巻之5:長耀山感應寺

谷中感応寺五重塔(谷中天王寺五重塔)

古図に見る谷中感應寺

江戸名所記<寛文2年(1662)刊>
 感  応 寺   同五重塔部分図

江戸名所図會に見る谷中天王寺(感応寺)
 
 「新訂 江戸名所図会(ちくま学芸文庫版)」市古夏生・鈴木健一校訂 から図版:浅草寺及び塔婆関連記事を転載


上野谷中門の外にあり。・・中略・・当寺始めは日蓮宗にして、宗祖上人を開山とし、日長上人中興ありて、
ゆゆしき一宗の寺院たりしが、元禄年中ゆゑありて台宗に改められ、しかしより後東叡山に属す。・・以下略・・

五層塔(始め当寺中興日長上人建立ありしが、明和九年(1772)の火災に焦土となれり。
よって寛政(1789−1801)のいま再建して、むかしに復せり)。


本堂・五重塔拡大図
江戸名所圖會:谷中感應寺:全図 (2011/06/01追加)

絵本江戸土産<嘉永3年(1850)〜慶応3年(1867)>
 谷中天王寺   同 五重塔(部分図)
  記事:「元禄11年(1698)悲田派の故に廃寺。元禄12年寛永寺末として天王寺と改名して再興。」


谷中感応寺略歴

2006/04/09追加:
「御府内寺社備考」、名著出版、1986 より
 谷中感応寺境内見取図
   同      本坊囲
東叡山末、境内拝領地34,852坪、ご朱印寺領38石
日宗開基・・日源 中興日耀・・・ 第9世日長・・・ 第14世日饒 台宗第1世戒喜権僧正慶運元禄12年入山・・・・
本堂(正面14間奥行12間)本尊毘沙門天立像、鐘楼(2間2尺四方)
五重塔(高11丈2尺8寸、3間四方)釈迦 多宝仏 脇立 文殊 普賢・・・
◇塔中9ヶ院
 瑞音院、養善院、円暁院、了侘寺、正福院、善明院、安立院、不動院、福泉院
◇五重塔:日長上人建立、此塔明和9年2月29日炎上
◇元禄11年・・・・・谷中感応寺(現住日遼八丈島・隠居日饒三宅島)、芝三田大乗寺(日裏三宅島)、碑文谷法華寺(日附八丈島)、千駄ヶ谷寂光寺(日詳大島)、芝三田中屋?寺(日谷三宅)、境妙寺(日照大島)、深川妙栄寺、妙耀寺(西進大島)・・・・遠島
◇不受不施法華宗門・・・・・小湊誕生寺、碑文谷法華寺、谷中感応寺、小松原鏡忍寺、衣知(相模依智)妙純寺・・・・寛文5年・・・公儀へ手形差上・・・

2010/01/07追加:
「谷中天王寺の五重塔-天王寺五重塔跡出土遺物調査報告書-」台東区教育委員会、平成18年 より

当地に関長耀と云う鎌倉幕府に仕える武士がいたと云う。日蓮上人が鎌倉から房州や下野塩原に赴く折にたまたま関家を訪れ、その後もしばしば関家に立ち寄ると云う。長耀は日蓮上人に傾注し、屋敷内に草庵を結ぶ。関家のみならず近在の村人も多くが日蓮に帰依することとなる。
その後日蓮は諸般の事情でこの草庵(関家)を訪れることは困難になったと告げると、長耀は日蓮像を所望する。すると日蓮は自刻の像を刻みこれを与えると云う。この像がこの草庵の本尊となる。文禄元年(1592)草庵と尊像は被災する。 ( 「長耀山感応寺尊重院縁起」など)
江戸開府以降、永勝院(水戸徳川頼房生母)や春日局(徳川家光乳母)などの帰依を受け、将軍家の祈祷所となる。
元和7年(1621)日長(感応寺9世)入寺。伽藍整備に着手。庫裏(元和9年)、客殿(寛永2年)、大堂(寛永5年)、大書院・小書院(寛永8年)、番神堂(寛永12年)、御殿(寛永15年)、五重塔(正保2年)が造営される。
元禄11年 碑文谷法華寺・谷中感応寺は悲田派(→下注)として、廃寺が命ぜられる。
元禄12年(1699)名刹の廃寺を惜しむ輪王寺宮の尽力で、廃寺の沙汰は取りやめられ、幕命により日蓮宗(悲田派)から天台宗への転宗を命ぜられる。 (悲田派第14世日饒<三宅島遠島>・第15世日遼上人<八丈島遠島>代で日蓮宗としての歴史は終る。)
この処置で、
感応寺は東叡山寛永寺直末となる。この時輪王寺宮は本尊は毘沙門天とするべしとし、新本堂(14間×12間)が建立される。
(この毘沙門天は比叡山横川円乗院から毘沙門天を向かえると云い、この像は今も伝わり、現毘沙門堂に安置と云う。)
このころ、境内地は3万4千8百52坪あり、五重塔、仁王門、稲荷、山王権現、三天社、大佛坐像(現存)、番神堂、弁天堂などがあったと云う。
明和9年の大火で五重塔・仁王門などを類焼。
  2011/05/20追加:「櫨楓」
   感應寺本尊・日蓮上人像は谷中瑞輪寺にあり「杓子の祖師」と称する。
    ※飯匙の祖師として祖師堂に現存する。
天台宗転宗後も寺領38石は維持されるも、日蓮信徒が去り、寺門の経営は困難さを増す。寺領増加の願いを出すも、認められず、その代わりに「富突興行」の許可を得る。 (これにより天王寺の財政は潤い、諸堂の修造・五重塔の再建はこの収益によってなされたとも云える。)
天台宗天王寺の塔頭は最盛期13院を数える。幕末には瑞音院・養善院・円暁院・了俒寺・正福院・善明院・安立院・不動院・福泉院の9院となる。現在は了俒寺・安立院の2院のみが現存する。
天保4年(1833)徳川家斉は法華寺・感応寺の日蓮宗復帰を命ずる。これに対し輪王寺宮は天台宗転宗の経緯から強く抗議し、日蓮宗転宗を阻止する。
家斉側は日蓮宗転宗を反故にしたいわば見返りに、「長耀山感応寺尊重院」の山号寺号院号の日蓮宗返還を要求する。この要求は実現し、日蓮宗に返還されることになる。
そこで輪王寺宮は長耀山感応寺に代えて、護国山天王寺の山号寺号を与え、天保4年以降感応寺は天王寺と称することとなる。
慶応4年上野(彰義隊)の戦争で毘沙門堂焼失。
 (下注)
近世初頭から不受不施派と受不施派の対立は深刻であったが、幕府の権力安定化の方策と身延の日蓮宗内での覇権確立志向との利害が一致し、幕府及び見延勢力から、不受不施派は次第に禁教化の方向に陥れられる。
身池対論などの弾圧後も、不受不施派の勢いは衰えず、
寛文5年(1665)受派である身延日奠、池上日豐等は不受側を連訴、幕府は諸寺に対し寺領は国主の供養である旨の手形の提出を命ずる。
殆どの寺院は手形を提出すも、手形の提出を拒んだ京都妙満寺日英、 京都上行寺日応、上総鷲山寺日乾・同日受、平賀本土寺日述、下総大野法蓮寺日完、上総興津妙覚寺日尭、雑司谷法明寺日了、青山自証寺日庭等は流罪となる。
 ※妙満寺日英、上行寺日應:伊東祐実の預かりとなり、現在の日南市北郷町郷之原に配流となる。
日英は妙満寺38世、謫居の地に15年あり、その庵は妙満寺と称し、今は墓地である。
日應は京都上行寺2祖、配流の後2年ほどで寂すると云う。その庵跡は伝えられないが、集落名「常明寺」ではないであろうか。上行寺はむしろ常行寺と綴り、常行寺が常明寺と転訛したのではないだろうか。(http://やまみや.com/menu1008.html)
なお、研究書としては「寛文法難 京都妙満寺38世日英上人/妙法山上行寺2祖日應上人殉教」中村啓堂(柳川妙経寺住職)がある。
 →上行寺は常楽院日経上人のページにあり。
 ※大野法蓮寺日完上人開眼日蓮上人像が市野倉長勝寺(武蔵市野倉長勝寺の項)に現存する。
寛文6年野呂檀林日講、玉造檀林日浣は寺領手形に関して幕府を苦諌、流罪に処せられる。この処置に対して各地で自首受刑あるいは多くの殉教者を出すこととなる。(不受不施は再び壊滅的な打撃を受ける。)
一方
小湊誕生寺日明、碑文谷法華寺日禅、谷中感応寺日純(小松原鏡忍寺、越後村田妙法寺、相模依智妙純寺)などは寺領は悲田供養として手形を提出する。(所謂悲田派が成立する。)
しかしながら受派は更なる打撃を画策し、身延日脱、池上日現(日玄)は悲田派を邪義であると訴え、ついに
元禄4年(1691)幕府は悲田派を新義異流として禁ずる命を出す。
これにより、小湊は受不施に転じ、廃寺を免れるも、碑文谷・谷中は廃寺を命じられる。

