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報 恩 大 師 開 基 備 前 4 8 寺 |
報恩大師開基・備前四十八ヶ寺
基本は「備前国四拾八ケ寺領并分国中大社領目録(金山寺文書・文禄4年ー1595)」による
| 1.金山観音寺 | 御野郡 | 金山寺。三重塔現存。塔婆は本堂からさらに相当石段をあがった場所に独立して立つ。天明8年(1788)建立。一辺
5.1m、高さ26.3m。 本堂(桁行5間、梁間6間、入母屋造り、本瓦葺き、桃山、重文)、仁王門、護摩堂、潅堂、客殿等を残すが現在は相当荒れている。かっては多くの院坊(寿量院、善住院、龍珠院、安禅院、中正院、妙音院)があった。 松田元成の日蓮宗改宗を拒み、全山焼失。大山寺豪円が再興。現在は本坊(遍照院)のみで維持する。天台宗。宇喜田秀家は分国寺社領分として一括して3000石を発給。徳川家光安堵は186石余。 本堂1 本堂2 仁王門 荒廃した庫裏 塔婆写真については三重塔(江戸後期)のページを参照。 |
| 2.金光山岡山寺 | 御野郡 | 備陽記:報恩大師が天平勝宝元年、今の岡山城の二の郭の位置に建立。宇喜田直家の入城で城西に移転。直家の法名から光珍寺と改称。天正18年(1590)山崎町に、慶長6年(1601)小早川秀秋により現位置に移転、岡山寺と改号。文禄4年には寺中光珍寺30石、円明院20石、月窓寺20石、観音堂30石、清鏡寺20石、宗(惣)福寺20石の合計140石。慶安5年(1652)一山争論があり、岡山寺と光珍寺とに分離した。今次大戦で焼失。本住院、一乗院、徳元院は再建に至らず、寺中では清鏡寺のみ復興。天台宗。寛文年中遍照院訴状:9坊の内、光珍寺方4坊還俗、観音坊5坊は云々。 月窓院(寺) :「備前国四拾八ケ寺領并分国中大社領目録」では岡山寺の寺中・宇喜多秀家から寺領20石を寄進されるある。「吉備前鑑」では光珍寺の寺領50石の内10石を分与。「吉備温故秘録」巻之27の注記では「月窓円心の位牌あり」とする。江戸期には岡山寺仁王門西側に立地。文久年間、堂宇が大破・取壊され廃絶。 円明院 :「備前国四拾八ケ寺領并分国中大社領目録」では岡山寺の寺中・宇喜多秀家から寺領20石を寄進されるある。「吉備温故秘録」巻之27の注記では、「円明の位牌あり」とする。江戸期には月窓寺の北隣に立地。明治初年、堂宇が大破していたため取壊され、大正11年光珍寺に合併。 清鏡寺:「備前国四拾八ケ寺領并分国中大社領目録」では岡山寺の寺中・寺領20石を寄進。「吉備前鑑」岡山寺の寺領40石の内10石を分与という。「吉備温故秘録」巻之27の注記では「直家の息女、清月明鏡の位牌あり」とする。江戸期には岡山寺仁王門東側に立地。本堂は梁行3間3尺、桁行3間。普賢堂(3尺6方6角)、観音堂(2間に3間)、鐘楼堂(1間半に4間)が存在、天保年間以降、堂宇は大破、明治維新前後には貸家となり、明治20年頃には取壊しとなった。その後、再興され、昭和20年戦災による被災、後も同位置に再建。 本住院:あるいは本珠院ともいう。初見は「備陽国誌」。古くは大蔵坊と称したとされ、江戸期には清鏡寺北隣に立地。寛政6年全焼。以降長く再建されることはなかったが、再興。昭和20年の空襲で全焼。 一乗院:初見は「吉備前鑑」で、岡山寺の寺領40石の内10石を分与。古くは西之坊と称したとされ、江戸期には本住院北隣に立地。寛政6年の本住院出火により類焼、取壊。昭和8年岡山寺に合併。 徳元院:あるいは賦元院ともされる。初見は「吉備前鑑」で、岡山寺の寺領40石の内10石を分与。古くは福蔵坊と称したとされ、江戸期には一条院隣に立地。本堂(梁行4間、桁行3間)。江戸後期には岡山寺の兼帯が続き、明治初年には貸家、明治20年頃に堂宇大破のため取壊し。昭和8年岡山寺に合併。 岡山寺外観・・・市街地の中で境内も縮小され辛うじて寺院の外観を保つ。後方の九輪は光珍寺 。 光珍寺外観・・・ビル建築に 変貌する。屋上に九輪もどきを載せ寺院の印とする。 光珍寺標識 |
| 3.吉祥山石井寺 | 御野郡 | 下伊福村にあったとされるも、詳細は不詳。現三門の少林寺(妙林寺?)ともいう(後身か?)。 備前三門吉祥山石井寺(寛文6年不受不施派弾圧に際して破却される)というWeb情報がある。 「備前四十八ケ寺」平成16年:吉乗山石井寺は廃寺、現妙林寺) |
