2002-8-15
藤田 道雄
皆様へ
ある知人の方から8月9日にメールをいただきました。「今日は長崎に原爆が投下された日ですね。毎年、この時期になると、やはり胸が痛みます。藤田さんは今日何を考えたのでしょう」と書かれていました。戦争を知らない世代の方からです。
私は被爆者として何かしなければ、と思いながら9日を迎えてしまっていました。今日は終戦記念日、いや敗戦の日です。せめて知人の方々に私の長崎での体験をお伝えできればとの思いで、このメールを送らせていただきます。
昭和20年8月9日、私は中学2年生で、自宅待機だった。11時頃空襲警報が解除となった。姉と2人だったが、姉は昼食の用意をして、2人で食膳に向かっていた。その時ラジオが「敵1機が島原半島を西進中」と伝えた。いつものことと思い、さして気にもしなかったが、その次の瞬間、強烈な閃光が走った。私は目の前に大型爆弾が落ちたと思った。すぐにその場に伏せた。爆風が吹きまくり、あちこち破壊される音が響いた。ピカドンと言うが、私にはドンは聞こえなかった。どれくらい続いたのか、爆風はなかなか静まらなかった。ようやく静まって、恐る恐る立ちあがって驚いた。食卓の上のものは右に左に飛び散り、一面にガラス片が数センチも積もり、壁にも突き刺さっていた。一部壁が壊れて外が見え、天井の一部も飛んで、空が見えた。爆弾はどこに落ちたのか、近所の人達も家から出てきて、どこ、どこ、と言い合っていたが、どこにも落下の様子はなかった。
私の家は爆心地の浦上から3キロ、その間に山があって、その山の浦上側は完全に茶一色になったが、こちら側は緑が残った。その浦上側から次第に火の手が迫って、たくさんの被災者がやって来ていた。全身やけどを負い、皮膚をたらしながら歩いていたと聞いた。
後に級友の一人がふとんを被って歩いているのを見たとの話を同級生から聞いたが、その友達とはその後二度と会うことはなかった。
被爆後暫くして、雨が降ってきた.いわゆる黒い雨だ。私の家は7部屋あったが、雨漏りは防ぎようがなく、なんとか使える部屋は3部屋となり、たんすや本棚などほとんどだめになった。米びつには幸いガラスは入っていなかった。 夜になると米軍機が何度も来て照明弾を落として行った。それがピカッと光ると、また爆弾を落としたのかと恐怖を覚えた。私の家の床下の防空壕は小さく、不完全なものだったので、私と姉は近くの米屋さんの大きい防空壕に入れてもらった。そこに浦上で被爆した女性が入っていて、私はその隣に座ることになった。彼女は息を弾ませながら、「どこに いてもだめ、山の中でも海の中でも、だめ」と言った。私は彼女から2次放射能を受けたと思っている。その女性は数日後亡くなり、近くの道端で焼かれた。あちこちで死体を焼いていて、その臭いが漂っていた。
皆は家族や友人あるいは学徒動員の生徒を探して爆心地のあたりを歩き、家の中の後片付けになどに追われ、何もできないでいた。15日天皇の終戦の放送があったが、雑音がひ どく、ほとんど聞き取れなかった。姉達は「負けたんだ」と言ったが、私は信じ難かった。 道路に出てみると、馬に乗った将校が「我々は負けてない.戦うのだ」と言って回っていた。 馬鹿さ加減にも程があるということ。 その後いつ頃だったのか、8月末頃か、近所の家はほとんど疎開していなくなったが、私たちは行くべき所がなかった。そして遂に我が家に食べ物がなくなった。その日の朝 、麦粥を少しずつよそった母は「これで終わり、もう何もありません」と言った。それまで も脱脂大豆や海草などを何とか食べていたのだから。6人家族の父や母はどんな思いだった のだろう。私たちはゴロゴロと横になっていた。夏の暑い日、12時、1時,2時…。何もす ることはないのだ。その時、誰かがメガホンで通知する声が聞こえた。「アメリカの船が入って、小麦が入ったので配給します」。すぐ上の姉が起きあがって「私が取ってくる」と言って出かけた。丸い赤い麦だった。皆が食卓を囲んで、炊きたての麦に塩をかけて食べた. もうこんなにおいしいものを食べることはないと思う。
9月の初め学校から連絡があり、学校にいくと、見えない友達もいたし、頭の毛がない友達もいた。私の家は半壊だったので、父が勤める活水学院の寄宿舎に移ることになり、私と姉が先ず行って1泊した。部屋の窓が開けってあったのだが、翌朝私はのどが息ができない程腫れているのに驚いた。これが最初の被爆の影響だったのだが、そんなことは知る由もなかった.それからちょっとした傷が化膿してなかなか治らなかった。炎症や化膿への抵抗力が弱っていたのだ。大学に入る前ころから極端な疲労を感じるようになった。微熱も続いた。結核ではないかと検査しても、その兆候はなかった。しかしそれが原爆症であるとは思い至らなかった.大学2年のとき、口内炎となり、ほとんど眠れなくなった。
寝汗が敷布を通して布団にまでしみた。苦しくて、もう起きあがることはないだろうと思った。舌が侵されてへこみ、柔らかいものが当たっても激痛があり、舌が無くなるかと不安に思った。医者は原爆症などということは言わなかった。血液検査もしないし、考えられなかったのだろうか。その後も苦しい時が続き、食べるものもあまりない時代だったが、
母の懇切な看病もあり、25年程もかかって少しずつ回復することができた。
一緒に被爆した姉は60歳のとき白血病で亡くなった。私はこれは明らかに被爆の影響
だと考えている。
恐ろしい原爆、それ以上の破壊力を持つ水爆。私たちは力弱きものですが、核兵器廃絶 を願い、平和を強く、強く、希求して行きたいと願っています。 広島では14万人が、長崎では7万人が、その年1945年の年末までに死んだ。他の被爆者 も放射能障害で苦しみ、今もその苦痛に耐えている人がいる。
*大学の先輩であり、人生の大先輩でもある友人みっちゃんの被爆体験を、本人の同意を得て掲載させていただきました。藤田さんにご紹介いただいた、荒木礼子さんの被爆体験記は、
ここ
をクリックしてください。
*尚、みっちゃんに紹介していただいた肥田舜太郎先生の講演記録も是非合わせて一読下されば幸いです。
http://www.jcan.net/tanpoposya/jco930/4th_2003/930_4th_hida.htm
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