マンドリンオーケストラについて思うこと 2001年

この年はJMJの話題を多く取り上げてきましたが、手元に当時の資料が全てそろっているわけではございません。また私の在任当時の記述であり、近年の状況とは異なっているかもしれません。記憶を頼りにはしておりますが、記述に誤りがあるやも知れません。お気づきのことがございましたら、どうぞ私までご一報ください。


2001年12月22日
CDが発売されてから1週間たちました。おかげさまで多くの方からお問い合わせをいただいており、たいへん感謝しております。7つの作品が収められているのですが、どれ一つとして同指向の作品がないことを、皆様のご感想としてよくうかがいます。私たちはアルバムのタイトルに「虹色機関T」と付けました。もちろん収録曲の曲名でもありますが、個性の異なる7作品を指し示す意味を込めたのでした。ジャケット・デザインも、必然的にああなったのです。
後で知ったのですが、虹の7色はviolet, indigo, blue, green, yellow, orange, redですけれど、英米人はindigoを数えないで虹は6色と考えているんだそうですね。輸出するときには、再考しないとならないかもしれませんね。(笑)

2001年12月15日
本日は私たちの公式CD「虹色機関T◎現代日本マンドリン・オーケストラ作品集」が、全国で発売される日です。購入できるお店など、詳しい情報は、こちらを参照ください(メトロポリタン・マンドリン・オーケストラ CD情報)。ここ数週間、昼間のお仕事(私は会社勤めの人)と、CDプロモーションとで、かなりヘロヘロです。でも、きっと今までに無い画期的な作品集が完成したと、喜んでおります。お近くに販売店がない節には、MET事務局で申込も受けつけておりますので、是非ご連絡ください。その場合は、こちらのページの申込フォームをご利用ください。
たくさんの方々に聞いていただけるよう、心から願っております。どうぞよろしくお願いいたします。

2001年11月25日
いよいよ私たちのCDが、形になってまいりました。ジャケットデザインやブックレットの文章も最終入稿が終わり、後は製品ができあがってくるのを待つばかりです。リリース日は12月15日に決まりました。このところCDのプロデュース業でクタクタだったので、ようやく一息といったところです。すっかり日記もごぶさたして失礼しました。あっ、本業の会社のお仕事もしてたんですよ。関係者にカン違いされると困りますからね。
私たちのCDブックレットの國土潤一氏の文章に、田中信昭氏の話が出てきます。たしか東京混声合唱団の方だと記憶しているのですが、武満徹氏の合唱のための名編曲「さくら」は、田中氏がきっかけを作ったのだそうです。武満氏の合唱曲は、とても美しいんですよね。寒い季節がやってくると無性に聴きたくなることがあります。「うたうだけ」「○と△のうた」なんか、とてもハッピーになって元気が出ますよ。

2001年10月27日
ああ、やっと今週が終わったと思いながらくたびれて帰宅。このところお酒も飲んでいないのに終電が続いて、ぼっーと地下鉄の中吊り広告を見ておりました。おお、ユニクロのフリースの季節になったか。おや、この広告でフリースを着ている外人は・・・スティーヴン・ホーキングでは!?
確かサンシャインプラネタリウムだったかしら、彼の「熱力学的」時間の矢による膨張宇宙論を知ってから、ビックバン宇宙論にのめりこんだ時期がありました。そのころ「ホーキング宇宙を語る」という本が結構なベストセラーになったんでした。これ、相当難解な本だったんですよね。ニュートン力学の復習をして、読み直したことをおぼえております。元気そうな彼の姿を見られて、ちょっと感激しました。
あなどれじ、ユニクロ。

2001年10月21日
今日は結婚披露宴にお招きをいただきまして、いそいそと出かけてまいりました。目黒川沿いにモダンなビルが立ったなあと思っていたのは、雅叙園だったのね。今まで知りませんでした。1階のトイレは実に面白かったです。東京トイレ100選に入賞するのではないかと思われます。ところで男性用トイレのウォシュレットに女の子ボタンがついているのはどうしてだろうと、酔っぱらった頭で考えながら帰ってまいりました。スピーチも楽器演奏も予定にない披露宴はけっこうお気楽で、クピクピ水割りをいただいていたらだいぶまわりました。考えてみるとそうそう昼間からお酒を飲む機会はないですもんね。いやーこのところスペクタクラーな毎日でしたので、すっかり頭が痛くなりまして、フラフラで失礼します。
後輩の結婚式って、なんか初々しくていいもんですね。私、自分の計画では来年頃に第1子をもうけているはずだったんだけれどなあ。まあ、独身じゃどうしようもないですね(笑)。人間のキャラクターはとても複雑で、どんなに長く付き合っても初めて知る顔が見えることがります。夫婦というスタイルで、生い立ちも異なる血が繋がっていない他人と生活が始まれば、きっとそんなことしょっちゅうあることなのでしょう。そんな出来事があったときに、新しい発見をしたとどれほど喜べるかが、家庭を作っていく喜びなんじゃないかな。愛している人のことなら、なおさらのこと。これは自分が思うだけではなく、相手にも思われるくらいじゃなくちゃね。たくさんの人たちと関わりないながら生きていく日々の中で、最小限のユニットである自分の家庭は、互いのことを信用しあえるパートナーと作っていきたい。このユニットを作っているのは、他のまわりの誰でもなく、たった一人の自分とたった一人のパートナーなのですからね。まだまだ夢見ているのかな。家庭を築いたすべての人々に、心からお祝いを申しあげたいと思います。

2001年10月18日
METはプロフィールで「1986年首都圏の各大学マンドリンクラブ有志により結成されたアマチュアマンドリンオーケストラ。」と名乗っているのですが、学生団体と思って勘違いされる場合があることがわかってきました。検索エンジンのカテゴリに、「学生マンドリンクラブ」に登録されていることもしばしばございました。現在も活動をMETで続けているメンバーが学生時代に最初の演奏会を開いたという意味で、今彼ら(私も含めて)30代半ばをちょいと越したくらいになりました。もちろん社会人マンドリン・オーケストラです。現役の学生もおりますが、過半数以上は社会人でございます。
どうぞお間違いの無いように。

2001年10月9日
久しぶりに、じっくりとお休みさせていただいた週末でした。近くのスーパーではブドウの特売をしておりまして、巨峰を買ってまいりました。そうそう、この甘さ。たまには果物も食べなければいけないですね。この味、忘れていました。せっかくだから何かブドウにちなんだ音楽をと思い、記憶をたどったのですがアルバン・ベルクの「ぶどう酒」しか思い出せません。CDをかけながら食べてみたものの、これは今イチでした。

2001年10月5日
毎週新幹線で、出張に出る日が続いています。本日はこのままお休みさせてください。(多いなあ、このパターン)
若井こずえ・みどりを思い出していたら、お気軽とお気楽を間違えました。こっそり訂正済みです。>意味わかるかしらん。さとー様。

2001年9月30日 (2)
第12回演奏会のご感想を、いろいろな方々からいただき始めております。ここで感謝の意をこめて、Webにご掲載いただいているページをご紹介させていただきます。
「ちょっちのホームページ」「演奏会レビュー」「まるまがじん」「音楽的日記」:01年9月22日(99年9月4日に第10回のご感想もいただいております。)●「Cla」の「Broken Radio」9月22日●「こぐま工房」の「日々雑記」:9月23日●「じゃわじゃわホーム」の「じゃわじゃわ日記」9月23日
演奏会として、こうして生のご感想をいただけることは何よりもうれしいことです。皆様、大変ありがとうございます。

