径1間 (1.8m)以上の礎石があり、それにはその中央に径2尺(60cm)余りの円形穴を穿っていたと。
また社殿背後には石片の散乱と礎石の掘り出しの痕を見る。明治の末ころ、礫の代用とすべく発掘・破砕したと伝える。(昭和はじめには発掘・破壊を目撃した人も現存していた と云う。)
おそらく西向きの法隆寺式伽藍であったであろう。南と東は高くなり、北と西が低い地形、神社西方17間あたりに門脇、馬場脇の字が残り、また東には形の良い田が残る(講堂跡であろう)。
町役場(2個)、正光寺(数個)、個人邸(保井芳太郎邸1個、堀内武太郎邸1個)に礎石を残す。
 □西安寺跡実測図  西安寺金堂跡割石散布
 □西安寺礎石(町役場保存)  西安寺礎石(正光寺保存)  西安寺礎石実測図
なお正光寺保存礎石は一見心礎のように見えますが、円穴の下は円錐形の掘り下げで、多分庭石に転用したときに柱座を掘り下げて加工したものと思われる。柱座径は1尺8寸(55cm)で大きさからも心礎ではないと思われる。※古老などの証言の通り、心礎は破壊されたものと思われる。
◎2008/05/29追加:大和上代寺院志」保井芳太郎 より:
一名を久度寺と云い、聖徳太子建立46院の一つと云うも、沿革は甚だ不明瞭。
古老は塔の心礎が舟戸神社境内に横たわっていたことを記憶している。それは中央に穴が穿たれている巨石であり明治14年信光橋工事の際割りて用いると云う。
大和朝妻廃寺a
<御所市飯田邸>
移転現存 御所市朝妻に廃寺はある。心礎は廃寺跡から少し西に上った岡田氏邸にあったが、事情により売却という。
現在この心礎は御所市竹田の飯田圭三氏邸にありと云う。
大和朝妻廃寺心礎:「佛教考古学論攷」

大和朝妻廃寺心礎:左図拡大図
▲心礎は二重円孔式、181×181cmで、径78×9cmと径28×10cmの穴を彫る。▲
◎飯田氏邸は現存する。但し圭三氏は他界し、心礎の有無についての確認は取れないのが現状である。
 □大和朝妻廃寺位置図:北600mに二光寺廃寺がある。金剛山東山麓の絶景の地に 位置する。
 □大和朝妻廃寺跡1:写真中央付近 が春日小祠<写ってはいない>で、写真右手周辺が廃寺跡とされる。
 □大和朝妻廃寺跡2: 写真は春日小祠、この前方が廃寺跡とされる。発掘調査なども行われたと云う。
◎「奈良県史 第6巻」:
心礎は径5尺5寸(1.67m)、外輪刳込径2尺6寸(79cm)、深さ3寸(9cm)、中央刳込径9寸5分(29cm)、深さ3寸3分(10cm)とされるが、現在は行方不明。
◎2007/01/06追加:「日本建築史要」(付図)より:
 大和朝妻廃寺心礎図
◎2008/05/29追加:「大和上代寺院志」保井芳太郎 より:
この遺跡は朝妻部落の字「寺畑」にあり、そこには近年まで低き土壇と数個の礎石を残していた(金堂か?)。さらに、ここより8間半の地点で先年塔の心礎を発掘したので、ここが塔跡であろう。心礎は岡田氏の庭に移す。
 明治8年朝妻廃寺調査図   朝妻廃寺心礎図2:先年発掘したる礎石で今岡田氏の庭に移している。
 ※保井氏はこの寺跡を聖徳太子建立葛木寺に比定する見解もあるが、この比定には多くの疑問点もあることを承知で、葛木寺として述べている。
 参考:聖徳太子建立46院○下注1を参照
2008/08/31撮影:朝妻廃寺心礎
  飯田邸に心礎は現存する。  

