8、妙見菩薩と日蓮聖人

 妙見菩薩は北極星を神格化したもので、「妙(たえ)に見(あら)わす」という。常に北極を指し、旅する人々の道しるべとなった北極星は、唯一不動の星として、天の中枢・天を支配する天帝(太一)として崇敬されるようになった。北辰とは具体的には北極星を含む北極五星と四輔四星からなり、これらを紫微垣(しびえん)とも紫微宮ともいう。地上においては天子の居所を指し、内裏の中心建物を紫宸殿と名付けている。北極五星は横一列に並び、北極・後宮・庶子・帝・太子と名付けられ、この極星を囲むように四輔(四弼)の四星が配置している。北斗七星は北極星を規則正しく巡り、つねに北極を指す星座である。伊勢神道は北斗の柄杓(ひしゃく)形(魁=かけ)は食物を太一・天帝(天照太神)へ運ぶ食物神、或は車の形から天帝の乗物と考え、豊受大神が丹波の竹野の里から勧請され、外宮に奉斉した。天照太神への神饌は、人間が直接供えても届かず、北斗の豊受大神を通さなければ太一・北極星の天照太神に届かない。北斗七星は1時間に15度ずつ動き一昼夜で北極星を一循し、一年で柄杓(ひしゃく)の柄は十二方位を示す「天の大時計」である。夏冬の陰陽と四季の推移、二十四季節の農耕基準を示す生活暦である。
 天智、天武天皇(668〜686)は、白村江の戦い(663)で日本連合軍として敗れた百済からの学者、文人の亡命者より陰陽五行思想を受容し、(1)太極(太一)は子(ね)にあり、北極星は天の中央にある不動星で天皇大帝である。(2)子(ね)は月に宛てれば冬至を含む旧十一で、陰が極って「一陽来復の象」。
は夏至を含む旧5月で陽が極って「一陰萌す象」。つまり子→午は無から有への軌(みち)。午→子は有から無への軌(みち)。万象は子と午の軌道に乗ってはじめて、輪廻転生の永遠性が生まれる。太一の一元から陰陽の二極(二元)が派生し、対立する陰陽は、対立する故に互いに交感し五原素(木火土金水)を生み、この五気は循環輪廻し万物に永遠の生命を与える。この循環軸は、日本古代信仰の横の東西軸を、縦の子午軸(南北軸)へ変えた渡来の百済人の思想である。(註19)神道の宇宙観に天上の神々がいる高天原(たかまがはら)がある。この宇宙に最初に現れた神が天御中主(あまのみなかぬし)神で、宇宙の中心の神である。初代御中主神のあと何代にわたって人類は生活し、国土形成の時(住居建設の発明)の神が国常立(くにとこだち)神である。天神(あまかみ)の初代国常立神の親たる天御中主神は、宇宙最初の出現神として北極星になぞられる。国土形成神の国常立神の八人の子供は、北極星を取り巻く八星に当てられる。北斗七星(柄杓の注ぎ口の方から、貪狼・巨門・禄存・文曲・廉貞・武曲・破軍の名がつけられ、更に武曲の傍らに輔星が加えられる)と輔星である。親星の北極星と子の八星を合わせての九星を、天皇即位の大嘗祭にユキノ宮(悠紀)に祀る。大嘗(おおなめえ)祭は寒い冬至の近い日に行う。その理由は、北極星に御中主、国常立を立てたため、冬至日は地球が最も北に位置し、北極星に一番近づくためである。太一天帝の北極星と即位する天皇との距離が一番近づくのである。ここに北辰たる妙見尊を天御中主神と同一視する神道的解釈が成立する。
●下総・香取郡
東庄町石出   星宮神社(天御中主・八また彦・八また姫)
同 町栗野   星宮神社(天御中主・大田姫)
小見      星宮神社(天御中主)=通称・妙見
同       星宮神社(天御中主)=通称・妙見
同 町下飯田  星宮神社(天御中主)=通称・妙見
同 町小見川  星宮神社(日本武尊)=妙剣大神
同 町下小川  星宮神社(須佐之男命)=妙剣大神
山田町神生   星宮神社(天御中主・日本根子星・統野照尊)
同 町府馬   星勝神社(天御中主)
佐原市鴇崎   星宮神社(天御中主・菅原道真)
同 市多田   妙見神社(天御中主)
同 市鳥羽   星宮神社(天御中主)
大栄町久井橋  星宮神社(天御中主)
同 町中野   星宮神社(天御中主)
同 町奈土   磐裂神社(磐裂・天手力男・木花開耶姫)
下総町成井   星宮神社(天御中主)
同 町大和田  星宮神社(天御中主)
同 町高倉   北辰神社(天御中主)
