京 洛 平 安 期 の 塔 婆

京洛平安期を中心とした塔婆

背景色「薄緑部分」は「朝日百科 日本の国宝 別冊 【国宝と歴史の旅 8 塔】<朝日新聞刊>,:
    「裏表紙」「見返ページ」:【旅の栞 京の百塔詣で:冨島義幸著(金沢工業大学教授)】からの要約である。


中山(藤原)忠親の日記:山槐塊記より:忠親は花山院の流れにして、家忠の孫忠宗の子、内大臣正ニ位。

治承3年(1179)
2月23日
天晴、卯剋為禮百塔向廣隆寺方、至于春日木辻、而・・・・一條東行、巡禮一條条櫛笥邊、法成寺、浄土寺、白川邊、合四十基、秉蜀之後帰亭、・・・・・
於于中山堂并善法寺開破子、・・・・・・・・・・・・

2月24日
陰晴不定、卯剋向廣隆寺、仁和寺、知足院、雲林院、彼(皮)堂等禮堂、・・・今日禮三十二基、・・・徳大寺開破子、又禮慈尊院塔之時、隆遍阿闍梨、
儲盃饌、於一条大宮河内権守行忠亭又開破子、・・・・

2月25日
自至夜雨、卯剋禮塔(堂)、此間雨止、向東寺、法性、法住、観音、長楽寺、入夜之後零清水、六波羅、今日五十六基、三ヶ日都合百二十八基、・・・
 

私に漢文あるいは古典の素養が無く、「・・・」部分に意味不明な箇所も数箇所あるが、
大意はわずか3日間で、合計128基(1日目:40基、2日目:32基、3日目:56基)の塔の禮拝を行う。
勿論128基の中にはいわゆる屋外の木造塔婆だけではなく、屋内の小塔、石塔などもあったとは類推されるが、
平安期には京洛の周辺に多くの塔の造立があり、治承年間にもまだまだ、仁和寺周辺・東山山麓には塔婆が林立していた様子が窺える。
やがてこれらの塔婆は兵火、老朽、自然災害などで移建された一条大宮の塔を除き、全てが失われ、今は僅かに後世の法観寺・東寺・仁和寺・清水寺の再建塔を残すのみ となる。

以下の表は平安期に建立されていたことが確認できる京洛周辺の塔婆の概要である。
(表は【旅の栞 京の百塔詣で】掲載の図をそのままテキストで表現したもので、そのため正確さを欠きますが、おおよその位置関係は掌握可能かと思う。)

:2月23日、:24日、:25日に礼拝した(と思われる)塔婆 を示す。●は記事中に出てくる左記以外の塔・寺院を示す。


○賀茂別雷神社
 多宝塔など
仁和寺性徳院
    新塔

 

円融寺五重塔
●徳大寺
●慈尊院塔
円教寺塔
仁和寺観音院
     多宝塔
 同 五重塔
 同 南院三重塔
同宝塔院多宝塔
法金剛院三重塔
●知足院
雲林院塔
雲林院多宝塔
雲林院多宝小塔
雲林院塔
西林寺塔
 

 

 

一条大宮三重塔
  革堂多宝小塔
  革堂塔

○賀茂御祖神社塔
○ 同    東塔
○ 同    御塔

 

 

大炊殿一条
    多宝塔
法成寺三重塔
 同 三重塔
 (再建五重塔)

福勝院三重塔 ●浄土寺
東山堂九重塔
東山塔
広隆寺塔
 同別院三重塔

●春日木辻

蓮華蔵院三重塔
  同     塔
白河東御堂多宝塔
白河御塔
白河塔
●中山堂
●善法寺
円成寺塔
●●尊勝寺五重塔2
●●最勝寺塔2
延勝寺塔●●円勝寺東西三重塔
円勝寺五重塔
法勝寺八角九重塔
白河安芸守能盛塔
←西 珍皇寺三重塔
●六波羅密寺
祇園御塔
祇園感神院多宝塔
祇園塔
八坂法観寺五重塔
●長楽寺

東→

●六波羅常光院塔 清水寺三重塔
○今天王寺
   普成仏院塔
蓮華王院五重塔
●法住寺
最勝光院塔

○西寺五重塔

東寺五重塔 法性寺多宝塔
法性寺多宝塔
法性寺中山塔
○成菩提院三重塔
○成菩提院多宝塔
○成菩提院多宝塔
○安楽寿院三重塔
○安楽寿院塔


 


中山(藤原)忠親の日記:山槐塊記より

治承4年にも百塔禮拝を行うと云う。

治承4年(1180)
3月21日
自今日、禮百塔、始自法成寺。終于清水寺。自卯時及秉蜀、・・・・於菩提寿院。乗手輿今日禮四十五基。毎塔奉押摺写塔・・・

3月23日
今日猶禮百塔残二十八基、(中略)牛刻於観音寺先妣御堂羞饌
 

 

平 安 期 を 中 心 と し た 京 洛 の 塔 婆 状 況 (但し掌握できた範囲)
(記録として伝えられていない塔婆、記録の曖昧な塔婆、眼に触れていない記録等がまだあると思われる。)
「よみがえる 平安京」の表示:「よみがえる 平安京」京都市企画、村井康彦編集、淡交社、平成7年 より掲載。

栂尾高山寺
三重塔があった。(山城名勝誌)
三重塔一基:毘盧遮那仏、文殊、普賢、観音、弥勒・・・
高山寺絵図(重文・神護寺蔵)部分図・・・左に高尾塔も見る。
 ※安貞元年(1227)三重塔上棟<寛喜年中造畢>(「高山寺縁起」)
十三重塔があった。(高山寺縁起)
 ※嘉禎2年(1236)禅堂院十三重塔造立(「高山寺縁起」)
  →高山寺のページを参照

高尾神護寺
五重塔があった。(三代実録・元亨釈書)
承和2年(835)〜嘉承3年(850)に一重毘盧遮那宝塔が建立、塔は仁明天皇御願・空海弟子真済建立と云う。
三代実録は「一重宝塔」、神護寺実録帳は「一重檜皮葺毘盧遮那宝塔」とあり、裳階については不明で多宝塔形式か宝塔形式かは不明。
なお「神護寺寺領牓示絵図」 <寛喜2年(1230)>では下層5間の大塔が描かれる 。<絵は簡略であるが、真言大塔形式と思われる。>
本尊:五大虚空蔵
→昭和再興塔は「明治以降の多宝塔」「神護寺」の項を参照。

嵯峨大覚寺
「よみがえる平安京」:嵯峨大覚寺模型:三重塔があった 。
2006/12/10追加:「Y」氏ご提供
 大覚寺伽藍図:絵葉書、「後宇多法皇御在住当時之大覚寺」とある。紙本著色。
後宇多法皇時代の大覚寺伽藍古絵図と伝える。徳治3年(1308)大覚寺に入寺、元亨元年(1321)には寺観が整うとされる。但し絵図そのものは江戸中期のもので、寺観は復元的な描写でしかない。建武3年(1336)火災で灰燼に帰す、その後この景観の再興は 実現しない。
当図によると、(文字の判読が不能で詳細は不明)本寺に多宝塔1基、御殿区画に多宝塔1基、北側山麓に五重塔1基、その東に塔1基があったと思われる。但し、遺構などがあるわけではなく、詳細は不明。
2008/09/12追加:
「京都の庭園 遺跡にみる平安時代の庭園」 京都市文化財ブックス 第5集、京都市文化観光局文化部文化財保護課、1990.3
(上掲を詳細に記すると)金堂東に多宝塔1基、中御所北の本堂裏に多宝塔1基、長尾山麓の教王常住院に五重塔1基、その東の西来院に塔(種別は不明)1基があった。
 ※教王常住院:前身は後嵯峨院の別宮であり、のちに後宇多法皇が改修、教王常住院と号する勧学所となる。重要な院家であった。
 ※西来院:不詳
 大覚寺伽藍図2:大覚寺蔵、上に掲載の大覚寺伽藍図(絵葉書)と同一