大和朝妻廃寺心礎1
大和朝妻廃寺心礎2
大和朝妻廃寺心礎3
大和朝妻廃寺心礎4
大和朝妻廃寺心礎5:左図拡大図
大和朝妻廃寺心礎6
大和朝妻廃寺心礎7
大和朝妻廃寺心礎8
大和朝妻廃寺心礎9
 飯田氏は昭和33年に現飯田邸に引越したといい、引越時点で心礎は既に据付られていたと云う。この邸宅は飯田氏ではなくて、時計屋を営んでいた御人が 建てたのもので、その御人が心礎を購入・据付したものと推定される。
心礎の実測値は次の通り。
大きさは151cm(約5尺)×124cm(約4尺)×約70cm(約2尺3寸)、2段円孔を持つ。
上孔は径67cm(約2尺2寸)、高さ約3cm(約1寸)、下孔は径61cm(約2尺)×深さ23cm(約7寸5分)
但し底はやや丸く加工されている。
おそらく手水鉢に転用の折、掘り下げられ、やや丸く加工されたものと思われる。
※現在の心礎はおそらく手水鉢に転用のときに改変された可能性が大きいと思われる。
上掲「奈良県史 第6巻」(平成3年)の心礎寸法とはかなりの差異がある。(「幻の塔を求めて西東」の寸法も同様)
「奈良県史 第6巻」の寸法に間違いが無く、かつこの数法が心礎の当初の大きさを示しているものであるとすれば、現在の心礎は、当初の心礎に比して、大きさに於いて は約30〜60cm程度周囲が割られ、かつ上面に於いては6cm以上削平され、さらに下孔に於いては元々径約29cmであった径が径61cm程度まで大きく広げられ、底も4cm程度掘り下げられた( 元々は深さ19cm程度から深さ23cm程度へ)と思われる。
上掲「佛教考古学論攷」の写真(大和朝妻廃寺心礎)は現在の心礎の姿と大差は無いと思われる。
 (つまりは心礎が改変されたとすれば、この写真も既に改変された後の写真であろう。岡田氏邸の時代か?)
上掲「日本建築史要」(昭和3年)の実測図(大和朝妻廃寺心礎図)は寸法表示はないが、ほぼ現状の心礎 の形状と一致すると思われる。
上掲「大和上代寺院志」(昭和7年)の実測図(朝妻廃寺心礎図2)は長径5尺6寸(1.7m)、深さ3寸5分(11cm)で、一重円孔式 のように見える。大きさはほぼ合致するも、形状など正確性に疑問がある。
摂津太田廃寺
<名古屋岡谷邸>
移転現存 「日本の木造塔跡」:心礎は明治40年に発掘され、その後京都に運ばれ、現在は名古屋中区白壁町岡谷氏邸にあるという。
心礎は1.6×1.58mの三角形で、径94×5/4cmの円穴があり、中央に30×22×16cmの矩形の孔を穿つ。発掘で舎利孔から金銀銅の舎利容器(重文)が発見され る。(現在東京国立博物館蔵)
太田氏は朝鮮から渡来した呉勝(くれのすぐり)が祖先とされ、紀伊名草郡太田村から摂津三島賀美郡太田村に移住し、更に播磨飾磨郡に移住し、下太田廃寺を建立したとされる。現在寺跡は工場地帯になり、見るべきものは無いと云う。
摂津太田廃寺心礎:「佛教考古學論攷 四 佛塔編」

摂津太田廃寺心礎:左図拡大図

2007/01/10追加:「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年 より
摂津三島廃寺の舎利容器:そとを大理石の石櫃(一辺6寸2分、他辺4寸5分、高さ5寸余、身の高さ3寸6分、蓋高1寸6分)とし、中に銅鋺(高さ2寸3分、径2寸1分)銀盆(一辺8分、他辺4分、高さ2分)金盆(一辺3分、他辺2分、高さ1分)を順次入れ子にし、金盆中に舎利2・3粒があったという。
 摂津三島廃寺舎利容器  三島廃寺舎利容器安置状況  摂津三島廃寺心礎  摂津三島廃寺心礎図
なお、現在舎利容器は東京国立博物館蔵となる。大阪府三島郡三島村字太田内北屋敷太田廃寺址出土舎利容器(1具・重文)、奈良期、平野拾治郎氏・太田治三郎氏寄贈 と標す。
2007/12/24追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 摂津太田廃寺舎利容器:上記の「舎利容器」と同一写真:山田寺蔵
 心礎内舎利容器断面図:上 図 は摂津太田廃寺、下図は美濃山田寺(小林行雄製図)、
  上記「舎利安置状況図」と同一
2009/09/05追加:
「仏舎利埋納」飛鳥資料館、平成元年 より
心礎は180×170cmで、中央に30×21cm深さ15cmの舎利孔を持つ。
 攝津太田廃寺心礎     攝津太田廃寺心礎実測図
 太田廃寺石製舎利外容器2     太田廃寺舎利容器2     太田廃寺舎利容器実測図

