日光山・本宮(四本竜寺)・輪王寺・中禅寺(中宮祠)

日光山五重塔、日光山本宮三重塔、日光山相輪橖(トウ)など、補陀落山中禅寺三重塔

中世の日光山

日光山縁起絵巻に見る四本竜寺:中世には金堂(三仏堂)前方に三重塔があったと思われる。


日光山縁起絵巻(下記拡大図・部分図)

(源)実朝公御建立と記される。

 「日光山輪王寺 宝ものがたり」より転載。

日光山往古図に見る四本竜寺 :左図は四本竜寺中伽藍で、中世には、図のように三仏堂の前に三重塔はあった。

日光山往古図(部分図・下図拡大図)
(中央図)

日光山往古図(部分図)
(右図)

中世には本宮(現四本竜寺)の西に、
三重塔があったと思われる。


「日光山輪王寺 宝ものがたり」より転載。

※なお「日光山往古図」の左図の上方には「中禅寺」伽藍(三重塔)が描かれる。

日光山志:文政8年(1825)序、天保8年(1837)刊 植田孟縉著、渡辺崋山等画 に見る日光山

凡例:日光山古図
東照宮造営以前の日光山の様子と思われる。
其1:本宮(四本竜寺)三重塔・・・四本竜寺の三重塔<図中央下>と思われ る。現在地より西にあったと思われる。
其2:日  光 山 三 重 塔・・・中世には、三仏堂の前方右に三重塔 <図中央上>がある。
  源頼朝建立の塔とされる。
其3:中  禅 寺 三 重 塔・・・図左上が中禪寺。中世、中禅寺三重塔<図左上>は既に造立を見ていたと思われる。


近世の日光山

日光山志に見る日光山

巻之1:本宮権現
日光三社の内なり。以下略
四本竜寺
記事「三層塔:銅葺き。本社の後にあり。伝へいふ、この三重塔は古、実朝将軍の御建立。最初は今の御宮辺にありしを、松平正綱はからひにて、この所へ移さるる処、貞享の災に回禄し、今の塔はその後再建のものなり。」

巻之4:中禅寺 全      図   部   分  図
三層塔:「赤塗り、三間四方。五智如来を安ず。右の方にあり。」

巻之5
「御宮中總図」五重塔が描かれる。 全   図  五重塔(部分図)
「五重の御宝塔:石の御鳥居と仁王御門の間にて、西の方にあり。塔内三間四方。本尊五智如来並びに須彌の四天、その余、諸尊を安置す。これは慶安3年小浜侍従酒井忠勝朝臣造献せり。総高さ17間2尺。柱金襴巻、ニ手先、総彩色。外承塵の上通りは十二支を彫りたり。二重垂木、銅葺き。四方黒塗り。扉に葵の御紋あり。外通り赤塗り。廻り八間四方ほど、鉾石の玉垣を構へたり。」

木曽路名所図会文化2年(1805)刊 秋里籬島著・西村中和画 に見る日光山

巻之6:下野日光
 日光山伽藍(部分図):左側に東照宮五重塔、右部分に本宮(四本竜寺)三重塔が ある。
 四本竜寺三重塔(部分図):三重塔の 記事は特にないが、現四本竜寺の三重塔が描かれる。
 五重塔(部分図):記事:「五重塔:これは酒井讃岐守御寄附なり。本尊東は薬師、西は弥陀、北は釈迦、南は多宝、中央は大日如来なり。」
 日光山相輪橖(トウ):当時、相輪橖(トウ)(幢)は、五重塔左斜め奥 付近にあった。
 補陀洛山中禅寺(上記日光山伽藍図のさらに左に続く部分の部分図) :御本社、戒壇堂、三層塔等があった。

補陀落山神宮寺

中禅寺と号す。
本尊は十一面千手観音(平安初頭・重文・立木観音)、勝道上人が感得した姿を立木に彫ったものと云う。
 (千手観音は男体山の本地とされる。)
明治の神仏分離で中宮祠と中禅寺が分離。
明治35年の大山津波で流失。本尊は中禅寺湖に流失したが、浮き上がり引き上げられたと云う。
のち中禅寺は現在地に移転、本尊立木観音も同時に現在地に遷座。
 ※立木観音は明治の大山津波で、流出し現在の歌ヶ浜に移安する。高さ約6m。後補も多いが12世紀後期の作と推定される。