<谷中感応寺は郷士・関長耀(日蓮上人信者)が日蓮上人の身延隠遁の折、日蓮上人自刻の像を賜り、 日源上人を招き、草堂を立て、創建したと伝える。 創建約150年後、碑文谷法華寺<現円融寺>日輝上人が再興<第1世とする>。 第9世日長上人が徳川家と結びつき、寺勢を拡大する。>

2011/08/26追加:
「感應寺興隆記」<竪帳・池上本門寺日萬自筆本>(「大田区史(資料編)寺社1」1981 所収)より
◎元禄六書上
  法華宗一本寺 谷中感應寺(印) 日遼(書判)
    ※日遼は11世日誠、12世日純遠島・谷中感應寺廃寺の後、寺務を採ったものと推測される。
御朱印高 38石1升5合・・・
境内 ・・・三萬四千三百九十三坪・・・
坊跡40軒 院号22軒 坊18軒
 是運院、長光院、二老・円応院、円暁院、院代・観持院、良遠院、三老・詮量院、常泉院、守善院、理乗院、現受院、是了院、善照院、
 徳乗院、法音院、本覚院、長命院、要善院、智見院、玄理院、明静院、法華寺改・了俒寺、安立坊、妙善坊、覚山坊、実成坊、
 改院・本行坊、了性坊、聞立坊、良運坊、院・善応坊、覚心坊、了近坊、善性坊、本成坊、要行坊、本光坊、常潤坊、唯心坊、佐野坊
◎文政9年谷中感応寺書上
客殿(本尊阿弥陀坐像、千手観音立像・・・)、霊堂(地藏菩薩)、毘沙門堂(正面14間奥行12間破風造椽6尺四方廻り・・・、毘沙門象・・・)、水屋、仁王門(5間4尺×2間5寸5分)、鐘楼、鐘、五重塔(3間四面高サ11丈2尺8寸、明和9年行人坂火事類焼、天明8年再建はしめ寛政3年出来、中二尊釈迦・多宝、文殊・普賢)、銅燈籠3、御供水井、稲荷社、山王社、大仏、高之森稲荷社、番神社、石鳥居、弁才天、浅香山八幡社、八社合殿
境内総合 五萬二百九十四坪・・・・(※この坪数は他所への貸地を含むようである)
 塔頭の屋敷として以下の書上げがある。
 瑞音院、了侘寺、養善院、円暁院、正福院、善明院、安立院、不動院、龍樹院(当時たたみ置)

2011/06/01追加:
元禄12年の悲田宗禁制による天台宗(東叡山末)への転宗ののち、日蓮宗時代の旧本山である池上本門寺は度々日蓮宗への帰宗を企図し帰宗を願い出るも悉く却下される。
ところが、徳川家斉治下の天保4年(1833)に至り、帰宗の願いは叶わずも、新に雑司ヶ谷に新寺建立の沙汰が下され、谷中感應寺は護国山天王寺と改称の上、新に「長耀山感應寺」の造営が開始される。(鼠山感應寺)
しかるに、その8年後、家斉歿後水野忠邦の天保の改革が始まるや、鼠山感應寺は再度廃寺取壊しを命ぜられ、鼠山感應寺は完全にその姿を消すこととなる。
          →鼠山感應寺


