METROPOLITAN MANDOLIN ORCHESTRA

第11回演奏会

第11回演奏会 公式チラシはこちらです。

1.日時

2000年9月2日(土) 18:00会場 18:30開演

2.場所

カザルスホール<お茶の水スクエア内>

3.指揮者

小出 雄聖

4.マンドリン独奏

佐藤 洋志
プロフィール
1968年東京都三鷹市に生まれる。中学時代にクラシックギターを手にし、クラシック音楽に目覚める。慶應義塾志木高等学校でマンドリンクラブに入部、マンドリンを始める。高校3年時には、全国高等学校ギター・マンドリンフェスティバルで最優秀賞である朝日新聞社賞を受賞。大学時には、JMJ主催第51回青少年音楽祭に参加。今村能氏のもとでコンサートマスターを務め、好評を博す。このころから、慶應義塾志木高等学校や跡見女子短期大学マンドリンクラブなどで指揮や編曲活動を行い後輩の指導にあたる。93年には、跡見女子短期大学マンドリンクラブのOG団体であるエバーグリーン・マンドリン・アンサンブルの第2回演奏会にて、ベルッティ「ハンガリアの黄昏」のソリストを務める。メトロポリタン・マンドリン・オーケストラには第2回演奏会より参加、以降ほとんどの演奏会でコンサートマスターを務める。このほか、マンドリニスト青山忠氏が主催する「クリスタル・マンドリン・アンサンブル」や「ささざきゆづると奥多摩くゎるてっとドットコム」などで活動中。マンドリンを遠藤隆巳氏に師事。

5.曲目

アルバン・ベルク(笹崎譲編曲)/ヴァイオリン協奏曲
クロード・ドビュッシー(笹崎譲編曲)/歌劇「ペレアスとメリザンド」より
○モーリス・ラヴェル(笹崎譲編曲)/ラ・ヴァルス − 舞踊詩
−アンコール曲−
○ガブリエル・フォーレ(笹崎譲編曲)/組曲「ペレアスとメリザンド」より「前奏曲」

6.楽曲解説(庄山 恵一郎)

アルバン・ベルク(1885〜1935)

ヴァイオリン協奏曲(1935)

新ヴィーン楽派の3人、シェーンベルク(Arnold Schoenberg 1874-1951)、ヴェーベルン(Anton von Webern 1883-1945)、ベルクの中でも、ベルクは、もっともドイツ=オーストリア文化の伝統の上に成り立っている作曲家だと言えるでしょう。彼らは19世紀末の後期ロマン派から出発し無調音楽に至り、3者3様のスタイルで12音技法を開拓していきます。用い方によっては非人間的な要素があるこのテクニックを利用しながらも、ベルクの作品は濃厚なロマンとあたたかい人間性に溢れています。初期の習作を除けば50年の生涯にわずか20曲程度の作品しか残しませんでしたが、そのいずれもが20世紀音楽史に燦然と輝く最高傑作であることは、多くの人々が認めています。本日お届けするヴァイオリン協奏曲は、今世紀のみならず古今東西のヴァイオリン協奏曲の中で、もっとも感動的な音楽であるといっても過言ではありません。

ベルクは、20世紀オペラの記念碑的作品「ヴォツェック」に続く2作目の歌劇「ルル」の作曲に1928年から着手していましたが、1935年アメリカのヴァイオリニスト、ルイス・クラスナーからヴィオリン協奏曲の委嘱を受けます。実はこの年、ベルク自身とも親交があったワルター・グロピウス夫妻の娘、マノン・グロピウスが18歳の生涯を閉じたのです。このグロピウス夫人の名前はアルマ。1911年グスタフ・マーラーと死別したアルマ・マーラーです。(詳しくはこちらのMET10thマーラー第10交響曲の解説参照)ベルクはマーラーの熱烈な支持者でしたし、現在ではマーラーの精神的な後継者といっても良い部分があります。マノンの死はベルクに大いに影響を与え、「ある天使の思い出に」という副題がつけられたヴァイオリン協奏曲は、1935年に一気に書き上げられ8月には完成をされました。しかし、その年の12月24日クリスマスイブに腫瘍がもととなる敗血症にてベルクも息を引き取り、歌劇「ルル」は第3幕のオーケストレーションを残して絶筆となったのでした。ヴァイオリン協奏曲はベルク自身のレクイエムともなってしまったのです。