大雲寺
◆2003/8/18追加:「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊 より
宝塔院:縁起に云、成尊母は堤大納言の女実方中将の孫文慶の孫なり。如法院東に多宝塔を建立、法華曼荼羅46尊安置、多宝院と号す。
◆2010/07/02追加:「実相院の古文書」京都市歴史資料館、平成21年 より
大雲院略歴:
天禄2年(971)円融天皇の勅願により、日野中納言藤原文範が真覚(藤原敦忠息)を開山として創建したと伝える。
永観3年(985)昌子内親王(冷泉天皇中宮・朱雀天皇皇女)寺内に観音院を建立。(日本紀略)
天元4年(981)余慶僧正(智弁、園城寺長吏、法性寺座主)は山門・寺門の対立の激化により、叡山を降り、寺門の僧数百人を連れ大雲寺へ入寺する。
この頃寺門の拠点として大雲寺は最盛期を迎えるも、その後寺門・山門の抗争は止まず、大雲寺はたびたび山門により焼払われる。
その後、中世を通じ、次第に衰微する。
元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼討により大雲寺も炎上する。
寛永年中(1624-)実相院門跡義尊、本堂等再建。
昭和60年、寛永年中再建本堂を焼失(不審火?)。寺地を岩座神社(八所明神・十二社)東に移転、再興される。(仮本堂のまま)
旧寺地には閼伽井(智弁水)・不動の滝・実相院宮墓・昌子内親王高倉陵などが残る。

大雲寺絵図:岩倉実相院門跡蔵、作成年不詳

 大雲寺絵図:左図拡大図
盛時の大雲寺を描くもので、北大門を東から入り直右手(北)に堂名不明の堂と三重塔が並んで建つ。
本堂位置が寛永期再興の大雲寺があった場所であろう。その他多くの坊舎・堂・社が立ち並ぶ。
実相院は移転前であろうか確認できない。
なお、「山城名勝志」で云う「宝塔院」も確認できない。

 ※実相院は寛喜元年(1229)静基僧正による開基。
静基僧正は関白近衛基通の孫であり、門跡寺院となる。もとは紫野にあったが、応仁の乱の戦火で岩倉に移転する。この地岩倉大雲寺は南北朝期から実相院門跡の支配化にあった。天台宗園城寺に属する。

◆近世・近代の大雲寺
都名所圖會・大雲寺:江戸後期の姿、多くの「こもりや(篭屋)」がある。

大雲寺古写真:昭和初期撮影か:
「精神保健福祉論2007」(「岩倉の伝統と近代との相克:日本のゲール」 所収)、
右は焼失前大雲院、左は保養所

新撰京都都名所圖會:昭和60年の大雲寺焼失前の景観

2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
賀茂上社(賀茂別雷神社・上賀茂神社)
多宝塔:今澤田社東蓮池北に小堂有り、多宝塔と号す。
百錬抄云、永久4年公家賀茂上社の多宝塔供養、今上懐孕の時の御願なり。但馬守家保の造立なり。
「よみがえる平安京」:上賀茂社模型:図の中央附近に多宝塔がある。

茂別雷神社社頭図(室町期?)、神宮寺があり、塔婆の興亡が多くあったと思われる。
この図では2基の多宝塔が描かれる。
「神宮寺 在本社東南」「今澤田社東蓮池北、有小堂、号多宝塔」(山城名勝志)、「永久4年<1116>公家供養賀茂上社多宝塔、今上懐妊之時御願也。但馬守家保建立之」「康治2年<1143>賀茂神宮寺供養。先年炎上之後、・・」(百練抄)、その他経所も建立されていた。
2007/02/04追加:「社寺絵図とその文書」
賀茂別雷神社社頭図・神宮寺(部分図):紙本着色、室町期、賀茂別雷神社蔵。 ・・・掲載図の多宝塔は神宮寺多宝塔

2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
賀茂下社塔(賀茂御祖神社塔)
東御塔:本宮東高野川西旧跡なり。
百錬抄云、大治3年太上天皇鴨御祖社東御塔供養。播磨守家保の造立。
西御塔:御祖社西北に石橋あり、その傍の塔壇いう所旧跡なり。
百錬抄云、天承元年待賢門院賀茂の下の社御塔供養。保延4年鴨社神館、神宮寺社頭西の塔院焼く。

嵯峨天皇御願の神宮寺(本尊十一面観音・不動明王)が河合神社北にあったという。
鎌倉期の境内図(模写)では神宮寺・経所・経蔵が描かれる。
 ※神宮寺跡明治初年の廃仏毀釈のため廃絶,森の中に基壇と礎石3個が残る。
「大治3年<1128>太上天皇供養鴨御祖社東御塔。御在位之時、播磨守家保造進之」「天承元年<1131>待賢門院賀茂下社御塔供養」「保延4年<1138>鴨社御館並びに神宮寺社頭西塔焼亡、件塔、待賢門院御願也」(百練抄)
2007/02/04追加;
賀茂御祖神社絵図A:京都国立博物館蔵:「鴨社の絵図」より
賀茂御祖神社絵図B:「鴨社の絵図」より:下賀茂神社蔵:A・B両図とも河合神社北に神宮寺が描かれる。
賀茂御祖神社絵図(神宮寺附近)

知足院
平安前期に創建された園城寺の別院であった。のち藤原氏(近衛家)との関係を深め大いに隆盛したと伝える。
本堂(不動堂)、能寂院、周丈六堂、阿弥陀堂、林殿、豊後堂、大湯屋、東堂、西堂、塔などがあったと云う。
中世の兵乱で荒廃し、室町前期には全く衰微しやがて廃絶したと云う。旧地は船岡山の東南あたりと云う。
 ※紫竹常徳寺が知足院の名跡を継ぐとも云うが、多少場所も離れ、実際のところは不明。

雲林院
天長年間(824-)淳和天皇が造営した離宮で、のち常康親王によって遍照僧正に付託され天台の寺院とした。
嵯峨、淳和両帝の追善のため菩提講を修した。いつしか寺地は大徳寺に施入され、現在は大徳寺が管理する近世の小堂が僅かに残存する。
2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
扶桑略記云、天暦7年勅し、雲林院に於いて御願小多宝塔8基の中の仏像を造り奉り始める。応和3年雲林院の塔供養会を行い、多宝塔1基五仏の像を安置す。

西林寺塔
「平安時代仏教建築史の研究」;仁安2年(1166)摂政藤原基実薨去、西林寺塔に葬られる。
「早旦向西林寺、・・・・、行部大輔奉行御骨、安置御塔、・・・・」(兵範記)
翌、仁安2年木幡浄妙寺に改葬。