嘉暦3年(1328):中禅寺三重塔の造立供養
文久2年(1862):中禅寺の三重塔、護摩堂、上供所、別所が焼失。
 →→→おそらく中禅寺三重塔は、文久2年(1862)焼失し、その後の再興されなかったと思われる。

2007/01/01:「Y」氏ご提供
 「日光山の図」:「日本国尽 3巻東山道」明治5年、日光山中禅寺三重塔がまだ描かれている。
 

日光山縁起絵巻などに見る中禅寺

日光山縁起絵巻(下記拡大図・部分図)

「湖水全図」に見る中禅寺
 湖水全図(部分図)
「日光山輪王寺 宝ものがたり」より転載

2006/01/29追加
「日光山諸所案内手引草」天保11年(1840)に見る中禅寺
 日光山諸所案内手引草
 日光山諸所案内手引草 2(部分図)
「地図で読む江戸時代」より転載

※重出
前出「木曾名所図絵」の補陀洛山中禅寺
前出「日光山古図」の中禅寺三重塔
前出「日光山志」の巻之4:中禅寺 全     図    部   分  図

2009/11/07追加:「紀州東照宮の歴史」特別展図録、和歌山県立博物館、1990 より
紀伊東照宮縁起絵巻
 この絵巻は27段までは日光東照宮縁起絵巻と同一内容で、28段の紀州東照宮造営が独自のものと云う。
  東照宮縁起絵巻・中禅寺湖:中禅寺三重塔が描かれる。


日光山現存塔婆

木造塔婆として、四本竜寺三重塔、日光山五重塔が残る。その他の塔婆として日光山相輪橖(トウ)、日光山鉄宝塔、日光東照宮奥社宝塔 、大猷院霊廟奥院宝塔などが残る。

四本竜寺三重塔

本宮(本殿・唐門・透塀・・ともに重文)、観音堂(重文)と供にあり、日光山草創の地という。
三重塔は大同年(807)年創建といい、正保2年(1645)に三仏堂前から現地に移り、天和4年(1684)に焼失。
貞享3年(1686)頃現在の塔が再興。一辺5.46m。重文。
平成15年8月から解体修理中、平成18年9月完了予定。
現地の説明では天和4年(1684)に焼失、正徳3年(1713)再興とする。

 四本竜寺三重塔(工事現場に掲示写真を撮影)
   同  三重塔(解体修理中)・・・右は観音堂
2009/06/06追加:
 四本竜寺三重塔落慶:2007年解体修理落慶(毎日新聞)

日光山五重塔

慶安3年(1650)創建。文化12年雷火で焼失、文化14年(1817)再建塔。
一辺4.85m、高さ31.8m。重文。
 

日光山五重塔01(左図拡大図)
  同     02
  同     03
  同     04
  同     05
  同     06
  同     07
  同     08
  同     09
  同     10
  同     11
  同     12

2007/07/01追加:
「日本古建築提要」天沼俊一 より

東照大権現五重塔断面図

五重塔三面図初重二重

五重塔断面図四重五重

2006/09/30追加:NYPL(New York Public Library) Digital Gallery より
 日光山五重塔1:(created 187?-188?)    日光山五重塔2:撮影時期不詳    日光山五重塔3:撮影時期不詳

2007/07/01追加:撮影時は明治期と思われる。
 日光山五重塔11    日光山五重塔12    日光山五重塔13

2007/08/05追加:
・「日光」東京:鈴木新兵衛、明治32年 より
  日光山五重塔14    日光山五重塔15

・「日光」神戸:光村写真部、明治33年 より
  日光山五重塔16

2008/12/31追加:
・「日本百景」明治29年(再版) より
 日光山五重塔17:「日本百景」では「東京上野公園内五重塔」とある。 ・・・単純な取り違えであろう

2009/06/06追加:
・「Japan en de japanneezen(日本と日本人)」、Nijland, E.(ニーランド) より
 Shinto-pagode met Toru. (トリュー(鳥居)のある神道の塔)

・「Rambles in Japan : the land of the rising sun(日本そぞろ歩き−日の登る国−)」、Tristram, H. B. , 1822-1906(トリストラム) より
 Pagoda and entrance to large temple, Nikko (日光,塔と大寺院の入口)