さて、ヴァイオリン協奏曲冒頭の12音音列はト短調・ミ長調・イ短調・ホ長調と、短三和音と長三和音を交互に積み重ねていくように組まれており、全曲が無調でありながら調性感の強い性質を持たされています。同時期にかかれたシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲の無調感とは、こういった点が性格を異にしています。また音列最後の4音は増四度の全音音階「悪魔の音程」であり、同音程を用いたバッハのカンタータ第60番「おお永遠よ、汝おそろしき言葉よ」の終曲のコラール「われは満ち足れリ」を引用する事により、より音列に意味を持たせることに成功をしています。
それぞれ2部からなる2楽章構成であり、第1楽章の前半(アンダンテ)はABA、後半(アレグレット)はABCBAのシンメトリックな枠組みを持っています。第2楽章前半(アレグロ)は独奏ヴァイオリンの特徴的なカデンツァを中心とするシンメトリック構造であり、後半(アダージョ)はバッハのコラールの引用と変奏から成り立つと解釈できます。全般に渡って・調性感と無調感・精神的と感覚的などの対立する概念の対比が特徴的な楽曲です。全曲の結尾部では、死の浄化を暗示する特徴的な和音(マーラー「大地の歌」最終楽章「告別」の引用)が鳴らされ全曲を閉じます。

クロード・ドビュッシー(1862〜1918)

歌劇「ペレアスとメリザンド」より(1893-1902)

 近代フランス音楽の巨星ドビュッシーは、学生時代からワーグナーに傾倒していたことが知られています。しかしながら管弦楽と声がとめどもなく張り合い音楽と詩が幾重にも説明を加えていくおしつけがましいまでの雄弁なワーグナーの作品にやがて過度と重圧を感じ、ドビュッシーはワーグナーを超えたところのオペラを目指し始めるのです。メーテルリンクの戯曲「ペレアスとメリザンド」は、「すべてを語りつくしてしまわずに、作曲家の夢が詩人の夢に接木されることを許すような」台本を探していた彼にとってうってつけでした。1893年「ペレアスとメリザンド」の上演を観てから早速にメーテルリンクに作曲の許可を取りつけますが、1902年の初演まで約10年間に渡って推敲を続け、「海」「映像」「前奏曲集」といったドビュッシーの主要作品が続々と生まれていく円熟期へとむけた前半生の代表作となりました。
なお、「ペレアスとメリザンド」には時期を接するようにしてシェーンベルクの交響詩(1902)・フォーレの劇付随音楽による組曲(1989-1901)・同様のシベリウスによる組曲(1905)がかかれている事も、広く知られています。 

ドビュッシーのこの歌劇は全5幕15場よりなりますが、原作はわずかにカットされただけで、ことさらテキストを大切にされています。全幕ともアリアや重唱はなく、各場面はオーケストラの間奏曲で結び合わされます。そのオーケストラもフォルテシモで鳴り響くのはほんの数ヶ所で、ほとんどはフランス語の言葉の響きとニュアンスを大切にした、朗唱風の歌唱で展開されていきます。ワーグナーの代表作「トリスタンとイゾルデ」の愛と復讐の物語と近いテキストを持ちながらも、これを乗り越えたドビュッシーの独自性が発揮されたものと言ってよいでしょう。 
この歌劇には登場人物や場面の主題や動機が効果的に用いられ、劇の進行を語っていきます。本日は冒頭のゴローとメリザンドの出会いから終幕のメリザンドの死までを、4楽章からなる組曲としてお届けいたします。
○第1曲・第1幕より
 ・狩の最中で道に迷ったゴロー公は、泉のほとりで泣いている金髪の少女メリザンドと出会う。その素性は明確にあかされず、大きな運命に委ねられたかのようである。ゴローはメリザンドを妻として宮殿へ連れて帰る。
○第2曲・第2幕より
 ・ゴローの異父弟ペレアスとメリザンドの間にやさしい友情が生まれる。庭園の泉でペレアスと会っていたメリザンドは、誤ってゴローから受けた指輪を泉に落としてしまう。指輪をしていない彼女を、ゴローは疑い始める。
(第3幕・・・ペレアスとメリザンドは徐々に恋に陥る)
○第3曲・第4幕より
 ・ペレアスは家を離れる決心をする。泉のほとりで最後の夜の逢引。闇の中で二人は固く抱擁しあい、音楽は高潮してゆくが、ゴローに発見されてしまう。全曲でわずかのフォルテシモ。ゴローは踏み込んでペレアスを剣で刺し殺す。傷をつけられたメリザンドは逃げていく。木々の間を追うゴロー。全曲でわずかしか出現しないフォルテシモで曲を閉じる。
○第4曲・第5幕より
 ・赤子を産んで、死の床につくメリザンド。ゴローは自分の罪を確認しようと不幸であったかどうかをメリザンドに尋ねるも、明確な返事はされなかった。ひっそりと彼女は息を引き取る。メリザンドの遺体を残して、舞台に人影はいなくなる。音楽はディミニエンドしていき、嬰ハ長調主和音を残して消えていく。大きな力の中で生きる人々の、架空の国アーモンドでの物語である。