谷中感応寺五重塔(谷中天王寺五重塔)古写真・その1

炎上する寛政再建塔

昭和32年7月6日早朝炎上

初代五重塔は日長上人が正保2年(1645)建立。
明和9年(1772)の大火で焼失。

寛政3年(1791)再建。
大工は近江高島郡の八田清兵衛ら48人という。
元治元年(1864)改修。
明治元年の戊辰の役に天王寺は炎上。
五重塔は唯一焼失を免れる。

寛政再建塔は幸田露伴「五重塔」(明治23年)
のモデルとなる。

昭和32年7月6日男女の無理心中の清算の場
となり炎上する。(塔内で放火情死と云う)

 

 

 

2003/05/03追加:
「谷中五重塔」・・・・谷中感応寺五重塔についてほぼ網羅していると思われる。(要約・転載)
 

谷中五重塔」(”東京の地方”叢書2−谷中五重塔事典)
江戸のある町・上野谷根千研究会(編)、谷根千工房刊、1988年
 

上記図書からの写真転載と要約記事掲載は許諾済。

 

谷根千工房サイト


谷中天王寺五重塔:「谷中五重塔」から転載:左図拡大図
  <昭和初頭の姿>

初重一辺18尺(約5.45m)、中央間6尺4寸、両脇間5尺8寸、
総高112尺8寸(約34.12m)
内相輪部は27尺(8.17m)。
良質な欅材を主材とした素木造り。屋根銅板葺き。
基壇なし。四方に5級の石段を付設する。
初重に板張りの廻縁(切目縁)を廻らす。
 (縁高4尺5分、縁板厚3寸6分、縁巾6尺9寸5分)
心柱は5重目天井梁から鉄鎖での吊下式である。
基本的には和様建築であるが、初重の四方中央間の桟唐戸および5重の組物(尾垂木・肘木)は唐様を用いる。また軒は平行垂木であるが5重のみ扇垂木を用いる。
初重の中備は各間十二支を彫刻した蟇股(江戸期の関東塔婆の流行)を使用し、2重から4重は両脇間は蓑束、中央間は蟇股を使用する。5重は両脇間は中備なしで、中央間は蓑束と思われる。
2重以上には擬干付きの勾欄を廻らす。

内陣:唐様の須弥壇を造り、右に多宝如来、左に釈迦如来、脇士に文殊菩薩(右)普賢菩薩(左)を安置する。
外陣:格天井を造り、内部八壁(外は連子窓)には金地彩色の仏画を描く。

なお相輪は江戸期としては大振りなものを上げる。、
また近世の塔としては軒の出は大きいとされる。
全体としてのスタイルは近世の塔の典型の一つで、屋根逓減率の低いスリムな塔であったとされる。

 ※なお、左写真および上記塔の解説は
 「府下に於ける佛塔建築」東京府 , 昭和7年(1932)に基づくものと思われる。

 



谷中天王寺五重塔;右図拡大図:「谷中五重塔」から転載
「谷中五重塔」中の「Interview&Enquete」から抜粋:
某氏の感想で次ような一文の掲載がある。
「・・・消防車も手がつけようがなかったんだ。
もったいないことをしたよ。
心中なら隅田川にでも飛ぶ込みゃいいのに。ばかなやろうだ。・・・」
 

炎上する谷中の塔
    :左図拡大図

◎感応寺五重塔図

谷中感応寺五重塔図:左図拡大図
※本書「谷中五重塔」に掲載されている図を転載、但し図版の状態が悪く、残念ながら、文字・数字などはほとんど判読が不可。

※本書「谷中五重塔」では本図について以下のように解説する。
明治3年実測、縮尺20/1、法量は2m×75cm。
実測は甲良建仁寺流12代大島盈株(みつもと)
所在は都立中央図書館の特別文庫室。

以上の実測・実測・縮尺図が残る。

なお、ほぼ同一図(オリジナル)は下の「谷中感応寺五重塔弐拾分之一図」の項に掲載する。

 

谷中五重塔模型

○武蔵深大寺蔵谷中五重小塔:
スケールは約10/1。欅素木造。昭和27年完成。工期約25年。
製作者;湯河原宮ノ下大工 松本好正氏、設計施工 世田谷 福田吉一氏(大工)
本格的な模型でほぼ谷中五重塔を写すものと思われる。
 福田吉一氏製作五重小塔      福田吉一氏製作五重小塔細部
2011/11/06追加:2011/10/29撮影:
武蔵深大寺蔵谷中五重塔を拝す。
  →武蔵深大寺蔵谷中天王寺五重小塔

○千葉重雄蔵谷中五重塔模型:
スケールは約30/1。高さ1.33m。
製作者:野本琢(建築家、多くの寺社建築を手がけ、谷中の塔婆の再興運動も試みたと云う、千葉重雄氏義父)
ただしこの模型は谷中五重塔を写したものではない。・・・初重屋根に唐破風が付設するなど・・・。
おそらく再興予定五重塔の設計に基ずく模型と思われる。
 野本琢氏製作模型
 

2006/10/04追加:「久保田」氏ご提供
○谷中天王寺所蔵五重塔模型
伝来・時代・材質(木造・金属)・大きさ・造作方法など詳細不詳。よってこの模型の評価は現状では不可。
本堂内に安置と云う。勿論形状から見て、感応寺塔婆の模型ではないことは明らかであろう。
  谷中天王寺所蔵塔模型

仏舎利

近世の塔では珍しく、塔礎石に下から舎利容器と経筒(大)および経筒(小)8個が出土したと云う。
 <都立武蔵野郷土館(小金井公園内)収蔵・展示> →現在は谷中天王寺所蔵。
  →詳細は下掲載「谷中天王寺塔跡出土遺物」の項を参照。
舎利容器は心柱下(心礎の舎利孔)から出土し、高さ13cm余りの塔の形をあしらったガラス張りの容器であった。
舎利容器は高さ約18cmの経筒に入っていた。
8個の経筒は高さ約9cmの大きさで彫刻が彫られ、中に紺紙金泥の「陀羅尼経」が入っていた。

谷中天王寺スナップ
  ○谷中映画ロケ風景   ○谷中の塔と赤ちゃん   ○谷中の塔(初重・縁・少年)
 


