播 磨 高 蔵 寺 ・ 山 城 三 室 戸 寺 三 重 塔

播磨高蔵寺・山城三室戸寺三重塔

播磨高蔵寺三重塔跡

播磨高蔵寺は佐用郡三日月町の小高い山中にある。山門を入り左手に本堂・薬師堂・鐘楼などがある。
本堂に向かって左手に裏山に登る道があり、このつづら折の道を数十m登ると、途中に平坦地があり、ここにフェンスに囲まれた貯水棟(寺院の説明)があり、この貯水棟の裏側 (下記写真6参照)に、三重塔跡が現存する。
 下掲載「播磨高蔵寺絵図」を参照。

三重塔跡は既に潅木に覆われていますが、明瞭に土壇を残す。
土壇の一辺(上辺)は約3.9mで、高さは30cm内外を測る。
 <実測>

播磨高蔵寺三重塔跡1(塔亀腹跡)
  同         2(左図拡大図)
  同         3(西面亀腹)
  同         4(土壇上礎石)
  同         5(亀腹隅・石柱・礎石)
  同         6(貯水棟で写真右奥が三重塔跡)
   小雨の中で写真はやや不鮮明。

この土壇は一辺の長さから判断して、基壇ではなくて、塔の亀腹と思われる。
礎石は土壇上には1個の自然石(川原石)のみが残存する。
また上記とは別に礎石と思われる石(川原石)が土壇外に2個ほど転落して残存する。 ※但しこれ等の川原石が礎石かどうかは不明。
なお土壇上にはかなり多くの、礎石抜取り穴と思われる穴が残り、礎石は近年に抜き取られた可能性もあると思われる。
2008/07/01撮影:
 播磨高蔵寺三重塔跡11:西面、西より撮影
   同    三重塔跡12:西面、南より撮影
   同    三重塔跡13:東面及び南面(南面は写真左)、東より撮影
   同    三重塔跡14:南東隅(写真のほぼ中央)、写真左上隅:転落(推定)礎石、中央やや左下:「金毘羅大権現五千度供■塚」碑、
                右端やや上:(推定)礎石

なお土壇に接して、正面に「金毘羅大権現五千度供■塚」<■は判読できず>、側面に「文政8年」と刻印した石角柱(上記写真にも写っている)が建つ、その位置は塔の縁とかぶり、またその銘からも、本来塔と関係があるものとは思えない。
おそらく塔が撤去された後に移設されたものと思われるが、よく分からない。

高蔵寺は済露山と号する。神亀2年(725)行基の創建とし、本尊千手観音像は行基作と伝える。真言宗御室派。
後醍醐天皇は隠岐配流の時、当寺に立ち寄り、建武中興後千手堂を修補したという。その後戦火で焼失。
応安2年(1369)赤松覚祐が千手堂・宝塔を再興。弘治2年(1556)堂舎を焼失。その後再興されると推定される。
近世には三日月藩(1万5千石)森家の菩提寺で、津山藩初代森忠政、三日月藩初代森長俊以下歴代三日月藩主の御霊を祀る。
 ※三日月藩は、元禄10年(1697)津山藩森家の改易により、分家森長俊が三日月の地に移封されたことにより始まる。
江戸期には本堂・三重塔・大師堂・開山堂・御影堂などがあったという。
 高蔵寺全景
2008/07/01撮影:
 播磨高蔵寺全景2     同    本堂:左は鐘楼、右は御霊堂      同   御霊堂     同    方丈

明治維新後、おそらく塔の維持管理に困窮し、塔を放出したものと思われる。

2006/11/30:「Y」氏ご提供
「播磨高蔵寺絵図」
 「明治新撰 播磨名所図絵」中谷良與助(與助と推定、大阪府平民・堺宿屋町住)、大阪工新圖匠館、明治26年 より