2001年9月30日
演奏会が終わってちょうど1週間たつわけですが、まだ何となく気持ちが落ち着きません。会社の仕事はいつもどおりあわただしく進んでいくのですが、先週は気持ち的に流して進めてしまった感じかしら。(スミマセン)今週は編集作業の立ち会いもあったせいかもしれませんね。その編集作業については「はむらぼ企画」のお気楽日記にも、詳しく書かれています。
さて、こうして私自身がホームページを開設した時から、委嘱作品を音として聞きたいというご要望を多くいただいてまいりました。むろん自分たちの私的な記録としての音源はあるのですが、広く皆様にお届けするには不充分な点もあります。一つは著作権に関係する対応のこと。もう一つは初めて手にした作品の演奏の完成度のことです。作曲家が書き記した作品を、私の演奏で評価を下げてしまうわけにはいきません。METで委嘱してきた作品は、いずれも作曲家の個性が発揮された充実した作品です。初演作品を演奏することは、作曲家が創作に望むときと同様の集中力が必要になるのです。これを解決するためには、相応の時間をかけた企画と、満足できるレコーディング環境が必要でした。
今回のレコーディングを通して、CDというものは演奏者のみならず、レコーディング・ディレクター、レコーディング・エンジニア、マスタリング・エンジニアとの共同作業であることが、実感できました。私が愛してやまないレナード・バーンスタインが、後年のレコーディングのほとんどがライブ録音であったことが思い出されました。演奏会での咳きこみなどのノイズを除去したり、編集作業で解決した要素がこの録音にはあります。しかしながらこれらの演奏は、すべてメトロポリタン・マンドリン・オーケストラによるものに相違ありません。完成したデモ音源を聞いていますと「ああ、この部分はこう演奏するべきだったな。」など、今更ながらも汗が噴き出す瞬間がこの録音にはあります。それとて、9月22日の私たちの演奏であります。演奏家である私は謙虚にこれを受けとめてさらなる努力を続けたいと思いますし、一方スタッフとしての私は、充実した作品集を作製できた文化的意義と、カザルスホールの美しいホールトーンの中でマンドリン・オーケストラを捕らえられた録音を、素直に喜びたいと思います。
Digital Recording されたこのCDは、2001年12月初旬に全国発売される予定です。正確なスケジュールが固まりしだい、このホームページ上でご報告いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。

2001年9月27日
ということで、CDマスター音源編集に行ってまいりました。予想どおりくたくたになりました。でも、いい音でとれてますよ。これからライナーノートなど、紙媒体の作製に入ります。気がついたら月末なので、会社のお仕事もちょっと大変そう。今度は週末にでも、ご報告させていたきます。ではまた。ぐー。

2001年9月25日
明日はビクタースタジオで録音の編集に立ち会い。スコア持参で、1日じっくりとなる予定です。けっこう胃が痛くなるような日になりそうな気がいたします。そんなわけで今日はもう寝ます。詳しくはまた明日。ぐー。

2001年9月24日
いやー、演奏会の後が連休で助かったーってな感じです。正直なところ、なんかまだボーっとしております。明日からまた仕事が立て込んでいるんですよね。ふーっ。
今回の演奏会で私のお気に入り度が急浮上した作品が「カント」なのです。「第12回演奏会を語る!」にも書いたのですが、ちょっと類を見ないような作りをしています。冒頭から噴き出すようなフォルテシモの歌、カット・アウトされ曲調が変わると思いきやさらにテヌートの強烈な音楽が続きます。聴き手の期待を巧みに裏切り、ロマンティックな性格も失わない(このへんは私のことばより「まるまがじん」にてずばり本質が語られています。)。初演の際は曲の完成にちょっと時間がかかって部分的にスコアをいただいたりしたので、頭の中によくスコアが入っていなかったのか自分が良くわかっておりませんでした。
でもね、テヌート・フォルテで充分楽器を鳴らすためにネックを握りつぶさんがごとく力強く弦を押さえていたので、昨日あたりから左手の人差し指と中指の関節がなんかはれているような変な感じです。後遺症かしらん(笑)。

2001年9月23日
昨日、第12回演奏会にご来場いただいた皆様、いろいろと開催までにお世話になった皆様、誠にありがとうございました。無事、演奏会を終了する事ができました。午前中からレコーディング・セッションが続き、独特のピリピリした様子の中で演奏会本番をむかえました。集中力が続かないかと思いきや、お客様のパワーに後押しされて、それなりに満足いく内容となりました。
この私たちがたずさわって来た作品を皆様にお届けができる録音としてまとめることは、私の数年来の目標でもありました。編集作業やジャケット、ライナーノート作製など、まだこなさなければならない仕事は残っているのですが、まずはほっとしたところです。しかしながら、正直なところ30代も半ばを過ぎてくると生活や仕事に追われることが多く、つらいところも多くありました。スタッフとして解決していかなければならない課題に、演奏者として解決していかなければならない課題がプラスされて、この1ヶ月、本当にきつかったです。家で練習しているときには問題なくても、どういゆうわけか人前では指が上ずったり、部分部分に決して満足できたわけでもありません。自分自身の演奏者としてのプライドは、こういったところにあるのだなあと実感しております。オーケストラのメンバーは、皆が良い仲間でもあり、ライバルでもあります。自分のこの気持ちが続く限り、演奏者としての態度で音楽にのぞむことを忘れまいと強く感じたのでした。
終演後はいつものようにカザルスホールのホワイエで立食のレセプションを行ったのですが、ご来場いただいた國土潤一氏から、委嘱された作品をただ1度の命とせずに再演し、録音し、新しい命を吹き込むと言うことの尊さや素晴らしさについて、あるいは北爪道夫氏からは、音楽に取り組む姿勢にはプロフェショナルもアマチュアも区別なんか一切ないんだ、という言葉をいただいて、大変感激いたしました。
ご来場された皆様は、どのような感想をお持ちいただいたことでしょうか。お気づきなことがあれば、何でも発言していただけたらうれしく思います。これからも音楽には懸命に取り組んでいきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

2001年9月21日
おお、21日!明日の9:00AMには、もうカザルスホールへ行かねば。スコアとパート譜を見直していると、時間もあっという間です。何せ明日の演奏会は、本当に濃い内容なんです。演奏者も気力体力とも充実していないと、倒れちゃうんじゃないかしら。今回はレコーディングも兼ねた演奏会ですから、必然的にこうなったのですけれど。
それだけに、なかなか実現できないプログラムだと思います。それぞれの作曲家が個性的に取り組んだ作品が並びます。是非ともご都合がつかれる方は、ライブでの演奏会をおすすめいたします。視覚的にも興味深いものがあるはずで、1度演奏している自分たちを見てみたいとも思うものです。
プログラムもさんざ悩んで決めた曲順に配置しています。どうぞ開演の18:30から、じっくりと通してご鑑賞いただけるとうれしいです。お客様にも体力が必要かもしれませんから、空腹では答えるかもしれません。軽くおなかをうめておいていただいて、終演後はゆっくりとお食事いただけると、充分にお楽しみいただけるかと思います。
当日券も発売を予定しておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

2001年9月17日
いよいよMET12thの練習がすべて予定を終了いたしました。この週末は5人の作曲家の方々に練習におこしいただけまして、バテバテにくたびれた反面、大変充実した時間でした。作曲家にいろいろな話しをうかがうことは、とても勉強になります。
後は本番で形に表すのみです。これからの1週間のすごし方で、演奏の良し悪しが決まってしますのですね。パート譜とスコアを読み比べるだけでも、演奏が変わってくるものです。いささか、「火事場のなんとか力」のような演奏会の迎えかたは改めなくてはと思っているのですが、この力も馬鹿にできないものがあるんですよね。
皆様とカザルスホールでお会いできることを、願っております。

