トピックス トップページへ戻る
前頁へ

弁護士大鹿明夫法律事務所(横浜 関内)のWebSite
http://www.ohshika.jp

1.序言 2.成人の日に 3.私の断煙法 4.交通事故と刑罰法規
5.司法試験改革や資格試験についての私見
6.法律学の学習について

6/6、 法律学の学習について   2005.01.08


           *   *   *
 法律学は、大人の学問だといわれます。ある程度の社会経験・人生経験がないと理解が困難で身に付かない特色があるのは確かです。法律学は、権利や義務といった目に見えない事象を取り扱う学問で、人間固有の文化的現象を対象としているからです。自然科学に比べると、法律学は人間社会の特有な価値的思弁そのものといった一面があります。自然科学は自然界を分析分類して物理・化学・天文・地学・動植物学・医学生理学などに分科していますが、その研究対象は純粋な事実や現象を発見しそれらにある法則や原理を究めることにあります。人間固有の性状や偏見(排除し得ないその影響や領域も厳密に調査されます。)は極力排除されますので、社会経験や人生経験が重要となることもありません。人間の五感が感ずる姿・形・色・味・臭等々は発端にはなっても真理が究明されるにつれ薄められていき、対象自体に肉薄することが研究の深化となります。自然科学系では、純然たる事実に価値をおくわけです。
法律学は、規範の学問です。人間社会が重要と認める諸価値の具現化を目指しています。倫理学は人間の美徳である真・善・美を思索しますが、法律学はそこだけにとどまらず現実の世俗の事象を取り扱います。もっとも法律学は司法制度と密接な関係がありますが、この年頭での所感は別のところにあって法律学の学習についての私なりに感ずる特色や勘所について述べてみたいのです(むろん成文法主義をとるわが国の法制のもとでは裁判や行政の実践場面での制定法の法文各条の解釈(実用法学)を学習することが中心となります。司法試験をはじめとする各種資格試験任用試験に合格するためには、まず六法全書の条文の文理を正確・厳格に読み解いて基本原則を理解し、つぎに文理解釈の問題点について縮小解釈・拡張解釈すべき例外原則を知り、さらには類推解釈による法文の補充をすべき特殊例外原則について、教科書やコンメンタールを精読して学説や判例の現状を会得する必要があります。)。
           *   *   *
 法律学は事実問題(事象)と権利問題(=法律問題)との二元的階層存在である点に特色があり、その学習の勘所は両者の次元的な違いを知り且つ両者間の交互連関操作と往来を自在になしうるようにすることにあると考えます。事実問題は五感で体得できる次元の事象ですが、権利問題はその上層の観念的文化的な想念です。法規範はこのような構造をもち、取捨選択された一定の諸事実である法律要件があれば特定の法律効果である権利義務が発生するものと命題化されます。これらは立法権者の価値判断を経てなされます。法律学習者は、事実問題と権利問題を峻別すべきで両者を混交してはいけません。近時の受験指導予備校の教材を書店等でながめるとこの弊があるようで、要領よく簡略に図解化がなされていて一見すると分かりやすそうですが一元的で平板な法理解(暗記)に堕している心配があります。昨年創始されたロースクールの目標にリーガルマインドの涵養があげられていますが、これは諸事実から権利義務を汲み上げ(法律構成)、逆に是認すべき権利義務を発見してそれに必要とされる事実関係を並べ上げる(要件再帰構成)適正な価値判断が、現行法律知識(一つの価値規準に過ぎない)にとどまることなく柔軟になしうる技能を要請するものです。法律学が大人の学問であると言われるのは、単に制定法の知識だけではなく、実社会での種々多数の諸様相を正しく把握して関係各人の立場を真に理解できるだけの社会経験と人生経験が不可欠だからです。そのためには法律学習者は、社会に眼を開いて、新聞やテレビ報道でどのような事柄がいかなる背景で問題とされ関心事となっているのか、寛容な心で取り入れて自己反省(自らの心にある従前の諸事情に対するバイアスを社会規準と比較して修正する。)のもとに論評する鍛錬も必要です。
           *   *   *
 何事も初学の頃は、戸惑うものです。法律学は、あるときは森羅万象の諸科学の成果から世間の流行風俗まで広く取り入れるかと思えば他方では法律独自の小世界での些末な論議が奥深く展開されていたりする、独特の価値観にたった観念世界といった心象を受けます。ラジオ少年にすぎなかった私も、法学部の1年生の時に初めて読んだ我妻栄著「民法総則」(岩波書店刊)で、そのあまりに無味乾燥な概念的な記述は学問だから我慢すべきものとしても、・・・法律要件は法律事実からなる、法律事実は人の精神作用に基づくか否かで容態と事件に分かれる。容態のうち外部的容態を行為といい、行為は適法行為と違法行為に分類される。適法行為には意思表示を要素とする法律行為がある。・・・などと図表的にまとめられた頁を見て、私の心にある従前からのバイアスがかかった世界観から「人類社会がこんなに単純化できるわけがない。」と大いに頭にきて進まなくなった記憶があります。現在では何の抵抗もなく簡潔明瞭な記述と賞賛できるのですが、当時は耐え難く他の教科書に移っていったことがあります。これを素直に受け入れて読み進めることができる秀才もいましたが、私は駄目でした。今考えれば、大した努力もしなかった私がすべて間違っていたと思いますが、これは別の機会に譲ります。
 法科大学院は他分野から法曹志望者を募りましたが、長く自然科学を専攻していた人々にも、法律学は取っつきにくいものと思います(腹立たしいかもしれません。)。一見、論理的に展開されている議論も数学的な厳密さはなく(法概念自体もそれほど精密ではない。)、解釈問題も論理で解決するという訳ではありません。やはり規範の学問としての価値判断が決定するという性質が前面に出てきますが、価値判断でも一定の法則があるのが次第に分かってきます。この意味から、法律学は語学の学習に似ているかもしれません。修得の早道は毎日法律漬けになって、自分の頭(思考回路)を法的な価値規準で染め上げてしまうことです。例えば論文試験の事例問題は、概して出題者は正解を期待していることが多いと思います。まず結論で正解を出せれば、出題者は○を一つ付けるでしょう。これは将棋や囲碁の定石のようなもので、一定時間の法的思考訓練を重ねれば、事例を読んだ瞬間に「まあ、こんなもんだろう。」という正解の方向が直感で見て取れるようになると思います。法律議論は、場面により、分析的でもあるし総体的でもあります。法律に毎日慣れ親しむことが肝要です。この意味では、学校や受験勉強に真剣に取り組むことも大人になるための勉強だといえると思います。
戻る