一条大宮の塔
治承2年(1178)この塔は山城浄瑠璃寺に移建され、現存する。
元の寺名は明らかでないが世尊寺ともいわれる。

革堂(行願寺)
寛弘元年(1004)行円上人により一条油小路に創建されたとする。
往時は多くの信仰を集めていたが、中世の兵乱で衰微し、寺町今出川に移転し、ついで現在地に移転する。
現在は西国33所19番札所として辛うじて伽藍を維持する。
宝仁3年日来、行願寺において等身の多宝塔を造立・・・(野府記)
保延6年(1140)行願寺塔ならびに法成寺西塔同時に雷火にて焼失(百錬抄)
仁平元年(1151)行願寺堂塔多く炎上・・(百練抄)
承久2年(1220)行願寺内塔供養・・・(百練抄)
仁治3年(1242)住僧の放火で両門ほか僅かを残し焼亡。(百練抄)

上出雲寺址
大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第二學區之部)
三重塔:二基瓦葺安置佛舎利16粒 の記事(「山城名勝誌」引用、延長4年<926>出雲寺流記云う)伝教大師の草庵に発する巨刹だったと云う。

祇陀林寺塔址
大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第十七學區之部)
仁安元年(1166)新造塔供養(百錬抄)
2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
中御門京極東。
扶桑略記云、治安4年(1024)・・・天台の舎利会試楽祇陀林寺に於いて行う、之に先立ち仏舎利二塔をこの寺に遷す。
百錬抄云、治承2年祇陀林寺・・・焼亡。仁安元年(1166)祇陀林内に新造の塔供養・・・。

平野社・施無畏寺
平野神社社頭絵図(部分)
「よみがえる平安京」:平野社・施無畏寺模型: 模型左が平野社・右が施無畏寺、
             施無畏寺は平野社神宮寺。左大臣源兼明(醍醐天皇皇子)の建立。観音寺とも称する。

四円寺」 (円融寺、円教寺、円乗寺、円宗寺)

円融寺
円融天皇御願で、天元6年(983)創建。永祚2年(990)「五重塔1基を造る」とある。
「太上天皇供養円融寺塔、造五重塔一基、摩訶〓盧遮那如来像四躰、図絵於塔中、弥陀・釈迦・薬師・弥勒各一躰安置於壇上」(扶桑略記)
「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
「仁和寺諸院家略紀」:「同五重塔安置大日如来四体、図絵於塔中弥陀・釈迦・薬師・弥勒等、永延2年(988)3月20日供養」
円融寺に2基の塔があったことは確認できないから、一基とすれば、史料の性格から「仁和寺諸院家略紀」を信用すべきであろう。
※「百練抄」:永延2年(988)の供養の記事、「濫觴抄」では永祚2年供養、
円融寺は仁和寺別当寛朝の禅室を基にする。

円教寺
一条天皇御願で、長徳4年(998)創建。
長和2年(1013)天皇の御国忌が行われた時に、御塔で念仏が修せられる。(小右記)
寛仁2年(1018)「去夜円教寺焼亡有実、御塔・幢・僧房等、悉以焼了、無所遺云々、件寺故一条院御願也」(小右記)焼失。長元7年(1034)復興。
「よみがえる平安京」:仁和寺・円教寺模型:左-仁和寺、右-円教寺

円乗寺
後令泉天皇御願で、天喜3年(1055)。承徳元年(1097)大風で堂舎倒壊、長治2年(1105)焼失。以降再建されることはなかったという。

円宗寺
後三条天皇御願で、延久2年(1070)。金堂、講堂、法華堂、常行堂、灌頂堂、五大堂などが建立され、四円寺のなかではもっとも規模が大きかったとされる。

  ※四円寺は中世の兵火でいずれも消亡し、現在はその位置さえ明確ではなく、何も往時を偲ぶものはない。

仁和寺
光孝天皇発願で宇多天皇が造営し、仁和4年(888)落慶供養。
 →現存塔婆は「仁和寺(江戸期以前の五重塔)」のページを参照
2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
円堂院:百錬抄云、天治元年(1124)覚法法親王、仁和寺内に多宝塔1期供養・・・。
「よみがえる平安京」:仁和寺模型  仁和寺・円教寺模型:左-仁和寺、右-円教寺
 ☆仁和寺南院三重塔
「塔における両界曼荼羅空間の展開」:
南院塔、三層、安金色等身大日如来像一体、長承元年(1132)8月17日供養。南院は高野御室によって建立された院家という。
「平安時代仏教建築史の研究」;
宇多法皇御所跡と云う。「仁和寺諸院家記」では平安時代末期の伽藍配置が分かる。
長承元年三重塔供養(金色大日を安置)、長承2年(1133)経蔵供養(金銅多宝塔安置)、保延元年(1135)1間四面二階堂供養、康治元年(1142)迎接堂(光堂)供養。
塔の位置は長秋記(保延元年1135の条)に「池西岸大石在之、南院塔跡也云々」とある。
「よみがえる平安京」:仁和寺南院:仁和寺南西に位置していたと思われる。
 ☆仁和寺観音院
天暦5年(951)仁和寺観音院供養。
寛和元年(985)上東門院彰子(一条天皇中宮)仁和寺観音院再営造供養。
元永2年(1119)仁和寺金堂、東西廻廊、鐘楼、経蔵、三面僧房、観音院、灌頂院等焼亡。
宝安2年(1121)観音院、灌頂院、仏母院供養。
久安3年(1147)〜永仁2年(1264)観音院において伝法灌頂が8度修される記録あり。
応安2年(1369)大風雨、仁和寺円宗寺・観音院・真言院等倒壊。
「平安時代仏教建築史の研究」:
天治元年(1124)多宝塔(下層3間)、本尊:大日如来供養。(百錬抄、本要記)
待賢門院(鳥羽天皇の中宮。崇徳天皇・後白河天皇の母)が仁和寺中に御堂の建立を発願。長承4年(1135)三重塔<瓦葺>、ニ階八角経蔵、南御堂(九体阿弥陀堂)、三昧堂などが建立された。法脈は法金剛院として現在に伝えられる。

法金剛院
2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
三重塔:百錬抄云、保延2年(1136)待賢門院法金剛院内三重塔ならびに金一切経供養。
「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
保延2年建立の三重塔は初重に心柱のない構造であると云う、これは文献上での初出である。
但し、大治元年(1126)円勝寺西三重塔、長承元年(1132)仁和寺南院三重塔は法金剛院塔に先行するも、初重に心柱が通っていなかったことは十分想定できる。
「平安時代仏教建築史の研究」:
塔は北向き、四柱に両部諸尊、四面扉に釈迦八相成道、金色大日如来を安置。(仁和寺諸院家記、長秋記)
 法金剛院復元配置図
「よみがえる平安京」:法金剛院模型


1995年発掘調査で三重塔・庭園跡が発掘された。境内西端の低い丘上にあり、礎石などで一辺は約4.8mと推定。
「発掘調査現地説明会史料」京都市埋蔵文化財研究所、1996
法金剛院旧境内跡
 写真手前:三重塔基壇・礎石・礎石抜取穴、写真奥:池跡