伝東大寺東塔心礎
<大阪藤田美術館>
移転心礎

伝承・伝来に諸説あり。

心礎とするには重大な疑問がある。

藤田美術館前庭(高野山光台院多宝塔の南に位置する)に東大寺東塔心礎と称する礎石がある。
○「日本の木造塔跡」:
大きさは3.8×2.4m、柱座径130cm、出枘径33・高さ5cmという。超大型の心礎ではあるが、上記推定東大寺東塔心礎よりはひと回り小さく、また大安寺西塔の柱座径147cmよ りも小さいので、東大寺心礎とは思われない。それ故、この礎石は別の塔の心礎であるかまたは東大寺東塔の側柱礎であるかであろう。
 東大寺東塔心礎については「大和東大寺」のページの「東大寺東塔心礎」の項を参照
○2006/06/10追加:撮影時期不詳「X」氏ご提供画像
 藤田美術館心礎1  藤田美術館心礎2  藤田美術館心礎3
○2006/09/30撮影
 藤田美術館心礎21  藤田美術館心礎22  藤田美術館心礎23  藤田美術館礎石
 (礎石:美術館庭園には幾つかの礎石と思われる石があるが、これは明確に礎石と思われる。)
「X」氏ご提供画像も合せ見ると、礎石は円形柱座に出枘を造り出すが、この庭園に据えられた時?に、円形柱座の1/5乃至1/6程度が切り取られ、竹樋の水受けとして加工されたと思われる。
当然ながら、この礎石の形式では心礎であるとは断定は出来ず、巨大な堂塔(EX.東大寺の主要堂塔)の礎石なかんづく塔の脇柱礎である可能性(「日本の木造塔跡」)の方が大と思われ る。
○「幻の塔を求めて西東」では、大きさは380×240×80cmで、東大寺西塔心礎とする。この根拠は不明であるが、「東塔心礎が幾つかの残欠となって石碑の台石の部材として転用されている」という認識があり、また藤田美術館の礎石は東大寺から搬入されたという伝承?記録?などから、心礎であれば東大寺西塔心礎とする見解とも思われる。蓋し、この見解(東大寺西塔心礎)も一つの仮説である とは思われる。
摂津芦屋廃寺
<芦屋市立美術博物館>
移転現存 塔心礎:1.93×1.1×約0.5mのほぼ五角形の自然石で、上面に径30×16cmの孔を穿つ。孔横に島津十字(径 20cm)の印刻がある。この印刻は後世のものなのかあるいは当初の方位を示す刻印なのかは判然とはしない。昭和11年西山町旧栃木嘉郎氏邸南東に埋没していた心礎の調査が行われ た。その後、経緯は不明ですが、心礎は寺跡の南方・月若町猿丸吉左ヱ門氏邸にあったとされる。さらに、これまた経緯は不明ですが、現在では芦屋市立美術博物館前庭に放置されている。
伽藍地は芦屋市西山町とされ、市街地化している故に、小規模の合計66次に及ぶ発掘が平成11年度までに実施された。結果、平成11年(66次)発掘で、金堂跡の推定南辺の地形段差と基壇が検出された。具体的には、下成基壇の一部残存と思われる花崗岩の基底列石が発掘され、白鳳期と思われる軒丸瓦、建築用「塼」の出土が多く得られた と云う。また基壇は3回に渡り、整地造替が行われたことがはっきりしたとされる。創建時礎石および再・再再建の礎石と思われる石も出土したという。(ただし金堂跡との推定は以上の成果および地形を含めた状況証拠からの推定 と思われる。)
ところで心礎は推定金堂跡東の旧栃木邸で出土したとされ、だとすると、おそらく法起寺式であろうとの推論もなられる。
「寺社御改委細帳」元禄5年(1692):塩通山法恩寺、開創は行基、在原業平が伽藍修復、嘉吉2年(1442)の兵火で焼失、その跡に薬師堂を 建立。なお薬師堂は西ノ坊と称すると云う。
「行基年譜」;天平2年(730)菟原郡に船息院・同尼寺を建立。
「摂津志」・「摂陽郡談」・「芦屋の里」・「塩通山故事」・「務古の浦風」などの文書にもいわば「伝承の継承」と思われるが、行基との関連の記載があるようです。
「摂津名所図絵」:芦屋川東岸に「薬師」として挿絵がある。
近代には瓦の出土などを見、昭和42・43年には薬師堂跡と推定される礎石・石列、中世の石垣列などが発掘される。
攝津芦屋廃寺心礎1  攝津芦屋廃寺心礎2  攝津芦屋廃寺心礎3  攝津芦屋廃寺心礎4
摂津安倍寺
<天下茶屋公園>
移転現存 高津久右衛門氏(大阪・砂糖取引商人)が 心礎を所有していたが、後に高津氏は邸を大坂市に寄附する。大阪市はその跡を天下茶屋公園として整備し、心礎はそのまま天下茶屋公園に残存する。
「日本の木造塔跡」:心礎は、2.1m×1.5m、中央に径64cm深さ15cmの孔があり、その中央を少し外れて径13.6cm深さ7.6cmの円孔を穿つ。花崗岩製。心礎は後に、旧高津邸に移され、さらに高津邸は大阪市に寄付され、天下茶屋公園に整備された。そのとき心礎の孔にはセメントが詰められ、表面を平に磨き あげたと云う。
現状、天下茶屋公園は野宿する人が多数いる。心礎のある附近も生活の場となり、孔も泥水とゴミが溜まっている。生活者が心礎すぐ近くにいる関係上、汚水などを除去して写真を撮れる雰囲気では ない。
(それゆえ現地説明板に孔の写真掲載がありますので、それも掲載。・・・心礎5)
なお心礎の現状は、詰められたとされるセメントは取り除かれてはいる。しかし磨かれたとされる表面は取り返すことは不能。
阿部寺は阿倍野区松崎町2丁目の松永大明神付近に存在したとされる。戦前、松永大明神より心礎が発見され、さらに平成11年の調査で創建時(奈良時代7世紀後半頃)から16世紀初頭までの瓦が大量に出土したという。
攝津阿部寺心礎1  攝津阿部寺心礎2  攝津阿部寺心礎3  攝津阿部寺心礎4  攝津阿部寺心礎5
摂津堂ヶ芝廃寺a
(摂津百済寺)
亡失