多古町喜多   妙見堂(天御中主)
同 町一鍬田  妙見堂(天御中主)
同 町桧木   妙見堂(天御中主)
同 町川島   妙見堂(天御中主)
同 町北中   妙見社(天御中主)
同 町北中   妙見社(天御中主)
同 町南中   妙見社(天御中主)
同 町同南玉造 妙見社(天御中主)
同 町     天御中主神社が二社ある
 日本の星神信仰で、皇室の先祖神たる天御中主(あまのみなかぬし)神を北極星(北辰妙見尊)=太一とし、更に天照太神を太一にする両者の習合は、伊勢内宮の秘事中の秘事、口伝であり、一切記録に残さなかった。妙見信仰は天皇に許された信仰であり、妙見信仰の庶民性は虚空蔵信仰(明星天子)となって発展する。北極星と金星(明星)は違う星であるが、庶民信仰のレベルでは、両者とも星信仰で同一視されてくる。
 日蓮聖人が立教開宗前に伊勢の天台宗常明寺に参籠し、「誓願の井」で身を浄め伊勢太廟に百日参拝、「三大誓願」で奏上したとの伝承に岡崎宮妙見堂がある。長く妙見菩薩が安置され(正安3年=1301年記の像が現存し、現在読売ランドに祀られている)ていた。常明寺は伊勢外宮(豊受皇太神)の祭式一切をとりしきる渡会(わたらい)氏の氏寺である。安房国天津の神明社を日蓮聖人は「今は日本第一の御廚(みくりや)なり」『聖人御難事』と述べる。その当時の神官は渡会一族の會賀(あおか)小太夫(渡会光倫)であった。「あおか→おかの」と転じて「岡野」となり、現在の神官・岡野氏へと続いている。一族の同族祭祀である「山宮祭」は単に祖霊祭祀にとどまらぬ、北斗妙見菩薩を中心とする星神信仰であった。『高庫蔵(たかくら)秘抄』には山宮祭の発祥を次の如く述べている。
 『貞観元年(八五九)、渡会氏の遠祖・大内人高主の娘で大物忌の少女が御贄河(豊川)で水死した。遺体を探したが見つからず、代わりに妙見星の童形の像を得たので、尾上の御陵の聖地に安置し、岡崎宮として祀った。その翌年から高主には三年続けて双子の男子が誕生した。その六男春彦が三十歳の時、妙見菩薩の霊託を受けて、氏人を率いて清浄の山谷で妙見菩薩や日光月光、孔雀王や八神を祀ったのが、山宮祭の始まりである。』
現在の『高庫蔵(たかくら)秘抄』は永保2年2月8日(1082)常明寺別当性順が書写したものである。この秘抄に収まる「岡崎宮妙見本縁」に由ると、妙見尊は「名日軸星。所居之宮殿名之日紫微宮。軸星者国王也。故名之日一字金輪也。諸星主也。」といい。北斗七星は「一天皆是毘盧舎那普門一身也。或七仏薬師一体分身也。七仏分身顕七星辰。」と言う。
      (『北斗延命経』説)  (真言説)
◯貪狼星 東方最勝世界運意通証仏 東方大白衣観音、千手観音
◯巨門星 東方妙宝世界光音自在仏 寅方馬頭観音
◯禄存星 東方円満世界金色成就仏 丑方不空羂索観音
◯廉貞星 東方浄住世界広運智弁仏 子方水面観音 又深沙大王
◯武曲星 東方法意世界法界遊戯仏 亥方阿力迦観音
◯文曲星 東方無憂世界最勝吉祥仏 戌方十一面観音
◯破軍星 東方瑠璃世界薬師瑠璃仏 頂上虚空中間虚空蔵尊
秘抄に収まる「妙見秘記」には、
 『軸星諸星頂輪王…一字金輪…御本地仏眼仏毋如来也。…出阿字本覚都、住真如実相満月輪。亦一字金輪住一切衆生心月輪。転成尊星王。…変成妙見菩薩。顕
昼日天子。顕夜月天子。比日月和合顕明星天子。』
妙見星は紫微宮に居住し、不動の星で諸星の中心たる「軸星」であり、「諸星の王」である。ゆえに「一字金輪(きんりん)」であると説く。北辰を一字金輪(きんりん)とするのは、陰陽道の本命星思想と関係する。生年月日によって北斗七星の一つを本命星とした本命星供が盛んになり、天皇の本命星は北辰で仏智の最尊である「一字金輪(きんりん)仏頂」と考えられた。また妙見は日天子・月天子・明星天子の三光天子であると説く。一字金輪とは、仏頂尊の一。種字ブルーン(一般的にはボロン)の一字を神格化したもので、世界統一の聖主たる転輪聖王の中で金輪王(こんりんのう)が最高であるとする。結跏趺坐して法界(ほっかい)定印を結ぶその上に金輪をおく「釈迦金輪」と、日輪中に五智宝冠をつけ智拳(ちけん)印を結ぶ金剛界「大日金輪」の二種がある。