5/6、 司法試験改革や資格試験についての私見   2003.07.26

 我が国の司法制度改革の一環として、昭和24年(1949年)に始まり現在まで続いてきた司法試験制度の根幹が大きく改正されました。私は社会人となって10年目の昭和59年に、どうにか司法試験に合格できて弁護士となったわけですが、この度の司法試験制度の大改正(これ以前にも、受験生にとっては重大な試験科目の変更等の小改正がありましたが)にはかなりの疑問を感じています。
 私が最も残念に思うのは、2004年4月からスタートする法科大学院制度の導入です。これは司法試験の受験資格を原則として法科大学院卒業者に限定しようとするものです。大学院ですから大学の学部卒業者であることも前提となっています。これまでは大学の教養課程修了程度の知識の習得があるかどうか認定する一次試験に合格すれば十分で学歴は要件とされていなかったのですから、法科大学院制は学歴による受験資格の制限を設けようとするわけです(もっともこの例外として、法科大学院修了者でない者にも受験資格を認める「予備試験」制度が新設されますが、その詳細はまだ決まっていませんし、そのあり方については議論も多いところです。また現行の司法試験制度も新制度への移行経過期間中(2010年まで)は残されます。)。これまでの司法試験は、学歴も年齢も問わず広く門戸を開放して社会各層から法曹志望者を拾い上げてきた公平で民主的な世界に誇れる制度であったと思います。それだけに法科大学院制度の導入は残念でなりません。
 この度の改革理由として、大学教育を無視した受験予備校産業による一発合格が種々の弊害を生じさせているからだと主張されていますが、これまでの司法試験で能力的に問題がある人が合格していたとは思えません。ペーパー試験には運不運という一面があることは否定できませんが、所定の勉強時間(若い時代の1万時間と聞かされました。)を経ていない人が偶然に合格してしまうことはありません。面接試験もありますので知識不足とか社会的対話ができない人が最終合格することは殆どありません。合格後の司法修習期間においても適正の審査は終始行われます。
 結局のところ、第1の理由は特殊な(多分、学校課程以外の)経歴をもつ受験生の排除や大学制度の復権が隠れた本音としか思えません。私の司法修習生の時代での問題点は、合格者の高年齢化(平均27〜28歳。しかし果たして高年齢でしょうか。)と検察官志望者の極端な減少が問題とされていましたが、このことはいつの間にか問題とはされなくなってしまいました。法科大学院制度はむしろ法曹就業年齢の高齢化に直結するのではないでしょうか。
第2の理由としては、毎年3000人以上の法曹人口の大幅増員のための人材選抜や法学部以外の専門分野履修者等を養成する制度としての役割を法科大学院に担わせようとするねらいです。前者は毎年500人程度の合格者枠に押さえられていたこれまでの司法試験では有効な大量の合格者選抜の制度としての機能を果たせないと見込まれること、後者は法律以外の専門分野を修学した者(理工系の学部卒業者等)で法曹資格取得を志望する者が新規に法律学を履修するためには妥当な制度ではないかということです。
 確かに、これまでの司法試験は、面接試験以外はペーパー試験で、要するに読み書き能力を通して知識を試すという一面を否定できません。ペーパー試験の対策は、いわゆる坐学で済み独学ができます(他方、外貌や身体能力等は捨象される特徴があり、これは公平の観点からの長所といえます。)。下宿で社会と隔絶して孤独にひたすら勉学を続けるオタクぽっい暗いイメージが想像されます。しかし、私は法律学の勉強は、座学・独学が中心になるのは必然だと思います(またあらゆる学問の基本でもあると確信しています。)。我が国の法制度は、成文法主義を採用し、法文は殆ど全て文字で書かれています。これを素早く読み取る能力は、法律家として不可欠です。また現行の裁判は刑事事件も民事事件も書面中心の制度運営となっていますので(迅速に手続きが行われる限り書面主義にもかなり合理性があります。)、高度の読み書き能力が要請されています。長時間ねばり強く読み書きを続けられるという素質は、運動神経などと同じように特殊な才能であり、学歴とは無関係なように思います。また学歴による制約は、狭く厳しい極めて現実的な枠組みを設けるものです。志望ある若者にとってどうにもしようがない冷酷な現実を身をもって押し込む絶望の社会制度が学歴だと思います。家族環境や経済力がなければ、「おしん」のように学校には通えないのです。未来を担う若者に夢と希望を与えるのが、学歴を問わない国家による資格試験や採用試験だと私は確信するのです。貧しくとも意欲ある若者の夢を実現する機会を与えられる社会制度が活気ある強い国家形成の契機となるのです。
 