(天王寺区)大阪市文化財協会のHPでは「堂ヶ芝の地付近からは古代の瓦が多く見つかり、かつて巨大な塔心礎も残っていたことから古代の寺院跡として注目されてきた。最近、近隣の細工谷遺跡から「百済尼」・「尼寺」と記された墨書土器が見つかり、「百済尼寺」の存在が浮かび上がってきた。そこで、堂ヶ芝廃寺は、「尼寺」と対になる「百済寺」である可能性が高まっている。」との記載がある。
なお大別王寺とする説もあるようです。
心礎は亡失と思われる。心礎亡失の経緯は不明。
なお出土瓦の様式は白鳳前期とされ、かっては土壇様の遺構もあったとされる。
現状は写真の石碑があるのみで、何の遺構もない。
 □堂ヶ芝廃寺跡石碑
▲大阪 摂津百済寺 100×100cm 表面が平らで中央に方形の浅い舎利孔がある 創建・白鳳前期▲
この記録の典拠の記載はなし、亡失などの経緯は不明、白鳳期の平地伽藍の心礎としては(割られているのであれば別であるが)小さすぎると思われる。
○「飛鳥時代寺院址の研究」:
現在豊川稲荷の社殿の背後(北側)に基壇様の土壇(3間×7間×3〜4尺)が残存していた。
出土瓦には飛鳥期のものが混在する。
 □摂津堂ヶ芝廃寺土壇・・・現在は消滅と思われる。
○2007/02/10追加:
「摂津名所圖會」:百済野の中にあり。今、字を堂ヶ芝といふ。
○現在、一般的には摂津百済寺はこの堂ヶ芝廃寺であろうと云われる。但し、この百済寺が聖徳太子建立とされる寺院かどうかは不明。

河内智識寺西塔
<京都清流亭>
移転現存 現在京都左京区南禅寺、清流亭にあると云う。心礎は安堂智識寺西塔との口伝などがある。
河内六寺の河内智識寺の項
河内家原寺
(河内普光寺、河内安堂廃寺)
<京都碧雲荘>
移転現存