谷中五重塔古写真・その2

2006/07/22追加:
「The Far East」Vol7、bP、July 31st, 1875 より
 

谷中感応寺五重塔(明治8年)

明治8年(1875)「The Far East」に掲載された写真である。
従って、谷中天王寺五重塔写真では屈指の古写真であろう。

2011/12/02追加:拡大画像追加
 谷中天王寺五重塔:左図拡大図

 


2003/7/5追加:
明治10年頃の撮影とされる。
 

谷中天王寺五重塔:下図拡大図

谷中天王寺五重塔:下図拡大図


2006/07/22追加:
「ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真、マーケーザ号の日本旅行」より:
第2回目の日本旅行(明治15年10月から翌年1月末まで)の撮影


2006/09/30追加:
Photographs of Old Japan より(撮影時期不詳)

谷中感応寺五重塔:左図拡大図
  但し、この写真も部分図を掲載

谷中感応寺五重塔:さらに部分図
  五重塔部分拡大

 

谷中五重塔:左図拡大図

2004/3/3追加:
   

谷中天王寺五重塔:下図拡大図
「明治・大正・昭和東京写真大集成」

谷中天王寺五重塔:下図拡大図
「明治・大正・昭和東京写真大集成」
明治16−31年の間の撮影

谷中天王寺五重塔:下図拡大図
「明治の日本《横浜写真》の世界」


2007/07/18追加;
 

「東京景色写真版」東京:江木商店、明治26年か(推定) より
 ◆谷中五重塔1:左図拡大図:部分図
 ◆谷中五重塔2:全図
  ※「東京景色写真版 」は明治26年刊行

「日本之名勝」瀬川光行編、東京:史伝編纂所、明治33年 より
 ◆谷中五重塔3

 

「明治東京名所図会 上・下巻」朝倉治彦、槌田満文編、東京堂出版、1992
 (東陽堂刊「風俗画報臨時増刊」「新撰東京名所図会 第1編-第47編」
  明治29-40年刊の複製) より
五重塔は高さ11丈8尺8寸、九輪2丈7尺、中心柱11丈8寸、軒端3間四方、軒高8丈6尺
 ◆天王寺五重塔

 

2002/11/04追加:

明治期の五塔婆
:下図拡大図

明治期の五塔婆
:下図拡大図

撮影時期不詳
:下図拡大図

撮影時期不詳
:下図拡大図

撮影時期不詳
:下図拡大図

撮影時期不詳
:下図拡大図


2012/08/28追加:
 谷中天王寺絵葉書五重塔:撮影時期不明


2008/06/27追加:
「府下に於ける佛塔建築」東京府、昭和7年(1932) より

総欅造、素朴造。屋根銅板葺。

谷中天王寺五重塔正面
天王寺五重塔初重軒廻1:左図拡大図
  同 五重塔初重軒廻2
  同  五重塔初重扉
  同  五重塔初重内部:外陣格天井、繋紅梁、仏画など
  同   五重塔心柱:中央が心柱、向う蓮辯が付く、諸尊も見える。
 ※須彌壇上には右に多宝如来、左に釈迦如来(各1尺2寸6分)、
  脇士として右に文殊、左に普賢菩薩(各6寸)を祀る。
  同   五重塔須彌壇
  同 五重塔内部壁画1:外陣四壁の内側に合計8枚あった。
  同 五重塔内部壁画2:金箔地の上に彩色画を描く。

「日本建築史図録」より

谷中天王寺五重塔:左図拡大図
<昭和12年7月15日撮影>

寛政3年再建。
基本的に和様であるが、尾垂には唐様を用いる。
総高11丈2尺8寸と伝える。
心柱は懸垂しない。・・・・※一般的には懸垂するという。

その他の古写真
2010/01/07追加:
 昭和29年谷中天王寺五重塔:毎日新聞掲載 :直下に掲載の写真(「焼失直前の塔婆1」)と同一か

 

焼失直前の塔婆1:左図拡大図
すぐ上に掲載の写真と同一であろう。
であれば、昭和29年撮影か

焼失直前の塔婆2:左図拡大図

焼失中の塔婆1
 :左図拡大図

焼失中の塔婆2
 :左図拡大図

焼失塔婆
 :左図拡大図

2007/01/01:「Y」氏ご提供:彩色画
 富岡永洗「尾花集」表紙:「明治文学研究文献総覧」昭和19年、富岡永洗(1864-1905)
  ※露伴作「小説 尾花集」には作品「五重塔」及び「血紅星」が納められる。露伴の「小説 尾花集」にはこの挿絵が使われたものと思われる。
 

2010/01/07追加:
「谷中天王寺の五重塔-天王寺五重塔跡出土遺物調査報告書-」台東区教育委員会、平成18年 より
五重塔
「長耀山感応寺尊重院縁起」
寛永20年(1643)霜月14日宝塔建立の事始。翌正保元年(1644)7月造畢。同2年4月15日十種供養、入仏開眼を修す。
明和9年(1772)2月29日火災焼失。(「目黒行人坂の火事」)
本尊釈迦・多宝如来は焼失を遁れ、昭和32年の焼失まで塔内須彌壇上にあった。
 (ニ佛には寛永21年・・の年紀、日長(花押)・・などの墨書があったと云う。「谷中天王寺誌」)
寛政3年(1791)再建。
塔の総高は11丈2尺8寸(34.2m)、柱間は各々6尺一辺18尺(5.4m)と云う。(棟札等による)
安政2年(1855)地震で相輪が落下。
元治元年(1864)修理。
大正12年の関東大震災、今次大戦の戦災に於いても、被災を逃れる。

谷中感応寺五重塔弐拾分之一図:左図拡大図:ほぼ同一図を上に掲載
 法量:212.0×2.5cm

五重塔の建築に関する資料は以下の2点がある。
(1)「谷中感応寺五重塔図」:弐拾分之一図:大島盈株(みつもと)書写、都立中央図書館蔵
(2)「府下に於ける佛塔建築」東京府、昭和7年(1932)・・・・・上述済