 もっとも既に、全国で72校(定員総数5950人)の法科大学院の設置申請が文部科学省に提出されています。入学のための選考試験も間近です。しかし、そこでの授業や教材はどのようなものになるのでしょうか。これまでの法学部の授業やゼミとどのような違いがあるのでしょうか。英米流の陪審制をにらんでハリウッドスターのような演説力や演技力を教えようとでもいうのでしょうか。
 法律学に坐学がとおるのは、権利義務という文化的で抽象的な観念事象を扱う学問である以上は致し方のないところです。また書面は、裁判に限らず、会社でも役所でも現代社会においては不可欠な存在である以上は、その迅速な読解力や書面作成能力が法曹の能力として重要であることに変わりがありません。法律学以外の専門分野の知識が法曹に必要なのは言うまでもありませんが、私が受験した時代には論文試験に教養選択科目(政治学・経済学・会計学・心理学など)があり、かなり深い理解が必要でした。そこでこれを復活させて、さらに理系科目を加えて選択制でない形にする等工夫すれば、現代型社会紛争解決に必要な自然科学知識水準を理解できる能力を審査する十分妥当な方法となると考えています。
 私は、法曹志望者の適正審査には従前どおり、大学教養課程終了(あるいは一次試験合格)+(二次)司法試験+司法修習で十分可能と確信しているのです(但し、論文試験の採点者は実務家よりも、研究者(大学教授)を中心にすべきものと考えます。実務家はどうしても論点中心の採点に傾きますが、研究者は受験者の筋の良さや理解力を読み取れるからです。)。
       * * * * *
 話は変わりますが、私は平成10年に第二種電気工事士試験、平成12年にデジタル第3種工事担任者、という資格試験を受験して合格しました。後者は筆記試験だけですが、前者には自動車運転免許と同じく技能試験がありました。電気工事や自動車運転は社会に直接の危険を生じさせるものですので、その実際的な能力があるかどうかはペーパー試験で済ますことはできず、技能試験や実地試験は実施せざるをえないでしょう。(ならば法科大学院という学歴制度がこの技能試験や実地試験に代わるものと位置づけられるのでしょうか。法学教育には実験とか解剖とかの実地演習や特殊な授業施設を要することは殆どありません。仮に、これからの法曹はOA機器に習熟することが不可欠だということで、ウィンドウズ(MS社)パソコンの操作方法の実習やその応用を授業科目とすべきだなどというのは法科大学院教育として意義あることとは思えません。では一体、法学部カリキュラムとは別個のものとして、何があるのでしょうか(マンツーマンの対話授業、話し方教室、身のこなしや演技などでしょうか。あるいは高齢化社会に適応できるように老人とのコミュニケーションの方法や介護でしょうか。)。私には、法律学の勉強とは、実定法の原理原則をしっかり自分の知識として身につけること(基本は独習)にあると考えます。このことは別の機会に、このコーナーに書きましょう。また各法科大学院において、市販図書とは別途にどのような教材を学生に提供できるのでしょうか。私が司法研修所の教育を受けて、すごいなと思ったのは、教材(現実の事件記録や裁判記録を編纂した、通称「白表紙」)の良さでしたが、あのようなものを独力で用意できるのでしょうか(弁護士会でも作製は困難です。)。)
       * * * * *
 明日27日に、全国で、電気工事士の技能試験が予定されています。そこで、私がとった技能(単位作業)試験の対策方法を少々記しておきましょう。受験される方の参考にしてください。

