|
2008/06/27追加:
●「府下に於ける佛塔建築」東京府、昭和7年(1932) より
●「日本建築史図録」より
|
 |
谷中天王寺五重塔:左図拡大図
<昭和12年7月15日撮影>寛政3年再建。
基本的に和様であるが、尾垂には唐様を用いる。
総高11丈2尺8寸と伝える。
心柱は懸垂しない。 |
2010/01/07追加:
昭和29年谷中天王寺五重塔:
毎日新聞掲載 |
2007/01/01:「Y」氏ご提供
富岡永洗「尾花集」表紙:「明治文学研究文献総覧」昭和19年、富岡永洗(1864-1905) 2010/01/07追加:
●「谷中天王寺の五重塔-天王寺五重塔跡出土遺物調査報告書-」台東区教育委員会、平成18年 より
五重塔
「長耀山感応寺尊重院縁起」
寛永20年(1643)霜月14日宝塔建立の事始。翌正保元年(1644)7月造畢。同2年4月15日十種供養、入仏開眼を修す。
明和9年(1772)2月29日火災焼失。(「目黒行人坂の火事」)
本尊釈迦・多宝如来は焼失を遁れ、昭和32年の焼失まで塔内須彌壇上にあった。
(ニ佛には寛永21年・・の年紀、日長(花押)・・などの墨書があったと云う。「谷中天王寺誌」)
寛政3年(1791)再建。
塔の総高は11丈2尺8寸(34.2m)、柱間は各々6尺一辺18尺(5.4m)と云う。(棟札等による)
安政2年(1855)地震で相輪が落下。元治元年(1864)修理。
大正12年の関東大震災、今次大戦の戦災は逃れる。
|
 |
谷中感応寺五重塔弐拾分之一図:左図拡大図:ほぼ同一図を上に掲載
法量:212.0×2.5cm五重塔の建築に関する資料は以下の2点がある。
(1)「谷中感応寺五重塔図」:弐拾分之一図:大島盈株(みつもと)書写、都立中央図書館蔵
(2)「府下に於ける佛塔建築」東京府、昭和7年(1932)
塔は地上に据えた礎石上に建ち、基壇はない。
柱間は(1)では中央間6尺3寸6分(1.92m)、両脇間5尺8寸3分(1.76m)一辺18尺2分(5,5m)を測る。
束石は側柱礎の芯に合わせて設置され、溝が対応して彫られる。これは上からの落としこみ枘孔で、木製地覆が渡されていたと推測される。
真柱:寛政3年再興塔の心柱は慶安再興浅草寺五重塔・文政再興日光山五重塔と同様の懸垂式(五重目から鎖で心柱を吊る)構造であった。
(1)(2)によれば、
初重四周には縁を廻す。屋根銅板葺き。総欅造で無彩色。
塔の総高は「棟札」によれば11丈1尺8寸(33.8m)相輪高さ27尺(8.15m)とされる。
様式は和様を基本とし、初重は切目縁に切目長押、半長押、腰長押、内法長押、頭長押を使用、四方中央間は唐様桟唐戸で両脇間は連子窓で内部には板を貼る。
斗栱は尾垂木付きの三手先、中備は蟇股を置き、十二支の彫刻を入れる。
二重以上には各重に三斗の腰組付きの廻縁を設ける。
垂木は初重から四重目までは二重繁垂木、五重目のみは唐様扇垂木とする。
初重内部は四天柱を取囲んで須彌壇を造り、天井は折上で中央には心柱が通る。
心柱下方には蓮華座が彫刻される。
連子窓の裏板は紙貼がされ金箔を押し仏画が描かれる。 |
2009/01/07追加:
「谷中五重塔について:1)谷中感応寺五重塔図の分析」山田 博子・前野 まさる・中村 精二・森田 徹也(「学術講演梗概集」1989 所収)
の注4)では、写真家羽田敏夫(敏雄か?)氏の塔焼失一年前に撮った詳細な写真があるとするが、不明。
なお
谷中感応寺五重塔弐拾分之一図(上掲)の初重柱間寸法と現存礎石の柱間実測値とは若干の誤差(5%内外)があるとの指摘がある。
※上図の正確性については、写真資料などとの比較から信頼が置けるものであろうとの評価を下す。しかし若干の相違も散見されるとの指摘もある。
2009/01/07追加:
「谷中五重塔の木割りに関する研究」五十嵐 亮介・浦江 真人(「学術講演梗概集」2003 所収)より
谷中天王寺立断面図:この図は谷中感応寺五重塔弐拾分之一図(上掲)を書き直したもの。
★谷中感応寺(天王寺)現存棟札
2008/06/27追加:
「府下に於ける佛塔建築」東京府、昭和7年(1932) より
棟札は3枚遺存する。
谷中五重塔棟札<表面>:向かって右が寛政3年再建棟札、左が元治元年修営棟札
