叡 昌 山 本 法 寺( 扁   額 )

概 要

叡昌山と号する。現在は日蓮宗一致派大本山。本尊:十界大曼荼羅。
開基は久遠院日親上人。上人は中山法華経寺で修行する。
本法寺は上人が京伝道のため四条高倉に設けた弘通所を起源とする。
日親上人は将軍足利義教への諌暁を度々行い、投獄される。(立正安国論)
上人は不受不施・専持法華・雑多信仰淘汰を主張し、折伏伝道を推し進め、本法寺は京洛不受不施の中心となる。
寛正元年(1460)日親上人は再度投獄、寺は破却される。
同4年三条万里小路に再建される。
この頃、本法寺などを中心として、不受不施の折伏伝道は京洛での主流的立場となる。
天文5年(1536)、天文法華の法難で焼失、他の諸本山と同じく、堺に避難する。
天文11年洛内遷住が勅許され、一条堀川戻り橋に再建される。
 ※中世から近世初頭には、本阿弥家(本光、光悦,、妙秀など)一門の外護をうける。
天正18年(1590)秀吉の命(聚楽第造営)で現在地に移転。
文禄3年(1594)堺妙国寺日bは中山法華経寺住持を兼帯し、
 以降京頂妙寺・京本法寺・堺妙国寺による中山法華経寺輪番制が始まる。(京両本山住持は日b弟子であることに由来する。)
豊臣・徳川政権下では権力を慮り、受不施の立場に転じ、徳川政権下の宗教政策に組み込まれる。
天明8年(1788)の大火に類焼(経蔵・宝蔵を除く)し、現伽藍はその後の再建による。
近世は徳川紀州家及び多くの檀信徒で維持されると云う。

都名所図會

天明年間刊「都名所圖會」巻1の本法寺から :
                      左図拡大図

主要伽藍については、番神堂が転退するも、現在もよく維持される。

現伽藍概  要 図

境内は、他の大半の京洛諸山が荒廃するなかで、駐車場化を免れ、良く整備されている印象である。
本    堂(寛政9年(1796)の再建。桁行7間梁間5間、周囲に軒支えの柱を廻らす、単層、入母屋造、本瓦葺、正面4間の向拝を付設)
開  山 堂(寛政8年(1795)の再建)・多  宝 塔(寛政年間の再建と推定)・仁  王 門
鬼子母神堂・摩利支天堂・経蔵・鐘楼・本坊内に客殿・庫裏・書院・宝蔵等を有する。
なお客殿は近年方形の堂を乗せた形に改築?される。
境内は盛時に比べやや縮小されるも、
現塔頭は教蔵院(現在は堀川通を正面とする。つまり本寺に背を向けた形になる)・教行院・尊陽院の3院となる。
20数年前には裏  門 近 辺には崩れかけた頭塔が存在 したような記憶があるが、記憶違いであろうか。
 画像は2001年5月25日撮影。

2010/12/02撮影:
 本法寺本堂21     本法寺本堂22     本法寺庫裏     本法寺玄関
 本法寺寺中尊陽院     本法寺寺中教行院     本法寺寺中教蔵院:背後大屋根は本法寺本堂屋根

大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第二學區之部)
旧地5,677坪・今4,455坪
維新前31院・今3院 教行院・教蔵院・尊陽院

2010/12/19追加:
◇「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863)
叡昌山本法寺寺中:
蓮光院、興徳院、教蔵院、真蔵院、本養院、十乗院、尊陽院、興造院、執行院、大雲院、興雲院、玉樹院、寿量院、法昌院、玉昌院、信教院、教学院 17ヶ院
花洛の末寺として、鳥部山本壽寺(当ページの後段に掲載)、鷹峯光悦寺、伏見本教寺(洛陽十二支妙見・妙見信仰中)などがある。

本法寺多宝塔

寛政年間(1789-1801)年代再建塔。伽藍は天明8年(1788)の大火で類焼する。
本堂は寛政9年(1796)の再建と伝え、多宝塔もその頃の再建と推定される。

 

1972年撮影画像
本法寺多宝塔1(多宝塔と鬼子母神堂)・本法寺多宝塔

2001/05/25撮影画像:
山城本法寺多宝塔1   同     2   同     3
   同        4   同     5

2003/06/26撮影画像:
多宝塔1  多宝塔2  多宝塔3  多宝塔4  多宝塔5  多宝塔6

2004/05/03撮影画像:
山城本法寺多宝塔1(左図拡大図)
  同        2
  同        3
  同        4

2005/2/23:「N]氏撮影
山城本法寺多宝塔
ごく最近、塔の北側屋根が垂下する。
詳細・理由は現地を未見のため不詳。

2006/04/01追加:
多宝塔初重の垂下:
多宝塔初重北側屋根の垂下状況:積雪あるいは暴風あるいは重量物の落下などの物理的な力ではなくて、おそらく桔木の腐朽・劣化があり、そのため桔木が荷重により損傷したものと思われる。
  山城本法寺多宝塔1    同        2    同        3    同        4
多宝塔軸部:
    同        5    同        6  その他伽藍   同    祖師堂    同    仁王門
妙見大菩薩:
摩利支天堂(写真摩利支天堂拝殿)の向かって右に北辰殿と称する小宇があり、ここに妙見大菩薩、鬼子母神、七面大天女、大黒天の4体が祀られる。 鬼子母神については、戦後の昭和時代には仁王門横に鬼子母神堂があり、現在この堂が退転しているならば(未確認)、この鬼子母神はかっての鬼子母神堂に祀られていた像とも思われ る。
    同 摩利支天堂    同    北辰殿    同  妙見菩薩1    同  妙見菩薩2    同  妙見菩薩3