・ケーブルの被膜剥きは意外と時間がかかります。VVFケーブルの外装剥きは、先に必要な長さ分だけ縦に電工ナイフで裂いておいて、次にこの切れ目に合わせて心線の絶縁を傷つけないように外周を電工ナイフでぐるりとある程度切り込んでから手で剥ぐとうまくいきます。こうして露出させた心線の絶縁皮膜については、電工ナイフの刃を電線のビニル絶縁の外周にあてて、同様にぐるりと一周してやるのが早いと思います。導線の周囲に刃の傷がつくのですがそこまでは採点対象にしていないと思います。逆に、教科書にある鉛筆削り方式は時間が掛かるし、導線の表面に多数の傷をつける可能性が高いのではないかと思っています。

・コンセントやランプレセプタクルへのねじ止めのために、電工ペンチで曲げて「の」の字の輪を作る必要があるのですが、なかなかうまく丸が作れませんし、時間が掛かります。私は、まずペンチで導線を直角に曲げてから、締め付けビスの外周に合う程度の長さに導線を切断してからマイナスドライバーの先を使ってビスの外周に導線を押して巻き付けるようにしました。気をつけるのは切断する導線の長さですが、何度が練習してみると、「こんなもんだ」という勘でわかるようになり、ぴったりビスの周囲に収まるようになります。

・その他は、本に書いてあるとおりです。リングスリーブのサイズは導線の数に応じて間違えないようにすることは重要です(減点が大きいため)。完成した最後には、もう一度、回路が短絡していないかチェックしましょう。
                                                                     
戻る

4/6、 交通事故と刑罰法規」     2003・03・02

1、序 交通事故と刑罰
 刑法は犯罪と刑罰について定めた法律です。健全な社会生活を日々送っている人々には縁のない法律です。しかしながら、刑法の規定する種々の犯罪の中には、まともな社会人や学生であってもごく普通の日常生活で遭遇する条文があります。それは、刑法第211条の業務上過失致死傷罪です。車やバイクを運転していて人身事故を起こすと、この罪の嫌疑を受けることになります。
 我が国の運転免許人口は今や国民の3分の2に達し、車両の保有台数はそれを上回っています。道路は整備されどこにでも車で行けるようになりました。車は女性でも老人でも誰もが楽に運転できるように改良され、安価となって容易に入手できるようになりました。物流も人の移動も車が中心となりました。他方、歩行者や自転車のための交通施設は未整備の状況です。このような環境の中では大小様々な交通事故が発生するのも統計的な必然ともいうべきで、毎年1万人近い(月統計では1万人を越えています。)交通事故死者がでて、また重篤な後遺症に苦しむ人も多数生まれています。この由々しき事態に、交通事故の発生原因は分析されその対策が講じられてきました。死傷事故を起こしたドライバーに対する刑罰の重罰化もその方策の一つでした。今回はこの交通事故に対する刑罰について思うところを少々記すことにいたします。

