コラム

第4回 人殺しの気持ち。
2000.6.5


 先頃解散を発表したブランキージェットシティーのアルバム「BANG!!」に、このコラムと同じタイトルの曲が収録されている。この中に、こんな歌詞が出てくる。

 腐った奴を 正しい奴が 引き裂いてやるのは いいことなんだろう
 神様だって そうするはずさ 神様だって そうするはずさ
 
 

 殺人事件が絶えない。これは別に驚きに値することではない。
    ただ、少し殺人の傾向が変わってきているかもしれない。

    従来はこんな感じであった。
    あいつに恨みがある。妬ましい。気にくわない。自分に逆らった。
    大義名分はある。だから、(特定の個人を)殺す。

    最近はこんなのもある。
    ただ殺したい。ちょうどそこに居る。特に理由はない。
    だから、誰でもいいから殺す。

    後者に対し、様々な専門家や有識者とよばれる人達がマスコミ等でいろいろな意見を述べている。しかし、言葉や表現は違えど、彼らの意見から共通して感じられることがある。
    「こういう犯罪者は異常だ」という視点。

    特に明確な理由がなく人を殺す。これは異常なのだろうか。

    たとえば、子供の頃に捕まえた虫をいじめたりしなかっただろうか。
    イライラしたときにモノに当たったりしないだろうか。
    敵を倒していくゲームに熱中しないだろうか。

    人殺しも、この延長線上にあるといえないだろうか。

    虫をいじめるのに理由があるだろうか。
    モノに当たるのに理由があるだろうか。
    ゲームをするのに理由があるだろうか。

    そして、人を殺すのに理由があるだろうか。

    人を殺す人間は、異常なのだろうか。
    罪を犯すことに、理由は必要なのだろうか。
    人殺しと我々は同じ人間ではないのか。

    殺人者も我々も、同じ国に生まれ同じような社会の中で育ってきているはずだ。
    同じような境遇でも殺人を犯していない人の方が多いだろう。
    唯一の違いは、瞬間的にある一線を越えてしまったということだけであろう。

    いろいろなタイプがあるが、殺人者が全て異常ということはないと思う。
    たとえそこに理由が存在しなくても。

    彼らを異常と片付けることは簡単だ。しかし、それは逃避でしかない。
    自分達の中にある殺人者の素養を認めたくないのか、ただ単に見えていないだけなのか。
    いずれにしろ、それでは本質は見えてこない。

    我々も殺人者になる可能性や素養は十分にある。
    ただ、それだけのことだと思う。



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