2001年9月9日
プロフェッショナルな音楽家たちと演奏ができることが、なによりのJMJの魅力でした。
どうしてもマンドリン音楽は、知っている人たちだけが知っている世界です。学生だった私から見れば、何年も同じような作品が演奏会のプログラムに並んでいる印象が強かったです。作品の方向性もどうも似ている。私は学生の頃から、マンドリン・オーケストラの世界に外側から刺激を与えたいと考えていました。そして、マンドリン・オーケストラの独特の魅力を、広く一般の音楽ファンにも伝えたい。
山本直純氏との競演は、願ってもいない機会なのでした。
私は日本の音楽家の中で、山本直純氏は最高の音楽家の一人であると思っています。マンドリン・オーケストラという特殊なアンサンブルで、どのような音楽を展開するか、大変な期待をしておりました。この企画は数年にわたり準備を進めていたことでもあり、OKがとれたという連絡を後輩から受けたときは思わず祝杯をあげたほどでした。ただ正直に申しあげると、プログラムは私の期待から遠いものであったことが残念です。どうしてこうなったのか、不思議に思っています。(このあたりは多分に趣味の問題があるので微妙なところですが、私はポップスコンサートだっと考えております。)
さて山本氏の練習は、それはそれはスリリングで緊張感があふれるものでした。「ここのギターのアルペジオ、あっさりしていてつまらないからコードをもっとばらして派手に弾いて。」「メロディーが曇っちゃうな。マンドラは半分の人がオクターブ上げて弾いて」「この休符は無視して、声を張り上げろ!」「民族音楽なんだから、ウッドブロックはもっと派手に。指揮者の前で叩いて見るか。」「そうだもっと楽しく演奏しろ」
うわさ通りの暴れん棒ぶりを発揮されていましたが、音楽を読みきっていなければこんな指示は出せないことです。演奏効果がどうすればあがるかを熟知された、大変なエンターティナーでした。練習後はみんなで氏をお酒に誘い出し、たくさんのお話をききました。私はなにせ当時は姫路まで帰らないといけないために、深夜長距離バスの時間があってとことんまでおつきあいできなかったことが残念です。酔っぱらいながら、こんなことをおっしゃっていたことを覚えています。「いつも君たちはこういう音楽をしているのか?タキシード着て演奏するものではないな。いっそ民族衣装でも着て演奏したらどうだ。」
音楽の楽しみ方には様々な形があって、さらには作品に相応しいアプローチがあることを、改めて教えられた演奏会でした。この時から自分の考え方が落ち着きはじめ、METのベースが確立したのは翌年からなのでした。
第57回青少年音楽祭(1990年7月1日NHKホール)
作曲者 曲目
藤掛廣幸 Tre Pick Prelide (初演)
シルヴェストリ ノスタルジー
イワノフ(帰山栄治編曲) シベリア狂詩曲
山本直純:ジュネス・ミュジカル・マンドリン・オーケストラ
プーランク スターバト・マーテル
プロコフィエフ 交響曲第5番
高関健:ジュネス・ミュジカル・マンドリン・オーケストラ、合唱団
この演奏会をもって、私の音楽活動の主体は、メトロポリタン・マンドリン・オーケストラに完全に移ったのでした。今年で活動をJMJが休止するとの話しを聴いて、今までの感謝の気持ちから思いを書き綴ってきましたが、シリーズは、思い出深いこの演奏会までとしたいと思います。

2001年8月21日 (2)
87年の「第51回:青少年音楽祭」は今村能氏の指揮で「カンナ/村祭り」「ファルボ/田園写景」「チェルライ/チャルダーシュ」を取り上げました。JMJコンサートとはうって変わって、牧歌的でハッピーな作品が並びました。比べてみてもとてもシンプルな作品で、さんざトレーニングをした後だけに自分なりの演奏イメージがすぐにできあがりました。個性を盛り込もうと思って少々いじりすぎた演奏をオーディションでしてしまったのですが、許容範囲が広い審査員(確か遠藤隆巳氏)のおかげで、無事マンドラパート首席を仰せつかりました。
NHKホールで弾いた「村祭り」のソロは気持ち良かったなあ。VTRを見ると顔がにやけていてちょいと気持ちが悪いんですけれども。ちなみにこの時のコンサートマスターで、全曲ソロを弾いていたのがMETのコンサートマスターでもある佐藤洋志さんです。
これで思い残すことは無くなりました。翌年3月にとうとう4年間で大学を卒業してしまった私は、入社した会社の配属で大阪支店勤務を引き当ててしまい、OBとしてJMJに参加することもないだろうと思っていました。しかしたとえ深夜バスで通ってでも、出なければいけないニュースが飛び込んできました。私が現役の委員の頃から願っていた、山本直純氏がマンドリン・オーケストラの指揮台に立つことが決まったのです。

2001年8月21日 (1)
私にとってこのJMJコンサートは強烈な体験でした。音楽の世界の広さの豊かさ、幅広さ。この時の録音を聴きなおすと、随分若い表現を自分がしていてやや恥ずかしくなる感がありますが、当日のステージの感動を思い出させてくれます。まぎれもなく、アンテナが磨かれた日なのでした。
ちょうどこの頃から、私はマンドリン音楽のことを「瓶の中の世界」という表現を使うようになりました。これほどまでに感動的な音楽の世界があってその特質も方向性も楽しみ方も異なる作品があるのに、自分が演奏してきたマンドリンは自ら世界を閉じて同じような方向性の同じような楽しみ方をする作品だけを取り上げ、音楽の変化に鈍感になってしまったのではないか。この考え方が現在までの私の活動の基本にあるのです。
またとない機会を与えてくれたJMJに感謝しつつ、後輩諸君に委員を引き継ぎました。無事、私も大学生活4年目に4年生に進級できたところで、JMJでやり残したことをするために翌年の青少年音楽祭のオーディションを受けます。それはパート首席をとることでした。