2、業務上過失致死傷罪
 交通事故で人を負傷あるいは死亡させたドライバーは、業務上過失致死傷罪という刑法上(第211条第1項)の責任が問われることになります。その刑罰は5年以下の懲役もしくは禁錮または50万円以下の罰金が科せられます。「業務上」というのは、「社会生活上の地位に基づいて反復継続し行う行為で、他人の生命・身体等に危害を加える惧れのあるもの」(判例)をいいます。車の運転は、公共性のある道路を使用し、瞬時に停止させられない重量物を走行させるため、常に人の生命や身体に危険を及ぼす可能性をもつ社会的な行為であることに着眼したものです。ですから、誰が行っても車の運転である以上は業務上ということになります。ちなみに足踏み自転車はこのような危険な性質がないので、その運転は業務上ではないとされています。
 「過失」というのは、実際の運転操作で通常要求される注意を欠いて事故が起きないよう的確慎重な運転をせずに死傷の結果を招来させることです。これは他人の死傷の結果発生に対する認識まではありません。認識まであると故意犯とされます(但し、故意の要件をどう解するかは学説が分かれています。刑法典は故意の要件までは規定していないので解釈により決定しなければならないのです。)。少なくとも、業務上過失致死傷とされたドライバーには、他人の死傷を希望したり、死傷の発生しても構わない(認容)といった心理状態ではないのです。
 業務上過失致傷罪の刑法の規定は、激増した交通事故に対応するため昭和43年に改正されたもので、以前は最重でも3年以下の禁錮でしたが、これが5年以下の懲役・禁錮に重罰化されたのです。禁錮刑は、刑務所に収容して自由を奪う刑罰ですが、刑務所内で作業を強制されることはなく非破廉恥的な犯罪(政治犯など)に科されことになっていました。過失犯の処罰は例外的で、生命身体や住居など重要な利益が損なわれる場合(失火罪・過失往来危険罪など)に限られています。刑罰も罰金や禁錮で故意犯より軽く定められています。業務上致死傷罪も過失犯の一つとして同様の扱いだったのです。
 ところが昭和43年の改正は、過失犯に懲役刑を科すという異例のことで、懲役刑と禁錮刑という刑罰の本質的な区別を乱すとの批判も加えられました。交通事故という過失犯に懲役刑を科すことの合理な説明として次のようなことがあげられました(弘文堂刊・藤木英雄著・刑法講義各論204頁)。 (1)悪質危険な運転で少なくとも暴行の未必の故意が認められ傷害罪・傷害致死罪の成立が考えられるが証拠上明らかにできないケース。 (2)暴行の未必の故意までは認められないが無謀軽率を極めた道路交通上の異常な危険を故意に惹起するような運転で事故の回避が不可能か著しく困難なケース。「これらは、その実態は故意犯であって、犯人の悪性は、暴行・傷害犯人、とくに常習的暴行・傷害犯人に匹敵する。」と。
 実務上の運用でも、無免許・飲酒・過労・速度違反といった無謀運転による死傷事故や事故後に逃走したような悪質なケースについて懲役刑が選択されています。なお飲酒運転等の無謀運転は道路交通法にも違反し、違反が重なれば罰金刑では済まず地方裁判所での正式裁判にかけられ懲役刑が宣告されることもあります。これら道路交通法の定める罰則(法定刑)は懲役または罰金で、禁錮刑はありません。これらの違反運転は過失犯でなく、違反を知りながら構わず運転する故意犯だからです。それで、これら無謀運転により死傷の結果を発生させたケースに懲役刑を科して強い責任非難を加えることにそれほどの問題は生じないのです。逆に、単純な人身死傷交通事件については懲役刑でなく禁錮刑が選択されています。
 
3、危険運転致死傷罪
 平成13年12月に刑法の改正が行われ傷害の罪を定める第27章に次のような危険運転致死傷罪が新設されました。 
(危険運転致死傷)
第208条の2 アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で四輪以上の自動車を走行させ、よって、人を負傷させた者は十年以下の懲役に処し、人を死亡させた者は一年以上の有期懲役に処する。その進行を制御することが困難な高速度で、又はその進行を制御する技能を有しないで四輪以上の自動車を走行させ、よって人を死傷させた者も、同様とする。
 人又は車の通行を妨害する目的で、走行中の自動車の直前に進入し、その他通行中の人又は車に著しく接近し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で四輪以上の自動車を運転し、よって人を死傷させた者も、前項と同様とする。赤色信号又はこれに相当する信号を殊更に無視し、かつ、重大な交通の危険を生じさせる速度で四輪以上の自動車を運転し、よって人を死傷させた者も、同様とする。
 この規定については、あまり弁護士会などで改正内容を議論されることもなくすんなりといつの間にか成立してしまったような感じで、私は大いに驚かされました。むろんこの成立の前に、自動車の危険性を忘れた極めて無謀な運転による重大な死傷事故が多発して、何の落ち度もない歩行者や善良なドライバーが悲惨な事故に巻き込まれ、無謀運転者に対する厳罰を求める運動が起こってマスコミなどでも大いに取り上げられていたことは承知していました。その方向としては、業務上過失致死傷罪の法定刑が重くされるかあるいは道路交通法にあらたな罰則が設けられるかと私なりに予想していたからでした。その背景には業務上過失致死傷罪に懲役刑が加えられた前述の理解があったからでした。また刑法典は、犯罪と刑罰に関する一般法としての性格から、危険な態様での自動車運転行為という一つの特殊な社会行為(行為自体は従前より道路交通法で取り締まりの対象とされている。四輪以上の自動車によるその違反行為から死傷の結果が発生した場合の結果的過重犯を刑法典に取り込んだ形になっている。)に過ぎないものを傷害の罪の章に規定したことに、これまでとは異なる刑事立法の(いわばアンバランスな)あり方を感じたのです。人の生命身体という普遍的な価値を保護法益としていることにウエイトを置いて考えれば、このような立法方法でも良いのかもしれませんが行為態様が極めて特殊に限定されたものである点は異例です。
 この条文は、飲酒や薬物で正常な運転が困難な状態あるいは制御困難な高速度や制御技能を有しない状態等で車を走行させて人を死傷させた場合は、もはや過失事故ではなく傷害の罪として重く罰しよう(但し、故意の傷害行為から死亡の結果を発生させた傷害致死罪(205条)よりは軽く罰する。)というものです。このような危険行為は周辺の不特定の人々にいつでも暴行を加えるのと同じ状態を作出していると考えるものです。ここでは行為者の内面の心理状態よりも行為のもつ客観的な危険性を重視する刑法思想の立場を採用するものです。私は、無謀危険運転を重罰で望むことに異論はありませんが、これを刑法上の犯罪とした点には賛成できません。道路交通法の罰則として規定すべきだと考えているのです。道路交通法が行政上の取締法規だから他の法益に対する保護法規の性格を持たせるべきでないとの反論があるとしても、同法第116条が車両による業務上過失建造物損壊罪等を定めていることをみれば特段の不整合は感じられません。私は、現今の多発する交通事故は、ドライバーの道路交通法の厳格な遵守により阻止できると思います。そこで、道路交通法に違反した一定の運転により人に死傷の結果を生じさせた場合について、同法違反致死傷罪を設けるべきです。例えば、一時停止違反や徐行義務違反により歩行者や自転車運転者を死傷させた運転者に業過致死傷罪より重い懲役刑・罰金刑を科する特別規定を設けるといった立法方法です。
 なお平成13年の刑法改正では、次のような第211条に第2項を追加しました。これは検察では起訴便宜主義(刑事訴訟法第248条)として行われているわけですが、警察段階で一定の軽微な人身事故について簡易な取り扱い等の余地を認める実定法上の根拠となるでしょう。
「(業務上過失致死傷等)
第211条 業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、五年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金に処する。重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。
 自動車を運転して前項前段の罪を犯した者は、傷害が軽いときは、情状により、その刑を免除することができる。」
 