塔は地上に据えた礎石上に建ち、基壇はない。
柱間は(1)では中央間6尺3寸6分(1.92m)、両脇間5尺8寸3分(1.76m)一辺18尺2分(5,5m)を測る。
束石は側柱礎の芯に合わせて設置され、溝が対応して彫られる。これは上からの落としこみ枘孔で、木製地覆が渡されていたと推測される。
真柱:寛政3年再興塔の心柱は慶安再興浅草寺五重塔・文政再興日光山五重塔と同様の懸垂式(五重目から鎖で心柱を吊る)構造であった。
(1)(2)によれば、
初重四周には縁を廻す。屋根銅板葺き。総欅造で無彩色。
塔の総高は「棟札」によれば11丈1尺8寸(33.8m)相輪高さ27尺(8.15m)とされる。
様式は和様を基本とし、初重は切目縁に切目長押、半長押、腰長押、内法長押、頭長押を使用、四方中央間は唐様桟唐戸で両脇間は連子窓で内部には板を貼る。
斗栱は尾垂木付きの三手先、中備は蟇股を置き、十二支の彫刻を入れる。
二重以上には各重に三斗の腰組付きの廻縁を設ける。
垂木は初重から四重目までは二重繁垂木、五重目のみは唐様扇垂木とする。
初重内部は四天柱を取囲んで須彌壇を造り、天井は折上で中央には心柱が通る。
心柱下方には蓮華座が彫刻される。
連子窓の裏板は紙貼がされ金箔を押し仏画が描かれる。


「谷中感応寺五重塔弐拾分之一之図」

  
◎谷中感応寺五重塔弐拾分之壱之図
   寛永20年11月    創立(1643年)
   明和9年12月29日  炎上(1772年)
   寛政3年10月      再建(同年10月23日  竣工式)(1791年)

   天明8年正月月15日 起工(1788年)
     同  正月晦日   釿初メ
   寛政2年2月6日    地形初メ(1790年)
     同  7月7日    足代掛初メ
     同  7月29日   柱建物 ・・・朱文字で「初」の文字を追加寛政2年の年紀を朱色で消す。
   寛政3年7月20日   銑太釘打
・・・朱文字でこの行を追加
     同  10月7日   上棟式

              明治三年四月     大島盈株 寫  ・・・・・明治3年は大島盈株29歳である。
 

谷中感応寺五重塔弐拾分之一之図: (633KB):左図拡大図

谷中感応寺五重塔弐拾分之一之図2: (639KB):
上記の絵図の上に、とりあえず判明する書き込みを補足した絵図である。
入手図版も縮小されたものであり、殆どの書き込みが判読できないが、諸文献より判明した部分を補足する。

2012/12/15追加:
本図の性格あるいは成立過程については、検討を要する。
特に本図を大島盈株(みつもと)の「実測図」とするのか「複写図」とするのかは、子細に検討を要する。
2012/12/17追加:
本図についての現在入手できている文献[(1)〜()]の評価を纏めると以下の通りである。
(1)と(4)では単純に大島盈株の実測・作成図とする。
(2)では字義(寫)どおり、盈株による他図面の複写の可能性に言及する。
(3)では色濃く他図面の複写であることを示唆する。

では、本図の性格(実測図か複写図か)はどのようなものであろうか。
現段階では、以上を踏まえ、次のように解釈できるであろう。
 本図は盈株が寛政年中の再建の建地割図もしくは板絵を墨(一部は朱の線)で複写したものであろう。盈株の立場であれば、容易にこれ等の絵図を見ることは可能だったと考えられる。
但し、元図がどのような絵図であったのかは、一切記載がなく、それは分からない。
 そして、盈株は、「此印之書入ハ外図ニ有之候ヲ認メ候割合ナリ」とあるように、その他の絵図(外図)を参照し、「」付きの記入を追加したものと考えられる。しかし、この場合もその他の絵図が何であるのか、 また何のために参照したのかは分からない。
 おそらく盈株は五重塔の全てを実測したわけではないであろう。しかしながら、少なくとも、谷中の塔を実見し絵図と照らし合わせたものと推測できる。
初重右脇間の中備として墨で描かれる蟇股は微妙に朱で左に位置がずらされ、さらにその上に二重に乗る墨で描かれた大斗は1個づつであるが、これも朱で2個の大斗が並ぶように描かれる。これは 盈株が実見した結果、墨で描かれた絵図を朱で訂正した結果と考えられないであろうか。
上掲の「府下に於ける佛塔建築」の写真
天王寺五重塔初重軒廻1及び  同 五重塔初重軒廻2は2個の大斗 が写る。
 (勿論、現段階では朱の文字が全く判読できない状態での推論であるので、推測を誤っている可能性があることは十分承知をしている。)

◆本図は未見。
本図を実見した都内「H」氏の情報は後述◆【都内「H」氏情報】の項を参照。

(1)「谷中五重塔」(”東京の地方”叢書2−谷中五重塔事典)江戸のある町・上野谷根千研究会(編)、谷根千工房刊、1988年 所収の
「塔のかたち」山田博子+手嶋尚人+児島理志 <既出> では
明治3年4月に実測、実測したのは大島盈株(甲良建仁寺流12代継承)
 と云う。

(2)「谷中天王寺の五重塔-天王寺五重塔跡出土遺物調査報告書-」台東区教育委員会、平成18年 <既出>では
料紙は楮紙。四枚を張り継いだものである。法量:212.0×72.5cm。
図中の各所に朱書きがあり、左下に「此印之書入ハ外図ニ有之候ヲ認メ候割合ナリ」の注記があることから、 盈株は図を書写するにあたり、複数の指図と校合したことが知れる。盈株が書写した指図の制作年代は不明だが、朱書は元治元年(1864)の改修時の図を参考にした可能性がある
 と云う。

