讃 岐 善 通 寺 塔 心 礎 ・ 五 重 塔

讃岐善通寺塔心礎・五重塔

讃岐善通寺塔心礎

「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、162×81(見える幅、1/3は地下に)cm、径73×66×1、排水溝あり、白鳳 とする。
2003/11/6追加:「X」氏情報:
金堂基壇使用石材には、表記寸法・形態に合致する石材は無いと思われる。但し類似するものはあると思われる。

「新編香川叢書 考古篇」:現金堂(貞享2年1684再建)基壇に礎石が組み込まれている。
正面・西側・東側に組み込まれた礎石は径65cmの柱座をもち、北側礎石は径60cmの柱座を持つ。西側礎石は周囲に排水溝を持ち心礎と思われる。 正面・北・東の3個は高さ1cmの造出の柱座を持つ。

西側礎石の大きさは(実測すると)160×95(見える高さ)cmで内径68cm幅およそ2.5cm、深さおよそ1cmの円形の排水溝を彫る。
この礎石は正面・北・東の3個の礎石とは違って円形の造出を持たず、表面は平面に削平される。
なお礎石の中央部に出枘があった形跡は無いと思われる。

讃岐善通寺推定心礎1
  同         2(左図拡大図)
  同         3
  同     北面礎石
  同     東面礎石
  同  正面南面礎石

「X」氏ご提供画像・・・・2003/11/02「X」氏撮画像

この石が礎石であるか否かについては、他の正面・北・東の3個はほぼ礎石であることに間違いはないであろう、その上で、材質あるいは大きさの類似性からみて この西側の石も礎石であることは間違いないと思われる。
心礎か否かについては、舎利孔あるいは枘孔あるいは出枘などの加工は無いが、環状溝のみを持つ心礎としては、創建時の摂津四天王寺心礎(地下式)の例があり、それと同一の形式とすれば、極めて珍しい形式 ではあるが、心礎である蓋然性は高いと思われる。

因みに摂津四天王寺創建時の心礎については、昭和9年に地下3.62mから発掘され、大きさは直径1.5mで、上に径109cmの細い溝状の柱座を彫る形式の心礎とされる。

  参考:摂津四天王寺創建心礎1    同      創建心礎2・・・・・いずれも「四天王寺圖録」から転載。
                                              詳細は摂津四天王寺のページを参照

創建時の善通寺について現時点では必ずしも明確ではないが、出土瓦などから創建は奈良前期まで遡ることは可能とされる。
  (寺伝では弘仁4年・813、弘法大師が父佐伯善通の追善のため建立したとされるが、それ以前に例えば佐伯氏の氏寺として存在していた可能性も高いと推定される。)
この四天王寺の心礎は地下式である故の特殊形式とも思われるが、善通寺の「心礎」が地下式であったどうかは全く分からない。
 (むしろ、創建の時代から考えて地下式心礎ではない可能性が高いであろう。)

もう一つの類似心礎として、大和中宮寺塔心礎がある。
 ※ この心礎も地下式であり、 現在は埋め戻され実見することは出来ないが、孔あるいは穴あるいは枘などの加工はないとされる。
さらに大和飛鳥寺心礎も地下式であり、中央に舎利孔を穿つも、表面が平滑に削平されている点では同じであろう。


讃岐善通寺五重塔

延久2年(1070)の大風で倒壊。観応3年(1352)宥範により、木造五重塔造営成る。
永禄元年(1558)兵火で焼失。文化元年(1804)再興。
この塔も天保11年(1840)焼失。
塔は仁孝天皇の御願により、現存塔は明治17年に再興。
一辺6.20m、高さ は45.5m、現存塔婆では屈指の高さを誇る。

伸和建設資料集」より:平成5年半解体修理(伸和建設工事)。
 善通寺五重塔   善通寺五重塔平面図
二層目まで欅材、上層は松材を使用する、在来工法で修理、力学的には問題なし。

2003/12/30撮影画像:
讃岐善通寺五重塔1(左図拡大図)
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5

2001/12/27撮影画像:
讃岐善通寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5

2008/06/21追加:
2006年4月16日四国新聞掲載記事:「総本山善通寺 五重塔の不思議」より転載
 善通寺五重塔立断面図:心柱は五重の梁から鎖で吊る構造(懸垂工法)を採る。
 善通寺心礎・心柱:心礎と心柱との間には約6cmの隙間がある。心柱は枘を作り、心礎の枘孔に差し込む。
 善通寺心柱・吊鎖