4、おわりに
人身交通事故と刑罰について一般的なお話をしようと思いましたが大分長くなってしまいました。本稿は昨年、神奈川新聞という地元紙に掲載されたコラムに、言い足りなかったところを補充したものです。要は、交通事故による人身事故の対策は喫緊のテーマですが、刑罰による対策については道路交通法上の罰則に定めるべきで、刑法典は特殊技術的な罰則の寄せ集めにすべきではなく、一般人の道義心に訴える機能を減退させてはならないと思っているのです。現在の日本は車社会の絶頂期ですが、今後はどのようになっていくのでしょうか。見届けたいものと思います。
戻る

3/6、 私の断煙方法、断煙の動機は択一試験合格のためでした」                    2003・01・31

 喫煙は、吸い始めてからすぐに習慣的となるものです。私は、大学に入学する春からこの悪習をおぼえました。喫煙がカッコ良く見えたことと(リバイバル映画で見た赤木圭一郎は実にイカしていました。余談ですが、どこが良かったかというと、赤木圭一郎が連れの男(多分、宍戸錠だったか?)と話しながら並んで夜の港街を歩きながらタバコを吸う場面で、うまく火が点かなかったシーンがありました。多分ハプニングだったのでしょうが、一瞬軽く驚いたような表情でタバコの先の火を確かめ、そのまま意に介さず前を見つめ直して話を続けながら、タバコを指に歩を進める赤木圭一郎のさりげない演技に、中学生だった私は心底シビレていました。僕もいつかは真似してやろうと決めていたっけ。)、また今思えば私だけの幻想でしたが男は大学生にもなったらタバコを吸うのは常識だというような昭和45年当時の社会風潮を感じ取っていたからでした。その夏には一人前のタバコのみになっていましたが、セブンスター、ハイライト(25本入りの大宙)、ショートホープ、チェリーと一日30〜40本は吸っていました。徹夜してタバコが切れてシケモクなどしょっちゅうでした。
締め切った狭い部屋の中は霧がかかったようで霞んで見えました。タバコとマッチ(後に百円ライター)は、どこに行くにも必携品で、いつも持ち忘れていないか気になっていました。朝起きた一服、食後の一服、散歩でパチンコ屋でトイレで寝転がってと、どれもゆったりとした至福の一時を味合うことができました。
 喫煙は、確かに肉体の健康には百害あって一利なしですが、タバコのみの極めて利己的な精神に限ってのことですが一服してしばらくは心の安定を得られる利点があるように思います。断煙した今でもこの利己的な利点は否定できません。ストレスの多い弁護士業を職業としていますと、昔を思い出して、脳幹部にまで染み渡る一服をやったらどんなに楽な一瞬が訪れるだろうと夢想することもあります。喫煙は、僅かばかりの毒素によって、精神に肉体の存在を思い起こさせるからだと思います。肉体を忘れた精神は勝手にあれやこれやと空想して思い悩むことが多いのですが、喫煙は精神に肉体を通した実在世界による思考の枠付けを与えてくれて、感情による色づけを廃して澄み切った理性の眼が開かれて正しい判断が得られるように思うのです。救いを求めでジタバタする精神を落ち着かせて冷静な推理と判断をタバコの煙の香りと成分が可能にするように思うのです。しかしこれはタバコを吸っている当人の内心世界だけの出来事であるのは明らかなのですが、それがもたらす現実との妥協というか融和というか、現実世界が暖かく優しく感じられる安らぎが得られるのです。これが喫煙のただ一つの利点だと私は考えています。スポーツ中に肉離れを起こして歩けなくなったのにタバコを吸っていた知人、あるいは病んで生まれた幼子が遠方の病院で治療の甲斐もなく夭逝し返されたその骸を片手で抱きながらも落胆した友人はさてどうしようかとそれでもタバコを吸ったとのことでした。喫煙が精神を現実と妥協させてくれ、保守的にしてくれるのは、自分の指に挟んだ実在としてのタバコが吸った瞬間にやはり実在である肉体に幸福感を与えてくれているからです。一日に何本も吸うタバコのうち、本当にうまいタバコを吸ったときには、この世に生きているだけで十分に幸せだとつくづく感じさせてくれたものでした。「煙草と悪魔」を書いた芥川龍之介や両切りピースをばかばかと吸った三島由紀夫ら少年文学から始まった観念小説家らの心情が、私には分かるような気がします。
・・・タバコを止める話をするつもりが、いつの間にかタバコを礼讃することになってしまいました。しかし私にとって、タバコはこれほど親密なものだったのです。幼子の骸(むくろ)を抱きながらタバコを吸った友人は、その己の醜悪な姿を想像して自分が嫌になり断煙したと話してくれました。首なし事件や八海事件で有名な正木ひろし弁護士も愛煙家だったのですが、髑髏(どくろ)がタバコの煙を吸っている夢を見て気味が悪くなってタバコをやめたとその著書「夢日記」に書いています。
 私もタバコが私の現実逃避の心的な隠れ家になっているのを感じて次第に嫌になっていましたが魔力に勝てませんでした。しかし、司法試験の択一試験にこのままでは永遠に受からないと感じたのが断煙を決心した一番の理由でした。択一試験は3時間の長丁場なので、私はどうしてもその間2回はタバコが吸いたくなり、その度に中座していましたので時間が不足し集中力も欠くため合格ラインに達しませんでした。
 断煙には苦労しました。タバコは私の人格を構成する重要な要素なっていましたので、断煙は人格改造ですらあったのです。何度か禁煙に失敗しましたが、どうにかこの20年間一本も吸わずにこれました。