| 4.瓶井山禅光寺 | 上道郡 | 多宝塔現存。塔は寛延4年(1751)建立。本坊安住院管理。塔婆は後楽園の借景として丘陵地の山腹にある。 禅光寺は現在は住宅地の中に2坊(安住院、普門院、中蔵院は廃寺)のみ残す。かっては安住院、尭王院、蓮華院、理澄院、法明院、閑安院、歓喜院、万徳院、伝経院、金蔵院、明寿院、中蔵院、普門院など十数坊があった。仁王門は康正2年(1456)の建築と云う。本坊安住院には本堂、鐘楼、薬師堂、大日堂、牛王所堂、庫裏、客殿等が残る。真言宗善通寺派。 塔婆写真については多宝塔(江戸後期)のページを参照。 |
| 5.澤田山恩徳寺 | 上道郡 | 行基の創建で、報恩大師により48ヶ寺に加えられたという。
本尊は行基作薬師如(秘仏)。 寺中に西方院・池松院・多聞坊・薬師坊、付近に医王院、光明院、竪巌神社を有したという。 (江戸初期には、西方院・多聞坊・松之坊・松岳院・医王院の5院があった。) 寛文6年、寛文の廃仏で医王院は廃寺。 嘉永五年(1852)、仁王門を残し諸堂宇を焼失。現伽藍は明治10年の再建。 明治の神仏分離で堅巌宮を寺内に移転。明治4年多聞坊、薬師坊は廃寺。明治38年光明院は廃寺、池松院を西方院に合併。 高野山真言宗。30石。 「備前記(元禄13年・1700〜1704)」では: 『沢田村 村中に真言宗 恩徳寺と云う寺あり。本尊薬師、・・・(寺中二軒 松之坊・多門坊) 村東に寄せ宮・春日大明神あり。』 「備陽記(享保6年・1721)」:では 『真言宗 「沢田山 恩徳寺・西方院」 沢田村之内にあり。本寺 「高野山随心院」 本尊 薬師 寺領高 七石 御免帳立 「寺中二軒 池松院・多門坊」』 (松之坊は池松院に改号か) 「吉備温故秘録(完成11年・1799〜1803)」では:『恩徳寺 真言に改宗・本尊も薬師に改む』と云う。 「古義真言宗 本末蝶 第十二 備前国古義真言宗 本末帳」では: 『高野山随心院末 澤田山恩徳寺寺中西方院・寺中池松院・寺中多門坊』とある。 |
| 6.今谷山長楽寺 | 上道郡 | 近世には光明院、成就院、延命院、南光院の5ケ寺あり。明治維新の時王蔵院廃寺。明治5年成就院を光明院へ合併。明治6年光明院焼失、明治8年残った延明院、南光院も焼失。高野山真言宗。本尊阿弥陀如来。30石。 現在本堂、庫裡、客殿、仁王門(江戸中期)、茶室などを有する。 |
| 7.岩間山西明寺 | 上道郡 | 千号寺と称したという。建長年中(1249-56)北条時頼巡国の折、堂塔修復し、最明寺とする。寺中吉祥院、阿弥陀堂、鐘楼、権現堂などがあったとされる。高野山真言宗。30石。
寛文5年寺領として2石6斗寄付。 現在、本堂(宝暦11年再建)、鐘楼(安永年中再建)、庫裡(文久2年再建)、客殿(慶応3年再建)、護摩堂(明治11年建築)などを残す。 岡山市(西大寺) I 氏サイト:古寺巡礼→【古寺巡礼その23 (山本院・岡山市)】に現況の掲載がある。 |
| 8,築地山常楽寺 | 上道郡 | 盛時には20余の院坊があったと伝える。文化年中に大半の堂宇(本坊明静院、勧了院、池泉院、弥勒院、常楽院、光明房、善明院、中蔵院、円浄院、多聞院、薬師堂、如法経堂、鐘楼)を焼失。その後再建。明治16年再び大部を焼失。その後再建。寺中に池泉院が残ると思われる。 文化年中の火災を免れた仁王門を山麓に残す。天台宗。110石。 |
| 9.湯迫山浄土寺 | 上道郡 | かっては12院坊があったという。現在は持教院のみを残す。付近には「塔の坂」などの地名を残すと云うも詳細は不詳。江戸中期再建の本堂、客殿、庫裏、鐘楼、仁王門などを残す。俊乗房重源が備前に設けたとされる大湯屋はこの地であったと推定される。天台宗。50石。 2008/06/28撮影: 備前浄土寺本堂 備前浄土寺湯屋遺構 |