「発掘調査現地説明会史料2」京都市埋蔵文化財研究所、1997
五位山法金剛院古伽藍之図1:法金剛院蔵 :下と同一画像
五位山法金剛院古伽藍之図2:法金剛院蔵 :上と同一画像
大治4年(1129 )待賢門院璋子(鳥羽上皇后)、仁和寺御堂(法金剛院)に着手
大治5年(1130 )西御堂、本尊(現存、院覚作)供養、庭園・池・滝が完成、御所・大門等完成。
保延元年(1135)三重塔、軽蔵・翌年北斗堂完成
保延5年(1139)南御堂(半丈六九体阿弥陀堂)完成
康治元年(1142)待賢門院落飾
久安元年(1145)待賢門院薨る(45才)、法金剛院法華堂下石穴に埋葬(花園西陵)
 造営当時は敷地の中央に大池を掘り、滝を落し、池の西に西御堂(丈六阿弥陀堂, 方五間)、東に待賢門院の御所を設ける。
在世中に三重塔(本尊:釈迦如来)、経蔵、南御堂(九体阿弥陀堂, 正面十一間)など多くの建物が営まれ、死後、女の上西門院が出家し、西御堂と相対して池の東に方三間の東御堂(阿弥陀堂)を造営する。
永仁5年(1297)円覚十万上人が中興。
その後応仁の乱をはじめ震災などで堂塔を失い、衰微、江戸期に再興に努めるも衰退する。
明治期に山陰線が敷地中央を通り、寺地は分断され、昭和43年丸太町通りが拡幅、本堂(礼堂)と地蔵院を移築、釣殿を設ける。
なお、北斗堂:檜皮葺一間四面堂、安一字金輪一躰、北斗七星九曜十二宮神廿八宿等、長承4年(保延元年1135)3月27日供養
三重塔:瓦葺三重塔、四柱図絵両界諸尊、四扉図尺迦八相成道、安金色等身大日、保延2年(1136)10月15日供養
2008/09/12追加:
「京都の庭園 遺跡にみる平安時代の庭園」 京都市文化財ブックス 第5集、京都市文化観光局文化部文化財保護課、1990.3
 法金剛院古図:時期不明、法金剛院蔵、三重塔がある。

なお、当寺は大和唐招提寺末で、その縁であろう、「鑑真和尚像(江戸期)唐招提寺東塔真柱で作る」を有する。

広隆寺
2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
宝塔院:五重塔婆一基・・
百錬抄云、承安2年(1172)広隆寺内塔供養。
「よみがえる平安京」:広隆寺模型:模型では三重塔として作成される。

法成寺
藤原道長の創建で寛和3年(987)より造営される。
 法成寺伽藍復元図:完成時の伽藍、但し塔の位置については推定で、塔は「多宝塔」と思われる。:「平安時代仏教建築史の研究」
天喜6年(1058)火災。再建はほぼ同一規模で為されると伝える。
康平元年(1068)ころの伽藍は阿弥陀堂(無量寿院)、十斎堂、三昧堂、金堂、五大堂、鐘楼、経蔵、西北院、薬師堂、塔(1基)、尼戒壇、釈迦堂、宝蔵、南楼などがあったと云う。
◆「よみがえる平安京」:法成寺模型
◆「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
天承2年(1132)東西五重塔再建。 東塔安置仏は胎蔵界五仏、西安置仏は金剛界五仏。
 ※塔は東西2基で再建されたという。
永久5年(1177)両塔、南大門など焼失。のち再興。
健保6年(1219)南大門、左右脇門、東塔など焼失。
建長6年(1254)金堂、塔、南大門など焼失。
正和年中(1312-17)南大門焼失、その後金堂倒壊。
元弘元年(1331)最後まで残った阿弥陀堂(無量寿院・康平2年<1059>再興)焼失し、その後は廃墟となったと伝える。
◆大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第十七學區之部)
法成寺の址:
五重塔:長元3年(1028)五重塔供養(日本略記)(百錬抄)
承歴3年(1079)法成寺東西塔供養(一代要記)
永久5年(1117)塔焼く・長承元年塔供養(伊呂波字類抄)
永久5年東西塔等を焼失(百錬抄)
天承2年(1132)塔供養(天台座主記)
保延6年(1140)西塔並びに行願寺塔同時に雷火にて焼失(百錬抄)
◆2009/12/10追加:
◇「中右記」天承2年(1132)2月28日条には以下のようにあると云う。
「天喜6年(1058)2月23日夜 本寺(法成寺)焼亡時 為■<火+畏の漢字>燼 其後有議移薬師寺塔成ニ基 三重毎有母層 作八相成道 承暦三年(1079)戌十月五日供養」
 ※天喜6年(1058)法成寺が焼亡し、その再興に当って薬師寺塔2基が移建されたと解釈される。薬師寺とは大和薬師寺であろうと推定される。
であるならば、平城薬師寺には今も創建時の東塔が存在する以上その薬師寺とは本薬師でしかありえない。
但し、上記資料の「移(うつ)す」は「模(うつ)す」であろうとの強い批判もある。

福勝院
鳥羽法皇皇后藤原泰子(高陽院)の御願によって仁平元年(1143)九体阿弥陀堂が供養され、三重塔は仁平4年に供養されるという。
皇后は没後この院(護摩堂壇下)に葬られたと伝える。
久寿元年(1154)高陽院福勝院内三重塔供養。(百練抄)
「平安時代仏教建築史の研究」:
高陽院猶子叡子内親王(鳥羽院皇女)の菩提のため建立、三尺の釈迦・多宝の二仏を西向きに安置。(兵範記)
 福勝院復元図
「よみがえる平安京」:福勝院模型

清隆東山堂
久安5年(1149)参議藤原清隆東山堂九重塔建立。(百練抄)
 ※これは石造九重塔と思われる。

東山塔
「平安時代仏教建築史の研究」:久寿元年(1154)藤原家成薨じ、東山塔に埋葬する。(台記)

法成寺東南山中塔
「平安時代仏教建築史の研究」:久寿2年(1155)関白藤原忠通室宗子薨じ、予め建立されていた法成寺東南山中塔に葬られる。
「御車経御堂西南東行 自滝東山中入 ・・・控御塔西・・・ 入御塔南戸・・・ ・・・次堅御塔南北戸・・・
件御塔、自御所当巽方行程二町余、被建立山中也、・・・」(兵範記)

2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
白河堂塔:寺院号古記に未だ見ず。
続文粋粹云、・・・・白河の傍に五重塔三重塔2基を建つ云々
百錬抄云、永久5年公家白河御塔供養。件の塔従2位光子院宣にて造立。
大治元年太上法皇白河三重塔供養。紀伊守顕長造立。
永昌記云、大治元年・・・御塔の内等身皆金色の大日如来を安ず。・・・
大治2年太上法皇白河の五重塔供養。但馬守敦兼造立。
大治3年太上法皇白河の三重塔供養。伊予守基隆像立・
大治4年太上法皇白川の御塔供養。備前守忠盛造立。
仁平元年一院川東の御所の中島御塔供養。
千躰阿弥陀堂
百錬抄云、大治5年上皇・・・白河阿弥陀堂の内の塔を供養。
白河阿弥陀堂(白河泉殿)
白河上皇の造営になる。
永久5年(1117)5月上皇白河阿弥陀堂内新造塔供養・・(百錬抄)
永久5年10月従ニ位光子が院宣を奉り造立した「白河御願塔供養」・・(百錬抄)
保安3年(1122)中宮職白河御塔供養。泉殿御塔と号す。尊勝寺の西北。(百錬抄)
大治5年(1130)白河上皇白河阿弥陀堂内塔供養。伊予守家信之進造。(百錬抄)
 

円城寺
円城寺(円成寺とも表記する)は、応仁の乱後、大和忍辱山に移すという。
大和忍辱山円成寺
延喜7年(907)寛平殊有御願作起宝塔。(歴代編年集成)
延喜12年(912)円成寺塔供養。(日本略記)