       *    *    *    *    *    *
私の断煙法は、走ることです。現役時代の長嶋茂雄選手が新年を迎えた除夜の鐘を合図にピタッと止めてしまったそうですが、私は実行日を決めたら早朝に起きてすぐ走りました。4kmも走るとかなり苦しくなりますが、どうにか走りきると汚れた肺も清浄化されたような気持ちになりタバコを吸おうという気持ちがしばらくは起こらなくなります。起床して一本でも吸ってしまったらその日は、いくら走っても駄目です。止めたその日に、また吸いたくなってきますがそのときはまた走ります。2〜3日の間は禁断症状でとても苦しいのですが、走り込んでやれば乗り切れます。仕事や授業があると難しいのでお盆やお正月などまとまった休暇が取れる時期を選びましょう。1週間経つと肉体的な苦しさはなくなりますが、今度は吸ってみたいという精神への誘惑が出てきますのでまた走って苦しい思いを身体にさせてやります。この精神的な喫煙願望はかなり長期に渡るもので手強いクセ者です。1月程度では駄目です、1年でもまだまだです。最低3年間一本も吸わなければどうにか断煙成功ということでしょうか。10年経っても夢の中でタバコを吸ってしまい同じ夢の中で反省している自分を発見することがしばしばありました。肉体的苦行と精神的苦痛を通り抜けなければ本当に止めることはできないと思います。ニコチンパッチとか禁煙ガムとかの薬剤の安易な利用では精神的な苦痛に耐えることはできないのではないかと思っています。

  その後、NHKの「ためしてガッテン!」という科学的実用番組で、禁煙についての放送がありました。その中で、タバコのみの脳は器質的な変成が生じていて、(図説的な意味だとは思いますが)脳に鍵穴が出来ていて、喫煙によりタバコの成分(この成分がどのような経路で脳に達するのかまでは、この放送ではなかったように思います。肺から血流に乗って脳関門を通って鍵穴に達するというのでは時間が掛かりすぎるようにも思います。なぜなら、一服目を吸った瞬間から効き目が発生する感覚だったからです。)がその鍵穴に嵌り込むことによりうっとりとした気分にさせるといった化学的なメカニズムがあるとのことでした。またこの変成した鍵穴は、一生直らないとのことでした。いつまでも、タバコが忘れられないのはこのためかと合点しました(2003・07・26加筆)。

  禁煙も断煙も一本のタバコが勝負です。たった一本でも吸ったら負けです。一本吸うのも耐えるのも全ては意志のなせる業です。走ることも自由な意志の選択です。
意志の力は人間に与えられた重要な特質です、自然の因果関係を絶つこともできるのです。 今回は、この位にしておきましょう
戻る