| 10.脇田山安養寺 | 上道郡 | ◇宝暦年中(1751-64)具法法印が再興。賞田堂屋敷から脇田山東谷に、その後脇田山山上へ移転したと云う。 天台宗。50石。 現在近世・近代の本堂、庫裡、客殿、鐘楼などが残る。なお本堂前に旧地から移したという奈良後期の礎石8個が築山で保存されているという。 参照:安養寺の部屋の270脇田山安養寺のページ ※参考:賞田廃寺 2008/06/28撮影: 脇田山安養寺本堂 安養寺本堂右に、大悲観音と彫られた自然石の碑がある、この台石のうち8個は賞田廃寺の礎石を移して、旧本堂に使用した礎石と伝える。現在8個の内、数個はおそらく賞田廃寺の復元基壇に戻されたものと推定され、レプリカで代替される。 伝賞田廃寺礎石:左は代替品 脇田山は天台宗、本堂右裏手にRC製のシェルタ様の構造物(観音堂・納骨堂)が作られ、その土盛の上に相輪橖が建立されている。 脇田山安養寺相輪橖1 同 2 同 3 同 4 同 5 観音堂は平成9年建立と思われる、従って相輪橖も平成9年建立と推定される、相輪橖の材質や高さは不詳。 |
| 11.広谷山如法寺 | 上道郡 | 神亀2年に大倫和尚が創建したとも云う。備前記:正覚院、勝摩院、威徳院、西方寺、鐘楼、鎮守若王寺など、文化年間の岡山藩領手鑑:寺中の ほか薬師堂、大日鎮守神堂、鐘楼、仁王門があったとする。大正5年威徳院を合併。観音寺も残されていると思われる。高野山真言宗。30石。 |
| 12.室山満願寺 | 上道郡 | 現地に鑑真開創、空海修営という慈眼院1坊(満願寺)が存続する。中世に転退し、近世小笠原長光が再興と伝える。文化年中の岡山藩領手鑑:寺中3院(安楽院、報恩院、慈眼院)観音堂、大師堂、鎮守、鐘楼、仁王門があったと云う。高野山真言宗。50石。 2010/03/29追加: 岡山市(西大寺) I 氏サイト:古寺巡礼→【古寺巡礼その39 (慈眼院・岡山市)】に現況の掲載がある。 |
| 13.馬路山明王寺 | 上道郡 | 江戸期には毘沙門堂、観音堂、鐘楼、仁王門、地蔵堂、智明権現、山王宮などがあったと云う。天台宗。60石。 現在、本堂・観音堂・庫裏などの伽藍を残すと思われる。 2010/03/29追加: 岡山市(西大寺) I 氏サイト:古寺巡礼→【古寺巡礼その27 (明王寺・岡山市)】に現況の掲載がある。 |
| 14,塚原山西明寺 | 上道郡 | 現地に塚原山最明寺持香院が存続していると思われる。建長元年(1249)北条時頼が來山・中興とする。江戸期には持香院、一条院、宝香院の3坊、堂宇として薬師堂、阿弥陀堂、地蔵堂があったと云う。高野山真言宗。50石。 2010/03/27追加:岡山市(西大寺) I 氏より、以下のご指摘あり。 諸堂<と思われるが>は「昭和60年に火事で焼失したと、訪れた友人」の記載がある、と。 ※現地は未訪問。従って、現状は未確認。確認するまで、上記を備忘として掲載する。 2010/03/29追加: 岡山市(西大寺) I 氏サイト:古寺巡礼→【古寺巡礼その77 (持香院 岡山市)】に現況の掲載がある。 昭和60年の火災に起因するのであろうか、ほぼ廃寺の状態と思われる。 |
| 15.金陵山西大寺 | 上道郡 | 三重塔現存。塔は延宝6年(1678)建立。一辺3.9m、高さ
20.9m。 天平勝宝3年周防国の藤原皆足媛の開基、もしくは報恩大師の開基ともいう。かっては広大な境内と伽藍を誇ったようですが、現在は観音院のみです。会陽で有名。近世の建築ながら壮大な本堂等を有する。旧西大寺市は当寺の門前町として発達。高野山真言宗。 本堂 境内 三重塔画像については三重塔( 江戸前期)のページを参照。 讃岐金毘羅大権現(象頭山松尾寺)観音堂本尊十一面観音脇侍不動明王及び毘沙門天が 当寺に現存。松尾寺に於ける明治の神仏分離の過程で多くの仏像が毀される中で、明治7年、松尾寺万福院宥明 は故郷である津田村君津の角南助五郎宅へ、脇侍不動明王と毘沙門天の二尊を持ち帰る。その後、旧岡山藩主池田章政が、祈願寺である円務院(下出石村)に移安する。池田氏は東京へ移住、明治15年、西大寺光阿上人が西大寺 に再度移安、金毘羅大権現本地として、西大寺鎮守牛玉所(ごうしょ)大権現とともに、牛玉所殿に合祀する。(牛玉所は未見) |
| 16.大平山善興寺 | 邑久郡 | 大山にあった。寛文6年(1666)寺院淘汰で廃寺。善明院、東門坊、長福寺、中之坊、不動寺があったと云う。 現在福田山円福寺(邑久町豆田)が法灯を継ぐと思われる。高野山真言宗。30石。 2008/02/13追加:「邑久郡史 改訂 下」昭和29年より 始め鯛山寺と号す。先の中納言様(宇喜田秀家)代は30石、池田氏(輝政様、宰相様、少将様3代)は8石。 寛文7年まで寺数5軒。住持善明院・寺中東門坊・寺中長福寺は還俗、中之坊は他国、不動寺は死亡。豆田村円福寺は善明院弟子で末寺。 |