善通寺概要

当寺は弘法大師生誕地とされ、東院・西院に今なお多くの伽藍を有する。四国88ヶ所第75番札所。

下記の図は文化元年再興塔の図と推定されます。
「中国名所図会」巻之1:
記事:「五重塔婆(南門を入ると正面にあり。方3間にして、高さ18間5尺と云々。下は四如来、四方に向はせたまふ。中の本尊観音大士。上塔は金剛界大日如来云々。観音・大日両像は、大師自ら刻みたまふ。」
弘法大師生誕の地。南大門。常行堂、東門、金堂、経蔵、勧進所、花蔵坊、院主坊、観智院、観音堂、仁王門、御成門、大師堂、奥の院、護摩堂、善通寺本坊等幾多の堂宇を有したようです。
 善通寺全図(部分図)、善通寺五重塔(部分図)

「金毘羅参詣名所圖會」:五岳山誕生院善通寺
記事:五重大塔(金堂の前にあり。先年焼亡して当時再建最中なり)
 善通寺伽藍図(部分図) 同      左(部分図)
図中には五重塔が描かれているが、実際は天保11年焼失し、この当時は五重塔は存在しないと思われる。
現存塔婆は弘化2年仁孝天皇御願で造営を企画し、元治元年起工し、明治33年落慶した塔婆です。

2006/01/29追加:
丸亀ヨリ金毘羅山讃岐廻並播磨名所附:幕末頃
 「丸亀ヨリ金毘羅山・・・」(全図)  善通寺の部分図
  「地図で読む江戸時代」より


2008/06/21追加:
「讃岐国利生塔について」山之内誠(「日本建築学会計画系論文集」No.527、2000 所収)等 より
讃岐国利生塔

一般的には、讃岐国利生塔は永禄元年(1558)兵火で焼失した善通寺木造五重塔であるとされる。
しかしながら、当寺の境内東南隅に「足利尊氏利生塔」と伝えられる石塔がある。
 ○善通寺「足利尊氏利生塔」(石造)
これは一体どう云った意味であろうか。
これも常識的には、木造五重塔跡が焼失した後に石造として建てられたものであろうと推論されている。
しかしこれは何か根拠があるのであろうか、また、利生塔は必ず木造であるという根拠はあるのであろうか。

石造「足利尊氏利生塔」は現状高さ2.8m・4重で、4重以上は後補と思われる。
ではその当初材と思われる下3重についての建造年代はいつであろうか。詳細は省略するとして、様式上から子細にその建造年代を検討すれば、少なくとも鎌倉前期には建立されていた可能性が高いと結論付けられる。
つまり、様式上から推定した年代観では、木造五重塔退転の後の建立ではありえないと思われる。

讃岐国利生塔と善通寺木造五重塔の記録を整理すれば以下のようになる。
善通寺木造五重塔は延久2年(1070)の大風で倒壊
 (「東寺百合文書」の延久4年「讃岐善通寺所司等解」:昨々年大風、五重塔一基・三間一面常行堂一宇巳以?倒也)、その後再興されず。
暦応5年(1342)宥範、阿波切幡寺利生塔の供養導師を務める。
 (阿波切幡寺利生塔供養は利生塔供養の初例とされる。)
康永(北朝)3年(1344)宥範が利生塔供養(「誕生院宥範申状案」など)
 (この利生塔供養は阿波切幡寺、山城法観寺(康永元年=暦応5年)に続く3例目とする。)
観応3年(1352)宥範の手で、木造五重塔造営成る。(「贈僧正宥範発心求法縁起」)

※以上が示すことは、要するに、利生塔供養と木造五重塔造営供養とは全く別物であるということであろう。
木造五重塔落慶と利生塔供養との時期が近いのは事実であるが、明らかに利生塔供養と木造五重塔供養とは別個のものとして記録されている。即ち利生塔とは今に伝わる石造「足利尊氏利生塔」であり、宥範の実権掌握<詳細は省略>の後に、利生塔とは別に木造五重塔の再興がなされたものであると思われる。

永禄元年(1558)木造五重塔兵火で焼失。
近世の資料ではあるが、「讃岐国多度郡屏風浦善通寺之記」(江戸中期・善通寺僧の手になると推定)では
「尊氏将軍、直義に命じて、66ヶ国に石の利生塔を建給ふ。当国にては、当寺伽藍の辰巳の隅にある大石之塔是なり。」
 (利生塔全てが石造との認識は誤りであろうが、石塔が利生塔との認識であった。)とあり、利生塔は石造であったという認識を示している。