現在京都左京区南禅寺、碧雲荘にあると云う。心礎は安堂普光寺から運んだとされる。
河内六寺の河内家原寺の項

河内飛鳥廃寺
<名古屋城内織部堂前>
移転現存 名古屋の高松静雄氏邸に移動→名古屋市に寄贈され、名古屋城織部堂(茶室)前に移動 して現存。
「日本の木造塔跡」によると、羽曳野市駒ヶ谷(旧南河内村)飛鳥西の寺の小池の畦から昭和初期に発掘されたという。名古屋に運ばれ、現在は市に寄贈され、名古屋城 織部堂(茶室)の蹲となる。
心礎の大きさは2,8m×1,77mで径102cm深34cmの柱孔を持つ、柱孔に径20cm深2.2cmの蓋受孔、径16cm深15cmの舎利孔、さらに4段目の孔として径14cm深4cmの孔(脱湿孔)を持つという。
しかし、この大型の心礎はあくまで蹲としての扱いで、かつ紹介が無ければ非公開とされ、通常ではこの大型心礎・その構造を観察することは出来まない。要するに心礎としての価値など全く認められていないというのが現状であろう。
河内飛鳥廃寺心礎1  河内飛鳥廃寺心礎2   河内飛鳥廃寺心礎3  河内飛鳥廃寺心礎4
 ※なお河内飛鳥廃寺の情報が皆無で、その位置など定かではない。
播磨新部廃寺西塔a 亡失 西塔心礎は流出し、京都→神戸→岡山にあるともいわれるが不明。東塔心礎は現地に現存する。
「播磨の塔跡」の播磨新部大寺廃寺」の項を参照。
播磨見野廃寺
<姫路文学館>
移転現存 姫路文学館・望景亭に移動。
現在、姫路文学館の望景亭の庭に手水鉢として残存。公共の文化施設である文学館(考古館ではないとしても)内であるから、それなりの心礎としての待遇があるのだろうと普通の感覚では推測するが、心礎としての価値は認められていないようで、単に蹲の一つの部品として扱われる。
(館の案内に心礎の有無を尋ねても全く知らないとの回答であった。)
心礎は望景亭隅に石を組み上げた上に据えられ、手水鉢としてある。自然石の一辺を平にして、中央に柱穴を彫り、さらに中央に舎利孔を穿つ。
「幻の塔を求めて西東」:130×95×100cmで、58/59×11の円穴と9×8×5cmの孔を穿つ。姫路市男山寮内庭園。
望景亭:姫路文学館の一角にあり、もとは大正期に建てられた個人の邸宅を補修したもので、40畳の和室と茶室を備えると云う。今は市の施設として、「文化的な催」に開放されているようであるが、心礎は「文化的」なものではないと云うことと思われる。
なお見野廃寺は姫路市南東にあり、白鳳期の創建とされる。
 □見野廃寺心礎1  _同 ___2  _同 ___3  _同 ___4  _同 ___5
 □見野廃寺心礎図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
播磨北平野廃寺
<播磨姫路本徳寺>
移転現存 播磨本徳寺(姫路船場別院本徳寺・東派)に移転現存。
心礎は姫路本徳寺本堂裏右手の庭の庭石(手水鉢)として残存する。心礎は 1.2×1mで径60cmの柱座の造り出しがあり、中心に径30cm深さ14cmの孔が穿孔されている(「日本の木造塔跡」)。
この心礎は北平野廃寺の心礎とされるが、なぜここにあるのかは、現在情報がありません。
平野廃寺は真宗常称寺の西隣のコクゾウサン(虚空蔵さん)の境内 が寺跡であり、礎石が残ると云う。また礎石は常称寺の庭石にも転用されているともいう。
 現在、真宗本徳寺は大変荒れていると思われる。正門・本堂の背後の玄関・庫裏・書院といったような建物は崩壊寸前の箇所もある。訪問時は不在の様子で、廃寺 との疑念もあったが、後で近所のお年よりの談では住職はいるとのことであった。真宗東本願寺派の大寺であるが、もし心礎のある庭を囲む建物が老朽化のため、取り壊しあるいは寺地が転売にでもなった場合、心礎も転売あるいは行方不明になるのではと危惧される。
 ※但し姫路船場別院本徳寺の寺暦は変化に富み、かつ由緒があり、また姫路は門徒の強固な拠点でもあり、廃寺などということは心配はないと思われる。
北平野廃寺塔心礎1 _同____2   _同____3   _同____4   _同____5
  本徳寺伽藍など
播磨平野廃寺心礎図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
播磨奥村廃寺
<龍野市歴史文化資料館>
移転現存 龍野市歴史文化資料館に屋外展示。(移転)
▲数次の発掘調査で、約150m四方の寺域を持つこと、中心に金堂があり、その東西に2塔を有すること、金堂北に講堂がある珍しい伽藍配置であることが判明。すなわち東塔・金堂・西塔は東西に一直線に並ぶ。東西両塔は10 m四方の方形土壇らしく、両塔の心礎も発見された。7世紀末〜8世紀末の瓦が出土。▲
発見された心礎は現在、龍野市歴史文化資料館に屋外展示されている。
「X」氏情報:案内板は立つものの、遺構は完全に畑地の下に埋没している。
「幻の塔を求めて西東」:187×105×71cm、径30×24cmの円孔。
 ※これはおそらく東塔の寸法と思われるが、長径187cmは137cmの誤植もしくは勘違いと思われる。
同著の手書き「塔心礎の追加表」:
東塔心礎:137×105×71cm、径30×24cmと11.5(径?)の2重円孔式とする。
西塔心礎:200×150×85cm、径20×19/20cmの円孔を持つ。
心礎は心礎としては比較的丁寧に加工した切石(特に東塔心礎)に枘孔を穿った華麗な心礎である。
東塔心礎が2重式とは見えないが、西塔心礎は底の脇に舎利孔とも思われる孔があるとは見えない。なお上記寸法の大きさは妥当と思われるが、円孔の寸法については東西逆であろう と思われる。
伽藍配置図、東西心礎図、発掘概要図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
播磨奥村廃寺両塔心礎
_同___西塔心礎1  _同____2  _同____3  _同____4  _同____5
_同___東塔心礎1  _同____2  _同____3  _同____4  _同____5
_同___伽藍配置図  _同___東西心礎図  _同___発掘概要図
2008/05/24追加:
播磨奥村廃寺イラスト:小東憲朗画
播磨櫛田廃寺 亡失 播磨櫛田廃寺
▲詳細は不明。かっては心礎が存在した。その上に小祠(原神社)を祀っていたが、大正7年の護岸復旧工事で割られて転用されたという。▲
福円寺と云う寺名の伝承がある。
播磨与井廃寺a 亡失 ○「古代寺院からみた播磨」:心礎は径50.5cm、深さ 24cmの円孔があり、さらに10.5cm×8cm深さ8.1cmの方形舎利孔を持つ。この心礎は昭和13年に搬出されて、現在は所在不明。そのほか円座を持つ礎石数個も存在する 。
 □播磨與井廃寺心礎図(「古代寺院からみた播磨」から加工) :現在所在不明。
○「X」氏情報:西乗寺の西方の二軒目(?)の民家の西側に円形造り出し柱座をもつ礎石と西乗寺本堂下にも転用礎石が転がっている。
○2008/06/28撮影:
現地には塔土壇と思われる土壇の北半分が残る。すでに心礎は搬出されて残存しない。
礎石は心礎位置の東の土壇端に1個残存する。この礎石が原位置を保つならば脇柱礎石と推定される。
塔跡すぐ北には山が迫り、どのような伽藍配置であったのあろうか。
塔跡の土地所収者からの聞き取りは以下の通り。
・心礎を持ち出した先は京阪神と聞いているも、具体的な場所や所有者は分からない。
・心礎の掘出穴に礎石(推定)と五輪塔残欠を設置している。礎石(推定)も與井廃寺礎石と推定される。
・塔跡の発掘は戦前に行われたが、その後発掘調査は行われていない、塔跡のすぐ北の山裾にある墓地は土地所有者の墓地であるが、墓地造成にあたり発掘の話があったが(面倒なので)お断りをした。
・塔の土壇上にただ1個の塔礎石が残る。(心礎の東側で塔土壇と思われる高まりの端にある。・・上述)
また東約40mの位置にある浄土真宗西乗寺本堂の礎石に多くの柱座を持つ転用礎石がある。
 播磨與井廃寺塔跡1:中央やや左が心礎掘り出し位置
 播磨與井廃寺塔跡2:中央(推定)礎石位置が心礎掘り出し位置
 播磨與井廃寺塔跡3    播磨與井廃寺塔跡4
 播磨與井廃寺塔礎石1   播磨與井廃寺塔礎石2
 播磨西乗寺全景:以下は西乗寺本堂礎石転用
 播磨與井廃寺転用礎石1  播磨與井廃寺転用礎石2  播磨與井廃寺転用礎石3
 播磨與井廃寺転用礎石4  播磨與井廃寺転用礎石5
なお「2004年7月31日上郡町教育委員会は『塔基壇整地面積は14m四方』と発表」とのWeb情報がある。
播磨殿原廃寺a
<京都土橋邸?>
亡失 京都土橋邸に移動。→売却という。 売却先は不明。
・「佛教考古学論攷」:播磨殿原廃寺心礎