| 17.南谷山長楽寺 | 邑久郡 | 江戸初期に廃寺となったと思われる。古寺跡5とあるから多少の院坊があったと推定される。真言宗。20石。 2008/02/13追加:「邑久郡史 改訂 下」昭和29年より 中興坊、本坊、総持坊、今泉坊、医王院の諸坊あり。 南谷山長楽寺医王院、寛文6年落墜、同8年相果、寛文6年本坊立退、惣持坊同、金(まま)泉坊同、寛文9年中興坊立退、本堂1軒延宝3年(1675)焼失、阿弥陀堂・大師堂・鐘楼・鎮守三王寛文6年潰、高9石7斗3升。 |
| 18.真徳山明王寺 | 邑久郡 | 山手村にあった。江戸初期に廃寺となったと思われる。(廃寺の経緯は不明)20石。 2008/02/13追加:「邑久郡史 改訂 下」昭和29年より 真言宗高野山隋心院末。蓮祥院出寺、明松院出寺、寛文6年堂寺破却、本尊は大滝山法光寺に預け置く。後2間半に5間の寺取立。 |
| 19.上寺山余慶寺 | 邑久郡 | 三重塔現存。塔は天保12年(1815)建立。近世風塔婆
の代表例と思われる。本尊大日如来は盗難に遭い、現在は新しい(稚拙な)大日如来尊がポツリと安置。 江戸前期には7院7坊、正徳4年(1714)には5院3坊、現在は塔頭6院(本乗院・明王院・定光院・円乗院・恵亮院・吉祥院)によって維持される。山門は失われ るも、今なお一山多院制の中世近世寺院の姿を伝える。吉井川河口東側の丘上にあり、西からは塔の姿が遠望できる。丘上で四方から風雨を受ける位置にあるが、良く現在まで伝えられ る。本堂(室町期、桁行5間・梁間5間。重文)は近年重文指定。そのほか薬師堂、地蔵堂、開山堂、十王堂、鐘楼などを有する。天台宗。60石。寛文年中遍照院 (金山寺)訴状:上山寺13坊、内9坊還俗。 本 堂 塔 頭(向かって右は円乗院、定光院、左塀は明王院) 境 内 図 境 内 塔婆写真については三重塔(江戸後期)のページを参照。 |
| 20.畑山大聖寺 | 邑久郡 | 江戸前期は堂7、坊舎16があったと云う。寛文6年(1666)寺院淘汰により廃寺と云う。30石。
大詳寺とも旁る。 2008/02/13追加:「邑久郡史 改訂 下」昭和29年より 旧称今寺山。本堂5間四面、阿弥陀堂3間四面、薬師堂3間四面、十王堂、寂光堂、鎮守堂、鐘楼堂以上堂数7ツ先年16坊、今は6坊。(慶安元年の文書) 寺領14石3斗6升。頭坊岡之坊、寺中不動寺、西蔵坊、実壽坊、南之坊、東之坊 本寺真言宗高野山隋心院。泉良坊還俗、西蔵坊還俗、教権坊還俗、東之坊住僧出寺弟子還俗、宝壽坊還俗、南之坊出奔、寛文6年堂寺破却。後堂跡に2間半に5間半の寺取立。 |
| 21.大雄山 大賀島寺 |
邑久郡 | 宇喜田氏の本貫地であったため宇喜田氏との関係(菩提寺)が深いと伝える。元亀元年(1570)焼亡。慶長元年(1596)円智僧正再興。元和5年(1619)には本坊等覚院、南陽坊、円蔵坊、浄教坊、明教(鏡)坊。寛文5年(1665)には本坊等覚院、円蔵坊、浄教坊、明教(鏡)坊、真如坊、不動坊、西之坊。正徳年中(1711-16)には13坊。現在は円蔵院、蓮池院の2坊。江戸期の本堂、薬師堂、荒神社、山王社、大智明大権現社、天神社、仁王門等が残る。天台宗。80石。 |
| 22.横尾山静円寺 | 邑久郡 | 多宝塔現存。塔は元禄3年(1690)建立。天文年間(1532-55)に上層が倒壊、下層も寛永16年(1639)破損、光明院の清養が長押から下を寛永年間にそれ以外を元禄3年(1690)に再興したと伝える。一辺
3.3m、高さ12mの小型塔。以前の写真では荒廃が目立つも、平成2年に大修理。南面する本堂等諸堂の東側にあり東面して立つ。 伽藍は現在地の南西の山上にあり33坊が谷を埋めたとされる。元禄年中に今の地に伽藍は引きおろされ、本坊光明院、中道院、定光院、地蔵院、安楽院があったとする。現在は光明院・地蔵院・安楽院で維持され る。高野山真言宗。50石。 主要伽藍 本堂1 本堂2 仁王門 塔婆写真については多宝塔(江戸前期)のページを参照。 本堂は天正7年(1579)。 |
