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★甚目寺三重塔
甚目寺は寺伝によると、白鳳期甚目(はだめ)竜麿の建立と伝える。当時の瓦の出土も見る。
今も古代寺院風な伽藍配置を採り、本堂向かって左に塔が配置されている。
南大門:建久7年(1196)再興、重文、東門:寛永11年(1634)再建年、重文
尾張4観音の一つとしていまなお隆盛と思われる。但し他の尾張の流行観音霊場と同様本堂の俗悪さには閉口する。
★甚目寺心礎
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心礎は鐘楼堂の石垣の下部に石垣として転用される。
白鳳期の創建を黙って物語る貴重な遺物であろう。
「日本の木造塔跡」:1.6×1.24×0.70mの大きさで、径77×3cmの円穴があり、さらに方形(一辺21×5.5cm)の舎利孔を持つ。
「幻の塔を求めて西東」:心礎は2重円孔式、185×120×100cm、65×6cmの円孔と方22×5.5cmの孔を穿つ。白鳳
2005/02/20撮影:
尾張甚目寺心礎1
同 2
同 3:(左図拡大図)
同 4
同 5
同 6 |
「飛鳥時代寺院址の研究」:
心礎は鐘楼石垣に組み込まれている。
5尺×4尺の大きさで、上面の径2尺6寸、深さ5分の円形刳り込みがあり、さらに一辺5寸6分、深さ1寸8分の方形舎利孔を穿つ。
また2本の排水溝を彫る。
□甚目寺心礎実測図
2007/12/14追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
「甚目寺縁起」(文永元年1164・東林坊蔵):「天武天皇御宇、白鳳19己卯歳679、号法皇寺、打額於東門。・・・」
東林坊旧住職岩田氏談:「心礎はもと今の三重塔下にあったもので、近年鐘楼築造の時、塔下より曳いた」という。であれば、現三重塔は創建時の塔の位置を踏襲していると考えられる。
尾張甚目寺心礎実測図
★甚目寺関係資料
尾張名所図会 巻之7より
記事:「三重塔(本尊愛染明王。弘法大師の作。擬宝珠銘に「尾州甚目寺三重塔。寛永四年丁卯九月吉辰。施主名護野両替町吉田半十郎政次」とあり)
仁王門(・・建久七年再建のままにて、今もなほ存す。棟札に「梶原景時奉行」とありといひつたえたり)・・・塔頭(法華院・東林坊・竜泉院・成就院・性徳院・光明坊・普門院・宝蔵坊・不動坊・福寿坊・一乗院<この一寺のみ天台宗なり>)」
□尾張甚目寺(全図) 尾張甚目寺部分図
「飛鳥時代寺院址の研究」:
□甚目寺伽藍古図:紙本着色・江戸末期・本坊蔵
□甚目寺伽藍古図:絹本着色・寛文12年(古図を複写と背書)・釈迦院蔵
上記によると、現在の堂塔配置と変ってはいないと思われる。
□甚目寺伽藍実測図:
一乗院、普門院、法華院、性徳院、福寿坊、龍泉院、大徳院、不動院、釈迦院、成就院、西網之坊、東網之坊の塔頭寺院を残すが、無住のところが多い。
●2005/02/20の現況:
甚目寺伽藍実測図の地割から判断して、十数の坊舎があったと推定できるが、
現在では、坊舎としては法華院・大徳院・性徳院・釈迦院(釈迦堂)と大師堂のみを残す。
南方の門、福寿坊・龍泉院・東林院は既になし。大徳院北の不動坊もなし。
東門から日吉社(山王社)・西網之坊の地は道路となり、日吉社は八大神社(八大明神)の地に移転していると思われる。
西網之坊、東網之坊、成就院も既になし。
一乗院・普門院とおそらく八大神社のあった地も漆部神社なる得体の知れない神社地になり退転。
漆部神社は式内社と称するが、甚目寺観音本尊が古代乾漆仏である故に、甚目寺八大明神が式内社漆部神社と強弁され、醜悪な漆部神社なるものが建立されたと思われる。
明治40年郷社に列するというから、明治維新後の創建で、社殿の醜悪さから見て社殿は近年の造営であろう。(推測)
●2008/10/27追加(写真は10/21撮影):
「海東西 新四国八十八ケ所霊場」では明治19年当時の札所は以下とされる。
1番・甚目寺 2番・法華院(甚目寺山内) 3番・普悶院(甚目寺山内) 4番・性徳院(甚目寺山内) 5番・東林坊(甚目寺山内)
6番・大徳院(甚目寺山内) 7番・光明坊(甚目寺山内) 8番・釈迦堂(甚目寺山内) 、9番・西網之坊(甚目寺山内・廃寺)
10番・成就院 (甚目寺山内・廃寺) 11番・東網之坊(甚目寺山内・廃寺) 12番・地蔵堂(甚目寺山内) 以下は略・・・
甚目寺釈迦院(釈迦堂) 甚目寺法華院本堂 甚目寺大徳院外観 甚目寺性徳院(大師堂)
2006年以前作成:2007/12/14更新:ホームページ、日本の塔婆
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