紀 伊 海 禪 院 多 宝 塔

紀伊海禅院多宝塔・紀伊養珠寺

このページは「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、清文堂出版、2002 より多くのものを負う。
菅原先生のご研究には深く敬意を払うものである。(菅原先生の略歴はこのページの最終に掲載)

なお菅原先生には、先生の著作の要約および一部転載をご承諾いただきました。
(礼を失した、またこの素人の稚拙なページにご配慮いただき、深謝いたします。)

紀伊国名所図会に見る海禪院多宝塔

紀伊国名所図会 巻之2より:妹背山養珠寺(日蓮宗一致派)
承応3年の造営。心性院日遠上人の開基。諸堂坊は遠州養珠院の御殿を移建する。

妹背山全図:下図拡大図)

多宝塔部分図:下図拡大図)

記事:「多宝塔(妹背山にあり。本尊釈迦仏・阿難・迦葉の三尊、ともに加藤清正朝鮮征伐のときに
かの地より持ち帰る尊容なり。本尊御身体に、尊尼の霊骨をおさめたまふ。)
唐門、瑞門、自然石階段、拝殿。塔頭 海禪院。
当山御宝塔は、慶安2年中正院日護僧都の開基にして、すなわち東照神君33回の御追福として、
幾許の小石に法華の首題を書写し給ひ、なほ本院太上皇の叡聞に達し、尊尼の信心深厚叡感のあまり、
御震翰の題目を染めさせ、ならびに公卿百官の所書題目石を贈らせられ、なおまた諸国より集来の題目石、部数21万を、
すなわち宝塔の下をふかく窟りて、これを収めたまふ。・・・以下略」

西国三十三所名所圖會の記事

西国三十三所名所圖會;巻之3:妹背山
多宝塔(いもせ山にあり。本尊釈迦・阿難・迦葉の三尊を安す。
慶安2年中正院日護僧都の開基にして、神君三十三回忌の御追善として建立したまふ所なりとぞ。)

江戸期多宝塔平面図(南紀徳川史)

  ※「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、清文堂出版、2002 より転載

妹背山御宝塔図:下図拡大図

2006/02/17追加:
 紀州和歌浦會圖1:江戸後期;全図 : 中央が紀伊東照宮・右下が海禅院
 紀州和歌浦會圖2:上図の紀伊東照宮及び紀伊海禅院部分図 」 左上御宮が東照宮三重塔・右下が海禅院多宝塔

明治初頭の妹脊山・多宝塔

明治初頭撮影の多宝塔:下図拡大図

明治初頭撮影の妹背山:下図拡大図

海禪院多宝塔創建と現状

2009/11/07追加
元和5年徳川頼宣入府。矢継ぎ早に以下の整備を行う。
雑賀山に東照宮を造営、別当天耀寺(雲蓋院)を開山。
東照宮の鬼門の守護として東北の小山に愛宕権現を勧請、別当円珠院を置く。
生母養珠院の逝去後、養珠院菩提のため妹背山を整備、多宝塔を建立、霊牌所として養珠寺を建立、その背後の丘に鎮守妙見堂を置く。
養珠寺子院である海禪院を多宝塔管理の寺院として妹背山に建立する。

多宝塔は承応2年(1653)建立。和歌の浦・妹背山にあり、観海楼の背後に聳える。
この地から、対岸はるかに紀三井寺(多宝塔)を望むことができ、逆に紀三井寺からも遠望できる。

そもそも、この地には徳川家康33回忌追善に養珠院の発案で法華経を収めた石室が設けられ、
その上には法華題目碑が建てられ、それを保護する小堂が建てられていた。
承応2年(1653)養珠院が逝去し、徳川頼宣は和歌浦に養珠寺を創建し、妹背山の小堂を改め
新たに多宝塔を建立し、あわせて拝殿・唐門を造営し、その護持のため海禪院を創設した。
多宝塔には釈迦如来を安置し、養珠院の分骨を納めたという。
多宝塔屋根の軒丸瓦には葵文、軒平瓦には澤潟文(養珠院実家蔭山家文)が使用される。
一辺3.21m。

明治維新後は堂宇の多くが退転し、多宝塔のみが往時の面影を伝える。
なお最近「妹背山海禪院復元整備(徳川期伽藍の復興)」に向けての努力が続けられている模様である。
 ( この様子は、「妹背ふたゝび・・・」の サイトにある。なお当サイトには 伽藍復旧に向けての発掘調査報告なども記載されている。)