| 23.庄田山朝日寺 | 邑久郡 | 現存すると思われる。 養老2年(718)中国僧智蔵上人の開創とする。慶長年間1596〜1614)小早川秀秋により再興、本堂、護摩堂、辻堂及び龍王院、圓福院、圓蔵院、地蔵院、成就院、吉祥院、持明院の坊舎があったという。寛文6年(1666)廃絶。円林坊などは還俗すると伝える。元禄8年(1695)再興 (龍王院)。高野山真言宗。50石。本尊薬師如来。 |
| 24.隆高山薬王寺 | 邑久郡 | 行幸村福岡の地にあった。寛文年間(1661-73)廃寺となったという。高野山真言宗。15石。 2008/02/13追加:「邑久郡史 改訂 下」昭和29年より 高野山西南院末。寺中最城院還俗、成就院還俗、正徳元年(1711)寺屋敷に2間に4間半の寺建立。 寺中乾生院・西浄院・成就院。伽藍薬師堂、阿弥陀堂、十王堂、大師堂(今花光寺在)、観音堂(同上)、仁王堂(作州倉敷安養寺在)・・薬王院文書 2011/08/06追加: 廃寺の後(正徳元年か)、信徒の再興願いが叶えられ、二間に四間半の薬師堂が再建され、住僧一人を住まわせる。大正の末までこの状態であったと云う。現在は無住、薬師堂は大正15年改修と云う。 |
| 25.千手山弘法寺 | 邑久郡 | 多宝塔は昭和42年本堂・普賢堂・鐘楼・坊舎等の主要伽藍とともに焼失。宝永8年(1711)の再建塔であった。主要伽藍は未だに再建に至らず。多宝塔は一辺
4.9m。本瓦葺き。木部は丹塗り。下層は四天柱を立て、内外陣を区別し内陣は唐様の須弥壇を置き、天井は折上格天井、外陣は格天井。五智如来を本尊とする。中心柱は珍しく床下礎石から立ち、相隣に達しているとされる。 中世には30数院があったと伝える。現在は仁王門と本堂跡上段の常行堂・山王社と遍明院・東寿院の2坊を残す。善集院は火災で類焼と云うも住職は兼住。延寿院と称したようで、元禄年中根生院、竜樹院と合併する。 多宝塔跡は院坊(跡)を抜けた石段上の平地(千手山の上段)にある。現状は薮の中に本堂跡・塔婆跡の基壇を残す。本堂は東面し、塔婆は本堂北東にあり、南面していた 。 坊舎の高い石垣は組み直され、建物も立派に新築された(つつある)と推定されるも、主要伽藍跡は未だ再建に至らず。もっとも焼失後40年近くになるが、定期的には薮の刈り込みは行われているようで、林に帰るということは無いと思われる。高野山真言宗。 参照:備前弘法寺多宝塔」(近世に喪失した塔婆) |
| 26.牛窓山観音院 | 邑久郡 | 経緯不明なるも、現在の海岸山妙福寺観音院(東寺)と室谷山金剛頂寺真光院(西寺)が法統を継ぐと云う。 東寺:寛文6年(1666)転退、五香宮の社地となる。元禄9年(1696)再興。 西寺:11坊舎あり。寛文年中還俗、元禄9年(1696)再興。大日如来坐像が現存し、この像は旧多宝塔の本尊と云う。いずれも高野山真言宗。30石。 |
| 27.藩山正楽寺 | 和気郡 | 嘉元2年(1304)信賢上人が現在地に再建。盛時には24坊を有する。天和元年(1681)焼失。岡山藩の寺院淘汰に会う。近世初頭には千手院、東之坊、南之坊があったが、寛文6年(1666)の寺院淘汰で2坊は廃寺。現在は千手院1坊のみ。宝永年中の山門、本堂、大師堂、客殿、庫裏等を残す。高野山真言宗。15石。 「和気郡史 中巻2」:盛時には寺中24坊、中世末期には12坊(大坊<千手院>、中坊、南坊、東坊、森坊、宝蔵坊、松本坊、梅坊、西坊など)、寛文6年までは3坊がある。 |
| 28.御瀧山真光寺 | 和気郡 | 三重塔現存。塔は室町中期あるいは初期の建立とされ、慶長15年(1610)牛窓蓮華頂寺(廃寺)の塔を移築と伝える。塔は本堂の西の一段上の基壇に立つ。本尊:大日如来。一辺3.8M、総高18.24M。 本堂(重文)は応永年間再建の三間堂を、永正13年(1516)五間堂に拡張したとされる。室町期の密教本堂の典型として有名。文化年間には平等院、華蔵院(現存)、成就院、西福院、松寿院、自性院(現存)、心王院などの存在が知られる。現在塔頭は2院に減じ、境内をJR赤穂線と国道2号線で分断され、仁王門は線路、国道の南方に取り残される。高野山真言宗。30石。 本堂 本堂2 仁王門 仁王門2 三重塔画像については三重塔(室町・桃山)のページを参照。 |
| 29.小幡山長法寺 | 和気郡 | 寺伝では鑑真開基、後鳥羽帝勅願所と云う。文禄4年(1595)には、本坊光明院、大乗院、東光院、西光院、谷之坊、中蔵院、北之坊、実相院、光明坊、泉蔵坊、宝蔵坊、宝泉坊があった。高野山真言宗。30石。 |