2001年6月11日 月曜日
1986年に発行させれた「季刊ジュネス」があります。第12回JMJコンサートのために編集されたものですが、この中に指揮者の小出雄聖氏とオーケストラのメンバーとのインタビューがあります。当時の事ですからやや色あせて聞こえることもありますが、現在でも思うところがある言葉が多いため、以下に転載してみたいと思います。
―マンドリン・オーケストラを振られたときの印象は、いかがでしたか?
―楽器によって音楽が随分違うよね。フレット楽器だからそこのところ凄くむずかしいと思うけれど、何とかしないとねえ。楽器の設計から見直して、音程のいい楽器を作っている人もいるようだから、楽器を弾く側も楽器の音程に注意を払った方がいいよね。初心者にはありがたいフレットも高度になってくるとそれが逆に禍することがあるよね。
―ところで今回の選曲ですが。
―まず僕は、マンドリン・オーケストラがよくするコンサートの構成、つまり短い曲を一晩にたくさんするような演奏会には慣れていないし、どうもしっくりこないんだよね。所謂クラシックのコンサートのような構成でプログラミングを考えたんだ。そうするとオリジナルではまず曲の長さがたりないよね。アレンジするにしてもフル編成の管弦楽曲ではマンドリン・オーケストラの編成では音色感が全然違っちゃうでしょ。管楽器をこれに加える方法も行われているようだけれど、両者の音色はとても合わせる事が難しい。だから不自然なアレンジに陥らないという点で弦楽合奏の名曲を取り上げようと考えた。さて、何故よりによってこの曲なのか。(笑)
マンドリン奏者にとってはそれはマンドリン的な、つまりその世界で有名な作品に最も愛着を感じるだろうだけれど、そういった作品は今までに十分演奏しているでしょ。今回もそういったものの中から選曲したとすれば「音楽する」ことの喜びの振幅がすごく狭められると思うのね。だって管弦楽ではバロックから現代音楽でも何でもやっちゃう訳でしょう!その違いは、確かに管弦楽の方が機能的にもフレキシビリティだから当然かもしれないけれど、「音楽する」という創造の世界では、マンドリニストだってギタリストだってヴァイオリニストだってピアニストだって、皆、豊かな創作意欲を持っている訳だよね。そしてそういう能力は曇らせないで、何時も風通し良くしておかないとね。
人から見ると不可能なことへ挑戦して気張ってるみたいに見えるかもしれないけれど、錆び付いたアンテナを磨くことも必要でしょう。ギタリストの山下和仁さんなんかずっと前からやっているよね。そして彼は本当に名手だから聴衆の感性まで磨かれるよね。
今回の難曲にどこまで技術的に食い下がれるか聴く方もハラハラするだろうけれど、これを乗り越えようと練習することで皆の音楽的美意識が浄められるんだからすごく幸せだよね。だってこんなにロマンティックで対位法的でしかも半音階的な作品はマンドリン・オーケストラの世界になかったでしょう。
―「ブランデンブルク協奏曲第3番」についてもお話いただけますか。
―何かバロックをやろうという中で、いくつかの候補作品が上がったけれど、それなら本命のバッハがいいよとなったんだよね。ブランデンブルク協奏曲の6曲の中から、さっきの理由で管楽器が無い曲を選ぶと3・5・6番だけれども、マンドリン族の爪弾く奏法には3番のテーマがピッタリだと思ってね。そしてギターがチェンバロ的な役に回ると上手くいくでしょ。ただ3楽章をテンポで弾くのはむずかしいよね。弓が使えれば一弓で弾けてしまうところも、マンドリンでは右手を猛烈にカタカタ動かして、左手と完全にタイミングを合わせて、しかもそれを何気なくレガートでやんなきゃならないんだからホント大変なことだよね。(笑)
―マンドリンではオールダウンで弾けるところはオールダウンが良いとされているような感がありますが、3楽章では八分音符をダウン・アップ・アップと弾くことにしましたね。これは僕たちにとっては意識革命みたいな感じでした。
―リズムに内在している、例えば強−弱−弱というのを全部同じ動きで表そうとすることの方がむずかしいと思うよ。だって全部下に打ち付ける感じになってしまうからね。それなら慣れていないかもしれないけれど、ダウン・アップ・アップと弾いた方が、慣れてくればやりやすいんじゃないかな?人間の生理に合っているから・・・。擦弦楽器と同じ効果を追求すること事態マンドリン的では無いと言われるかも知れないけれど、曲によってはそうせずにはいられないよね。
―ではボッタキアリの「夢の魅惑」について
―これはマンドリン界にポピュラーなという皆さんの希望の中から選ばれたんだよね。曲の構成がシンプルでそれでいて味のある曲、そしてオリジナルの曲だからね。オリジナルと言えば池辺晋一郎さんの新曲、すごく楽しみだよね。マンドリン的でなおかつ斬新な曲って期待されているでしょう。(この時点ではまだ曲が完成していませんでした)
マンドリンの今あるオリジナル曲は、クラシックでいうと一昔や二昔前のスタイルだよね。それにマンドリンの世界には、例えばストヴィンスキーの「春の祭典」のような作品が生まれて、世の中に大センセーションを巻き起こしたというようなことがおそらくないでしょう。とにかく今、マンドリンの曲を書く人が大変少ない。歴史的に見ても、作曲家は常に演奏家の、聴衆の感性を磨いてきた訳だから、マンドリン界にもそういう作品が必要だね。力のある優秀な作曲家が意欲的にマンドリン・オーケストラの作品を書いてくれるといいと思うよ。
―最後にJMJの先行き、またマンドリンに携わる人たちに、どういったことを期待されますか?
―楽器はあくまでも「音楽する」ことへの道具・媒体だから、マンドリンやギターだけじゃなく広く音楽に接していったもらいたい。楽器を弾くことに満足してしまって表現意欲が失われているようなケースがあるかもしれないからね。このコンサート1回限りのことではなく、少しでも皆の新しい意識が生まれていってくれることを期待しています。

2001年6月10日 日曜日
この第12回JMJコンサートの練習は、想像以上に大変でした。マンドリン・オーケストラが多く取り上げている作品は、多分に保守的でシンプルなものが多く感じられます。演奏するだけで充分な効果があります。しかしこの時のプログラムは、テクニカルに弾ける弾けない、指が回るとかいうものよりも、別な世界を求める作品が並びました。
作品を読むということ、解釈をするということの、ほとんど初めてに近い体験でした。
一般にマンドリン・オーケストラは、指揮者に向かって左側から1stマンドリン・2ndマンドリン・マンドラ・マンドロンチェロ・ギターと並びますが、時としてこれをバラバラにシャッフルしてアンサンブルの練習をしたことがあります。パートを聴き合い、作品の構成を頭に入れる上で効果がある練習方法でした。
また、指揮者とトレーナーと私たちとの間で、演奏方法をめぐり時としてかなりの激論を交えながら、演奏会を作っていきました。
マンドリン・マンドリアーレは池辺氏の個性を充分に発揮した作品で、新しい音楽との出会いの喜びを私たちに教えてくれました。
メトロポリタン・マンドリン・オーケストラは、私にとって、この時の経験が形を変えて生まれてきたものなのです。

2001年5月5日 土曜日 (2)
委員会では物議を醸し出しましたが、NHK音楽芸能部の担当から「■■■■■■■の◆◆とは面白い。マンドリン部門は多いに挑戦してみたらどうだい」と承認され、正式にプログラムに決定しました。こうなると残った選曲のイメージが沸いてきました。
プログラムの開拓へのダイレクトな方法は、新曲を委嘱する事です。この年のJMJコンサートの目的は、外に開いた活動です。ですからマンドリン音楽を書いたことが無い作曲家に、その作曲家が感じるままに自由にマンドリン・オーケストラの作品を書いてもらう必要がありました。委員会から数人の作曲者名をあげて私たちの考え方をNHKに伝え、受けていただける作曲家をNHKにさがしていただきました。この際、私は一つだけ条件を追加しました。特定の調性によらない、場合によっては無調の音楽であること。従来のマンドリン・オーケストラのための作品とは、明かに方向性を変えたかったです。こうして生まれた作品が池辺晋一郎作曲「マンドリン・マンドリアーレ」でした。
モダンな作品が並んだので、原点のバロック風作品とバランスを取る。バロック風作品であれば、これもダイレクトに本物を取り上げる。そして従来から親しまれている、イタリアのマンドリンオリジナル曲と組合わせてトータルのプログラムが完成しました。バッハ「ブランデンブルク協奏曲第3番」、ボッタキアリ「夢の魅惑」でした。こうして充実した作品が並んだ演奏会の形が出来上がりました。
一方で、マンドリン部門は今までに経験した事が無いような、高いハードルを持ったプログラムとなりました。他部門からの注目が集まる中で、委員会の運営も再考する必要がありました。オーケストラや合唱では当たり前に導入されていたトレーナー制度を、初めて採用する事を決めました。今までのマンドリン部門には、こういった発想をする機会もなかったように思います。しかし今回は幅広い音楽体験を持ったプロフェッショナルな音楽家と、ともに演奏会を作り上げてい必要があるプログラムだったのです。これもNHKの協力を得て、ギターは鈴木巌氏に、マンドリンは遠藤隆己氏の協力をあおぐ事ができました。