海禅院多宝塔

2003/01/05撮影:
妹背山遠望1(左図拡大図) :東方より
妹背山遠望2

2007/03/28撮影:
妹背山三断橋
妹背山遠望:西南より
妹背山・多宝塔

 

2003/01/05撮影:
紀伊海禪院多宝塔1:左図拡大図)
  同        2
  同        3
  同        4(葵文と澤潟文)
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8(扁額)
  同        9
  同        10

2007/03/28撮影:
紀伊海禪院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6

2001/01/05撮影

紀伊海禪院多宝塔1

  同        2

  同        3

 

海禪院多宝塔内部

題  目 碑:下図拡大図

2001/01/05撮影:

内部には題目碑(高さ182cm、幅75cm、厚さ42cm)と
その下に石室(南北164cm、東西210cm、深さ189cm以上)がある。
石室には経石が収められる。

(題目碑は1基であり、掲載写真は2枚の写真を左右に貼付したものである。)


題目碑土台 :下図拡大図

「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、清文堂出版、2002 より転載

表面上部:題目、下部:「養珠院殿妙紹日心大姉」(養珠院法号)を刻む。
裏面:「南無多宝如来」と「南無釈迦牟尼仏」の2仏、「東照大権現」と「大弁財天女」の2神を刻む。
紀年銘:慶安2年、願主:養珠院、銘文撰述:日護上人の僧官・法諱・・・を刻む。


「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、
清文堂出版、2002 より転載

石室内石室:下図拡大図

1996年海禪院多宝塔下の石室から数千個の経石が発見された。(和歌山市教委)
和歌山市教委の調査によると、石室は縦2.1M、横1.7Mで、
石室内の深さ2.4Mのところから下に直径約3〜18CMの石がぎっしり詰まっている。
その数は数千個で、どの深さまで埋まっているかは調査されてはいない。
一つの石にいくつも経文が書かれ、経文で多宝塔を描いた石や、「慶安二年」(1649)の文字がある石も発見された。
  これは、徳川家康の33回忌追善のため、養珠院(家康室、初代紀州藩主・頼宣の生母・お万の方)が、 全国から二十数万個も集めて、石室の収められたと伝えられる「南無妙法蓮華経」と書かれた経石であろう。
「南紀徳川史」には、延べ250万回分に相当する経文を書いた石が集まったと記述される。

2007/01/01:「Y」氏ご提供
 安藤広重「和歌の浦」:「大日本六十余州名所図会」、歴史画報社、昭和9年 に掲載印刷されたもの。
 「和歌の浦」:「改正日本国尽7-南海道」瓜生寅、明治7年、淡彩木版挿絵

2007/05/09追加:
JIT(日本画像行脚)様より
 <053-「遠い風景」所収>
  紀伊和歌の浦
 「日本写真帳」、明治45年発行 より
  和歌の浦

「和歌山県絵はがき集 写真帖」より
 古雅掬すべき和歌の浦・絵はがき:昭和初年の撮影と云う。
 和歌の浦 下り松・絵はがき:昭和初年の撮影と云うも、この下り松は大正8年枯れ死と云うから、それ以前の撮影か。

2007/08/30追加:
「近畿名所」高木秀太郎、神戸:関西写真製版印刷、明36年 より
 和歌の浦131
「日本名勝写真図譜略説」東京:画報社、明治34年 より
 和歌の浦132

2009/11/07追加:「紀州東照宮の歴史」特別展図録、和歌山県立博物館、1990 より
和歌浦図:江戸前期と推定
 和歌浦図・全図:左に東照宮・雲蓋院など六坊、中央に養珠寺・妙見宮・妹背山・海禪寺、右は紀三井寺
 和歌浦図・部分:左上は妙見宮・その下は養珠寺、右下は妹背山多宝塔などがある。