播磨殿原廃寺心礎:左図拡大図

「古代寺院からみた播磨」:国府寺境内が廃寺跡。心礎がかってはあったが現在は所在不明。数次の発掘調査を実施。塔跡基壇は東西10m、南北11m。塔東方に基壇、北東に基壇。法隆寺式伽藍が想定される。7世紀後半に建立 と想定。
・「X」氏情報:殿原廃寺跡の確認は困難と思われる。
・「古代洲聚落の形成と発展過程」赤松啓介著:心礎・側柱礎数個を残し・・・・・
 □殿原廃寺心礎(「古代聚落の形成と発展過程」からトレースおよび加工)
造出を持ち刳込円孔を持つ心礎であったようで、大きさは造出径:94cm、円穴の径:69cm・深さ:23cm、心礎の大きさの記載はなし。
▲心礎は140×140cmで、径91×3×3cmの環状溝と径70×24cmの穴を彫る。鎌谷木三次「播磨上代寺院址の研究」▲
・2006/03/11追加:「兵庫県史 考古資料編」
心礎は1938年売却搬出され、抜き取り穴が国府寺南面生垣辺りに残っていた。

伯耆野方廃寺a 亡失 所在は東伯郡東郷町<出雲野方廃寺(教昊寺)ではない 。>
▲心礎は一重円孔式、230×230×95cmで、径50cmの円穴を彫る。白鳳。▲
心礎の詳細は不詳。瓦あるいは鴟尾の破片などが出土していると云う。
美作楢原廃寺a 破壊 「佛教考古学論攷」:心礎50寸×・・・、径6.5×・4.8寸の円孔。
▲心礎は157×?、径20×14cmの円孔、一重円孔式、白鳳末。▲
○「佛教藝術」116号:創建寺院の礎石を転用した薬師堂がある。昭和50年の発掘調査で南北に並ぶ礎石建物2が検出された。建物1は推定約30×15mで、5×5間の建物が想定され(礎石2個と薬師堂礎石4個以上) この建物は金堂もしくは講堂と推定される。
建物2は一辺35尺10.5mの方形基壇を持ち、礎石は現存しないが、版築が一部確認され、塔跡と推定される。
出土瓦から創建は白鳳期とされる。
○2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
現在薬師堂(小祠)があり、径1mほどの礎石が使用されている。
かっては塔心礎と思われる円孔のある礎石が存在したが、大正初年頃破壊されたと云う。
○2008/12/25追加:「岡山縣通史」永山卯三郎、昭和5年 より
概説:寺地一帯の地は地下に古瓦埋蔵せらる。台帳面には国司とあり薬師堂と称する辺りに礎石数個あり、皆移動して本来の位置にあらず、薬師堂の東北方十五間許に阿弥陀屋敷と称する所あり。一小石仏を安置す。
礎石: ・・・中央円孔ありし直径五六尺の礎石は大正三年頃伊東嘉雄氏これを破壊すと云う、蓋し心礎なり。惜しむべし。
古瓦:大正十五年一月排水工事中礎石の西南十五間の所字扇田より古瓦破片一個を出す、岡坂源一之を蔵す。
○2008/12/25追加:「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告013−楢原廃寺址」1976 より
1975〜76年の発掘調査:薬師堂が寺域の一角に残り、1mほどの推定礎石がその基礎に転用される。
南1トレンチで2つの建物基壇を検出、北を建物T、南を建物Uとする。
建物T:推定基壇大きさは100尺(30m)×50尺で、数個の礎石及び抜取り穴を発見し、5×4間の建物があったとされる。
建物U:一辺約35尺(10.5m)の方形基壇が想定される。礎石は遺存せず、1箇所の礎石抜取穴を検出。基壇基部には50cm前後の石を並べ、その上には石・瓦を詰める。基壇は版築で現状約70cmを残す。
 楢原廃寺トレンチ配置図    楢原廃寺塔跡:北より
 楢原廃寺塔基壇北側列石1   楢原廃寺塔基壇北側列石2    楢原廃寺塔基壇北側列石3
 楢原廃寺塔基壇東側列石・溝1   楢原廃寺塔基壇東側列石・溝2    楢原廃寺塔基壇東側列石・溝3
 楢原廃寺塔基壇東側列石4
備前吉岡廃寺  

