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この三重塔は、現在名草神社などと云う得体の知れない神社の所有とされ、
そのためにこの三重塔の名称は地元以外では「名草神社三重塔」と無批判に呼ばれる。
しかし本来、この三重塔は寛文年中、杵築(出雲)大社から帝釈寺(日光院)へ譲渡され、
さらに明治の神仏分離の処置で帝釈寺が名草神社として簒奪された歴史の経過から云えば、
地元での呼称である「妙見三重塔」と呼ぶのが正しい呼称であろう。
お断り:
上記ページには歴史の「歪曲」の指摘や「明治維新の神仏分離の蛮行」に触れた箇所がある。
しかしながら、今に伝えられた古建築や什宝ましてや善意でそれらの保存・維持などに尽力された方々を冒涜する意図などは全くない。
妙見三重塔の例で言えば、この塔婆は数奇な運命を辿り、よくぞ今日まで伝えられたと驚嘆すべき塔婆である。
それゆえになおさら先人の尽力に報いる意味でも、その歴史・由緒ははっきりさせておかねばならない。
★杵築大社慶長14年御造宮之図(部分)
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慶長年中杵築大社絵図:
左図拡大図
寛文の造営前の絵図であり、三重塔などが描かれる。
鐘楼は不明確であるが、経蔵らしき堂宇も見える。
慶長年中杵築大社絵図2:左下拡大図
なお鐘楼の梵鐘については、現在福岡市西光寺に現存し「国宝」に指定されていると云う。
銘によると承知6年(839)に伯耆金石寺の鐘として鋳造された。
(有銘では国内5番目の古さという。)
永正7年(1510)尼子経久が杵築神社に寄進。
永禄2年(1559)山中鹿之助によって多福寺(島根県神戸郡)に移されたという。
その後(おそらく明治維新の頃と思われるが)多福寺が大阪商人に売却(おそらく経済的困窮と思われる)。
明治30年西光寺が購入したとされる。
○出雲大社境内模型:古代文化センター蔵
:寛文の神仏分離以前の景観
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○寛
永 社 圖;「出雲大社と妙見山三重塔」斉藤至 より転載
2007/09/14:追加
杵築大社寛永社圖:上掲載の「寛永社圖」と同一の絵図と思われる。
★杵築大社寛文の大造営
寛文の大造営にあたり、当時の宮司(千家尊光)は松平直政と図り、両部神道から唯一神道に変換する方針で臨むこととなる。
それに従い、大社の神仏習合は廃され、三重塔、経蔵、鐘楼は撤去する方向で造営は進行する。
一方神殿の用材の調達は、適材が容易に見つからず難渋していたが、最聚的に「妙見山の妙見杉」が候補とされ、
大社側から用材調達要請があり、妙見山帝釈寺日光院はこれを受諾する。
日光院第38世快遍阿闍梨は、妙見杉譲渡の経過の中で、三重塔撤去のことを聞き、三重塔の譲渡を懇願したところ杵築大社は快諾する。
2003/7/16:「出雲大社」千家尊統. 学生社, 1968 より
(寛文の大造営で)三重塔は撤去され帝釈寺日光院に移建。
鐘楼、梵鐘、護摩堂、大日如来、観音菩薩、弁財天、不動尊は松林寺に、三光国師像は西蓮寺に、釈迦・文殊・普賢像、経蔵、一切経は神光寺に、聖殿、六観音は神宮寺に移し、仏教色を一掃する。
なお梵鐘は西光寺(福岡市)に現存(上述)すると云う。
さらに西光寺には神宮寺であった松林寺とその末寺多福寺印のある文書を所有しているともいう。
当時の杵築大社社僧としては神宮寺、松林寺、松現寺、玉泉寺、海善寺、海蔵寺、法海寺、所讃寺、永徳寺があったとされる。
2003/11/15:「近世出雲大社の基礎的研究」西岡和彦、大明社、平成14年 より
寛文大造営以前の大社は尼子経久建立の輪蔵、三重塔、大日堂、鐘楼などの仏堂があり、本殿(慶長14年豊臣秀頼願主で造立)も朱塗であったという。
また年中行事は鰐淵寺衆徒が深く関わり、経所で大般若経の転読、さらには本殿での読経が執行されていた。
さらに本願(社僧)が大社の職制としてあり、大社の造営管理運営の全てを握っていた。
様々の確執の後、本願が大社から追放される事件が発生し、寛文の造営では神仏を分離する方向に動き出す。
寛文の神仏分離は、寛文4年大日堂本尊の松林寺への遷座と大日堂の撤去から始まり、寛文5年一切経蔵の破却を以て、大社での神仏分離は完結する。
本殿造営にあたり、本殿の柱に使用する9本の大木の手当てに難渋する。
檜材はあきらめ、杉材を求めたが、これも容易に手当出来ず、ようやく妙見山の大木が見つかると云う。
妙見杉の譲渡要請に対して、帝釈寺日光院は当初御神木の伐採に困惑はしたが、大社正殿に使用することと棄却予定の三重塔の譲渡を条件に大木の伐採に同意する。
★妙 見 三 重 塔
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2002/5/5撮影:
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「愚禿」様ご提供画像
2002/07月夕刻撮影
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但馬妙見三重塔1
同 2
同 3
(上記拡大図)
同 4
同 5