・「Un touriste dans l'Extreme Orient, Japon, Chine, Indo-Chine et Tonkin (4 aout 1881-24 janvier 1882)
   (極東の一旅行者,日本,中国,インドシナ,トンキン)、Cotteau, Edmond, 1833-1896(コトー) より
 Pagode a Nikko.(日光のパゴダ(五重の塔)

・「Religion in Japan : Shintoism, Buddhism, Christianity (日本の宗教:神道,仏教,キリスト教)」、Cobbold, George A. (コボルド) より
 Pagoda at Nikko. (日光の塔)

・ 「Evangelisches Missions-Album : Bilder aus Japan nach Photographien(福音教会の伝道−アルバム:写真に基づく日本の絵」、
   Vogelein, F. W. (フェゲライン) より
 Die Pagode von Nikko.(日光の塔)

2006年以前追加:
・「古図に見る日本の建築」より
  日光山五重塔立面図:諸堂図に所収
   諸堂図は1巻で、四天王寺金堂・東大寺大仏殿・興福寺金堂ほか8棟・延暦寺根本中堂ほか2棟・洛陽大仏殿・三十三間堂・
   平等院鳳凰堂・東福寺山門ほか3棟・薬師寺東塔・法隆寺五重塔の10件を集める。元禄6年(1693)製作。東京国立博物館蔵。

2006/02/03追加:「日本建築史図録」より
懸垂式心柱:

いずれも昭和10年撮影:

写真中の物差は曲尺の1尺。

五重塔擦下部1:左図拡大図
 同      2
擦は第4重より懸垂する。懸垂の場合、擦の下部は枘を造り出し、礎石に彫りこんだ枘孔に挿入する形式を採る。
五重塔擦懸垂部1
 同        2
 同        3
擦は第4重部で四方から鉄鎖で懸垂する。
五重塔擦竹ばね部1
 同         2
第4重で懸垂することは、擦のほぼ1/2の部分に相当する。下部は枘により、礎石の枘孔で固定されるが、更に揺れによる露盤と第5重の屋根との結合部の損傷を防止する意味などから、この塔では第5重の内部2箇所(軸部内側および最上階部屋部)で、竹ばねを擦に巻き付け、揺れを吸収する仕掛けがしてある。

2009/06/06追加:「五重塔はなぜ倒れないか」上田篤、新潮選書、1996 より
 日光山五重塔断面図     日光山五重塔心柱心礎     日光山五重塔心柱鉄鎖

日光山相輪橖(トウ)

木曽路名所図絵に見る日光山相輪橖(トウ):三仏堂とともに新宮の社前にある。
  木曽路名所図会:「相輪橖(トウ)」

青銅製、高さは13.2m。寛永20年(1643)家光の発願、天海大僧正 の建立と伝える。
上部は金瓔珞金の鈴がそれぞれ24個ある)。当初は東照宮奥院にあったが、慶安3年(1650)年二荒山神社近くに移築。
明治8年神仏分離で更に現在地に移転。
  日光山相輪橖(トウ)1   同       2

2007/07/01追加:撮影時は明治期と思われる。
  日光山相輪橖(トウ)11

2007/08/05追加:
・「〔日本勝景写真帖〕」東京:大蔵省印刷局、明治12年 より
  日光山相輪橖(トウ)12  日光山相輪橖(トウ)13


日光山鉄宝塔

文明2年(1470)銘、重文指定。三仏堂に安置。
総高237.8cm。鉄鋳造で、6個に分鋳。塔身の周囲に「奉新造滝尾山鉄塔 光明院法印昌宣 願主文月坊宗弘 文明二天(一四七〇)甲寅三月十五日大工宇都宮住人大和太郎」の鋳出銘がある。もとは滝尾中宮社の社前にあったとされる。
  日光山鉄宝塔1   同      2

日光東照宮奥社宝塔(徳川家康廟所宝塔)

2006/09/30追加:
NYPL(New York Public Library) Digital Gallery より
  日光山奥社宝塔:徳川家康廟所:撮影時期不詳
  ※宝塔は最初は木造宝塔、後に石造宝塔となる。天和3年の地震で破損。
  天和3年(1683)徳川綱吉が現在の唐銅製に造替。総高約5m。

大猷院霊廟奥院宝塔(徳川家光廟所宝塔)