(3)2009/01/07追加:
「谷中五重塔について:1)谷中感応寺五重塔図の分析」山田博子・前野まさる・中村精二・森田徹也(「学術講演梗概集」1989 所収)
の注4)では、写真家羽田敏夫(敏雄か?)氏の塔焼失一年前に撮った詳細な写真があるとするが、不明。
なお
 谷中感応寺五重塔弐拾分之一図(上掲)の初重柱間寸法と現存礎石の柱間実測値とは若干の誤差(5%内外)があるとの指摘がある。
※その他若干の相違も散見されるが、全般的に見て、上図の正確性については、写真資料などとの比較から信頼が置けるものであろうとの評価がなされる。
2012/12/17追加:
この図面(「谷中感応寺五重塔弐拾分之一之図」)は、縮尺20分の1の立面図・断面図と縮尺80分の1の平面図が墨書(一部は朱書の線や文字)で描かれる。
朱書の部分は平面図と初重柱間総間を除く書き込み寸法と、訂正のために用いた朱と木割の上に赤い丸印をつけた朱のニ種類である。この赤い丸印に用いられている朱は、訂正以外の線書にも用いられている。
文字の筆跡は墨書・朱書とも、同一人物の手によると思われる。
図面表面左下に「明治三年四月 大島盈株寫」とあるから、この図面は他の図を写した可能性も考えられる。
明治3年は、廃仏毀釈の時期にあたるため、なぜこの時期に書かれたのか、または写されたのかは不明である。
 と云う見解を採る。
さらに
書き込み数値のうち、頭に朱の丸印の付いたものがある。これは「此印之書入ハ外図ニ有之候ヲ認メ候割合ナリ」とあり、さらに谷中五重塔には無い亀腹に関する記載「カメハラ柱壱本半」との記載もあり、別の時代もしくは別の建物の図あるいは再建前の木割値と考えられる。
また、冒頭にある「初重柱間寸法と現存礎石の柱間実測値とは若干の誤差(5%内外)がある」との指摘の根拠は以下である。
初重平面図の総間は18尺(中央間6尺4寸、脇間5尺8寸)であり、礎石実測値では総間は17尺(中央間6尺、脇間5尺5寸)であり、誤差がある。
 ※但し「谷中天王寺の五重塔」(調査報告書)では、総間は18尺1寸5分(5.5m)と報告するので、この礎石17尺と云うのは良く分からない。
 ※上記の立論は「初重平面図」での寸法での立論であるが、1/20の立断面図では中央間6尺3寸6分、脇間5尺8寸3分(総間18尺2分/5.46m)とあり、礎石実測値18尺1寸5分(5.5m)とほぼ合致する。
 との見解も採る。
図面の具体的内容の検討としては次の評価が下される。
図面表現の信憑性は1)垂木数(枝割)が各重とも正確に表されている、2)蟇股、大斗などの配置、形状が正確に描がかれている、3)初重〜四重までは和様、五重目は唐様の表現がなされる、などで信憑性はあるものと判断される。
 ※2)に関連して、初重全ての柱間の中備に蟇股を置くのは近世関東風塔婆の特徴であるが、二重以上五重までの全ての中央間に蟇股を置くのは谷中五重塔だけである。
 ※3)に関連して、五重のみ唐様を用いる意匠は現存する五重塔では日光山五重塔だけである。
ところで、「弐拾分之一之図」に記された寸法に関する内容は墨書の各重の木割値と、主として初重に見られる朱書の書き込み寸法である。この二つの値はほぼ近い値であると確認される。
つまり、この数値を他の資料と比較して木割と寸法の信憑性を検証すると以下のように云える。
まず1)各重の枝割は枝数・逓減数とも写真資料から正しいものと検証できる、2)初重柱間は塔阯の実測値とほぼ合致する、3)一枝の寸法は初重柱間と初重枝数から算出した数値と絵図の書き込み数値が一致する、ということで図面としての正確さを持つものといえる。
しかし一方では絵図の正確性に次のような疑問点も存在する。
1)二重目以上に実際にはない内法長押が描かれる、2)相輪の形態が相違する、3)尾垂木の絵模様の相違、4)椽を支える斗の数が相違する、などがある。
 ※4)については二重目以上の椽の斗の数を云うのであろうが、入手している写真資料では不鮮明なため、確認がとれない。

(4)2009/01/07追加:2012/12/17追加修正:
「谷中五重塔の木割りに関する研究」五十嵐 亮介・浦江 真人(「学術講演梗概集」2003 所収)より
 
谷中天王寺立断面図:この図は谷中感応寺五重塔弐拾分之一図(上掲)を書き直したもの。
谷中五重塔は初重から枝数を2支→3支→3支→3支と減ずる。
垂木は五重のみ扇垂木でその他の重は平行垂木を用いる。
椽下には亀腹を造らない。
 と特徴を述べる。
本図についてjは
明治3年4月に甲良建仁寺流12代継承の大島盈株によって作成された1/20の実測図
 とある。

◆【都内「H」氏情報】:「H」氏は本図を実見する。
1、全体に約2mの長さですが、高さ30cm位に屏風のように山と谷に折られて、幅が三分の一に折られ正方形に近い形に畳まれている。
 (30cm四方くらいに畳んである。)
2、図の左下に 大島盈株 寫 と記し、 印 がある。
印章は 建仁寺 流大島 盈株印 とある。
3、その下の丸印は「昭3.1.20 日比谷図書館」と読める。
これに関する係員の説明は「大正から昭和20年前までに他の施設から移される。それ以上の詳細不明」というものであった。
5、左側の最上部に薄く赤くなっている部分があるが、これは図面を畳んだ状態にすると図面の裏側が表紙のような形になり「江戸谷中 長耀山感應寺五重塔図」と書かれている。小判形の赤い丸は「判」で「実測図」の判が押されている。
但し、同じく係員の説明は「実測図の判はいつ押されたか不明で信用できません」とのことであった。

◆参考資料:
○幕府大棟梁甲良家:
甲良家は幕府作事奉行配下幕府大棟梁を世襲した家柄である。建築流派の建仁寺流として11代まで続いた。
 日光東照宮建築、東叡山五重塔、江戸城などの建築にたずさわる・
初代は甲良宗広(天正2年/1574-正保3年/1646)、近江国甲良法養寺出身。
11代甲良棟隆(明治43年没)の時、明治維新を迎え廃業する。流派は10代棟全の子である大島盈株が継承する。