如意寺
三井別院であり、広大な山中に数多くの堂宇が造営されていた。
総門を過ぎて、・・西上三層塔婆・・・(寺門伝記補録撮要)
 →近江園城寺

華頂山五重塔
寛喜2年(1230)・・・一昨日被搦取武士向粟田塔前。・・(名月記)
康永元年(1342):岡崎の民家より出火・・法勝寺九重塔、華頂山の五重塔、醍醐寺の七重塔同時に焼 く・・・(太平記)
※太平記記事:
 ○法勝寺塔炎上事:康永元年(1342)3月22日に、岡崎の在家より俄かに出火出で来て・・・わずかなる火屑・・・十町餘を飛び去て、
 法勝寺の塔の五重の上に落ち留まる・・・(その後塔、金堂、講堂、阿弥陀堂など灰燼に帰す)・・・
 暫しあれば華頂院の五重塔、醍醐寺の七重塔、同時に焼けたることこそ不思議なれ。・・・
2009/02/02追加:「幕末明治 京都名所案内」 より
 華頂山五重塔
  「華頂山大谷寺知恩教院全圖」右上部分図・・・近世の知恩院全図であるが、(知恩院とは無関係の)華頂山五重塔が描かれている。
・「太平記」記事によれば(史実かどうかは不明)、中世に五重塔は焼け、その後の再興は不明、少なくとも近世に五重塔の存在は知られずと思われる。
  ※太平記記事:○法勝寺塔炎上事
 康永元年(1342)3月22日に、岡崎の在家より俄かに出火出で来て・・・わずかなる火屑・・・十町餘を飛び去て、法勝寺の塔の五重の上に落ち留まる・・・
 (その後塔、金堂、講堂、阿弥陀堂など灰燼に帰す)・・・暫しあれば華頂院の五重塔、醍醐寺の七重塔、同時に焼けたることこそ不思議なれ。・・・
・「新撰京都名所圖會」:中世この地に唐の天台山を模したという近江園城寺別院・華頂院があった。康永年中、五重塔焼失。応仁の乱で院は全く廃絶した。近世まで粟田神社の東方に華頂院の池と伝える古池が存在したと伝えるも、今は埋め立てられ往時を偲ぶものは無い。
・京都東山第21峰を華頂山と云う。この山麓には、現在は近世に浄土宗総本山と時の権力者によって認定された知恩院(華頂山知恩教院大谷寺)がある。知恩院建立前には、この山麓に華頂院があり、五重塔があったと伝えられる。
 ※知恩院:法然(法然坊源空)、勢至堂付近に草庵(吉水御坊)を営む。
 天正3年(1575)正親町天皇の論旨により、知恩院が知恩寺(百万遍)を押さえ、浄土宗本寺となる。
 慶長3年(1608)徳川家康、知恩院の寺地を拡大、諸堂造営。造営は秀忠、家光(再興)に引継がれる。
 元和5年(1619)良純法親王(後陽成天皇第八皇子)知恩教院初代宮門跡となる。
 宝永7年(1710)霊元天皇、「華頂山」の勅額を下賜。
  要するに知恩院が隆盛になったのは近世の権力によってであり、華頂院や華頂山五重塔とは直接の関係はないと思われる。

蓮華蔵院
白河天皇の御願により平正盛が九体阿弥陀堂を造立。永久2年(1114)供養。
永久5年(1117)及び保安3年(1122)2基の塔が建立。
大治5年(1130)白河上皇追善の三重塔・九体阿弥陀堂が建立。(三重塔2、塔1か?)
鳥羽上皇の御願で白河法皇の菩提のため、新たに新九体阿弥陀堂を造立。大治5年(1130)供養。

2005/05/29追加:平安期の白河略図

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蓮華蔵院五重塔、福勝院三重塔、延勝寺塔、尊勝寺東西五重塔、最勝寺塔、円勝寺塔、延勝寺塔、法勝寺八角九重塔など
 

岡崎六勝寺
「よみがえる平安京」:白河模型:東(右)から、法勝寺、西(下)三塔ならぶのが円勝寺、西(上)五重塔は最勝寺、その西2塔は尊勝寺
              さらに西は得長寿院三十三間堂、その西の塔は蓮華蔵院
岡崎法勝寺
白河天皇御願で造立。
法勝寺八角九重塔
 今の岡崎動物園内の「塔の壇」と称するところがその跡と伝える。戦前までは塔基壇を残していたが、進駐軍により完全に破壊されたと云う。
塔略歴
永保元年(1080):創建:立柱、永保3年(1083)九重塔等を供養。金剛界五智如来を安置。
 総高は27丈(約81m)と伝えられる。<「院家雑々跡文」(室町期)>
 金堂前の池の中ノ島に建立される。(想定復元図・・・山川出版社刊「京都府の歴史」から)
 法勝寺伽藍復元図:「平安時代仏教建築史の研究」
承徳2年(1098):本塔を改造、保延6年朽損を補修。
嘉応元年(1169):九重塔第3層に落雷、焼損。
承安4年(1174):落雷、仏像・柱破損。
安元2年(1176):第9層に落雷、2名死亡。
元暦2年(1184):大地震、心柱は無事、瓦は全部落下、なすすべなし。
承元2年(1208):落雷。塔焼失。(創建125年目)
承元4年(1210):再建立柱。建保4年(1217)九重塔落慶供養。
 建保4年再興塔は高さ27丈、かって存在した土壇の径15間(約30m)という。
嘉禄元年(1225):盗賊により九輪倒れる。
安貞2年(1228):台風、九輪北方に傾く。
建長6年(1254):第6層に落雷。
康永元年(1342):民家の出火が飛び火。ほぼ全伽藍を焼失。九重塔も焼亡。
 ※太平記記事:
 ○法勝寺塔炎上事:康永元年(1342)3月22日に、岡崎の在家より俄かに出火出で来て・・・わずかなる火屑・・・十町餘を飛び去て、
 法勝寺の塔の五重の上に落ち留まる・・・(その後塔、金堂、講堂、阿弥陀堂など灰燼に帰す)・・・
 暫しあれば華頂院の五重塔、醍醐寺の七重塔、同時に焼けたることこそ不思議なれ。・・・
この後九重塔は再建には至らず。 (※塔が存在した期間は170年余)
法勝寺そのものも、応仁文明の大乱で壊滅的な打撃を受け、残った伽藍も戦国期に兵火で焼亡。
元亀2年(1571):法脈を近江西教寺に移し、白河の法勝寺は廃寺となる。
「よみがえる平安京」:法勝寺九重塔復元図   法勝寺九重塔模型:初重は裳階付であったとされる。
2009/01/13追加:2008/12/05撮影
 :京都歴史資料館所蔵、みやこめっせに展示。
  京都法勝寺九重塔模型1       同           2       同           3
    同           4       同           5       同           6
2009/11/10追加:
 推定法勝寺礎石;引接山大蓮寺本堂前に「法勝寺礎石」と称する加工された石がある。(引接山大蓮寺本堂
大蓮寺の檀家である「権太呂」(岡崎南御所町)の岡崎店の庭から出てきたもので、大蓮寺に譲渡されたと云う。
権太呂岡崎店は二条通北に面して土壇を残す法勝寺金堂跡土壇のすぐ西に位置する。この位置から判断して、法勝寺の遺構・遺物の出土があっても不思議はないが、建物の通常の礎石とするには形が異形であり、法勝寺の遺物ではあるととしても礎石かどうかは不明であろう。
2010/03/12追加:
「法勝寺八角九重塔基壇基礎が出土・・・京都市文化財保護課発表」と新聞各紙が報道。
市は動物園の新施設整備に伴い、2009年12月と2010年2月に試掘調査を実施。
発表では、基礎部分は一辺12.5mの八角形の南側の一部とみられ、地表から約2mの深さにまで40〜70cm大の石を詰め、粘土で固められていたと云う。また塔の中心があったとみられる場所は、現在観覧車などがある。市埋蔵文化財研究所が2011年度中に調査が可能な場所を特定し、本格的な発掘調査を実施するとのことである。
なお塔基壇は戦前まで残存という。この基壇は戦後米軍の接収で削平と云われる。
 八角九重塔基壇基礎     八角九重塔復元模型:京都市生涯学習センター展示
2010/06/29追加:「法勝寺八角九重塔跡発掘調査現地説明会資料: より
2010/06/26山城法勝寺塔跡発掘調現地説明会がある。
 山城白河法勝寺遺構図:八角九重塔跡は岡崎動物園の中にある。水色部分が今回の発掘調査部分。
 山城白川法勝寺調査区:1区、2区、3区の調査区を設定、3区では目的の通り、園地の遺構を検出。
発掘区1区・2区:堀込地業を発掘、地業1は塔土壇の地業で、平面は八角形で5箇所のコーナー部を検出、1辺は12.5m〜14.5m、東西幅約32m、深さは検出面から約1,5m(基壇は今は削平されているが、約1.5mの高さがあったと記録される)、基本的に薄黄色の粘土に径40〜70cmの河原石を混ぜ衝き固める。
地業2は地業1の外側を廻るもので、幅約3mで、深さは約1.5m、薄赤色の粘土に約30〜70cmの河原石・チャートを混ぜる。
発掘区1区:
 法勝寺塔跡遺構11:2010/06/26「X」氏撮影画像、動物園観覧車から見下ろす。:下図拡大図
   