寺院跡は瀬戸町塩納にある。
1981〜82年に発掘調査され、調査時に畦にあった心礎は現在万富公民館に移転する。
寺院は方1町の法隆寺式伽藍配置が想定されると云うも、建物規模ははっきりしないと云う。
心礎は表面を平に削平し、不明確ではあるが2段円孔式の心礎と思われる。
心礎のほぼ半周に沿って、心礎上辺の外周縁が欠損(後代に割られている)していると思われる。
現状心礎の大きさ:120×110×52cm、径63×凡そ2cmの柱座?と径45×凡そ1cmの?孔を穿つ。
但し、この2個の円孔の縦面ははっきりとした凹ではなくて、スプーン状の形態(球面)を採る特異なものである。
それ故、その形状から果たして本当に塔心礎であることについて、若干の疑問があるとも思われる。
出土瓦から創建は7世紀後半で、平安前期まで存続していたとされる。
 備前吉岡廃寺心礎1    備前吉岡廃寺心礎2    備前吉岡廃寺心礎3    備前吉岡廃寺心礎4
「吉備の古代寺院」より:
 吉岡廃寺伽藍配置想定図:下記報告書からの転載  吉岡廃寺心礎実測図
○「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告049−吉岡廃寺」1982 より
昭和56〜57年に圃場整備に先立ち発掘調査。
調査の結果、全般的に遺構全体の残存状況は好ましくなかった。そのため、金堂・講堂・中門などの伽藍遺構は明確にすることはあたわず。しかし唯一塔跡のみは比較的保存状態が良好であった。
塔心礎は畦畔土手の一部として使われていた。大きさは径約130cm、厚さ70〜80cmで、石質は花崗岩である。 畦畔土手に設置の時、一部周囲が割られたものと思われる。
T-22で心礎抜取り穴と掘方を検出。その他のトレンチなども合わせ、塔基壇や版築なども出土し、塔基壇の規模は53尺と判断された。
出土瓦などから創建は白鳳期であり平安初期まで存続したと推定される。
 吉岡廃寺心礎:畦畔土手にある状態      吉岡廃寺心礎実測図
 塔心礎抜取穴断面:東より      吉岡廃寺トレンチ図
 吉岡廃寺塔東側基壇・版築     吉岡廃寺塔北西隅基壇     吉岡廃寺伽藍推定図