2001年5月5日 土曜日(1)
適当な練習時間をコントロールした「第49回:青少年音楽祭」は、好評の内に終える事ができました。互いに音楽感を共有できた小出雄聖氏をJMJコンサートの正指揮者として招く事も、委員会でも満場一致で可決されました。この時私たちJMJ委員が目指したJMJコンサートは、可能性の開拓でした。3年に1度の当番でまわってくるJMJコンサートは、管弦楽団の仲間にも、合唱団の仲間にも、NHK職員にも、そして広く一般の音楽ファンにも、マンドリン・オーケストラってこんな表現ができるアンサンブルなんだと、見せるための場にしたい。恵まれた環境にあるのですからそれを充分に活用しなくてはもったいないですし、私は目立ちたがりですから、自分たちだけの閉じた世界にはとてもいられません。幸いに学生の私たちにとって時間は充分ありました。しかし、作品が持っている力で適当な練習時間が決まってしまうことも勉強しました。私は悩みに悩んで適当なアイデアが出ないまま、最初の小出氏とのJMJコンサートの選曲打合せに望んだのです。
それは雨が降る日、上野駅の東京文化会館側改札口2階のレストランでした(駅舎は改装されて今はもうありません)。「実は、マンドリン・オーケストラで是非取り上げてみたいと思っている作品があるんだ」と小出氏。自分では行き詰まっていたところでもあり、指揮者が演奏したい曲があるというのは何より助かるのです。ちょっとほっとした私は「お考えいただいていたとはうれしいです。それは何ですか?」「■■■■■■■の◆◆なんだけど、知っているかい?」「!!!!!知ってます・・・・・・・・・」
ちょうどこの頃は、デジタル録音の発達とともにカラヤンとベルリンフィルが次々と歴史的な録音を行っていた時代です。当時話題を集めたレコードで、新ヴィーン楽派の管弦楽曲集のセットがありました。私もこれを購入し、なんとカラヤンはレパートリーが広いんだろうと驚き、その充実した内容にも驚いていた頃でした。私のコンテンポラリー音楽の原体験でもありました。ですから。■■■■■■■の◆◆はよく知っていました。でもね。私はどうやらプレーヤーとして接する音楽と、リスナーとして接する音楽を勝手に自分で線引きしていたようでした。この日は小出氏とビールをジョッキでぐびぐびし始めてしまったため、気も大きくなって音楽談義で盛りあがり「何とか考えてみます」くらいのことを言って別れてから、その曲の輸入スコアを買って帰りました。
翌日二日酔い気味で目覚めた私は、初めてスコアを見ながらレコードに針を落としました。恥しながら、スコアからも落ちました。すっかりしらふになった私は、盟友の笹崎氏に電話をします。(この辺は「ささざきの歴史」に詳しい。)これがマンドリン・オーケストラ音楽の可能性の旅の第1歩になりました。

2001年3月20日 火曜日
かくして荒谷俊治氏を正指揮者、小出雄聖氏を副指揮者として迎えた「第49回:青少年音楽祭」の練習が、来るべき「第12回JMJコンサート」を見据えながら始まりました。既に運営は私たちの世代のJMJ委員に任されておりました。従来とは違った取り組みを実現していこうと考えておりましたので、マンドリン部門の審査員は竹内郁子氏に依頼をしました。また、学生の私たちにとってはまたと無い機会ですから、練習が終わるたびに指揮者を誘っては、楽団の仲間とともに、音楽談義をしに夜な夜な渋谷の街に消えていきました。酒の力をかりながら、マンドリン・オーケストラができる事を真剣に語り合ったことを覚えています。何故この楽曲を選曲したのか、どのように解釈するのか、今日の練習の意図は、その成果は。
音楽祭の練習は5月ごろから毎週日曜日、午前中は分奏、午後は合奏というパターンで、のべ10日ほどあります。荒谷氏と数回の練習を済ませた6月ころのこと、休憩時間中に私は荒谷氏に相談を受けました。「予定の練習時間はまだ2時間近くあるけれど、この後、全曲を通して終わりにしてみないか。」「翌週の練習は休みにしてみないか。」ということでした。すぐさま委員で確認を取り、問題が無い事を確認した上で休憩あけに私から今後の予定の変更を楽団に伝えました。理由は、練習に飽きてしまいそうになっていたからのです。この日も練習が終わり次第、有志たちが荒谷氏を取り囲むようにして、飲みに出かけた事は言うまでもありません。
これまでも同じ楽曲ばかりを練習していると、飽きてしまった経験はありました。しかし、学生のクラブの場合は練習日に休む事は罪な事です。いっそ練習を間引いてしまう事は、私は想像もしたことがありませんでした。この日の出来事は、私の演奏家としての考え方に大変な影響を与えたのです。飲み会では、練習に飽きることとはどういうことなのかというテーマを、飽きることも無く語り合い続けていました。
そしてこの時、秋のJMJコンサートが目指す方向性は、委員たちの間におぼろげながらも共有されたのです。