 法勝寺塔跡遺構12:2010/06/26「X」氏撮影画像、同上、八角基壇の南辺が写る 。
 2010/06/26撮影:
 法勝寺塔跡遺構13     法勝寺塔跡遺構14     法勝寺塔跡遺構15     法勝寺塔跡遺構16     法勝寺塔跡遺構17
 法勝寺塔跡遺構18     法勝寺塔跡遺構19     法勝寺塔跡遺構20     法勝寺塔跡遺構21     法勝寺塔跡遺構22
 法勝寺塔跡遺構23     法勝寺塔跡遺構24:手前は土抗
 法勝寺塔跡遺構25:奥の薄黄土色部分が地業1の版築、手前薄赤色部分が地業2の版築
 法勝寺塔跡遺構26:同上、地業1部分は八角形の135度の隅がくっきりと出ている。
 法勝寺塔跡遺構27:凝灰岩列      法勝寺塔跡遺構28:凝灰岩列
 法勝寺塔跡園地遺構
 塔跡北西すぐに池があり、池中に八角塔基壇の布石(基壇の縁に廻らせる)と推定される石がある、長さは不明であるが、端の切れ角は135度と云う。
 法勝寺塔基壇布石1     法勝寺塔基壇布石2     法勝寺塔基壇布石3     法勝寺塔基壇布石4
 出土凝灰岩製塼:基壇上の内外を覆っていた塼なのであろうか。
2011/08/11追加:
「京都府史蹟勝地調査會報告 第六冊」京都府史蹟勝地保存委員会、大正14年 より
近世・近代の法勝寺塔跡(塔ノ檀)
近世の地誌「山城名跡志」・「山城名勝志」などにかなり詳しく遺跡の状態が記される。
 宝暦年中岡崎村田畑絵図:塔檀芝原180坪、五大堂芝原490坪などとある。
 明治19年土地区割図:伊地知氏蔵、中央の不正八角形39番が塔の檀である。
 京都市地籍図:京都市役所、御所ノ内・池の内・塔の檀の地名あり。
 明治20年頃水田低地図:不正七角形(塔の檀)は畑地であり、東側池ノ内町は田となる。
 明治25年頃法勝寺跡付近:一面田畑であったことが分かる。中央左側が土壇なのであろうか。
 動物園内塔の檀:径15間の円形をなす低き土壇の如きものあり。これ法勝寺九重塔の遺跡なり。 :(塔ノ檀古写真として貴重であろう。)
 法勝寺遺跡石材:石階の石材なるべし。 上掲の塔基壇布石の写真と同一のもの。

岡崎尊勝寺
康和4年(1102):堀河天皇御願。
伽藍;金堂・講堂・阿弥陀堂・東西の五重塔等
 「東西御塔身舎并庇懸彩幡花鬢代、五箇層并堂層(裳層か)懸宝幡」:「尊勝寺供養記」
鎌倉末期までに火災・地震で廃絶。
 尊勝寺伽藍復元図:「平安時代仏教建築史の研究」
  網掛部分は既発掘部分
「よみがえる平安京」:尊勝寺・最勝寺模型:西(左下)尊勝寺、東(右上)最勝寺

岡崎最勝寺
元永元年(1118):鳥羽天皇御願。
伽藍:塔3基・金堂・薬師堂・五大堂等
元永元年(1118)塔1基金堂に先立ち供養。(中右記)
「自北門西塔へ阿闍梨御渡り」(最勝寺灌頂図)より東塔も想定されるが、その他の伽藍についても史料が乏しく不明。(塔3基かどうかは不詳。)
たびたびの災害で鎌倉末期には青蓮院門跡の管理下にはいり、応仁の乱で廃絶。
 最勝寺伽藍概念図:「平安時代仏教建築史の研究」
「よみがえる平安京」:尊勝寺・最勝寺模型:西(左下)尊勝寺、東(右上)最勝寺

岡崎円勝寺
大治3年(1128):鳥羽天皇中宮賢待門院璋子御願。
伽藍:金堂・五大堂・薬師堂・東塔(東御塔・三重塔)・中塔(中御塔・五重塔)・西塔(西御塔・三重塔)等が建立される。
天治2年(1125)東御塔の起工、同年心柱を立柱。本尊大日如来。
大治2年(1127)中御塔供養。
同年、西御塔供養。
「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:三塔とも本尊は大日如来一躯を安置。
建保7年(1219)京都大火で、塔3基、鐘楼、西門が焼失。その後の建物の興亡は詳らかにせず。
中世の兵火で焼亡。
「よみがえる平安京」:円勝寺模型:南(下)の西(左)は証菩提院、東(右)は善勝寺、北(上)は最勝寺。

岡崎成勝寺
保延5年(1139):崇徳天皇御願。
伽藍:塔が建立された形跡はないと思われる。

岡崎延勝寺
久安5年(1149):近衛天皇御願。
伽藍:金堂・塔・一字金輪堂・回廊・後に九体阿弥陀堂等
中世の兵火で廃亡。
 延勝寺伽藍概念図:「平安時代仏教建築史の研究」
「よみがえる平安京」:延勝寺模型:北東(右)の五重塔は尊勝寺西塔、東は成勝寺。