2009/06/06追加:
 大猷院霊廟奥院宝塔:2000年(毎日新聞)
  銅製、径1.3m、高さ3.6m。内部には釈迦如来と位牌を安置。地下約3mに遺骸を安置と云う。
 


日光山の概要

天平神護2年(766):二荒山(主峰男体山)開山を試みた勝道上人が、大谷川を渡り四本竜寺を創建。
神護景雲元年(767):勝道上人、大谷川北岸に二荒山大神(本宮)を祀る。
天応2年(782):勝道上人は二荒山登山、山頂に小祠(奥宮)を祀る。
(第3回目の男体山登攀を試みて、初登攀に成功)
延暦3年(784):勝道上人は、二荒山中腹中禅寺湖北岸に日光山権現(中宮祠)を祀る。
(第4回目の男体山登攀を試みて成功、山腹に神宮寺を建立して止住する)
延暦9年(790):勝道上人が三社権現(本宮・現ニ荒山神社)建立。
弘仁元年(810):四本竜寺を本坊とし、一山の総号を満願寺とする。
弘仁11年(820):空海が滝尾権現を創建。

嘉祥元年(848):慈覚大師円仁が日枝神を祀り、本地神宮寺(三仏堂)、法華堂、常行堂を創建。
嘉承3年(850):二荒山新宮が成立。これにより本宮権現・新宮権現・滝尾権現が分祀され、日光三社権現と総称される。
新宮権現は男体山・本地千手観音、滝尾権現は女峰山・本地阿弥陀如来、本宮権現は太郎山・本地馬頭観音とされる。
・・・(三仏堂には本地三仏を祀る。)
中世には源頼朝などの関東武士の信仰を受ける。
建保3年(1215):弁覚、新宮を造営
仁保元年(1240):弁覚、光明院を創設、一山の本坊とする。
当時は衆徒36坊、小坊舎300、寺領およそ18万石と言われる。
室町期には光明院の実権は、権別当座禅院が掌握していたといわれる。当時の坊舎は500を数えるという。
嘉暦3年(1328):中禅寺三重塔の造立供養
近世にはいり、秀吉の小田原攻めでは北条氏に組し、寺領は没収される。
慶長18年(1613):慈眼大師天海(第53世貫主)により、光明院の復興が開始。
元和3年(1617):家康の遺骸が久能山より、日光山に遷る。徳川秀忠が東照大権現を創建。
東照大権現とは家康そのもので、本地は薬師如来とされる。また山王権現と摩多羅神も合わせて祀る。
現在は家康・秀吉・頼朝を祭神とするようです。(本地堂<薬師堂>は昭和36年焼失→昭和43年再建。)
元和5年(1619):天海が日光三社権現を修造。また日光山衆徒の寺跡の復興に努める。
また現本宮社殿も元和5年秀忠の寄進による。
寛永11年(1634)〜:東照宮寛永の大造替。ほぼ現在の東照宮の建築様式となったとされる。
寛永20年(1643):相輪橖(トウ)建立。
正保2年(1645):三重塔が四本龍寺の東側に移建される。
慶安3年(1650):若狭小浜藩主酒井忠勝五重塔奉納
承応元年(1652):法親王(輪王寺宮)が江戸に下り、東叡山寛永寺、日光山を兼帯する。
承応2年(1653):大猷院(家光)廟所が完成。(家綱)
なお東照宮別当大楽院、二荒山神社別当安養院、大猷院別当竜光院が創建される。
文化12年(1815):五重塔焼失。
文政元年(1818):酒井忠近五重塔再建
文久2年(1862):中禅寺の三重塔、護摩堂、上供所、別所が焼失。

神仏分離
明治元年:幕府兵が宇都宮から日光山へ敗走。政府軍が日光に迫り、東照宮の御神体が会津に遷座。幕軍と官軍が野口十文字で対峙、幕府兵は日光を去り、官軍は今市へ撤収。
公現法親王が勅詔を以て生家・伏見宮への復帰を命じられる。
明治2年:日光県が設置される。
伏見宮能久親王(公現法親王)が輪王寺門跡を辞任。
輪王寺の称号および日光山と東叡山の本山号が廃止。
明治3年:日光県が神仏分離を弁官に上申。
明治4年:神仏分離により、日光山はニ荒山神社(新宮)、東照宮(東照大権現)、満願寺(輪王寺)として分離し、衆徒110ヶ寺は満願寺に合併。同年:満願寺本堂全焼。
明治7年満願寺再興、同15年一山支院15寺再興、同16年輪王寺に復号。
15院とは、浄土院、実教院、医王院、照尊院、日増院、唯心院、法門院、安養院、桜本院、禅智院、光樹院、護光院、華蔵院、南照院、教光院 をいい、現在も健在と思われます。