2006/09/17撮影:
2006/7〜2007/3まで、多宝塔・経蔵・鐘楼の修理保存工事予定。
  本法寺多宝塔工事1:解体修理かどうかは不明ですが、工期や現状から見て、全面解体修理ではないと思われる。
    同        2:現在、勾欄のみ 、解体されている様子である。
  日親上人説法石

2006/07/03撮影:
 

修理保存工事は終了。
屋根瓦は葺替、木材は灰汁抜、壁・饅頭・床下亀腹の漆喰は塗替、初重屋根垂下部の材の取替などが実施されたと思われる。
組物小口は白い顔料・縁面は青緑の顔料で塗装される。

本法寺多宝塔西面
  同    西北面
  同     北面
  同   西北面2:左図拡大図
  同  下重西面
  同  上重組物
  同  上重組物2

2010/12/02撮影:
 本法寺多宝塔21       同     22       同     23       同     24
   同     25       同     26

2003/8/3追加
伽藍図

本法寺伽藍図(江戸後期)・・板絵・奉納額と思われる。かなり剥落する。

叡昌山諸堂宇境内の図(明治20年)

本山本法寺境内並建坪大絵図(明治20年)

2006/03/11追加」
金剛宝塔
 本法寺金剛宝塔:覚性作 本法寺蔵:「大日蓮展 立教開宗750年記念」東京国立博物館、日蓮聖人門下連合会
基壇および勾欄・四階付設の壇:木製黒漆塗、宝塔:銅製鍍金。
総高52.4cm、応安3年(1370)の作。
銘文:六角氏頼の造営、近江慈恩寺に施入、銅塔大工覚性作とある。
慶長2年の「金宝塔縁起」:文禄4年(1575)本法寺開基日親上人遺骨を鳥辺野墓地より取り出したところ、この宝塔が偶然洛中で売りに出されていた。檀衆が買い求め、日親上人遺骨を納めたと伝える。
 ◆2007/08/23追加:
 「本法寺蔵金銅多宝塔」川勝政太郎(「史迹と美術 Vol.110」所収)
総高3尺3寸。宝塔は台座に安置される。
台座は1尺9寸5分角、高さ2寸9分、側面は3間に各格狭間に金銅の対向孔雀を打ち付ける黒漆塗製。
宝塔基壇の四方中央に宝珠柱付昇勾欄を付設し、縁には組勾欄を設ける。
上層組物は四手先斗栱を用いる。
・基壇上に塔身の当る周辺部分に以下の陰刻がある。
「施入 江州慈恩寺舎利塔 供養7月11日 応安3年戊庚6月2日大檀那当国太守雪江崇水 住持興算大徳 銅塔大工覚性」
 ※応安3年(1370)に雪江崇水(六角氏頼の法名)が近江慈恩寺に施入したものとされる。
・台座裏板に下記の修理銘がある。
「永禄2年(1559)3月6日 修補之 奉行衆老僧5人 吉祥陰、最勝陰、十輪院、地蔵院、大龍院」
 ※近江慈恩寺は現在の蒲生郡安土浄厳院の地にあり、文和年中(1353-)六角氏頼によって六角家菩提寺とされると云う。
しかし、後に織田信長が観音寺城に六角氏を倒し、この地の北東に安土城を造営する。造営の頃、六角氏菩提寺慈恩寺は破却され、この地には金勝山麓の阿弥陀寺が移 され、浄厳院が建立される。
以上の信長の慈恩寺破却によって、この宝塔が市中に流布したと推測される。
そしてこの宝塔が、慶長2年本法寺に帰する事情は、上掲の「金宝塔縁起」の通りであろう。

2009/11/10追加(2009/11/05撮影画像)
本寿寺
本法寺菩提寺であり、日親上人廟がある。(当日は工事中で境内立入不可のため実見せず)
本堂・日親廟・開山堂・庫裏・番神社(現在退転)・鐘楼などを備える。
 本寿寺山門     本寿寺門前石碑     本寿寺開山堂
2012/01/26撮影:
番神社は山門を入って右すぐ、鐘楼に西側にあったが、現在は退転し、石組の基壇と基壇上に積まれた瓦が残る。
 鳥辺野本壽寺題目碑     鳥辺野本壽寺本堂1     鳥辺野本壽寺本堂2     鳥辺野本壽寺庫裏
 本壽寺日親上人廟1      本壽寺日親上人廟2     本壽寺日親上人報恩塔    本壽寺日親上人像
 鳥辺野本壽寺開山堂1     鳥辺野本壽寺開山堂2
 


2006年以前作成:2012/01/28更新:ホームページ日本の塔婆