| 30.大滝山福生寺 | 和気郡 | 三重塔現存。塔は嘉吉元年(1441)足利義教の再興。一辺
3.8m、総高19.72m。昭和27年解体修理。 (鑑真の開基とも云う)。感応年中足利尊氏が再興。応永年中足利義満が本堂を再興、33坊を数える。康正年中の戦乱で塔婆・仁王門を除き焼失。文化年間には本坊西明院、円蔵院、本命院、大聖院、西法院、円光院、吉祥院、宝光院、宝生院、中道院、実相院、福寿院、宝寿院の13坊があった。現在も多くの坊跡を見て取ることが出来る、現在は福寿院、西法院、実相院 の3坊のみ。高野山真言宗。50石。 本 堂 坊 舎 跡 仁王門 三重塔画像については三重塔(室町・桃山)のページを参照。 |
| 31.黒澤山満願寺 | 和気郡 | 15石。江戸期初期に廃寺。寛文6年、松尾山松本寺理性院(南方にあると思われる)に合併。 「和気郡史 中巻2」:吉永町福満。盛時には12坊を有するが、寛文年中に廃寺。寺跡には本堂などの礎石を残す。 ※付近には「〜坊」という字名の段々になった畑などが残ると云う。 |
| 32.照光山安養寺 | 和気郡 | 康保年中焼失。信源上人が再興。50余坊とも35坊(建治2年1388)とも云う。中世には僧兵も抱え相当な勢力を誇ったと推測される。天正18年(1589)には本坊延寿院、奥之坊、山本坊、西之坊、中谷坊、辻之坊、東の坊、地蔵坊、池之坊
、文槐坊、常住坊など10坊。元禄4年(1596)には11坊。明治初頭には延寿院、本智院、南光院、吉祥院の4坊、現在は延寿院1坊。現本堂は永正の火災を遁れた常行堂を当てる。天台宗。50石。 詳しくは安養寺の部屋の281照光山安養寺のページを参照ください。 |
| 33.杉澤山長楽寺 | 和気郡 |
杉澤山山頂にあった。昭和10年頃現在地に移転。元地には県文指定の五輪塔などが残ると云う。古は150石、32坊と云う。仁寿天安の頃(849〜857)兵火のため荒廃、康保年中(964〜967)信源上人により中興。 文治年中(1185-90)源頼朝再興・15坊と云う。浦上宗景の祈願所となるも戦乱で焼亡。文禄年中(1592〜1595)豪円が復興。本坊は円了院、寺中に利(理)性院があった。天台宗。20石。 昭和33年本堂炎上、現在は仁王門、十王堂、薬師堂を残すのみ。 |
| 34.市倉山宝城寺 | 和気郡 | 江戸初期に廃寺と伝える。天台宗。15石と伝える。 |
| 35.中津山願興寺 | 磐梨郡 | 法相宗、三論宗より天台宗に転宗。願興寺記<宝暦5年(1755)>:往古は三重塔(「塔の段」と称する屋敷跡がある
と云う)、毘沙門堂、坊舎15
(大乗院、法性院、多宝坊、泉蔵坊、光明院、大円坊、常住坊、無動院、法動院、西明坊、中蔵坊、栄坊など)ありという。建長年中(1249-56)本尊盗難にあう。明応元年(1492)兵火で焼亡。文禄、慶長頃豪円が修復。明暦元年(1655)炎上。寛文6年
(1666)廃寺となり、本尊盗難。寛文9年金山寺の抵抗により備前35、備中19ヶ寺の復興が許可され、大乗院と大円坊(後光明院)が復興した。
復興に当っては堂宇が失われていたので、元禄元年;金山寺役者修善坊常教院が「宗堂村廃妙泉寺の本堂を元恩寺へ、客殿・仁王を願興寺へ、梵鐘は金山寺へ貰い受けたい」と願い出、許可される。 延宝7年(1679)大風、本堂・仁王門とも倒壊。貞享4年(1687)盗難にあった本尊が岡山大雲寺に祀られていることがわかり、大雲寺より返還。本堂は享和2年(1802)の再建。天台宗。 |
| 36.石生山元恩寺 | 磐梨郡 | 現在地1,5Km西の榎谷に創建され、康保元年(964)信源上人によって現在地に移転と云う。盛時には36院坊があったという。その後兵火に会い、寛文の寺院整理により中絶。寛文9年に再興。
なお復興に当っては堂宇が失われていたので、元禄元年に金山寺役者修善坊常教院が「宗堂村廃妙泉寺の本堂を元恩寺へ、客殿・仁王を願興寺へ、梵鐘は金山寺へ貰い受けたい」と願い出、許可される。 現在 本堂、仁王門、開山堂、山王社、鐘楼、本坊等を残し、宝積院、妙行院があると思われる。天台宗。20石。寛文年中遍照院訴状:一山4坊不残還俗。一説には三学院が現存し、かっては寺中妙行院、宝積院ありとも云う。 2010/03/29追加: 岡山市(西大寺) I 氏サイト:古寺巡礼→【古寺巡礼その38 (元恩寺・和気町)】に現況の掲載がある。 |