神仏分離では大部の寺院・坊舎が廃寺となり、また三仏堂などの移築などはあったが、主要伽藍は維新前の東照大権現の配置を今なお色濃く残す。このような大伽藍では極めて珍し く、おそらく殆ど唯一残存する明治維新前の「神社」の姿を留めていると思われる。

2006/11/05追加:「神仏分離の動乱」より
天平神護2年(766)勝道上人(上野芳賀郡の人)ニ荒山開山、日光の地に四本竜寺を建立。
弘仁元年(810)満願寺と勅賜
嘉承元年(848)円仁によって三仏堂・常行堂・法華堂の建立を見、天台化する。
承応3年(1654)輪王寺と勅賜
元和3年(1617)東照大権現が造営
以上の略歴の意味するところは、開山以来の神体山(ニ荒山)に対する山岳信仰と修験信仰に
満願寺(輪王寺)を中心とした天台信仰が確乎とした基盤としてあった。ここに近世初頭に東照大権現信仰が持ち込まれた。
近世には以上三者が渾然として(神仏が混在)日光は成り立っていた。
即ち山内全てが満願寺(輪王寺)であり、その中に東照大権現及び二荒山神社が存在した。
近世の日光山の概要は、総坪数 287,842坪、
堂宇其他建物 110宇、神地内にある堂宇 6宇、近村入会地にある堂宇 12宇、堂塔拝殿等総合計 128宇、
寺領 18万石余(天正18年以前)・8,079石余(元和3年〜明治維新まで)、東照宮領 21,554石余。
山内末寺 110ヶ寺、山内僧侶 89余名。(社人の数は不明)であり、
輪王寺宮(法親王・輪王寺門跡・歴代は全て天台座主でかつ東叡山寛永寺門主を兼ねる)が東照宮住職であり、二荒山神社の別当は安養院、大猷院の別当は龍光院であった。即ち、全山は僧侶の管理下にあった。
明治維新の神仏分離で、
輪王寺門跡の廃止(最後の門跡公現法親王は還俗・北白川宮能久親王となる)、僧侶の神勤の禁止、輪王寺の称号停止、満願寺へ改称、一山衆徒110ヶ坊の合併統合、各坊舎の寺地奉還、ニ荒山神社及び東照宮の独立の処置が採られた。
歴代法親王は政略的地位以外の何者でもなかったし、ましてや王政復古となり、その地位は無意味となり、いわば朝敵である祖先の霊廟に仕えるなど不謹慎となる。法親王の還俗は誠に当然のことであったのであろう。
 結果、110ヶ寺を数える僧侶は経済的基盤を全て失い、さらに明治4年には満願寺本坊・什宝が焼失し、僧侶は無給で生活も困窮し、出開帳も失敗(新たな借金を抱えることになる)、全く寺院の経営維持が成り立たない状態となった。

日光山伽藍

日光山常行堂・法華堂1(重文・慶安2年1649)
 同  常行堂・法華堂2(重文・慶安2年1649)
 同        三仏堂(重文・正保4年1647)・・・創建は稲荷川河畔の滝尾神社近付という。
 仁治年間中(1240-1242)源実朝により現在の東照宮の地に移された。元和3年(1617)東照宮創建で、今の二荒山神社社務所の地に移り、慶安3年(1650)現在の大堂が落慶。明治4年の神仏分離により解体、現在地に移転再興。
その他の
輪王寺関係の堂宇:
以下重文:本坊表門・江戸中期、開山堂・享保5年(1720)、常行堂法華堂渡廊・慶安2年、慈眼堂廟塔・江戸前期、慈眼堂拝殿・慶安2年、慈眼堂経蔵・江戸前期、慈眼堂鐘楼・江戸前期、慈眼堂阿弥陀堂・正保3年(1646)、児玉堂・江戸前期、護法天堂・元和年中、四本竜寺観音堂・貞享2年(1685)、四本竜寺三重塔・貞享2年