※善勝寺
応徳4年(1087)供養。願主は藤原親子(白河天皇乳母)、子の顕季か白河院の近習。

白河安芸守能盛:安芸守藤原能盛

祇園社
感神院と号し、中世には延暦寺別院、日吉山王権現の末社となり権勢を振う。明治の神仏分離で寺院は棄却され、八坂神社などと称する。
承徳2年(1098)公家供養祇園御塔。(歴代編年集、百錬抄、代要記)
大治4年(1129)供養祇園御塔(百錬抄)
天正18年(1590)祇園宝塔供養。(華頂要略稿本)
近世まで存続した大塔は寛政年中の火災で失われ、以後再興はされず。
 →
祇園社

八坂(法観寺)塔
上古に創建され、四天王寺式伽藍であったとされる。
創建塔は治承3年(1179)雷火で焼失。現在に伝えられる塔は永享12年(1440)の再建と云う。

なお後世には、この塔は山城国の利生塔に選定され、康永元年(1342)再興の落慶法要が行われたという。
治承3年雷火で焼失の後、源頼朝により再興され、さらに正応4年(1291)祇園神人と清水衆徒との争いで放火され、これ以来の補修とされる。
また山城国安国寺は神鶏山北禅寺(開山は仏光寺派大同妙普A開基は細川顕氏、十刹の第九位、寺地は四条大宮北西、廃寺)が指定されたという。
 →法観寺

珍皇寺
承安2年(1172)珍皇寺内三重塔供養(百錬抄)

六波羅
「平安時代仏教建築史の研究」:天仁3年(1110)平正盛、3間四面檜皮葺堂(丈六阿弥陀如来安置)を建立、
この「六波羅蜜堂」には「南塔」も建られたと云う。(長秋記・天永4年<1113>)
なお
行願寺は後世六波羅密寺の寺中で存在するが、明治維新前廃するという。
寛喜2年(1230)行願寺の内塔焼、六波羅地蔵堂。後聞く行願寺内本堂、・・五重新塔・・・多宝塔一・・(名月記)

六波羅常光院
平正盛が珍皇寺より、1町ばかりの畑地を借り、屋敷を構え、常光院と号する御堂を建立したと云う。
常光院には「石塔」があり、百塔めぐりの対象となったとされる。
その後この地は平家一門の隆盛とともに、清盛をはじめとする一門・郎党が20町の地に、200を越える屋敷を構え、大集落となる。
「平安時代仏教建築史の研究」:常光院は御所内東壇上にあり(山槐記)、治承4年中山忠親、常光院塔を巡礼する。

清閑寺
宝塔址:今の本堂より東北の山上にあり。尚少許の地は飛地境内として存す。其址に石造塔1基を立つ。(京都坊目誌)

今天王寺普成仏院
安元2年(1176)供養(百錬抄)。のち天王寺。「左京七条一坊一町」にあったと思われるが、詳細不詳。

法住寺
右大臣藤原為光が永延2年(988)に創建した法住寺跡を後白河法皇が永暦元年(1160)離宮として造営。宮内には蓮華王院、法華堂、最勝光院など80余の殿舎が立ち並んだと云う。永寿2年(1183)木曾義仲の兵火で焼失、その後再営されたが、 程なく廃絶。
蓮華王院三重塔および高塔は巽角にあったとされ、寛喜元年(1229)金物盗賊によって焼失したという。

蓮華王院五重塔
大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(下京第三十一學區之部)
治承2年(1178)後白河上皇の願により、建立供養。(帝王編年記)
建長元年(1249)焼失、其の後再建に及ばず。
「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
「蓮華王院五重塔御塔に安置は八体である。これは心柱が初重から建ちあがっていうため」である。
詳しい伽藍配置は不詳。:「平安時代仏教建築史の研究」
「よみがえる平安京」:蓮華王院模型:東(右上)は法住寺殿

最勝光院
承安2年(1172)後白河皇后建春門院滋子の建立。
治承2年(1178)最勝光院内御塔立柱(百錬抄)
嘉禄2年(1226)南方有火、・・・塔不焼・・(名月記)

法性寺
延長3年(925)左大臣藤原忠平の創建と云う。元弘3年(1333)全く廃絶した。
五大堂、薬師堂、三昧堂、潅頂堂、常行堂、多宝塔などを備えていたという。
法性寺多宝塔址:大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(下京第三十一學區之部)
天慶8年(945)多宝塔・一切経等供養(日本記略)
天慶8年多宝塔新造供養。金色普賢菩薩、観世音の像を塔婆に安置。一切経も供養(扶桑略記)
☆最勝金剛院
「平安時代仏教建築史の研究」:久安4年(1148)供養、摂政忠通室宗子が願主、法性寺子院。(華頂要略、百錬抄)
本堂のほか塔、鐘楼・僧坊があった。

東寺
「よみがえる平安京」:東寺模型
 →山城教王護国寺

西寺
2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
醍醐寺縁起云、聖宝西寺の別当となり、始めて宝塔を造る、・・・
明恵上人行状云、建久年中文覚上人西寺の塔修理。
名月記云、建永2年(1207)久我の前桂川の西を経て、吉祥院の西を渡り、西寺の塔前に出・・・
百錬抄云、天福元年(1233)西寺の塔焼亡。
「よみがえる平安京」:西寺模型

松尾社
松尾神社及近郷絵図(全図)、松尾神社及近郷絵図(部分図) :紙本着色:室町期
「よみがえる平安京」:松尾社模型:左手に三重塔
2007/02/04追加;
秦氏の氏神とされる。社頭景観では楼門、廻廊、庁屋、楽所、経所、舞殿、祝屋、拝殿、御料理、講坊、正神殿、緞殿などがある。
さらに摂社月読社があり、社頭の南には三重塔・宿院があり、山麓には神宮寺がある。
2007/10/11追加:
「松尾社一切経」は嘉永7年(1854)「読経所」が取り壊された時、流出し、安政4年(1857)に京都妙蓮寺に納められる。(「松尾社一切経」の項参照。
神宮寺は十禅寺と号する。

2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
極楽寺
今宝塔寺門前なり。
塔;或年代記応仁2年大風極楽寺十三重塔吹折。

2003/8/18追加
「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
嘉祥寺
仁明天皇のために、その子文徳天皇が創建。<嘉祥3年(850)仁明天皇が崩御、深草に葬られ、その追善のため嘉祥寺が造営(文徳天皇)された。>
三代実録云、元慶8年勅し、嘉祥寺五重塔造立。<元慶8年(884)「造五重塔料」が充てられる。(三代実録)>

深草貞観寺
摂政藤原良房は嘉祥寺に西院を建立(年代不詳)し、貞観4年(862)西院を独立させて貞観寺と改号。
貞観16年(874)「構毘盧遮那之宝塔、造尊勝如来之金像」。(三代実録)