谷中五重塔棟札<裏面>: 同上
※何れも塔より下され、今は天王寺の宝蔵に収蔵される。
(1)寛政3年棟札(1791年・2尺4寸×5寸)
<表面>
卍 聖衆天中天 伽陵頻迦声 哀慇衆生者 我等今敬禮
奉再建五層塔長耀山感應寺尊重教院
供養導師凌雲院前大僧正實乗
開眼導師大佛頂院権僧正覚謙
|
<裏面>
寛政三年亥冬十月二十三日
塔三間四面高八丈五尺九寸
露盤上九輪高二丈七尺
中心柱十一丈一尺八寸
総高十一丈幅二尺八寸
大工近江州高島産八田清兵衛 |
(2)寛政3年再建職人名札(1791年・5寸×3尺5寸2分)
<表面>
長耀山寛應寺五重塔再建職人
大工棟梁八田清兵衛
八田清六
八田助四郎 (以下46人略) |
|
(3)元治元年棟札(1864年・5尺6寸×9寸)
<表面>
卍 聖衆天中天 伽陵頻迦声 哀慇衆生者 我等今敬禮
奉修営五層塔
天下泰平 国家豊饒 興隆正法 如意満足
祈所 武州豊島郡護国山天王寺
(以下 願主、導師、諸役、天王寺寺中、棟梁 略) |
<裏面>
五重塔修復諸入用高
(中略)
合金九百十四両弐分銭六百弐十文 |
2010/01/07追加:
「谷中天王寺の五重塔-天王寺五重塔跡出土遺物調査報告書-」台東区教育委員会、平成18年 より
○谷中五重塔寛政再興棟札 ○谷中五重塔元治修理棟札
★現毘沙門堂 毘沙門堂:
昭和32年五重塔初重は完全には焼失せず、昭和36年この残存部材でもって、現在の毘沙門堂が建立されたと云う。
★五重塔跡現状
明治初期、広大な天王寺境内は、一部を残して東京府に移管され、谷中霊園となる。五重塔も明治41年東京府に寄贈される。
現在塔跡は礎石を完存し、都史跡とされる。
焼失塔婆は総高11丈2尺8寸(約34.18m)、総欅造と伝える。
心礎石(方3尺・中央に臍穴を穿つ)、四天柱礎4個、外陣四隅柱礎4個(方2尺7寸・中央に臍穴を穿つ)、側柱礎8個と地覆石(長方形)12個、回縁束石20個の礎石を完存する。
2010/01/07追加:
●「谷中天王寺の五重塔-天王寺五重塔跡出土遺物調査報告書-」台東区教育委員会、平成18年 より
|
 |
五重塔跡実測図
谷中天王寺塔跡実測図:左図拡大図
38個の礎石と12個の地覆石が残る。安山岩製。
礎石配列から塔一辺は6.25m、柱芯-芯間は5.5mと計測される。
心礎・四天柱礎4・四隅の脇柱礎は一辺約90cmを測る。他の脇柱礎はおよそ一辺70cmを測る。
縁の束石は一辺約40cmを測る。束石には枘孔は切られ、束石間には木製の地覆が据えられていたと推測される。しかし各辺中央には石階があり、地覆は設置されなかった。
五重塔は正保創建の場所に寛政年中再建されたと推定されるが、現礎石はその状況から、寛政再建時に新しく設置されたものと推定される。 |
|

|
谷中天王寺心礎実測図:左図拡大図 心礎は2段の円孔が穿たれる。
上は径22×12cmで、下は径13×20cmの円孔である。
上方孔は心柱の枘が差し込まれ、その下は銅円盤をのせ、下の孔には金銅舎利容器を納めた経筒が入っていた。
南東四天柱礎実測図
四天柱礎・四隅脇柱礎には径7.4×13,5cmの円孔を穿ち、上面の縁廻りは銅円盤の蓋を置くため僅かな段を設ける。 |
★谷中天王寺塔跡出土遺物
(舎利・舎利容器など) 2006/08/25追加:
金銅舎利容器と経典を納めた銅経筒は塔心礎から、小型の銅経筒8口は四天柱礎と四隅の側柱礎から発見される。
舎利容器と経筒は寛政元年(1789)、五重塔の再建の時、安置される。
なお礎石中に経筒を納める事例は類例が無いと云われる。
経典奥書や出土状況から、明和9年(1772)焼失五重塔の再建経過を知ることができるとされる。
○天王寺出土舎利容器等:2005年「公報 たいとう」より:
あいにく画像は小さく
、良く分からない。 2010/01/07追加:
●「谷中天王寺の五重塔-天王寺五重塔跡出土遺物調査報告書-」台東区教育委員会、平成18年 より
◆概要・銅経筒
|
 |
塔跡出土銅経筒:左図拡大図
※中央が心礎から出土、中央四周が四天柱礎から出土、周辺四周が四隅側柱礎から出土の銅経筒と思われる。昭和32年7月6日焼失。同7月30日整理作業中、礎石に穴の穿たれているのが発見される。