2009/11/16追加:
○和歌の浦の範囲・歴史的意義について
和歌の浦の範囲については時代によりあるいは人により想い描く範囲は様々であろう。
ましてや紀州人でないあるいは思い入れの無い部外者が範囲など指し示すのは「差出がましいこと」であろうが、お許しを希う。
「和歌の浦」の範囲は、最も狭義には現在の地名「和歌の浦」(愛宕山以南、和歌川河口から出島浦の範囲、妹背・養珠寺・東照宮などが入る)を指すのであろう。
広義では今で云う「新和歌の浦」を含むことは勿論、東は名草山(紀三井寺など)、西は雑賀崎浦までを含む地域と云えるであろう。
この広義での範囲は名勝「和歌の浦」を主題とする多くの絵図に取上げられた範囲でもあることが傍証となろう。
 当サイトの当ページ(妹背山多宝塔・養珠寺など)、紀伊東照宮紀三井寺が「和歌の浦」の範囲にある。
 同じく広義の「和歌の浦」の範疇に入る雑賀崎には例えば下記の景観がある。
 2007/07/31「O」氏撮影画像
  雑賀崎からの景観1:雑賀崎西方に浮かぶ双子島・中ノ島、大島(左から)
  雑賀崎からの景観2:大島の右に、鼻状に突き出した岬が番所ノ鼻
一方歴史的な意味では、中世末期の豊臣秀吉の雑賀攻めで紀州の中世は終わり、豊臣秀長・羽柴秀保(ともに代官は桑山氏)の統治、浅野氏の統治を経て、徳川頼宣の入府によって紀州の近世の領国経営は完成すると云われる。
頼宣は中世以前の玉津島信仰(古代の巌山信仰、丹生明神との同体説などあり)、天満宮(菅原道真)、矢の宮(雑賀庄などの総鎮守・産土神と云われる)などが鎮座するこの地を自ら検分し、この地に東照宮の建立を企図する。
これは古くからの景勝の地であり、さらに上述のような様々の階層の信仰がある地に、近世権力の象徴としてあるいは自らの権威の祭祀化として東照宮(別当天曜寺・妹背山多宝塔・養珠寺などを含めて)を創建することによって、宗教的に近世封建性のスタートを宣言したものであろう。
以上の意味で、「和歌の浦」は景勝地であると同時に頼宣の領国経営の「聖地」としての意味を持つに至ったのであろう。
 2007/03/27撮影:紀伊天満宮遠望
    今で云う権現山に鎮座し、東照宮はこの東に鎮座する。東照宮創建にあたり、地主神として崇敬される。


養珠院略歴

「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、清文堂出版、2002 を要約

文禄2年(1593)「お万の方」は17歳で家康に仕える。
 ※三浦為春(紀伊徳川家附家老家祖、紀伊貴志領1万5,000石)は実兄である。
慶長3年(1599)養父母を喪ない、身延日遠上人に帰依し、深く法華経信仰の道に入る。
慶長7年(紀伊)頼宣を、慶長8年(水戸)頼房を出産。
慶長13年常楽日経上人と浄土宗との安土宗論に対して、幕府裁断に異を訴えた日遠上人は磔刑を命ぜられる。
お万の方は日遠上人の法難に殉ずる決意を家康に伝える。家康は信心の固さに驚き、日遠上人を赦免する。
寛永19年日遠上人は池上本門寺で遷化。養珠院は遺骨を奉じて、大野(本遠寺)に葬る。
その前後、養珠院は日蓮宗の大壇越として、松野蓮永寺を駿府に再興、身延・池上本門寺・和歌山感応寺などの
主要寺院に堂塔伽藍を寄進する。
元和5年(1619)頼宣が母養珠院とともに和歌山に移封。感応寺を創建。駿河より和歌山に蓮心寺を移転。
元和9年頼宣病気平癒を祝い、養珠山浄心寺を創建。
元和5年、寛永17年、慶安3年身延七面山に家康追善のため女人で初めて登山する。
慶安3年(1650)頼宣・頼房に命じ、大野本遠寺に大伽藍を寄進し、菩提寺とする。
承応2年(1653)逝去・享年77歳。大野山本遠寺に埋葬される。墓所には石製宝篋印塔が建てられる。
 → 甲斐大野本遠寺
     ○養珠院墓所
     承応2年(1653)養珠院没。遺言により大野本遠寺に埋葬される。翌年紀州頼宣、本墓所を造営。
     養珠院墓:宝篋印塔(花崗岩・高さ4.55m)
     玉垣(花崗岩)、平唐門(石門・花崗岩)石燈籠、手水盥、紀州徳川家供養塔3基、石燈籠16基、石段、石垣からなる。
      本遠寺養珠院墓所1       同        2       同        3
        同        4       同        5       同        6
      本遠寺養珠院墓所略図
 (身延山に供養塔あり) →甲斐身延山の身延山諸堂の項を参照、
                 身延山篤信廟:右奥養珠院、右手前久昌院、手前中央寿光院、左端浄光院の各供養塔
                 身延山養珠院供養塔
 2011/02/27追加:
 (池上本門寺紀伊徳川家墓所に養珠院宝塔あり)
   →池上本門寺の紀伊徳川家墓所(池上本門寺紀伊徳川家墓所)の項を参照
    ○養珠院宝塔:承応2年(1653)銘
     養珠院宝塔1     養珠院宝塔2     養珠院宝塔3(2011/02/19撮影)