鳥羽離宮
白河天皇が応徳3年(1088)より造営を開始。南殿・北殿と東殿の3殿および田中殿(北殿の東)・馬場殿(南殿の東)の区画が形成される。
証金剛院
南殿には証金剛院が造立され塔2基が建立されたという。
2003/8/19追加:「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
続文粹・・・・塔婆3基を造る、その中三重塔1基、金文銅紙妙法蓮華経を安ず。
勝光明院
北殿には鳥羽上皇により、宇治平等院を模したという勝光明院が建立される。
現在、跡地は鴨川の流路変更により、鴨川が流れ、何も遺構は残らない。
成菩提院
東殿では白河上皇の没後の遺骨安置所として、上皇によって天仁2年(1109)三重塔が建立された。遺骨は崩御の後この三重塔に埋葬される。
現在の白河天皇成菩提院陵に法華堂が現存しているが、その基壇がこの三重塔の基壇と推定される。
さらに天永2年(1111)および3年に多宝塔2基が建立される。
白河上皇は死後三重塔に埋葬することを遺言。大治4年(1129)上皇崩御。
天承元年(1131)方忌(かたいみ)の後、火葬されていた遺骨は香隆寺より移され、塔の下の石櫃(4尺四方)に副葬品とともに埋葬される。
安楽寿院
また続いて東殿には鳥羽上皇による保延3年(1137)安楽寿院の落慶法要が営まれる。
鳥羽上皇は保元元年(1156)崩御し、本御塔に葬られる。
本御塔は三重塔で永仁4年(1296)および天文17年に焼失したと言う。慶長17年仮堂となり、現在鳥羽天皇陵には元治元年(1864)再造営された方形堂1宇(法華堂)が残される。
さらに美福門院は新御塔(多宝塔)を自身のために建立。しかし永暦元年(1160)没した美福門院は新御塔には葬られず、高野山伝法院に渡され、新御塔には長寛3年(1163)美福門院実子の近衛天皇の遺骨が納められたという。
この新御塔は慶長の大地震で倒壊し、現在は豊臣秀頼再建の多宝塔が現存する。
2003/8/19追加:「山城名勝志」大島武好編、正徳元年(1711)刊より
安楽寿院記云、久安4年法皇宸筆の法華経石函に盛て、本御塔の刹柱の下に置く、今なお堂下にあり。(今塔無くて、本御塔と呼ぶ小堂を遺構とする)
白河南殿
白河上皇の御所の一つであり、永久2年(1114)九体阿弥陀堂、大治5年(1130)に三重塔が造営されたと云う。
  「安楽寿院」のページを参照
   ※上記ページの鳥羽離宮復元図は現地の鳥羽離宮鳥瞰図(杉山信三博士による)を撮影。

勧修寺
創建の経緯は必ずしも明確でない。
保延5年(1139)の勧修寺文書:本堂、御願堂、多宝塔、宮道氏建立堂、承俊律師建立堂、鐘楼などがあったと云う。
多宝塔:承平3年(933)以前、延長年間?に一重多宝塔(四面在層庇)建立、本尊は金剛界五仏。(勧修寺旧記)
天暦元年(947)落慶:六条斎宮柔子内親王の「願文」
「塔における両界曼荼羅空間の展開」より:
 天承元年(1131)勧修寺宝山院に三重塔建立。「勧修寺文書」:「三重塔一基 奉安置 三尺金色四方四仏各一体」

小野曼荼羅寺
正暦2年(991)仁海僧正(弘法大師第8世の法孫)が一条天皇より寺地を受け、開基する。牛皮山と号す。小野流大本山。
第5世増俊が塔頭随心院を建立。
寛喜元年(1229)第7世親巌の時、後堀河天皇より門跡の宣旨を受ける。
承久・応仁の乱で灰燼に帰す、慶長4年(1596)九条家から入山した第24世増孝が再興。
多宝塔(本尊:大日如来天)永元年(1110)造立:(東寺王代記、江都督納言願文集)

醍醐寺
醍醐雑事記:久寿2年(1155)には堂42宇、塔4基、鐘楼3宇、経蔵4宇、神社10社、高倉2宇、御倉町3所、湯屋3宇、僧房183宇など合計750余家があったという。
太平記には以下の記事があるも、醍醐寺七重塔については不詳。
 ○法勝寺塔炎上事:康永元年(1342)3月22日に、岡崎の在家より俄かに出火出で来て・・・わずかなる火屑・・・十町餘を飛び去て、
 法勝寺の塔の五重の上に落ち留まる・・・(その後塔、金堂、講堂、阿弥陀堂など灰燼に帰す)・・・
 暫しあれば華頂院の五重塔、醍醐寺の七重塔、同時に焼けたることこそ不思議なれ。・・・
→現存塔婆は明治以前の五重塔のページを参照
醍醐大智院:「平安時代仏教建築史の研究」
 寛治7年(1093)左大臣藤原俊房が越智の地に創建、康和4年(1102)無量光院西の池の下に移転。
 多宝塔:康和6年供養(醍醐雑事記)
醍醐越智堂:「平安時代仏教建築史の研究」
 丈六の九体阿弥陀仏を安置する九間四面堂、地蔵堂、釈迦堂、三重塔、経蔵、鐘楼、廊1宇からなる。
 天承2年(1132)越智九体阿弥陀堂供養、本願は藤原基隆。
慈心院:「平安時代仏教建築史の研究」
 阿弥陀丈六堂(1間四面)、塔があった。阿弥陀堂は少納言藤原資隆・僧都覚敬(覚鏡)の結構になる。
 塔は両名の父藤原重兼の粟田邸より壊渡したものと云う。院の創建時期不詳。(覚敬の灌頂は永治元年1141)
 2008/03/04追加;「大仏再建」より
  慈心院塔は粟田口から移したもので、藤原重兼の墓の上に建てたもの。俊乗房重源の「作善集」に記載されている。
大蔵卿堂:「平安時代仏教建築史の研究」
丈六九体阿弥陀堂(八角2階)、三重塔があった。願主は大蔵卿源師行、院の創建時期不詳。(師行は承安2年1172没)
 2008/03/04追加;大蔵卿堂は現在では 「栢杜遺跡」として知られる。
 「醍醐雑事記 巻第5」(平安末):
 1.大蔵卿堂 八角二階
    九体丈六堂 三重塔一基 各檜皮葺
    本佛阿弥陀丈六像
  願主大蔵卿 正四位上源朝臣師行之建立也、敷地は三寶院領也、
北尾塔
「願主事、慶延記云、願主峯阿闍梨懐深・与王入道、檀越之間、勧進立之。
修理檀越事、同記云、今正三位藤原俊盛卿之室源氏、如新造、加修理、奉安置宝篋塔八万四千基也。
上葺始事、(北尾塔多宝、屋根檜皮葺)、同記云、保安4年六月九日、葺始也。」(醍醐寺新要録巻第5)
 遍照院
  「北尾塔者当堂之具足事、慶延記云、件堂本所北尾塔下也、彼塔則其堂具足之塔也、・・・
  花台院改号遍照院事、同記云、花台院破損之後、真海阿闍梨、如新造、加修理、可号遍照院也。
  寅云、北尾塔・花台院・遍照院一所号也、委見右記了。」(醍醐寺新要録巻第5)
大谷塔
「慶延記第4巻云、大谷塔(多宝檜皮葺)、本仏、願主筑後守藤原国兼建立也、供養導師三宝院権僧都正御房。
 寅云、塔婆依無其類、入加諸堂部了。
慶延記第7巻云、保安5年7月27日大谷塔供養。」(醍醐寺新要録巻第13)

慈徳寺
位置不詳。 ※崋山寺(山科区北花山河原町)がその跡地とも云われる。
東三条院詮子の御願、金堂・講堂・塔を備えるとされるが、規模などは不詳。
「見慈徳寺塔作様、頗不似他塔、是山上惣持院体云々」(中右記)、長保元年(999)供養。
 ※東三条院詮子(藤原詮子、摂政関白・太政大臣藤原兼家次女、道隆・道兼・道長の兄弟、第64代円融天皇女御、第66代一条天皇生母)

京極堂:位置不詳
「平安時代仏教建築史の研究」:天永3年(1112)源雅俊、京極大路の東の京極堂の傍らに「塔婆」を建立する。(中右記)
 


2006年以前作成:2010/07/02更新:ホームページ日本の塔婆