一字金輪

方形の星曼荼羅



円形の星曼荼羅



妙見曼荼羅


抱朴子にある除災の符(黒点は星を示す)
吉田光邦著「星の宗教」より

 このように北辰尊星信仰が日本へ渡来する経緯は、欽明帝の538年、百済聖明王が日本に仏教伝来し、推古帝602年、百済僧観勒により暦本、天文地理書が献上され、辛未の611年聖明王の第三子琳聖太子が肥後国八代郡白木山神宮寺に、七星と諸星を画き、下に道教の奇妙な文字を記した七十二霊符をもたらしたことに始まる。
 紫微宮に居住する妙見菩薩は、帝王を守護する。帝王が仁政により天下を平和に治めるならば、妙見は諸星と共に国土を守り災害を除き悪人をしりぞける。宮中を中心に妙見信仰が如何に篤かったか想像できる。
 前述の如く、北辰の妙見菩薩は軸星であり一字金輪、三光天子(日・月・明星)である。やがて一字金輪仏頂は七宝を具すことから、北斗七星に擬せられ、北辰と北斗七星が一体と理解され、北斗七星の本地は七仏薬師とされ、千葉氏の妙見信仰は、軍神たる北斗の「浄瑠璃世界主薬師如来」の破軍星である。その破軍星を真言密教では『類秘抄』や『平等房次第』に「虚空蔵尊」を本地と見たのである。妙見尊と虚空蔵(明星)の「一体二身」である。日蓮聖人が清澄寺で祈願した摩尼殿の虚空蔵尊の真裏の頂上が、妙見山であり、現在も小湊の漁民が篤く信仰する「妙見尊」が祀られ「一体二身」を表している。また『源平闘諍録』巻五の「妙見菩薩之本地事」には妙見は自ら「吾ハ是十一面観音之垂迹五星ノ中ニハ北辰三光天子ノ後身也。」と告げている。奈良朝の貴族達は、天平勝宝元年頃(749)、皇后宮職を改めて置かれた令外官司の紫微中台での観音信仰、特に十一面悔過所が注目される。天平勝宝7年『経疏出納帳』に
 陀羅尼集経一部十二巻
  右、依次官佐伯宿弥判官石川朝臣天平勝宝五年二月一日宣、奉請紫微中台十台十一面悔過所。
とあり、当所の十一面悔過所は東大寺内でなく、内裏の紫微中台にあったと推定された。紫微中台にあった十一面悔過所は北辰と十一面観音の関わりを示している。悔過とは、罪過を懺悔し、罪報、災禍を除く修法である。東大寺二月堂の十一面観音悔過、お水取りがある。
 のちに天台宗において『惟賢比丘記』に顕密内證義の文として「日吉三聖は三光天子の垂迹なる事」を説く。日吉三聖とは、日吉山王の七社中最根本の社たる大宮、二宮、聖真子の三社の神を言うが、三光天子は天台教義の中で山王信仰と結びついている。七仏薬師と十一面観音を普及させたのは、慈覚大師円仁と坂上田村麻呂である。七仏薬師は病気と怨霊の祟りを鎮めると信じられ、天平7年(745)聖武天皇が重病の時、奈良の新薬師寺の本尊に七仏薬師が造立され、全国に造営中の国分寺では、本尊釈迦如来から薬師仏に変更されていった。七仏薬師法を始めた慈覚大師円仁は、下野国都賀郡で生まれ大慈寺の広智に入門し天台思想を学び、経蔵に入り『観音経』を得て観音信仰を感得した。円仁は観音と薬師信仰に篤く、円仁の東国教化により房総、香取、鹿島に十一面観音と薬師信仰が東国武士に広がっていった。奈良朝以前から常陸、上総、下総、上野、下野の五ヶ国は中臣(なかとみ)すなわち藤原氏が蝦夷を征服しながら領土を広げ、鹿島神宮に建御雷(たけみかづち)命を祀って氏神としていた。僧聖冏の『破邪顕正義』の「鹿島大名神御本地之事」には
 『本地観音 常在補陀落 為度衆生故 示現大名神…三尊観音造玉フ。其内一體今神宮寺本尊十一面是也
 鹿島大明神の本地仏は十一面観音となっている。佐原市荘厳寺の十一面観音は、香取神社の神宮寺の本尊であったと伝える。九条兼実の『玉葉』建久5年(1194)7月8日の条に
  第一は鹿島、本地は不空羂索観音
  第二は香取、本地は薬師如来
  第三は平岡、本地は地蔵菩薩
  第四は伊勢内宮、本地は十一面観音
  第五は若宮、本地は十一面観音
とある。
薬師如来は日月の象徴たる日光菩薩・月光菩薩を脇侍とし、現実的災難を救済する功徳は、法華経の「観世音菩薩普門品」の諸難救済と共通項が多い。(註20)

 註
 (19)吉野裕子著『隠された神々』参照
 (20)宮原さつき『千葉妙見の本地をめぐって』