2/6、 成人の日に−-「タバコや酒はのんでも、のまれないこと
」                    2003・01・13

 本日は、成人の日でした。全国で152万人の若人が成人式を迎えたそうです。まずは、おめでとうございます。私は、20歳をとっくに越してその2倍半以上を生きてきましたが、その頃のことは今でもよく覚えています。思い起こせばほんの少し前のことのようでもあり、逆にその時間に応じた種々様々な出来事あったようにも思えます。成人を迎えた諸君は、これから就職や結婚子育てといった人生の大きな節目が控えています。20歳は人生のほんの入り口に過ぎません。我が国の将来は諸君らのこれからの活躍にかかっています。これから体力も気力もますます充実して頂点に向かうでしょう。
成人式というと、酒とタバコの解禁が象徴とされています。有り余る諸君らの生気はこれら嗜好品がもつわずかばかりの毒素などものともしないでしょう。しかし、ここで老婆心ながら、これらについての注意を申し上げようと思います。
 酒もタバコもとっくにやっているという人もいるかもしれませんし、これから少しずつたしなもうと考えている人もいるでしょう。しかし何事でも初めがが肝心です。人生の先輩として諸君に言っておきたいことは、諸君が生まれて初めてくわえたタバコに火をつけるとき、傾けたグラスから酒を口にするとき、その瞬間の心構えについてです。「酒もタバコも、のんでものまれるな!」ということです。最初の1本、1口の心の持ち方です、「俺は(わたしは)今からこれをやるが、俺はいつでもこれを止める覚悟がある。」という自由な意志による決断です。社会の習俗だからやるんだというのは、習俗の束縛のもとでの決定というべきで自由ではありません。このような決定が好ましくないのは引き返すことが難しいからです。酒やタバコは、やめたいなと思うことが必ず一度はあります。始まりが自由意志によるなら、意志による終わりも可能だと考えています。喫煙や飲酒は悪癖になりやすく、その習慣を絶つのは強い意志が必要です。
 私もタバコを止めるのにかなり苦労しました。23歳頃に止めようと思いましたが、何度か失敗の末30歳になる前にはどうにか終えることができました。この絶煙方法については、別項で記すことにします。でも大学生になって、初めてタバコ(ルナという国産タバコで、次が今も売っているセブンスター)を1本吸おうとしたときにいつでも止めてみせるという気持ちで始めました。その後に続いた人生の疾風怒濤時代でタバコはすっかり私の肉体の一部となっていました。
 飲酒について、諸君に提言したいのは、「酒はゆっくり時間をかけて飲もう」ということです。酒は口に入れてもすぐ嚥み込まずに良く味わってゆっくり飲みましょう。うまいと感ずるのは喉あたりまでで,ビールのテレビコマーシャルのようにゴクゴク飲んでいるのはうまそうですが、味を感じるわけではありません。問題なのは嚥み込んだ後のアルコール吸収をコントロールするのは難しいことです。仕事で刑事事件の弁護をすると大抵の事件で飲酒が絡んでいます。酒の上の事件は多いのです。事件にならなくても酒の上の失敗を大抵の大人は体験しています。セーブして飲んでいても、酔ってくると知らないうちにハイペースになってしまい自己制御できなくなるから怖いのです。決めた時間内でゆっくり飲みましょう。
成人の飲酒・喫煙は、緩やかな害毒の摂取という一面がありますが、社会で一応許されたことでそれ自体は一定のルールの下では違法なことではありません。飲酒や喫煙はこのような社会的に許容された害毒のいわば象徴として取り上げたわけです。要は自由な意志による自己決定がこれから諸君は成人として要請されていることを飲酒と喫煙を例にして示したかったものです。
戻る

1/6、 はじめに                        2003・01・01

 平成15年、新年明けましておめでとうございます。
インターネットは情報収集の手段として、近時の高速ネットの普及にともなって、ますます日本の社会にしっかりと定着して参りました。殊に昨年はADSLの高速化に各ネット企業が大いなる競争を繰り広げ、目を見張るばかりでした。大鹿法律事務所も遅ればせながら、ウェップサイトを開設することといたしました。作成にあたりましてはアプリケーションソフトに添付の画像素材あるいはインターネット上で公開され ているもののお世話になっています。ありがとうございます。
 さて、このトピックスのコーナーでは、テレビや新聞報道での時事的な話題や弁護士として法律実務に携わって日頃感じた事柄、あるいは思いつくままに読書の感想とか趣味とかのことを書き綴ることとしました。仕事上の文章は日常いろいろ苦労して作成しますが、仕事を離れて一般の方々向けのコラムを書くことは本職ではありませんのでどのようなものになるか分かりませんが、このコーナーだけはでき限りいつも新鮮な状態にしたと考えています。
戻る