心柱・四天柱礎4、側柱四隅の礎石から合計9口の銅経筒と1基の金銅舎利容器が発見される。
発見された遺物・蟇股などの焼け残り部材・塔金属部材などは武蔵野郷土館に納められるも、同館の閉館に伴い平成5年天王寺に返還され、現在では同寺が保管する。 |
◆心礎出土遺物(銅経筒、紺紙金字経一巻、舎利容器)
|
 |
心礎出土遺物:左図拡大図
※右は心礎出土銅経筒、左は心礎出土経軸、中央下は舎利容器心礎には2段円孔が穿たれ、上の円孔は枘孔で、下の円孔に銅経筒、紺紙金字経一巻、舎利容器画
が納められていた。(上述)
舎利容器埋納状況:銅経筒・経軸・舎利容器が入子になる。
銅経筒法量:総高18.8cm、径10.7cm
金銅経軸法量:高さ13.7cm、径6.1cm
金銅舎利容器法量:総高12.7cm |
銅経筒は銅板製鍛造鍍金であり、経筒内には紺紙金字経一巻が納められ、紺紙金字経の経軸内に舎利容器を納める。
心礎出土銅経筒実測図
紺紙金字経の経軸は銅板を丸めて円筒形を作り、蝋付けする。経軸の上下には木製円盤を嵌め、紺紙金字経を固定する。
心礎出土紺紙金字経:幅11.4長さ45.5cm。表の金字の多くが裏に転写する。写真左が表、右が裏。
木製円盤には墨書がある。
舎利容器は銅板製鍛造鍍金、ガラス装。舎利容器は方形の塔の形をし、塔身の四面にはガラスを嵌め込む。台座の下部は方形で四面には七宝繋文を廻らす。上部には2重の蓮華座を設ける。
塔身は隅金具に2重の枠金を立て、上からガラスを差し入れる。(ガラスは1枚割れている)
内部は中央に金銅板の仕切りを立て左右に別け、それぞれ2枚の板で3段の棚を作る。各棚には縁を曲げた受皿を配し、その中央に小型の碗形の皿を置き、ここに仏舎利を安置する。仏舎利は現在、上段左1粒、中段左2粒、右1粒、下段右1粒が残る。
塔身上部中央には中空細身円筒を長く立て、これに方形屋根の被蓋、露盤、責金具を通し重ね、頂に足の長い宝珠を細身円筒に入れて全てをかしめる構造である。
舎利容器実測図
なお、心礎下円孔の上には銅円板が載せられていた。銅円板は銅製鍛造。
上面は粗い線刻で輪宝を表し、下面は極細の線刻で八葉蓮華を表す。
心礎出土銅円盤
◆礎石出土遺物(銅経筒、経軸・経巻、銅円盤)
銅経筒は銅板製鍛造鍍金。経筒内には経巻が一巻づつ納入される。経軸は木製、経軸の上下には木製円盤が嵌められる。
礎石出土銅経筒埋納状況
経巻の経帙は比較的良好に遺存するが、経巻は経紙は劣化し、僅かに微細な紙片が残る。
出土経巻経帙
礎石の銅円板も銅製鍛造で、上面は粗い線刻で輪宝を表し、下面は極細の線刻で八葉蓮華を表す。
銅経筒法量:総高は各々11cm内外、径6cm内外
礎石出土銅円板
なお各礎石中から、金銀粉末・ガラス片・珊瑚片が出土する。
出土ガラス片・珊瑚片
2011/09/28追加:
参考:
近世の塔婆から舎利・舎利容器などの出土は、谷中感応寺の他には板倉宝福寺(舎利・舎利容器など現存)の例がある。
出土舎利容器の一覧は「舎利容器一覧表」を参照。
★再建大工八田清兵衛
2010/01/07追加:
「谷中五重塔をたてた大工八田清兵衛の系譜について」森田 徹也・前野 まさる・中村 精二 ・山田 博子(「学術講演梗概集」 1989 所収)より
寛政年中の再興五重塔は棟札から近江高島出身の大工八田清兵衛と知れる。
八田清兵衛の手がけた作品は今の所以下が確認されている。
湯島天満宮(安永6年・1775、焼失)、谷中感応寺客殿(天明元年・1789、焼失)、同五重塔(寛政3年・1791、焼失)、下野浄法寺本堂(文化元年・1804、現存、7×6間・寄棟造・唐破風付設)である。
近江高島郡在住の八田氏邸には八田清兵衛・八田清六の名の記載された2通の文書が残る。その内一通は安永子ノ年(1781)の年紀があり、信濃善光寺に立ち寄り上京(京都へ上る)したことが分かる。
また高島郡高島町の願龍寺の過去帳に八田清兵衛が2代に渡り、記録される。一代目は宝暦9年(1758)没で、ニ代目は明和7年(17770)没の八田清兵衛で、この代でこの家の記載は途切れる。ニ代目清兵衛の喪主はその妻で、その妻の喪主はいないと記録されると云う。
なお、清兵衛の江戸での住所は湯島天神町と知られている。
2006年以前作成:2011/12/02更新:ホームページ、日本の塔婆
|