播磨高蔵寺絵図:左図拡大図:
  明治26年の年紀があり、その頃の景観と思われる。

この絵図には、山城三室戸寺に明治43年売却移転した大塔(三重塔)が描かれている 。
絵図によると、本堂裏手に鐘楼があり、そのすぐ裏手に大塔があるように描写されているが、実際は2度折の坂道を数十m上った位置に塔はあった。
現況は
鐘楼の現位置は本堂前横(絵図の十三仏の位置附近)に替わり、塔に至る間の開山堂・文殊堂・玉屋・奥之院の堂宇は退転し、その平坦地を辛うじて残す。
ただ唯一「玉屋」(退転と思われる)の位置に2基の石塔を残す。
※播磨三日月藩5代藩主森快温(はやあつ)墓所は高蔵寺、
  法号:快温院殿野州刺史鷲峯宗雲大居士。
2008/07/01撮影:
 三日月藩森快温墓所
2008/07/01撮影画像に入替
  三日月藩5代藩主森快温墓石:高蔵寺在
  三日月藩5代藩主森快温法号:高蔵寺在

森快温は安芸広島藩主・浅野重晟の次男、明和6年(1769)〜享和元年(1801)、森俊韶の養嗣子となり三日月藩5代藩主を継ぐ。
なお、初代長俊〜4代、6代〜8代の墓所は池上本行寺、9代最後の藩主俊滋墓所は三日月町常勝院と云う。

「赤松律師則祐の祖父覚祐法師、応安2年(1369)・・本堂一宇并峰権現宝塔建立ス中興開山ノ大檀那此ノ人也」


山城三室戸寺三重塔

播磨高蔵寺塔であり、元禄17年(1704)建立とされる。
明治43年高蔵寺より買取移建し、本堂西側の丘上に建立される。
さらに近年(昭和52年頃)本堂右横奥(東側)に移建され、同時に修理されたと思われる。
一辺2.72mの小型塔、尾垂木に鎬を入れるも基本的に和様の意匠で構成される。
管理は行き届いていると思われる。

山城三室戸寺三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4(左図拡大図)
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8

本堂左横前(西)の台地上には、三室戸寺での移建前の跡地(播磨高蔵寺よりの当初移築場所)が残る。
この跡地には石造十三重塔が建立され、その標とする。
  旧三重塔跡地・石造十三重塔(2000/9/30撮影)

当寺は本山派修験宗。西国33箇所10番札所。
寺伝では、宝亀年間、宮中に奇瑞があり、光仁天皇の勅命で藤原犬養がこの地を探り、志津川上流岩淵で黄金の仏像を得る。天皇は叡感し御室を移して尊像を安置し、御室戸寺と称したとされる。開山は大安寺行表あるいは智証大師円珍ともいう。
康和年間(1099-1104)園城寺隆明上人が中興。文明11年(1479)橋寺と争い焼亡。延徳元年(1489)再興、多くの子院があったとされる。天正元年(1573)槙島合戦で足利将軍に加担し再び焼亡。江戸中-後期には山麓に金蔵院を残すのみ になる。文化11年(1814)現本堂再興。大正8年(1818)書院と茶室九窓亭を三渓園に売却。
什宝として、清涼寺式木造釈迦如来立像(鎌倉・重文)、木造毘沙門天立像(平安・重文)、阿弥陀堂の木造阿弥陀如来及両脇侍坐像(平安・重文)を蔵す。
また鎮守社十八神社本殿(室町・重文・三間社、三間向拝)が現存する。
 鎮守社十八神社本殿1  鎮守社十八神社本殿2(2000/9/30撮影)

2005/10/22追加:
「宇治市埋蔵文化財発掘調査概報 第35集」宇治市教育委員会、1996(三室戸寺子院跡発掘調査)より
  「三室戸山一山絵図」:天保15年(1844)
今の山門下道路西に総門 (西向)があり、東西道の南に公文所・西から東に本坊宝蔵院・北ノ坊・池坊、東西道の北に十輪坊・宝性院・宝珠院などがある。さらに参道の中腹東に一坊(と思われる。判読できず)、子守坊があった。
また(真偽は定かではないが)東北には別院48ヶ寺があったとする。


2006年以前作成:2008/07/11更新:ホームページ日本の塔婆