※なお善通寺塔婆に関しては以下の史料がある。
○「一円保差図」<徳治2年(1309)>:塔(但し塔跡)、金堂、講堂がほぼ南北に並ぶ伽藍図が描かれる。
○「南海流浪記」<仁治4年(1243)>では「二重ノ宝塔」とあり、「一円保差図」にはこの宝塔に相当すると思われる塔が描かれる。
○「善通寺住侶等訴状案」(延慶2年・1309以降)では
 「・・・数□宇堂舎令傾頽両基之塔婆令顚倒・・・」とあり、東西両塔があったことが推定される。
○「善通寺伽藍図」<延慶2年・1309頃の作成と推定>
「西塔跡」と明記しながら、木造五重塔の姿を描く。この図の描かれた時には五重塔は退転していた(であるから「西塔跡」の記入)が、
復興伽藍図あるいは復元伽藍図として木造五重塔の姿を描いたとも解釈される。
 善通寺伽藍図(全図)   善通寺伽藍図(部分)・・・・下にも同一図を掲載。

2009/12/09追加:
「絵画史料による讃岐国善通寺二重ノ寶塔の分析」山之内誠(「日本建築学会計画系論文集(516)」1999 所収) より
○「一円保差図」徳治2年(1307):上が南として描画される。大きさは83×162.5cmであるが、伽藍部分はおよそ10cm四方くらいと云う。
裏書きに「善通寺□□絵図 徳治2円11月 当寺百姓烈参時進之 一円保差図」とある。
「二重塔」(相輪を載せる)が描かれる。この「塔」は「南海流浪記」で云う二重宝塔と思われる。
また金堂南に塔跡と思われる破線が描かれしかも中心には黒丸もあり、これは心礎を表すとも考えられる。
更に南に中門とも思われる破線が描かれる。おそらく四天王寺式の伽藍配置を採っていたものと推定される。
 一円保差図
○「南海流浪記」仁治4年(1243)の善通寺伽藍
金堂、講堂、常堂(常行堂か)、二重ノ塔の規模などが記される。
「・・・大師御建立二重宝塔現存。本五間、修理せしむ間、前広廂一間加える・・・」
○「善通寺伽藍図」延慶2年(1309)(従来は弘安9年・1286とされる):上が西として描かれる。
西塔跡としながら五重塔を描き、講堂・楽屋・漢音堂・地蔵堂を完全に描きながら大破と記す。
この絵図には二重塔はなく、「一円保差図」の二重塔の位置には法華堂が描かれる。
では、このほぼ同時代の絵図の違いは何であろうか。結論だけ記すると、これは同じ建物を描いたものであろうと推定できる。
 (讃岐木田郡牟礼の洲崎寺蔵「南海流浪記」写本(慶長2年1597書写)では「二重ノ宝塔」の脇に「本法華堂ト云」と注記があると云う。)
なお当論文ではこの二重宝塔が下重平面方5間、上重平面方3間の天台大塔形式であろう言及するも、それは疑問であろう。
 善通寺伽藍図2
2009/12/09追加:
以下の論文がある
「薬師寺伽藍之研究」宮上茂隆(「東京大学提出学位論文」1978)<未見>
要約を読むと、論点は多岐にわたると思われる。
論旨の中の一つである藤原京本薬師寺伽藍の顛末は以下の通りと主張される。
11世紀後半、本薬師寺伽藍は解体され、その堂塔は円宗寺(後三条天皇創建)、法勝寺(白河天皇創建)、法成寺(藤原道長創建)、讃岐善通寺へ移建された。本薬師寺金堂本尊薬師三尊像(現平城薬師寺講堂本尊)および本薬師寺東院本尊聖観音像(現平城薬師寺東院堂安置)は解体の際植槻寺(興福寺末)に移され、その後平城薬師寺に返還されたものである。 ・・・と。
 (本薬師寺金堂は讃岐善通寺金堂として移建され、また讃岐曼荼羅寺多宝塔も善通寺に移建されたと結論付けられる。)
以上に対して、
「本薬師寺金堂及び曼荼羅寺多宝塔の善通寺移建説への反論」山之内誠(日本建築学会計画系論文集(523)1999 所収)では
善通寺への移建の可能性は低く、殆ど有り得ないとの反駁がある。


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