|
★天明年間刊「拾遺都名所圖會」の加茂東明寺から
江戸末期の伽藍図
★略 歴
天平年間行基の開創と伝える。聖武天皇・清和天皇勅願。あるいは貞観5年(873)真暁(弘法大師弟子)が開基したとも伝える。
建武の兵乱で廃絶。
康正年間(1455-1456)、天台僧忍禅が復興し、本堂・三重塔を建立する。その後、再び荒廃する。
寛文3年(1663)頃、本國寺日弁(便)によって再興。本堂・三重塔を修理。寛保3年(1743)日賢が三重塔を修理。
明治34年川合芳太郎が燈明寺を買収。
大正3年三重塔を横浜三渓園に移転。
昭和23年台風により本堂大破・解体。
昭和57年横浜三渓園に本堂部材を移動.。その後三渓園で再建される。
鎌倉期の什宝:
嘉禄元年(1225)の奥書のある「大般若経」(御霊神社蔵)
本尊木造千手観音立像、木造十一面観音立像、木造聖観音立像(伝如意輪観音)、木造聖観音立像、木造馬頭観音立像
石造十三重塔、燈明寺型石灯篭(いずれも鎌倉末)などが伝わる。
室町時代の什宝:
三重塔(重文)、本堂(重文・桁行5間、梁裄6間、入母屋造、本瓦葺き)
いずれも忍禅の建立とされる。
忍禅は別院法興院(加茂常念寺に合併)に住し、紙本着色仏涅槃図(重文)など多くの什宝を施入。
御霊神社本殿(室町・重文)は燈明寺鎮守と云われ、現在も旧地に鎮座する。
2011/03/31追加
「四百年前社寺建物取調書」明治15年社寺調査 より
燈明寺調査書 燈明寺見取図 燈明寺三層塔立面図 燈明寺本堂立面図
○明治37年の境内図:
この当時は、三重塔・本堂・鐘楼などが健在である。
★燈明寺境内三重塔
|
 |
山城燈明寺三重塔:左図拡大図
(明治42年年頃の撮影):燈明寺境内地に建つ。 □三重塔正面図
2007/09/10追加:
「笠置山及附近写真帖」田中市之助編、東京:東陽堂、明42年 より
山城燈明寺三重塔2:左図と同一写真と推定される。
(こちらの写真の方が若干鮮明である。) |
★燈明寺境内本堂
★燈明寺現状
燈明寺鐘楼跡(鐘楼跡石垣。この上方
の南側平坦地が三重塔跡)
燈明寺型石灯篭(背後は本堂跡に建立された収蔵庫・平成元年建立・鎌倉期の仏像5体を保存)
◎三渓園
2011/03/31追加:
「三溪園に見る原富太郎(三溪)の思想・造園理念・意匠」小野 健吉(「造園雑誌 53(5)」 1990 所収) より

大正期の写真:入口付近から大池・三重塔・原家本宅を望む。
★横浜三渓園旧燈明寺三重塔
★横浜三渓園旧燈明寺本堂
2011/03/31追加:
「旧燈明寺本堂:人工木材による古材保存の可能性」大野敏、春日井真記子(「建築雑誌 116(1471)」 2001 所収) より
燈明寺本堂は室町期建立と推定される密教(天台)5間堂建築である。
寛文年中日蓮宗に改宗の時、大改造される。
大正10年特別保護建造物に指定される。
昭和23年台風による破損もあり解体修理に着手。この時の様子は「屋根の形が大半なくなり、雨漏りで丸桁や組物も崩れ落ち、側廻りの壁や柱も倒壊箇所が見られ、外から内陣厨子が見通せるほどの惨状」と云う。この時再生可能木材はおよそ6割程度と見られる。
◆昭和23年燈明寺本堂惨状
しかし解体した時点で借地権などの問題で現地での組立が不可能となり、修復工事は中止される。
それ以来、解体材はトタン屋根の倉庫に格納され、30数年が経過し、材はさらに腐朽し、再生可能材はおよそ4割に劣化する。
昭和57年三渓園への移築が決定する。
これは三渓園には既に燈明寺三重塔が移築されていることと本堂所有者が横浜在住であったことによるという。
この本堂修復に当っての修理方針は材の腐朽が甚大であるため、極限に至るまで古材を修復・再利用することとなる。そのため、埋木・矧木を多用し、また合成樹脂を併用して形成・硬化するというものであった。
(実際の修復作業の様子は割愛する。)
昭和61年工事完了、総費用4億8000万円と云う。
★三渓園多宝小塔
「三渓園 日本名建築写真選集13」田畑みなお撮影、新潮社、平成5年より
○三渓園多宝小塔:重文・宝徳2年(1450)
明治38年、原富太郎(原三渓)が入手とされるが、由来は不明と云う。
天井裏銘がある。銘によると、この塔は舎利容器を納める舎利塔として建立。宝徳2年(1450)製作。大工・絵師は奈良大乗院に関わる者、奉行は大和興福寺に関わる僧であったと記録される。
高さは約70cm?を測るという。
2006年以前作成:2011/10/15更新:ホームページ、日本の塔婆
|