日光東照宮・・・徳川家康廟所・・・いずれも国宝・重文、本地堂(薬師堂)は東照大権現の本地仏薬師如来を祀る。
 下記以外にも多くの堂宇があります。

東照宮関係の国宝重文建造物は以下の通り。
国宝:本殿・石の間及び拝殿・寛永13年(1636)、正面及び背面唐門・ 寛永13年、東西透塀・寛永13年、陽明門・ 寛永13年、東西廻廊・寛永13年
重文:上社務所・寛永13年、神楽殿・江戸前期、神輿舎・寛永13年、鐘楼・寛永13年、鼓楼・寛永13年、上神庫・江戸前期、中神庫・江戸前期、下神庫、江戸前期、水屋・寛永13年、神厩・寛永13年、表門・寛永13年、五重塔・文政元年(1818)、鳥居・元和4年(1618)、坂下門・寛永13年、奥社宝塔・天和3年(1683)、奥社唐門・慶安3年(1650)、奥社石玉垣・江戸前期、奥社拝殿・寛永13年、奥社銅神庫・承応3年(1654)、奥社鳥居・天和3年、奥社石柵・江戸前期、仮殿本殿・仮殿相の間・仮殿拝殿・寛永16年(1639)、仮殿唐門・江戸前期、仮殿掖門及び透塀・江戸前期、仮殿透塀、仮殿鳥居・江戸前期、仮殿鐘楼・江戸前期、御旅所本殿・貞享2年(1685)、御旅所拝殿・貞享2年、御旅所神饌所・貞享2年頃、旧奥社唐門・寛永18年(1641)、旧奥社鳥居・寛永18年

大猷院・・・徳川家光廟所・・・いずれも国宝・重文

なお、廟所である奥院は非公開である。

大猷院関係の国宝・重文建造物は以下の通り。
国宝:大猷院霊廟本殿・相の間・拝殿・承応2年(1653)
重文:大猷院霊廟唐門・承応2年、大猷院霊廟端垣・承応2年、大猷院霊廟掖門・承応2年、大猷院霊廟御供所・承応2年、大猷院霊廟御供所渡廊・承応2年、大猷院霊廟夜叉門・承応2年、大猷院霊廟夜叉門左右廻廊・承応2年、大猷院霊廟鐘楼・承応2年、大猷院霊廟鼓楼・承応2年、大猷院霊廟二天門・承応2年、大猷院霊廟西浄・承応2年、大猷院霊廟水屋・承応2年、大猷院霊廟宝庫・承応2年、大猷院霊廟仁王門・承応2年、大猷院霊廟皇嘉門・承応2年、大猷院霊廟銅包宝蔵・承応2年、大猷院霊廟奥院宝塔・承応2年、大猷院霊廟奥院鋳抜門・承応2年・大猷院霊廟奥院拝殿・承応2年、大猷院霊廟別当所竜光院・江戸中期

ニ荒山神社関係の重文指定建造物は以下の通り。
重文:本殿・元和5年、唐門・江戸前期、掖門及び透塀・江戸時代前期、拝殿・正保2年、鳥居・寛政11年、神橋・明治37年、別宮滝尾神社本殿・正徳3年(1713)、別宮滝尾神社唐門・元文5年(1740)、別宮滝尾神社拝殿・正徳3年(1713)頃、別宮滝尾神社楼門・元禄10年(1697)、別宮滝尾神社鳥居・ 元禄9年(1696)安永8年(1779)、別宮本宮神社本殿・貞享2年(1685)、別宮本宮神社唐門及び透塀・貞享2年、別宮本宮神社拝殿・貞享2年、別宮本宮神社鳥居・寛政12年(1800)、神輿舎・寛永18年(1641)、大国殿・延享2年(1745)、末社朋友神社本殿・宝暦頃、末社日枝神社本殿・慶安頃

参考:寛永の大造替で、元和造営(秀忠造営)の奥社(奥院)拝殿・唐門・多宝塔を長楽寺東照宮に移建する。
多宝塔(本地塔)は明治の神仏分離で取除かれるも、唐門・拝殿は現存する。
  長楽寺多宝塔のページを参照
 


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