☆降星伝説
 それでは、下松市が「星ふるまち」と呼ばれることになる、伝説を紹介しましょう。
 595年推古天皇3年(17年説もあり)、9月18日、周防国
鷲頭庄青柳浦(わしづのしょう・あおやぎのうら)にある松の大木に突如星がおり、七日七晩輝きました。里人は不審に思い、巫女に星の精を呼び出させたところ、「我は北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)である。これから3年後、百済(くだら)の国の琳聖(りんしょう)太子が、聖徳太子に合うために来日されるので、お守りするためにやってきたのだ」と語ったといいます。
 星の予言通り、推古5年、琳聖太子は来日し、聖徳太子に会われました。この不思議な星の話を聞いた琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、日本で初めての星祭りをおこなった、とされています。そして、星が松に下った霊地として、青柳浦は下松と呼ばれるようになったと伝えられています。
 なお、琳聖太子は、多々良姓を賜って日本に帰化し、後に西国一の大名になる大内氏の祖先になったという話もあります。
 降星伝説は、『大内多々良氏譜牒』という書物に見え、他に『妙見縁起』、『鷲頭山旧記』など、大内氏関係の書物に述べられています。また、1786年天明6年には、『妙見菩薩霊応編』という書物が、京都・大阪・江戸で出版され、この降星伝説が、様々な霊験譚とともに、広く紹介されています。

(なお、下松の地名の起こりについては、百済の国への風待ちの港だったことから、「百済待」あるいは「百済津」と呼ばれていたものが訛ってくだまつとなり、下松の字を充てたという説もあります。いずれにしても、百済の国が関わっていることは、興味深く思います。)
☆降星伝説の検証
 このように、美しい降星伝説ですが、個々に検証してみると、少し無理があるようです。
 まず、地上に達するほどですから、普通の流星ではなく隕石になると思いますが、残念ながら地上に落下する頃には燃え尽きていて、七日七晩光り輝くということはありません。
 また、それほどの大隕石が落ちたのなら、他の地方にも、その目撃談があるはずなのですが、残念ながら無いようです。中国の開皇5年戊申(585年)9月23日に、オリオン座流星群の出現というのが一番近いのですが、ちょうど10年ずれていますし、流星群とは関係ないだろうから、少なくとも公の記録には残っていません。
 それに、大内氏が琳聖太子の末裔であると名乗るのは15世紀のことで、「譜牒」もそのころ書かれたものですから、800年も経ってからの記録になり、信憑性は薄いと言えるかもしれません。
 しかし、元々下松の地は、大陸との交通の要衝にあり、早くから北辰妙見信仰はおこなわれていたという説があります。下松は、鷲頭氏という一族の領地で、後に大内氏に滅ぼされるのですが、そのときに相手方の信仰である妙見信仰を取り入れ(山口市氷上山の妙見社は、下松妙見社を勧請したものである)、琳聖太子の子孫であることを正当化するために、このような伝説を作り上げたということも考えられると、『下松市史』は記述しています。
 いずれにしても、細かく検証していくと分の悪い降星伝説ですが、全国の市町村の地名の起こりの伝説として、これほど美しい話は少ないのではないでしょうか。私は、こんなすてきな伝承を語り伝えてきた我々の土地のご先祖に敬意を表し、星が降りてきたという、少し不思議な物語を、素直に信じたいと思っています。
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