2001年3月19日 月曜日
通常JMJの1年間は、夏の青少年音楽祭、秋のJMJコンサート、新春の若い芽のコンサートの運営に明け暮れます。「若い芽のコンサート」は、将来を期待される我が国の若手新人演奏家を広く紹介し育ててゆくことを目的として、NHK交響楽団の協力を得てJMJが運営していました。指揮者の小林研一郎、大友直人、松尾葉子、十束尚弘、ヴァイオリンの千住真理子、天満敦子、安永徹、漆原啓子、漆原朝子、チェロの山崎伸子、藤原真理、ギターの山下和仁、ピアノの清水和音、小山実稚恵・・・(あげきれなかった方々、ごめんなさい)各氏といった現在も第一線で活躍されている演奏家の方々にNHK交響楽団と競演する機会を作り、その模様は教育テレビでも放送されていました。全面的にNHKの方々によって組み立てはされていきましたが、自分たちのちょっと先輩くらいの方々の演奏に接し、またコンサート本番の受付や運営に携わりながら、得るもの多かった行事でした。残念な事に既にこのシリーズは、休止されて久しくなりました。
青少年音楽祭はマンドリン・オーケストラ:合唱:管弦楽、3部門のジョイントコンサートですが、各部門がローテーションを組みそれぞれ単独で行う演奏会がJMJコンサートでした。担当する委員会が全面的な企画を請け負いますが、他部門の委員会も運営をサポートします。まさに私がマンドリン部門総務を勤める86年度は、JMJコンサートをマンドリン部門が担当する年だったのです。前回のマンドリン部門のJMJコンサートは82年の第8回JMJコンサートでしたから、85年の第11回JMJコンサートがマンドリン部門でも良かったはずなのですが、なんらかの事情で1回ずらしたのです(記憶が定かではありません。おわかりになる方ありましたら、私までご連絡ください。)。
JMJマンドリン部門会員が期待して待っているだろうJMJコンサートをどのようなものにすべきか、当時の私の頭の中はそれでいっぱいでした。私はJMJ活動の活動は、様々なプロフェッショナルな指揮者と演奏ができる事が最大の魅力であると考えていました。既にジュネス・ミュジカル・マンドリン・オーケストラの指揮台に立った方はまだ6人だけ、荒谷氏が7人目になる予定でしたから、競演したい指揮者は沢山ありました。一方で、JMJコンサートはマンドリン部門だけの演奏会ですので、じっくりと情熱をもって、かつマンドリン・オーケストラに興味をもって取り組んでいただける指揮者を選ばねばなりません。先輩委員が企画した「第8回JMJコンサート」(82年12月23日)は久保田孝氏の指揮、ソリストとしてピアノの大森晶子氏を招き、私は録音でしか聞いていませんが、大編成の特徴を生かした久保田氏の個性が発揮された演奏会でした。(当時の資料が見つかりました。参考にこの時のプログラムを以下の表にまとめました2001/08/21 )しかしJMJの場で同じ指揮者と演奏会を持つことは、当時の私たちの考えにはありませんでした。
誰に指揮台に立ってもらうかによって、演奏会の特徴が決まります。比較的練習時間を共有しやすい若手の指揮者を中心に議論を続けた中で、ある社会人マンドリンオーケストラで指揮をしていた指揮者に委員会の注目が集まりました。高校時代から5年程に渡る私のマンドリン・オーケストラの経験の中では思いつかなかった楽曲が並んだその団体のプログラムは、私の興味を大きく引きました。新しいマンドリン部門の演奏会は、ひょっとするとこの指揮者とつくれるかもしれない。しかし委員会がJMJコンサートにかけていた情熱には大きなものがあり、議論もしすぎていた節もあって、簡単には決断できませんでした。ずうずうしいながらも、私たちJMJ委員で実際に競演してみて、それから判断しても遅くないだろうという結論に達しました。NHKにも私たちの気持ちを理解していただき、青少年音楽祭の副指揮者として彼を招くことにしたのです。
第8回JMJコンサート(1982年12月23日昭和女子大学人見記念講堂)
作曲者 曲目
第1部 久保田孝 祝典のための序曲
ミラネージ 主題と変奏
ラッタ 英雄葬送曲
第2部 アレクサンドロフ=帰山栄治 コンチェルト・ファンタジー
第3部 ベルーティ 黄昏語る時
エルドマン モヴィメンティ1973
ボッタキアリ 誓い
アマディ 降誕祭の夜
アンコール マスカーニ(久保田孝編) 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲
モンティ(久保田孝編) チャルダーシュ

2001年3月13日 火曜日
ジュネス委員は、主に大学3年生を中心に活動しておりました。とはいえ学外で、プロフェッショナルな音楽家やNHK職員といった社会人と活動をしていくわけですから、甘えた活動をするわけにはいきません。現役の委員の活動ぶりを見ながら勉強と引継ぎを兼ねて、2年生の内から委員会に顔を出し始めることが一般的でした。オーケストラ部門は任期を2年間としていた団体も多くありました。私がクラブで正式に次期ジュネス委員として認められ、委員会に出席し始めたのが85年の冬頃と記憶しています。しかし当時のマンドリン部門13団体の中では、最も遅い次期委員でした。
この時、翌86年「第49回:青少年音楽祭」のマンドリン部門指揮者は、既に荒谷俊治氏に内定しておりました。残す課題は選曲でした。音楽祭で指揮をしていただく先生は、まずマンドリン・オーケストラは初めての経験です。興味を持っていただき、後々の記憶に残る演奏をしたい。また、教育テレビでも録画放送されますし、合唱やオーケストラを聞きに来る聴衆にマンドリン・オーケストラの存在感をアピールする格好の場でもあります。予め委員会で本番で取り上げたい楽曲の候補をあげ、過去の演奏会や他部門の予定楽曲などからバランスを見て、マンドリン・オーケストラの個性が発揮できるプログラムを考え、意見を持って指揮者とジュネス委員の顔合わせに望みます。こうしてこの年のプログラムは「ラウダス/ギリシャ風主題による狂詩曲」「藤掛廣幸/グランドシャコンヌ」に決まりました。
私は委員会に参加しながらも、この時、音楽祭のプログラムにはあまり強く関心を持っていませんでした。立ち回り的にも、先輩ジュネス委員の仕事を勉強している時期で、私たちの代が中心となるのは翌年度になる事もその理由の一つでした。当時の私にとって、ことさらの関心事は、86年秋が予定されているJMJコンサートでした。

2001年3月12日 月曜日
85年春、青少年音楽祭のオーディションの時期がやってまいりました。ようやく私も先輩から募集要項をもらう事ができました。課題曲は「ベルーティ/前奏曲:黄昏」「チェルライ/シエナ組曲」でした。オーディションを受ける以上、そうそう落ちるわけにもいきません。練習しているうちに、この時は結果的にはオーディションまでに暗譜をしてしまいました。それでもNHKのスタジオで審査員と数名のJMJ常務委員を前に一人で楽器を弾くことは、大変に緊張を覚えました。合否連絡の電話をもらうまで、ドキドキしていたものです。
この時が「第48回:青少年音楽祭」(85年7月7日)で、マンドリン部門の指揮者は久山恵子氏、合唱部門「ブルックナー/テ・デウム」オーケストラ部門「プロコフィエフ/交響曲第5番」でともに指揮者は外山雄三氏でした。
久山恵子氏は女性指揮者の草分け的存在で、、斎藤秀雄氏のもとへ指揮の勉強に小澤征爾氏や山本直純氏と一緒に通っていたエピソードが、小澤征爾・山本直純両氏の著作でもよく紹介されていました。始めてのジュネスに練習に参加した私は、副指揮者と最初の練習から胸をときめかせながら楽器を弾いていました。オーディションを受けた人たちですから当然なのですが、最初の合奏から滞り無く音楽が進んでいく。学生仲間との練習では思いもつかなかった指揮者の指摘や、解釈の説得力。幸せな時間でした。
JMJの演奏会を振る指揮者たちは第一線で活躍している方々で、全ての練習にいらしていただくことは難しいため副指揮者をたてることが多かったです。学生の管弦楽団では一般的な方法ですね。副指揮者は、ただ年齢が若いというだけで、素晴らしい音楽家の方々をNHKがアテンドしてくれました。この時から遡ると山下一史、大野和史、梅田敏明、etc...。改めて本番も振っていただきたいですね。
 久山恵子氏は小柄な方ではありましたが、長めの指揮棒から流麗でかつ歯切れの良い音楽を引き出す方でした。確か本番は暗譜で指揮をしてしたのではないかしら。あっという間の数ヶ月で、気がついたら打ち上げも終わって渋谷ハチ公前で楽器を弾いていたのでした。(音楽祭終演後の伝統で、各部門がかわるがわる本番の曲目をここで演奏していったのです。近年、交番のおまわりさんが厳しくなって、109前に会場を移しました。(^^ゞ)
実はこの年、オマケがありました。JMJはジュネス・ミュジカル・ワールド・オーケストラを日本に招いたのです。おりしも「つくば科学万博 EXPO’85」が開催されている時でもあり、国連が設定した国際青年年の行事の一つとして組み込まれたのです。つくばで2回・NHKホールで1回の演奏会を開き、岩城宏之氏の指揮のもと「ベートーヴェン/交響曲第9番」「黛敏郎/BUGAKU」「ストラヴィンスキー/火の鳥」「チャイコフスキー/交響曲第6番」などを演奏しました。この内「第9」にジュネス・ミュジカル合唱団(つまりJMJの合唱部門)が参加しました。オーケストラと、マンドリン・オーケストラはこの公演の前日、つくばEXPO’85エキスポプラザにて、特別演奏会を青少年音楽祭のメンバーで実施する事になったのです。それぞれプログラムは音楽祭とがらっと入れ替え、マンドリン・オーケストラは引き続き久山恵子指揮で「フィリッパ=中野/還俗修道士」「ブーシュロン/スペインの印象」、オーケストラは円光寺雅彦指揮で「ワーグナー/マイスタージンガー第1幕への前奏曲」「ムソルグスキー=ラヴェル/展覧会の絵」でした。
本番は8月6日、夏真っ盛りの時でした。屋外ステージでただでさえ熱い所で、ステージ後方のオーロラビジョンからさらに熱が降り注ぐような気がして、すっかり興奮した演奏になってしまったような気がします。(*_*) しかし行き帰りは皆でバスに乗って、まるで遠足気分。空いた時間にパビリオンをダッシュでまわったり、楽しい思い出でした。各学校のクラブには、大なり小なりカラーはあるものです。学外での演奏活動の楽しさを、私はとても楽しんでいました。もちろん人との出会いということもあるのですけれど、学外でなければ取り上げられない作品や、アプローチの仕方があることに、大変な興味を覚えたのです。この日、私は心に決めたのです。「ジュネス委員になろう」
まだまだつづく。