| 37.平満山石蓮寺 | 磐梨郡 | 石蓮寺山山上にあり、かっては20数坊を数えたと云う。寛文年中に廃寺となる。今も山上には門前集落の一部が残ると云う。遺品として石造の十三重塔(鎌倉中期・高さ6.5m)が塔隣坊といわれるところに時代を超えて立っているとされる。その 他、寺中の梅本坊、玉泉坊などの20ヶ所の坊舎跡、本堂礎石等も残ると云う。また本坊跡には日吉神社が残り、阿弥陀堂に寺宝の釈迦涅槃像が安置されていると云う。 |
| 38.石井原山 千光寺 |
赤坂郡 | 三重塔現存。塔は明和2年(1765)建立。棟梁は邑久郡の尾形庄助とされる。 石井原山と号する。報恩大師開基48ヶ寺の一とする。 天台宗。40石。 往時は南の竜王山上に創建されるも天正18年(1590)沼田左衛門によって現在地に再興される。 元禄年中には金蔵院、西明院、玉泉院があった。享保20年(1735)火災にあい、本堂は延享元年(1744)に再興される。 寺域は広大であるが、現在は僅かに本堂、三重塔、仁王門(本堂下約500mの田圃の中に建つ・天明6年1786再建)、本坊(坊舎名不詳)、塔頭1、その他の小宇を有するのみである。 詳細は備前千光寺(三重塔のページ)を参照。 |
| 39.大松山妙光寺 | 赤坂郡 | 鑑真の創建で、報恩大師により48ヶ寺に加えられたという。永禄5年(1562)松田氏の法華宗転宗を拒んだため壊滅。現伽藍は江戸後期の再建と言われる。高野山真言宗。大松村にあったという5寺(真言宗・観音院、連上院、福寿院、不動院、普賢院)は当寺の坊舎であったと思われる。 |
| 40.金泉山正満寺 | 赤坂郡 | 吉備温故秘録:妙覚院、東光坊、本明院、東明院、観照院。天明8年(1788)には無住、千光寺が住職を兼ねる。同年仁王門を残し全焼。東光院、観照院は無住。天台宗。10石。寛文年中遍照院訴状:正満寺4坊、内3坊還俗。 寛文年中妙覚院の住職は還俗、大屋村の氏宮の神職になる。天明8年門を残して全焼。天保9年「手鑑」では妙覚院、本明院(無住)、観照院(無住)の3院、寺領18石。昭和12年火災、同13年庫裏、同31年本堂再建。 |
| 41.菖蒲谷山 西光寺 |
赤坂郡 | 建久3年持運上人によって再興。塔坂の東の山上に三重塔があった
と伝える。江戸前期には本坊随縁院、安養院、真如院、地蔵院、本覚院があった。天保9年(1838)には随縁院と無住の安養院・地蔵院の3院になる。 庫裏(万治3年ー1660)、仁王門(天和3年ー1683)、本堂(安永3年ー1774)などがある。現在は随縁院1坊のみ。天台宗。20石。寛文年中遍照院訴状:菖蒲寺4坊、内1坊還俗。 |
| 42.沓石山高福寺 | 赤坂郡 | 建久年中(1190-99)全山焼亡。正治元年(1199)観運上人再興。備陽記:本尊大日、山王社、鐘楼堂、仁王門、本坊蓮華院、善行院、西明院、利生院とある、天台宗。20石。寛文年中遍照院訴状:沓石寺4坊、内2坊還俗。 現在本堂、鐘楼、山王社、牛頭天王、薬師堂、仁王門、観音堂(沓石1172)、西の谷には善行院(無住)がある。 2011/09/11追加:沓石山高福寺サイトより 「往古ハ即応院、西明院、善行院、経理院、新坊、岡之坊、西音坊、東泉坊、東福坊、松本坊等ノ寺中ニ末寺アリシモ今ハ其ノ敬地跡ニ古ヲ思ブノミ」とある。 |
| 43.笠寺山浄土寺 | 赤坂郡 | 本堂(文明12年<1480>の棟札)、仁王門(天保11年造営)が残るようです。文禄4年(1595)の検地:勧持坊、北ノ坊、宝生坊、東福坊、南泉坊、南ノ坊があった。備前記:持教院、養性(善)院、慈善院、円光院と記す。天保9年慈善院、円光院は無住と化す。天台宗。19石。 かっては12の坊舎と四末寺を有する。四末寺:西軽部村西方寺、東軽部村本願寺、町苅田村東之坊、神田村金剛坊。文禄5年:宝生坊、北之坊、南之坊、観持坊、南泉坊など。「赤磐郡誌」には、持教院、円光院、観持坊、養善院の名がある。万延元年(1860)の絵図面には慈善院、養善院、円光院などの名がある。持教院は江戸期寺領、22石。現在は持教院1院で維持。 |
| 44.幡降山極楽寺 | 赤坂郡 |