○大島盈株(みつもと):天保13年(1842)-大正14年84歳で逝去
幕府大棟梁甲良家10代棟全の子として生まれ、のちに大島家(大島七右衛頼正)の養子となる。
幕府作事方を務める。
安政2年(1855)江戸城修復にたずさわる。
明治元年甲良11代棟隆が廃業、甲良建仁寺流12代を継承する。
明治4年工部省新橋駅建設にたずさわる。
現存する遺構:芝増上寺昭徳院霊廟(13代将軍徳川家茂廟)、新橋駅、シカゴ博出品鳳凰堂模型、日英博覧会出品書院造模型
2012/12/31追加:
大島盈株の著作として、「日本建築図譜」大島盈株氏遺作図刊行会 がある。
第1集:規矩軒廻り図解(昭和4年刊)、第2集:床・棚・室内意匠(昭和5年刊)が刊行されている。
しかし、上記の明治3年大島盈株写「谷中感応寺五重塔弐拾分之一図」の手掛は全くなし。
第3集:門・玄関・破風造之図、第4集・第5集:社寺細部・木割及絵様、第6集:江戸城参考図 の刊行が予定されたようであるが、第3集以降は未完のままであると思われる。
宰4集・第5集が刊行されていれば、あるいは手掛りがある可能性はあるも、現段階ではこれも難しいこととなる。


谷中感応寺(天王寺)現存棟札

2008/06/27追加:
「府下に於ける佛塔建築」東京府、昭和7年(1932) より
棟札は3枚遺存する。
 谷中五重塔棟札<表面>:向かって右が寛政3年再建棟札、左が元治元年修営棟札
 谷中五重塔棟札<裏面>: 同上
  ※何れも塔より下され、今は天王寺の宝蔵に収蔵される。

(1)寛政3年棟札(1791年・2尺4寸×5寸)
<表面>
 卍 聖衆天中天 伽陵頻迦声 哀慇衆生者 我等今敬禮
   奉再建五層塔長耀山感應寺尊重教院
     供養導師凌雲院前大僧正實乗
     開眼導師大佛頂院権僧正覚謙

 

<裏面>
寛政三年亥冬十月二十三日
  塔三間四面高八丈五尺九寸
  露盤上九輪高二丈七尺
  中心柱十一丈一尺八寸
  総高十一丈幅二尺八寸
  大工近江州高島産八田清兵衛

(2)寛政3年再建職人名札(1791年・5寸×3尺5寸2分)
<表面>
 長耀山寛應寺五重塔再建職人
  大工棟梁八田清兵衛
        八田清六
        八田助四郎  (以下46人略)
 

(3)元治元年棟札(1864年・5尺6寸×9寸)
<表面>
 卍  聖衆天中天 伽陵頻迦声 哀慇衆生者 我等今敬禮
   奉修営五層塔
     天下泰平 国家豊饒 興隆正法 如意満足
    祈所 武州豊島郡護国山天王寺
      (以下 願主、導師、諸役、天王寺寺中、棟梁 略)
<裏面>
五重塔修復諸入用高
  (中略)
 合金九百十四両弐分銭六百弐十文

(1)の注:凌雲院前大僧正實乗は東叡山寛永寺学頭
(2)の注:清六は清兵衛の実子か、助四郎は清兵衛の実弟、細工物棟梁は清兵衛弟子駒井半四郎と云う。

2010/01/07追加:
「谷中天王寺の五重塔-天王寺五重塔跡出土遺物調査報告書-」台東区教育委員会、平成18年 より
 ○谷中五重塔寛政再興棟札     ○谷中五重塔元治修理棟札
2012/12/17追加:
元治修理棟札裏面には金683両余にのぼる「五重塔修復諸入用高」が記録される。
これによれば、元治の修復は基本的には屋根(銅板葺)葺き替えであると分かる。
 


五重塔跡現状

明治初期、広大な天王寺境内は、一部を残して東京府に移管され、谷中霊園となる。五重塔も明治41年東京府に寄贈される。
現在塔跡は礎石を完存し、都史跡とされる。

焼失塔婆は総高11丈2尺8寸(約34.18m)、総欅造と伝える。
心礎石(方3尺・中央に臍穴を穿つ)、四天柱礎4個、外陣四隅柱礎4個(方2尺7寸・中央に臍穴を穿つ)、側柱礎8個と地覆石(長方形)12個、回縁束石20個の礎石を完存する。

谷中天王寺五重塔跡1:左図拡大図
谷中天王寺五重塔跡2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
2006/05/15撮影:
谷中天王寺五重塔跡11
  同         12
  同         13
  同         14
  同         15
  同         16
  同         17:南側の縁 束石列、四辺の縁束石は完存。
  同         18:縁 束石、
  縁束石総てに2箇所の四角の切込加工がある。(木製地覆の枘孔)

2010/01/07追加:
「谷中天王寺の五重塔-天王寺五重塔跡出土遺物調査報告書-」台東区教育委員会、平成18年 より
 

五重塔跡実測図

谷中天王寺塔跡実測図:左図拡大図

38個の礎石と12個の地覆石が残る。安山岩製。
残存 礎石から塔一辺は6.25m(19尺8寸8分)、柱芯-芯間の塔一辺は5.5m(18尺1寸5分)と計測される。
心礎・四天柱礎4・四隅の脇柱礎は一辺約90cmを測る。他の脇柱礎はおよそ一辺70cmを測る。

縁の束石は一辺約40cmを測る。束石には枘孔が切られ、束石間には木製の地覆が据えられていたと推測される。しかし各辺中央には石階があり、地覆は設置されなかった。
五重塔は正保創建の場所に寛政年中再建されたと推定されるが、現礎石はその状況から、寛政再建時に新しく設置されたものと推定される。


谷中天王寺心礎実測図:左図拡大図

心礎は2段の円孔が穿たれる。
上は径22×12cmで、下は径13×20cmの円孔である。
上方孔は心柱の枘が差し込まれ、その下は銅円盤をのせ、下の孔には金銅舎利容器を納めた経筒が入っていた。

南東四天柱礎実測図

四天柱礎・四隅脇柱礎には径7.4×13,5cmの円孔を穿ち、上面の縁廻りは銅円盤の蓋を置くため僅かな段を設ける。

現毘沙門堂
 毘沙門堂: 昭和32年五重塔初重は完全には焼失せず、昭和36年この残存部材でもって、現在の毘沙門堂が建立されたと云う。
 


谷中天王寺塔跡出土遺物 (舎利・舎利容器など)