モーリス・ラヴェル(1875〜1937)

ラ・ヴァルス − 舞踊詩(1919-20)

20世紀初頭のパリで、音楽や舞台装置が踊りと同等の重要性を持つ総合芸術としてのバレエを次々にプロデュース、一躍センセーショナルな話題を提供していた人物がいます。それがロシア・バレエ団を主宰するディアギレフでした。彼らによる初演作品は近代バレエの金字塔であるストラヴィンスキーの「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」や、ドビュッシーの「遊戯」、ファリャの「三角帽子」といったそうそうたる作品が並びます。「ラ・ヴァルス」も1919年にディアギレフの依頼によってかかれた作品ですが、演出家としての彼は、バレエとしての舞台効果を心配して初演を拒否し、このバレエ団で取り上げる事は無かったといいます。1912年にラヴェルの代表作「ダフニスとクロエ」を生み出しているこの二人は、以降ともに仕事をすることもなかったそうです。結局この曲の初演は演奏会形式で、1920年12月12日ラムルー管弦楽団にて行われました。バレエにては、1928年イダ・ルービンシュタイン氏のバレエ団によって、同バレエ団がラヴェルに委嘱した「ボレロ」とともに、パリ・オペラ座にて初演されています。

この曲のタイトル「ラ・ヴァルス」とは、もちろんワルツそのものの意味です。ラヴェルはこの曲の楽譜に以下のようなことばを書き記してあります。「渦巻く雲の切れ目から、ワルツを踊る人々の何組かがきらめいて見える。雲は次第に晴れていき、広大なホールの中で、ワルツを踊り旋回する人々と群集の姿がはっきりと見えてくる。ホールは徐々に明るくなり、シャンデリアの光は燦然ときらめく。1855年頃の宮廷である」。さながらヨハン・シュトラウスばりのウィンナ・ワルツ賛歌のようですが、第一次世界大戦直後の時代背景を考えると一筋縄ではいきません。熱烈な愛国者だったラヴェルは自ら軍隊に志願をしておりました。既に第一線の作曲家に対して軍部は丁重に断りを続けましたが、彼の熱意に動かされ、ラヴェルは病院の看護兵として入隊を認められたのです。その後、彼は自動車輸送隊に志願し、輸送トラックの運転手として砲煙の中を働いたと言われています。戦争が終わったのは1918年。既にストラヴィンスキーは「火の鳥」「ペトルーシュカ」を発表、新ウィーン楽派の活動は最も活発化していた頃でした。古き良き時代のウィンナ・ワルツは、あくまでも夢の中。ラヴェルの目の前には、何が見えた事でしょうか。

さて、本曲は序奏部、7つのエピソードと移行部からなる提示部、展開的な性格を含んだ再現部からなると解釈できます。混沌とした音の塊の中から主要旋律の原型が断片的に現れ、やがて旋律としての形を整えていきます。甘美なワルツ主題がはっきりと提示される頃には、冒頭の無調からこの曲の中心となるニ長調に落ち着き、きらびやかな舞踏会の様子を描き出します。これらのワルツ主題はそれぞれ関連しあい、全曲の統一感を演出します。後半部には特徴的な無休動のように旋回する旋律が、ひたすらクライマックスに向けて突き進んでいきます。音楽は高揚をし続け興奮が頂点に達した瞬間、突如として崩壊、カタストロフのごとく曲を閉じます。舞踏会は雲の中へと消え去るのです。

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