備中赤茂廃寺
(英賀廃寺)
<京都善田邸>
移転現存 日本の木造塔跡」:心礎は1.5×1.35cmで、35×11cmの円孔と15×11cmの舎利孔を穿つ。また円形造出を持つ。現地には側柱礎1個残存。
現在この心礎は善田邸(善田昌運堂という茶道具店を営む。京都市中京区姉小路烏丸東入ル)にある。
心礎見学に関する善田社長の対応:個人所有で見学は謝絶とする。(現在見学は不可)
おそらく店奥にある庭に確かに現存すると思われる。謝絶はされたが、問答によれば、かなり大きな石で径1尺深さ1尺ばかりの円穴がある。舎利孔の存在は否定するが、上記の心礎であれば、 舎利孔もあるはずと思われる。舎利孔はないとの先方の見解は、先方に特に興味があり良く観察した上でのことではないとも思われる。由来については先々代の時代の造園からあり、由来は伝えられてはいないとのことであった。
○赤茂廃寺:旧英賀郡北房町上水田赤茂。昭和54年の調査で、塔、講堂、中門、回廊などの痕跡を確認したといわれる。塔の一辺は15.6m、乱石積基壇。創建は7世紀後半で法隆寺式もしくは観世音寺式の配置とされる。現状見るべきものは何もないと思われる。
○2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
 英賀廃寺伽藍想定図・心礎図:下記報告書からの転載。
○「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告038−英賀廃寺」1980 より
昭和54〜55年の発掘調査。
廃寺は大字赤茂にあり、小字は塔推定地が遠正、講堂推定地の北が高倉、金堂推定地が観音堂と云う。
塔跡:塔心礎は昭和13年に持ち去られる(注1)も、抜き取った位置は明確である。現在この位置には石碑があり、周囲の水田より60cmほど高く、塔基壇の残存とも推定されたが、発掘調査の結果これは周囲の水田から出た瓦やゴミの集積であると判明する。
4Tでは塔東基壇を確認、さらに東で回廊を検出する。この結果、塔基壇一辺は15.60mと判明。
また1Tから心礎抜取り穴を確認。なお基壇化粧は乱石積であった。
(注1)「岡山県通史」昭和5年刊では心礎は字高倉6440番・字遠正6439番にあったと云う。
昭和13年心礎は抜き取り持ち出され、その後所在が不明であったが、昭和40年京都にあつことが確認される。現在は京都市善田喜一郎邸にある。
講堂跡:ほぼ7間×4間と思われる規模の建物跡などが確認される。
金堂跡:ほぼ削平され、明確な遺構は明らかにならず。
中門跡:水田にする前は周囲より約1mほど高い荒地であったと云う。ここでも削平が激しく、明確な遺構は明らかにならなかったが、掘込地業と思われる遺構を検出する。
回廊跡:塔を囲むように6T、3T、3ATで確認される。
 英賀廃寺伽藍推定図    英賀廃寺心礎図
 英賀廃寺地形図       英賀廃寺トレンチ図    英賀廃寺T1・T4図    英賀廃寺塔跡平面図
 英賀廃寺心礎抜取穴
 英賀廃寺塔基壇:西から     英賀廃寺1T塔基壇:西から     英賀廃寺4T塔基壇:東から
備中寺戸廃寺a
(備中後月寺)
亡失 井原市西江原町寺戸。「佛教考古学論攷」:心礎49×43 寸、径6.5×4.8寸の円穴。
「幻の塔を求めて西東」:心礎148×140cm、径19.3×14.2cmの円孔、一重円孔式、白鳳後期。
ネット情報によると、興譲館高校前の道路に「曹洞宗国分山後月寺」という柱が立てられている付近から奈良期と推定される瓦が出土している。天神山にある阪谷朗廬(仰徳園)の記念碑の土台石は寺戸廃寺の塔の礎石であると言われている。
「日本の木造塔跡」によると、当寺の心礎は、明治以降の文献で心礎の記録があり、亡失した心礎の一つとされる。下記画像は塔礎石とされる礎石と思われる。
後月寺塔礎石1 _同 ____2:2002/03/21:(X氏ご提供画像)
周防濡田廃寺 破壊 柳井市新庄安行小字濡田(大蔵)に、明治30年頃まで心礎があったが、山陽本線敷設のとき、鉄橋の石垣石に使用するために破摧したとの伝承があるようです。古老の話によると、心礎は直径2mくらい、二重孔式で、この孔内には舎利が納められていたという。
この付近からは、瓦が多く出土し、出土瓦から奈良後期から平安・室町期まで存続した寺院とされる。
明治34年頃字安行の通称「濡田」の丘上で、心礎は発見され、鎮守堂を建て出土品を祀っていたが、現在はは個人蔵のようです。また附近から窯跡が発見されたが、山崩れで現存しないという。
伊予中ノ子廃寺 おそらく
破壊
「飛鳥時代寺院址の研究」:来住廃寺の南方1km弱 に廃寺跡がある。現状は全部開墾されているが、かつては素我神社があり、明治45年に開墾されるまで、素我神社の旧地は方5間(高さ7尺余り)の土壇であった と伝える。
その土壇上には礎石と思われる石が2個あり、この2個は付近の五十鈴神社に運ばれ現存する。また開墾した当事者の話を総合すると、大量の瓦片(南の小川辺に捨て、今も散在する)と地下10尺位のところから3、4百貫もある巨石(形状ははっきりしない)が発掘されたという。その巨石は砕いて搬出したと云う。おそらくこの土壇は塔土壇で、巨石は心礎と思われる。なお五十鈴神社へ移動 した礎石は表面を平に加工した自然石で、1つは手水鉢に加工され、1つは拝殿左に置かれているとされる。
中ノ子廃寺塔礎石1  中ノ子廃寺塔礎石22005/2/11「X」氏ご提供
礎石1:手水鉢に加工された礎石(推定)、礎石2:拝殿左に置かれたとされる礎石(推定)
肥前塔塚廃寺 おそらく破壊

大正14年「佐賀県史蹟名勝天然記念物梗概」には「大寺院の塔の跡ならむか同所は小高く森のごとき観相をなし中に五個の礎石あり、・・礎石の間東西 18尺8寸南北14尺7寸礎石の最大なるもの直径3尺9寸あり」
昭和15年「佐賀県史蹟名勝天然記念物調査報告」には「東西11m、南北12m、高さ0.6mの土壇上に、塔心礎と思われる自然石を囲み、4個の自然石があり、いずれも直径1m余、間隔は5−6m、付近に布目瓦が散乱していた。」
しかしながら昭和17年(「X」氏情報:飛行場建設)この遺跡も1mばかり削平され、消滅したと思われる。削平作業中、地下から2個の礎石、軒丸瓦などの出土を見たという。

豊前天台寺跡
(上伊田廃寺)
戦時の造成で穴に落とす/
戦後の発掘調査後埋戻
田川市上伊田鎮西公園内:現在天台寺跡地は公園となる。心礎は地下に現存する。
戦時の造成で基壇削平・心礎は穴に落とす/戦後の発掘調査後埋戻(現在見ることはできない。)

豊前天台寺跡
日向国分寺a 亡失? 心礎についての詳細不詳。亡失かどうかも不明。
▲心礎は一重円孔式、140×140×56cmで、26×15×巾6cm(意味不明?)出典は「国分寺の研究 下巻」より、国分寺としてあまりに小さい。▲


「佛教考古学論攷」:左記の表示は「佛教考古学論攷 4 佛塔編」石田茂作、思文閣出版、昭和52年を示す。

2006年以前作成:2009/09/26更新:ホームページ日本の塔婆