同 6
同 7
同 8 |
同 9
同 10
同 11
同 12
同 13
同 14
同 15
同 16
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2003/07/15日追加:
但馬妙見三重塔21
(上記拡大図)
同 22 |
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■妙見山の8合目(標高800m)に帝釈寺日光院妙見本殿・拝殿が一段上にあり、塔婆は
下段の平坦地・塔平にある。
この塔は大永7年(1527)尼子経久が杵築大社に建立。
杵築大社寛文の大造営で撤去されることになり、日光院が譲渡を申し入れ、これが受諾・譲渡される。
寛文5年(1665)1月に解体、4月に宇龍港を出航し、津居山港(豊岡)に陸揚げされ、5月に3500人によって妙見山に運ばれ、9月に完工したという。
大工は九鹿の池内与三左衛門、大奉行は八鹿の西村新右衛門という(宝珠銘)・・この項「名草神社」八鹿教育委員会。
以来冬季には数mの積雪のある山中にも係わらずまた明治の廃仏毀釈も乗り越え、現在にその姿を伝える。
(日光院に譲渡されなければ、間違いなく寛文年中に取り払われていたであろうと思わる。)
昭和59年積雪による屋根の落下があり、大修理を行い、昭和62年に完工。 塔は一辺4.6m、総高23.9m、杮葺。初重内部は四天柱があり、来迎壁・須弥檀を造るが、安置仏は無いとされる。
(塔本尊虚空蔵菩薩は、明治9年帝釈寺<妙見宮>が名草神社として収奪されたとき、信徒らが帝釈寺日光院の仏像仏具経典など一切を山下に運び、そのとき塔本尊も山下に移し、現存するという。
)
なお、初層に稚拙ではあるが、四隅に隅垂木を担ぐ力士像と上層の尾垂木にはそれぞれ猿の彫刻が乗り、面白い意匠がある。
2010/11/01追加:「重要文化財名草神社三重塔保存修理工事報告書」昭和63年
但馬妙見三重塔立面図 但馬妙見三重塔断面図 但馬妙見三重塔平面図;各重 |
■帝釈寺妙見宮
帝釈寺妙見宮本殿(向拝付入母屋造・千鳥破風軒唐破風付・桁行9間、梁間5間、宝歴4年(1754))
拝
殿(元は日光院護摩堂という。割拝殿、桁行5間・梁間2間、元禄元年(1688))
※少々近世風で、重たい印象の建築ですが、帝釈寺の貴重な遺構です。2002/5/5撮影
★妙見山帝釈寺 この項は
妙見信仰の総本山 開運厄除の但馬妙見 日光院様の但馬妙見信仰の歴史 のページを要約
。 寺伝では飛鳥・敏達天皇の時代、日光慶重の創建と伝える。
第4世の代に、妙見堂(本尊妙見大菩薩)並びに薬師堂(本地仏薬師如来)が石原に建立されたという。
平安末から鎌倉期以降、武将の妙見大菩薩に対する信仰が盛んになり、山名宗全などの祈願状・寄進状が多く残されている。(日光院文書)
中世には隆盛を極め、求聞持堂、護摩堂、仁王門、奥の院(西50丁の山上・現名草神社の地)、坊舎は成就院、薬師院、蓮光院、地蔵院、宝持院、弥勒院、明王院、歓喜院、宝光院、岡之坊があったという。
*山上の奥の院には秋葉神社を奉祀という。(「但馬妙見、日光院の概畧」 日光院51世森田祐親)
天正5年(1577)羽柴秀吉の山陰侵攻により、妙見大菩薩本殿、薬師堂のみを残し灰燼に帰す。
その後高野山釈迦文院朝遍阿闍梨は、第35世を兼務し復興に尽力、其の弟子快遍阿闍梨を第三十六世とする。
寛永9年(1632)奥の院に妙見大菩薩を奉持して登り、日光院を妙見山の山腹に移転復興する。
成就院のみは旧地に復興し、子院とする。
慶安元年(1648年)徳川家光の朱印30石を受く。
寛文5年(1665)三重塔移建。
宝暦4年(1754)第40世宝潤代、帝釈寺日光院本殿(現名草神社本殿)建立(おそらく再興と思われる)。
慶応4年所謂神仏分離令、明治5年所謂上地令が出される。
明治9年、豊岡懸は、帝釈寺の抗弁の正統性や「妙見大菩薩は仏尊である」との認識にも関わらず以下を布達する。
「寺号を廃し、同寺が所有してきた不動産のみを神社に明け渡すこと」(明治9年7月8日豊岡懸布達)
以上により、理不尽にも「奥の院妙見宮」は名草神社として収奪されるに至る。
「この時、但馬妙見信仰を守るため、九鹿村から奥の小佐谷中の人々や諸国信者、数百人が午前5時に山上に集まり、妙見七尊体尊像を始め全ての仏像、教典、法具、蔵書等、寺宝を護持し、鐘楼以外の日光院の建物のみを山上に残し、元の日光院が寛永年間まであった山麓の石原に降り、末寺成就院と合流」する。
「その後、下げ戻し法が発布されると同時に、日光院は但馬妙見信仰を護るため、直ちに政府に対し行政訴訟を起こし」、「妙見宮とは日光院」そのものであることを根拠に、明治39年全面勝訴し、名草神社所属とされていた山林は全て寺有に復帰した。
現在、山下の日光院には本殿、本堂(薬師堂)などの諸堂宇があり、妙見大菩薩・本地薬師如来などを祭祀する。
以上は、「妙見信仰の総本山 開運厄除の但馬妙見 日光院」様の「但馬妙見信仰の歴史」 のページの要約
である。
(2003/7/17:日光院様から要約および転載の許諾を頂く。)
2006年以前作成:2010/11/01更新:ホームページ、日本の塔婆
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