没後、頼宣は和歌山に養珠寺、頼房は太田に蓮華寺を建立し、菩提を弔う。
また身延24世日遠上人は池上16世であったことにより、池上本門寺に石製宝塔が建立される。
 (摂津一乗寺の伽藍寄進も行ったとされる。)

中正院日護上人

「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、清文堂出版、2002 を要約

丹波与謝郡に生まれる。下総飯高壇林に学ぶ。三宝寺開山。
正保4年(1647)頼宣の再三の招聘を受け、和歌山に来住。多くの仏像を刻む。
養珠院と邂逅し、養珠院の法華経石奉納には上人の勧めなどがあったものと推測される。

養珠寺

「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」菅原正明、清文堂出版、2002 を要約及び転載

養珠院の没後、母養珠院の菩提寺として頼宣により創建される。
万治3年(1660)養珠寺と廟所妹背山多宝塔守護として、当寺南山上に妙見堂(本尊:日護上人作妙見菩薩)が創建される。
開山は日遠上人、第2世は日護上人。

紀伊名所圖會に見る養珠寺:下図拡大図

2007/03/28撮影:
養珠寺現況:詳細は未掌握

残念ながら、明治維新後あるいは戦後急速に衰微したものと思われる。
養珠寺俯瞰:妙見堂登り口より撮影
かっての寺地の南半分は公園(写真)・交番・消防署などになり、北半分に諸堂(近年の手になると思われる本堂・庫裏ほか)、墓地が残る。
写真手前(南西)の残る苑池はかっての養珠寺苑池と思われる。
養珠寺本堂・諸堂:宝形堂が釈迦堂(本堂)、左書院?、奥庫裏、右堂宇、さらに右は墓地。
旧養珠寺苑池:公園奥に残された旧養珠寺苑池
妙見堂拝殿:奥に宝形造の妙見堂が付設する。
建築はおそらく近年のバラックと思われる。

 


菅原正明先生略歴
明治大学文学部卒業、明治大学大学院修士課程文学研究科(考古学)終了
奈良国立文化財研究所主任研究官・(財)和歌山県文化財センター次長などを経て
前和歌山県立博物館副館長
妹背山護持顕彰会顧問
主要著作・論文
「祈りの造形 紀伊国神々の考古学 1」清文堂出版、2001
「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」清文堂出版、2002
「西日本における瓦器生産の展開」国立歴史民俗博物館、1989
「金剛峰寺真然廟」高野山文化財保存会、1990
「泉南紀北の支配者 根来寺」『中世の風景を読む』5、小学館、1995
「祈りの考古学」和歌山県文化財センター、1998

なお、当サイト中の以下のページに先生のご研究成果を利用。
「久遠の祈り 紀伊国神々の考古学 2」の著作からは
紀伊海禪院多宝塔>・・・・・当ページ。
紀伊天野社(丹生都比売神社)多宝塔跡
「祈りの造形 紀伊国神々の考古学 1」の著作からは
<紀伊の塔跡>の紀伊上野廃寺の項
<江戸後期三重塔>の紀伊道成寺の項
<国分寺塔跡>の紀伊国分寺跡の項
<紀伊の塔跡>の紀伊高野山大伝法院真然堂の項

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2005/06/12:
関連ページ:「検証 もうひとつの武将列伝」<当ページの海禅院多宝塔写真の 転載がある。>


2006年以前作成:2011/02/27更新:ホームページ日本の塔婆