2001年3月8日 木曜日
私がJMJの存在を認識したのは高校3年生の時のことでした。高校入学時からマンドリンクラブに入部していたのですが、大学でもマンドリンクラブを続けている元楽器商で現在行方不明のOB(ホントは行方はわかるのだろうけれど。スミマセン)から、TVでマンドリンオーケストラをするから見てみろといわれて「第43回:青少年音楽祭」(83年7月3日)という番組をNHK教育TVで見ました。知っているOBがちらほらとステージにのっているではありませんか!目立ちたがりの私は「出たい!」とだけ思ったのでした。
ちなみにこの時の指揮者は小泉ひろし氏で曲目は「A・アマディ/海の組曲」「藤掛廣幸/日本叙情歌曲集」でした。青少年音楽祭はマンドリン・オーケストラ、合唱団、管弦楽団の合同演奏会です。合唱団は各学校のクラブでも管弦楽伴奏で歌う機会は少ないですから、音楽祭はそれなりの貴重な場を提供しておりました。この時は山田一雄氏の指揮で「ブラームス/運命の歌」を取り上げているのですが、マンドリン部門も互いの交流を目指して初めて併設の合唱団と合同のステージを用意したのです。藤掛氏の日本叙情歌曲集はそのために書き下ろされたアレンジで、服部正氏の「野の羊」などを手拍子しながら合唱団が歌っていた記憶があります。
翌年大学に入学した私は当然のごとくマンドリンクラブに入部しました(実は管弦楽団とちょっと迷った)。早々に音楽祭のオーディションの季節になりました。JMJ委員だった行方不明氏に「私にもJMJの募集要項をください」と頬を赤らめて申し出ると、なんとも冷たいことを言われたのです。「まじょりん?お前のようなやつがオーディション受けても落ちるのがオチだ。まだ100万年早い。」あーくやしかった。ご存知無い方も多いかもしれませんが、JMJは各部門とも祝祭オーケストラですから演奏会の都度メンバーが変わります。オーケストラにはベストバランスがありますから、これをオーディションで選ぶのです。本番の曲目から、当日範囲が指定されて課題となります。これが厳しくて、練習していないとJMJ委員であっても落ちる落ちる。なにせ不公平があってはいけませんから、審査員の先生(当時、管弦楽団はNHK交響楽団の団員に、マンドリンは遠藤隆巳氏に依頼する事が多かったです)の点数を厳格に遵守しておりました。
この時選抜されたメンバーは大妻女子大学マンドリンクラブ(5名):慶應義塾マンドリンクラブ(12名):駒澤大学ギターマンドリン倶楽部(4名):実践女子大学マンドリンクラブ(3名):上智大学ソフィアマンドリーノ(8名):中央大学音楽研究会マンドリン倶楽部(1名):東京女子大学プレクトラム研究会(5名):東京農業大学農友会マンドリンクラブ(7名):日本女子大学マンドリンクラブ(8名):一橋・津田塾大学マンドリンクラブ(1名):文教大学マンドリンクラブ(4名):早稲田大学マンドリン楽部(10名)の12の団体会員と個人会員(28名)でした。中央大学が規模のわりには少ないのは、音楽祭の練習がある日曜日に自団の練習があるから参加しにくかったんですね。個人会員は団体会員になっていない遠方の大学の人や、小規模の短期大学の人たちといった学生が一定数いて、卒業したOBはあまり多くは無かったです。
本番は84年7月1日第45回青少年音楽祭(音楽祭はこの頃東京と地方都市で年二回づつ開催されていました。44回は尼崎市総合文化センターアルカイックホールで83年10月30日に行われています。残念ながらマンドリン部門の参加は東京地区だけでした)。マンドリン部門の指揮は國分誠氏。曲目は「ベルーティ/ハンガリーの黄昏(マンドリン独奏:榊原喜三)」「帰山栄治/初夏の歌」。
自分が出ていないので悔しくて本番は見に行かず、テレビ鑑賞をしました。まずはマンドローネが10本あるのにびっくり。後にも先にもこんなに一度に見たことはありませんし、大体どこを探せばそんなに楽器があるのかも見当がつきません。しかしそのわりになんかステージが広々としているのが気になってみていました。気が付いてまたびっくり。譜面台が1本も立っていません。つまり全部暗譜で演奏しているのです。後で聞いた話によれば、國分氏も熱心に指揮をとっていただいて、練習中に「マンドリンは初めてだけに、自分は本番は暗譜で望もうと思ってさらっているんだ。考えてみれば不公平だから、みんなも暗譜しろ。」ということになって、それはそれはスリリングな練習が展開されたそうです。後々のJMJ委員の間で語り草になった出来事です。さて演奏は言うまでも無く、國分氏の情熱が乗り移ったがごとく、ダイナミックで圧倒的な演奏でした。
私は高校3年間楽器を弾いていたからそれなりに自信を持っていたのですが、正直カルチャーショックでした。プロフェッショナルな音楽家となんとしても交流を持ちたいと思い、来年のオーディションに向けて密かに練習と楽典の勉強を始めたのです。
つづく。(笑)

