攝  津  本  興  寺

攝津(尼崎)本興寺

攝津本興寺三重塔

昭和48年11月建立。鉄筋コンクリート。 但し外部は木工作ですので外見は古風な趣がある。2、3重を2間に造る。高さ27m、一辺5,7m。

2003/9/21撮影画像:
攝津本興寺三重塔1(左図拡大図)
  同        2
  同        3
  同        4

2000/10/9撮影画像:攝津本興寺三重塔

 

建築造作は伸和建設による。
伸和建設資料集」より:
塔本体は鉄骨(心柱が無く内部は階段室の構造)、外部は木工作、地下は納骨堂。

攝津本興寺三重塔正面図(左図拡大図)
  同    三重塔


本興寺伽藍

本堂:5間×6間、入母屋造本瓦葺、東西10間、南北8間。文政5年(1822)類焼、同10年再建。昭和37年改修。
本興寺本堂

祖師堂:文政5年類焼、嘉永6年(1852)再建。東西5間半、南北6間。入母屋造本瓦葺。
日蓮・日登・日与・日諦・日承・日尭・日?(ユウ?)・日庸各上人像を安置。
本興寺祖師堂

大方丈:元和3年(1617)建立、重文。10間×7間、入母屋造本瓦葺。前面は3間四方の三室、背面は4間に2間半の三室が並ぶ、南側に広縁を付設。廊の先は写真に見られる唐破風屋根、両開き戸に続く。慶安元年・元禄年中・文政8年修理、近年解体修理。
本興寺大方丈

三光堂:桃山期の建築と推定、三間社流造、銅板葺。大物浦から移建と伝える。拝殿は慶長2年(1597)豊臣秀頼・加藤清正の再建。 三光天子、鬼子母神、三十番神を祀る。
本興寺三光堂1  本興寺三光堂2
三光堂拝殿

鐘楼:寛永10年(1633)建立、3間×2間、入母屋造、袴腰付。
本興寺鐘楼

開山堂:文正元年(1466)第六世日与上人代に御文庫堂として建立。あるいは永正10年(1513)建立とする説もあるようです。永禄元年(1558)日諦上人代に開山堂に改修したと される。重文。
複雑な構造(撞木造というようです)を持ち、正面は入母屋造で、前方に唐破風を付け、後方に切妻屋根を長く伸ばし、その軸部および組物は唐様を用い、軒は二軒扇垂木とする。 つまり建立当時は、3間四方(内陣)の入母屋造本瓦葺の建物でしたが、明暦2年(1656)前面に2間の外陣を追加、ついで天和3年(1683)には後方に4間の内々陣及び後陣を増築したとされる。
室内装飾は華麗を極めるようです。昭和37年に解体修理。日隆上人像(重文)を安置する。
本興寺開山堂1  本興寺開山堂2
本興寺開山堂3  本興寺開山堂4
本興寺開山堂5  本興寺開山堂6

客殿・大方丈・本堂の連なり(手前から)

日隆上人荼毘塚:上人は寛正5年(1464)80歳で入滅、この塚は宮町の妙光寺に祀られていたが、昭和38年妙光寺が難波に移転し、そのとき本興寺に譲渡されたという。古来荼毘塚と伝承されてきた と云う。
本興寺日隆上人荼毘塚

御聖教殿:安政元年(1854)第83世日量上人建立。日隆上人御聖教を収蔵護持。
本興寺御聖教殿

表門:近世あるいは近年のものと思われる。
本興寺表門

本興寺歴代供養碑(墓地)

興隆学林;享徳3年(1454)日隆上人創建の勧学院が前身で、尼崎檀林(学室)という。現在は鉄筋コンクリート製(3階建て?)。
そのほか宝物殿(近年の推定コンクリート製)、太鼓櫓、裏門、客殿、庫裏などの建築があります。

寺中として西側に本教院、一乗院、恵運院、養寿院、東側に本成院、尭運院の6院が残る。
本興寺西側寺中  本興寺尭運院

「摂津名所圖會」にみる本興寺(寛政8−10年(1796-1798)刊)

本興寺全図(部分図・左図拡大図)です。

当時は表門右本堂南東に多宝塔があった 。
本堂祖師堂などが文政5年(1822)類焼とされ、未確認ですが、この時多宝塔も類焼し、その後再興されなかった可能性は高いと思われる。
 

多宝塔跡は確認はしていませんが、おそらく現宝物殿が建っている場所と思われる。
中西亨「日本の塔総観」の長遠寺の項に本興寺多宝塔記事がある。「・・・多宝塔があったが今は廃滅し、あとに石塔がわびしく建っている。」近年まで何らかの多宝塔跡が残っていたのかも知れ ない。
「日本塔総鑑」:「本堂の向かって右側のところで、今石造十三重塔が建っているところ」が多宝塔跡とする。
「佛教考古学論攷」石田茂作:「文政火亡」とある。

攝津本興寺沿革

法華宗本門流<勝劣派中の八品派・日隆門流を云う>4箇大本山<京都本能寺・尼崎本興寺・岡宮光長寺・鷲巣鷲山寺)の一つで ある。
応永27年(1420)本門流開祖日隆上人の創立とする。本能寺が布教の道場であったのに対し、本興寺は教学の道場として発展したとされる。元和以前は他の日蓮宗寺院と同様に城砦の構えであった。元和3年(1617)戸田氏の尼崎城建設に伴い、 大物の浜から現寺町に移転する。
 注)5個大本山の一つであった京都妙連寺は本門法華宗の大本山として今は離脱 をしている。

日隆上人
至徳2年(1385)現富山県射水郡大門町で生誕。越中遠成寺にて剃髪得度、のち京都妙顕寺に入り、第4世日霽上人に入門、慶林坊日隆と改名する。
応永22年(1415)仏光寺に本応寺(後の本能寺)を創建し、本門八品上行所伝のお題目を人々に説き、妙本寺(妙顕寺)月明を諌めた。月明達は応永25年、本応寺を破却し、日隆上人の殺害を謀る。日隆上人は難を逃れ、北河内三井に留まる(円海法師を破折し、本厳寺を創立)、さらに尼崎辰巳の浜に米屋次郎五郎を訪ね、ここに止宿する。
攝津守護細川満元(幕府管領)は日隆上人に帰依し、精舎の寄進をし、若宮八幡宮の境内に本興寺を創建する。
この地を活動基点として、応永30年には日慶上人が妙蓮寺を、さらに越中に布教し元成寺を創建、永享5年(1433)には本応寺を再興、本能寺と称する。
寛正5年(1464)2月25日尼崎本興寺で入寂。80歳。