縁起では、天平宝字4年(760)の開山という。当初は伊田村萱野にあったが、焼失、大治元年(1126)再建されたという。永禄12年(1569)現在地に移転。 元和4年(1618)本堂以下全焼。元禄13年(1700)再建その後焼失。宝暦7年(1757)再建。 天保9年(1838)には普門院、光明院、泉蔵院、千手院。現在は普門院のみ。天台宗より転宗し現在は真言宗御室派。20石。 本堂、薬師堂、薬師門、庫裏、仁王門等がある。 |
| 45.上地山満楽寺 | 赤坂郡 | 上地山の山上付近に創建されたとする。寿永年間(1182-85)現在地へ移転したという。盛時は20数坊を数える。元禄年間(1688-)堂宇の修理。東福坊、国蔵坊(円城坊)、明王院の3坊あり。文化年間には地蔵院、自性院、平等院、利益院あり。西塔(多宝塔もしくは二重塔)は天正年中、東塔(五重塔)は文禄年中から取り壊し保存していたが、文化12年(1815)備前妙林寺に塔株を譲ったとされる。「同年・御内意窺」。真言宗大覚寺派。10石。 |
| 46.本宮山円城寺 | 津高郡 | 現在地6Km東北東の本宮山中腹に創建される。7堂伽藍と16院坊を有すると伝える。弘安5年(1282)焼失。翌6年蓮信が現在地に再建したと云う。天保4年(1833)門前町とともに焼失。その後再建。本坊観音院、杉本坊、福蔵坊があった。文化年間までに杉本坊は医王院、福蔵坊は地蔵院に改名し、明治維新に独立し現在も存続する。現伽藍として、本堂(明和2年再建)、阿弥陀堂、
提婆宮(鎮守社)、弁財天社、山門、鐘楼、護摩堂、本坊(庫裏)を有する、昭和34年宝篋印塔(延文2年)の基壇下から高さ8Cm内外の約4000体の土仏が発見されたと云う。天台宗。20石。寛文年中遍照院訴状:一山7坊還俗。 2010/03/29追加: 岡山市(西大寺) I 氏サイト:古寺巡礼→【古寺巡礼その46 (医王院 吉備中央町)】に 寺中医王院の掲載がある。 2011/08/16追加: 以前は14の塔中を数えると云う。(東楽坊、中之坊、西蔵坊、実相坊、北之坊、畑之坊、鳴之坊、三教坊、明静坊、福蔵坊、松本坊、外二ケ坊) ウォーキングマップなどによれば、以下の坊舎跡が知られる。 鳴の坊(現在はふるさと村駐車場)、東楽坊(現在は塚本内科医院)、北の坊(現在、宝篋印塔<県文・南北朝期>がある付近)、西蔵坊(現在、西の五輪塔がある付近)、中の坊(現在の金比羅堂付近)、畑の坊(現在の二番組集会所付近) |
| 47.正保山幸福寺 | 津高郡 | 現在菅野に小湊誕生寺末の同名の寺院が存続していると思われる。松田氏により天台宗から転宗したと伝える。 「備前四十八ケ寺」平成16年:大光山妙福寺は廃寺となり、現幸福寺) 「日蓮宗寺院の調査報告 : 岡山県香雲寺・日応寺、山梨県立正寺など」:永禄2年(1559)金川城主松田氏により日蓮宗に改宗。 |
| 48.藤田山成就寺 | 津高郡 | 三重塔現存。塔は文化5年(1808)再建塔。高さ
19.7m、一辺3.4m。桟瓦葺き。二層の軒のみ扇垂木を用いる。 寺伝によると報恩大師開基備前48ヶ寺の結願の寺であるとする(故に成就寺と号する)。現在は日蓮宗であり、大覚大僧正開基(延文3年<1358>改宗)と云う。明和3年(1766)仁王門を残し全山焼失。 伽藍 仁王門 三重塔 報恩大師碑 大覚大僧正碑 塔婆写真については三重塔(江戸後期)のページを参照。 「妙圀寺諸末寺宗旨改証文(妙覚寺文書)」寛文5年(1665):「成就院、寺中慈仙坊、大林坊、学乗坊、中之坊、末寺蓮乗院、正光院、涌円坊、本住坊」とされ、同6年に中之坊・慈仙坊・学乗坊 の住僧還俗・廃寺と云う。 |
石高は基本的に「備前国四拾八ケ寺領并分国中大社領目録」(金山寺文書・文禄4年ー1595)の石高を表示。
| 報恩大師の出自: 大和説と備前説とがあり、はっきりとはしない。 大和金峯山で修行し、安禅寺多宝塔(明治の神仏分離で廃寺)創建の伝承も持つ。 その他の開基寺院 また大和小島寺に住したとも伝える。 2007/04/25追加:「岡山の宗教」より 2009/04/04追加: 2009/06/19追加: 2006年以前作成:2011/08/16更新:ホームページ、日本の塔婆
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