2001年3月5日 月曜日
青少年音楽日本連合(JMJ)が活動を休止するという話が、マンドリン関連のWeb上で話題になっています。私の音楽活動が、現在の形になった大きなきっかけがJMJでの活動でした。この場での様々な音楽家たちのとの出会いが無ければ、私は既に楽器を持っていなかったかもしれません。多くの若いマンドリン演奏家たちが、おそらく二つと無い貴重な舞台を失う事になることは、大変に残念です。
後援をしていた放送文化基金の予算縮小により活動継続が危ぶまれた事がありましたが、活動が続いていたので安心していたのですが。
本来ジュネス・ミュジカル(JM)活動は、ベルギーの本部:FIJMを中心として全世界的に展開されている活動です。各国の支部はいわゆる西欧のクラシック音楽のみならず、その国固有の音楽を取り入れて活動を続けてきたそうです。JMJは1961年に設立され、64年からマンドリン部門が参加しています。ヨーロッパの国々のJM活動は、プロ音楽家の卵たちによるものが多いそうですが、JMJは全部門とも年齢30歳以下の者で構成された音楽大学生を含まない音楽演奏団体(団体会員)、及び30歳以下の個人(個人会員)により組織されていることが特徴です。
私がここ数年違和感を感じ続けていたことは、ことマンドリンオーケストラを構成するメンバーに、団体会員からの参加者が少ない、5割を下回ってみえることでした。JMJは各部門ごとに委員会が組織され、さらには部門の総務委員が上部組織である常務委員会を構成します。JMJの運営は常務委員会を中心に行われており、活動計画や予算案など大きな事項は通常年1回の全会員からなる総会での決議という手続きを取るわけです。毎年の活動がいかに充実したものになるかは、この常務委員、ひいてはJMJ委員たちの目的意識に関わっていると私は考えています。マンドリン部門の団体会員は、あるいはそのJMJ委員の皆さんは、JMJの場でどんな夢を実現させたいのかということに、活動のほとんどがかかっているのではないでしょうか。
私自身が1985年〜86年にかけて団体会員のJMJ委員として、さらにはマンドリン部門総務委員として常務委員会に参加しておりましたから、JMJには大変思い入れが深いのです。JMJ委員は週3日開いている事務局を運用するために当番制で出社?しておりましたし、青少年音楽祭・JMJコンサート・JMJセミナー・若い芽のコンサート(無くなっちゃいましたね)などの年間行事の企画運営のために少なくても月2回は委員会を開いていました。これは学生でないととてもできない活動なのです。常務委員会に数名の個人会員を含んではおりましたが、これほどの時間はどうしても取れません。互いの信頼関係の中で運営してきたのです。
委員会の活動がほとんどできないはずの個人会員ばかり目立つマンドリンオーケストラは、私の感覚では不自然なものでした。
JMJの全会員に「季刊ジュネス」(会報)や総会の連絡を郵送するために、封筒に入れたり、糊付けしたり、切手貼ったり、郵便局にもっていったり、全て事務局でJMJ委員がしていました。私はこの時に大量に切手を貼る技を身につけましたから、おかげで実生活でも役立ってます。活動休止の連絡は、誰がポストに投函したんでしょうか。
とうに私は30歳を超えてますから、総会の票すら持ち合わせていません。部外者が勝手な理屈を言っているようで大変恐縮ですが、とても思いが複雑なのです。これからのJMJは、若い現役の学生諸君に委ねていくべきでしょうし、何か不幸なことがあればそれはOBである私の責任でもあるのかもしれません。
今年のMET12thでは、私がJMJ委員のときに委嘱をお願いした池辺晋一郎先生の作品も取り上げます。METは、私にとってJMJ委員の現役時代に実現しきれなかったことを追い続ける場でもあります。当時のことについては、春までに?改めて文章にまとめていく予定です。

2001年2月28日 水曜日
私のマシンはWindows95時代のDVD-ROM搭載機です。当時相当気合を入れて買いました。ただ今の楽しみは「映像 ザ・モーニング娘。 ベスト10」を見ることです。なっちとヨッスィーは最高です。ゆうちゃんも頑張っていただきたいと思っております。
以上、関係者への業務連絡でした。

2001年2月26日 月曜日
もうご存知の方も多いかもしれませんが、東京渋谷の「天文博物館五島プラネタリウム」が来月3月11日をもって閉館します。私が幼稚園の遠足で初めてプラネタリウムを見たのが、五島プラネタリウムでした。私は街中で暮らしていましたから、満天の星空なんて見たことも無く、大変な感動をした事を覚えています。大学生の頃は乗換駅が渋谷だったこともあり、五島プラネタリウムへ通い始めました。投影が1時間以内で時間つぶしには最適ということと、平日はそれほど混んでいないからすぐ入れる、ちょっと星の知識がついてなんかかっこよさげ、などから、番組が変わるたびに通って私の手帳には投影時間表がメモしてありました。デートするっていっちゃあ五島だったな、あの頃は。夕日が沈んで1番星がでるまで本当に真っ暗になって、目が慣れるまでみんな天井をみているからカップルにはムフフな時間が訪れるわけです。はい。
最近はコンピューター制御の自動番組、オート・プログラムを投影するプラネタリウム(サンシャインプラネタリウムなど)が増えて、さらには傾斜型ドーム(床やドームが斜めに傾いている)でさながら宇宙体験ができるような施設が主流となってきています。横浜こども科学館、王子北とぴあ、大宮宇宙劇場などが首都圏の代表です(とりあえず全部行ってみた)。五島は水平ドームのマニュアル・プログラムで、全ては制御台で学芸員が解説をしながら操作するのです。今となってはやや古ぼけた感もありますが、どうしてどうして学芸員の個性が話しに表れるため、なんともヒューマンで暖かいプラネタリウムなのです。「みなさん、オリオンが持っているのは棍棒と、メドゥーサの生首です。メドゥーサは髪の毛が蛇でできている恐ろしい魔物で、目で見つめられると大人は石になってしまったと言います。しかし、子供は石にならなかったんですね。何になったと思いますか?フフッ。ジャリになったんです。」私が今でもネタに使うこんなは話は、ここの学芸員さんに聞いたお話で、私はドームにこだまする程の笑い声を上げてしまいました。
今はどこのプラネタリウムでも週末の特番で取り上げている「星と音楽の夕べ」などは、五島が最初に始めたのでした。
青春が一つ思い出に変わるような、ちょっと切ない気持ちです。
行かねば。

2001年2月22日 木曜日
本日、私、突如熱を出しましてどうものどが痛いのです。それでもケホケホいいながら、タバコは吸っているのですが(自治体のためにせっせと税金払わねば)、どうもいがらっぽいのでマスクを買いました。久しぶりにマスクをつけてみると、どうもからだがあったかいのです。口からはく息が、直接外に出ないせいなのでしょうね。電車に乗っていると汗ばむくらいでした。家でもマスクしていたら、暖房の省エネになるかもしれません。

2001年2月18日 日曜日
スーパーに買い物に行ったら「愛媛の伊予柑、いい予感〜♪」なんていうBGMをかけて伊予柑を山のように積み上げて売ってました。安かったのでついつられて買ってしまいました。これがみずみずしくて大変おいしゅうございました。私ひょっとしたら初めての経験だったかもしれません。夏みかんみたいなものと勝手に勘違いしておりました。当分はまりそうです。

2001年2月11日 日曜日
MET12thのプログラムが固まりました。なにしろ作品集にまとめる意図があるものですから大変に内容が濃い演奏会となりましたが、それぞれの作曲家の個性を充分に感じていただけることと思います。今年の9月22日は是非カザルスホールへ。

2001年1月15日 月曜日
まったく日記も書かないまま、年を越してしまいました。今日はお年玉付き年賀状の当選番号発表日です。今年は1等賞は何でしたっけ?
さてさて、MET12thの概要がいよいよ見えてまいりました。今まで私たちが委嘱してきたマンドリン・オーケストラのための音楽を改めて取り上げ、21世紀に伝えるメッセージにするべくCDとしてまとめる事になりました。ただ今各種権利上の問題を整理中ですので、具体的な内容発表までしばしお時間をください。もちろん今年の演奏会に参加希望の方はいつでも大歓迎ですので、是非ご連絡をください。(詳しくはこのページへ)素晴らしい音楽を作り上げる喜びを、一緒に体験いたしましょう。

最新の思うことはこちらへ
2003年の思うことはこちらへ
2002年の思うことはこちらへ
2000年の思うことはこちらへ
1998年〜1999年の思うことはこちらへ

MET TOPへ