2006/08/25追加:
金銅舎利容器と経典を納めた銅経筒は塔心礎から、小型の銅経筒8口は四天柱礎と四隅の側柱礎から発見される。
舎利容器と経筒は寛政元年(1789)、五重塔の再建の時、安置される。
なお礎石中に経筒を納める事例は類例が無いと云われる。
経典奥書や出土状況から、明和9年(1772)焼失五重塔の再建経過を知ることができるとされる。
 天王寺出土舎利容器等:2005年「公報 たいとう」より: あいにく画像は小さく 、良く分からない。

2010/01/07追加:
「谷中天王寺の五重塔-天王寺五重塔跡出土遺物調査報告書-」台東区教育委員会、平成18年 より

概要・銅経筒

塔跡出土銅経筒:左図拡大図
 ※中央が心礎から出土、中央四周が四天柱礎から出土、周辺四周が四隅側柱礎から出土の銅経筒と思われる。

昭和32年7月6日焼失。同7月30日整理作業中、礎石に穴の穿たれているのが発見される。
心柱・四天柱礎4、側柱四隅の礎石から合計9口の銅経筒と1基の金銅舎利容器が発見される。
発見された遺物・蟇股などの焼け残り部材・塔金属部材などは武蔵野郷土館に納められるも、同館の閉館に伴い平成5年天王寺に返還され、現在では同寺が保管する。

心礎出土遺物(銅経筒、紺紙金字経一巻、舎利容器)

心礎出土遺物:左図拡大図
 ※右は心礎出土銅経筒、左は心礎出土経軸、中央下は舎利容器

心礎には2段円孔が穿たれ、上の円孔は枘孔で、下の円孔に銅経筒、紺紙金字経一巻、舎利容器画 が納められていた。(上述)
 舎利容器埋納状況:銅経筒・経軸・舎利容器が入子になる。

銅経筒法量:総高18.8cm、径10.7cm
金銅経軸法量:高さ13.7cm、径6.1cm
金銅舎利容器法量:総高12.7cm

銅経筒は銅板製鍛造鍍金であり、経筒内には紺紙金字経一巻が納められ、紺紙金字経の経軸内に舎利容器を納める。
 心礎出土銅経筒実測図
紺紙金字経の経軸は銅板を丸めて円筒形を作り、蝋付けする。経軸の上下には木製円盤を嵌め、紺紙金字経を固定する。
 心礎出土紺紙金字経:幅11.4長さ45.5cm。表の金字の多くが裏に転写する。写真左が表、右が裏。
木製円盤には墨書がある。
舎利容器は銅板製鍛造鍍金、ガラス装。舎利容器は方形の塔の形をし、塔身の四面にはガラスを嵌め込む。台座の下部は方形で四面には七宝繋文を廻らす。上部には2重の蓮華座を設ける。
塔身は隅金具に2重の枠金を立て、上からガラスを差し入れる。(ガラスは1枚割れている)
内部は中央に金銅板の仕切りを立て左右に別け、それぞれ2枚の板で3段の棚を作る。各棚には縁を曲げた受皿を配し、その中央に小型の碗形の皿を置き、ここに仏舎利を安置する。仏舎利は現在、上段左1粒、中段左2粒、右1粒、下段右1粒が残る。
塔身上部中央には中空細身円筒を長く立て、これに方形屋根の被蓋、露盤、責金具を通し重ね、頂に足の長い宝珠を細身円筒に入れて全てをかしめる構造である。
 舎利容器実測図
なお、心礎下円孔の上には銅円板が載せられていた。銅円板は銅製鍛造。
上面は粗い線刻で輪宝を表し、下面は極細の線刻で八葉蓮華を表す。
 心礎出土銅円盤

礎石出土遺物(銅経筒、経軸・経巻、銅円盤)
銅経筒は銅板製鍛造鍍金。経筒内には経巻が一巻づつ納入される。経軸は木製、経軸の上下には木製円盤が嵌められる。
 礎石出土銅経筒埋納状況
経巻の経帙は比較的良好に遺存するが、経巻は経紙は劣化し、僅かに微細な紙片が残る。
 出土経巻経帙
礎石の銅円板も銅製鍛造で、上面は粗い線刻で輪宝を表し、下面は極細の線刻で八葉蓮華を表す。
銅経筒法量:総高は各々11cm内外、径6cm内外
 礎石出土銅円板
なお各礎石中から、金銀粉末・ガラス片・珊瑚片が出土する。
 出土ガラス片・珊瑚片

2011/09/28追加:
参考:
近世の塔婆から舎利・舎利容器などの出土は、谷中感応寺の他には板倉宝福寺(舎利・舎利容器など現存)の例がある。
出土舎利容器の一覧は「舎利容器一覧表」を参照。


再建大工八田清兵衛

2010/01/07追加:
「谷中五重塔をたてた大工八田清兵衛の系譜について」森田 徹也・前野 まさる・中村 精二 ・山田 博子(「学術講演梗概集」 1989 所収)より
 寛政年中の再興五重塔は棟札から近江高島出身の大工八田清兵衛と知れる。
八田清兵衛の手がけた作品は今の所以下が確認されている。
湯島天満宮(安永6年・1775、焼失)、谷中感応寺客殿(天明元年・1789、焼失)、同五重塔(寛政3年・1791、焼失)、下野浄法寺本堂(文化元年・1804、現存、7×6間・寄棟造・唐破風付設)である。
近江高島郡在住の八田氏邸には八田清兵衛・八田清六の名の記載された2通の文書が残る。その内一通は安永子ノ年(1781)の年紀があり、信濃善光寺に立ち寄り上京(京都へ上る)したことが分かる。
また高島郡高島町の願龍寺の過去帳に八田清兵衛が2代に渡り、記録される。一代目は宝暦9年(1758)没で、ニ代目は明和7年(17770)没の八田清兵衛で、この代でこの家の記載は途切れる。ニ代目清兵衛の喪主はその妻で、その妻の喪主はいないと記録されると云う。
なお、清兵衛の江戸での住所は湯島天神町と知られている。
 ※谷中天王寺、湯島天神別当喜見院、下野浄法寺は何れも東叡山寛永寺直末であり、こうした関係から清兵衛が棟梁を務めたと考えられる。
 


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