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ペリー来航と日本の森林資源

 1854年、ペリーは前年に引き続いて来航し、日米親和条約が締結された。ここに徳川幕府200年の鎖国は終わりを告げ、時代は明治維新に向けて急速に突き進んでいくことになる。この日米親和条約全十二ヵ条のうち、注目すべき部分が第二ヵ条にある。"〜they can be supplied with wood, water, provisions, and coal, and other articles〜" すなわち、「薪水食料石炭その他欠乏の品を補給するため」下田・箱館の二港を開港する、というものであった。"(fire) wood"、すなわち「薪」が補給品の一つとされ、なおかつ他を差し置いて最初にあげられているのであろうか。

 当時、アメリカではろうそくの原料や灯火用の燃料として鯨油が用いられており、消費量は年々増加していた。その需要を満たすため、鯨油の採取を目的とする捕鯨業が栄えていたのである。
 19世紀初頭、それまでグリーンランド周辺を漁場としていたアメリカ捕鯨船団が、南アメリカ南端を回航して太平洋に現れた。彼らは新たな漁場を求めて太平洋を北上し、19世紀半ばまでにその活動範囲はインド洋南端からオホーツク海まで太平洋全域に拡大した。1848年にはアメリカの捕鯨船団は最大規模に達し、出漁船は735隻を数えた。

 当時のアメリカ式捕鯨は400トン前後の帆船を母船とし、鯨を発見すると、搭載された4〜8隻のボートに5〜6人が乗り込み、接近して銛を打ち込んで最後に銃でとどめをさすものである。仕留めた鯨はボートで母船まで曳航した後、舷側に吊り下げて解体する。このため、皮下脂肪が多く、死後も海中に沈まないマッコウクジラやセミクジラなどが狙われた。これらの鯨脂を切り出し、釜で煮て鯨油に加工した後、樽に詰めて船倉に貯蔵された。残りの部分は何ら利用されることなくそのまま捨てられた。船倉が鯨油で満たされるまで、一航海は時に3年に及ぶこともあったという。
 このとき問題になるのが、釜を焚く燃料である。当時石炭は希少で価格も高く、燃料として薪(と鯨油を絞った残りカス)が用いられていた。つまり、水・食料などと共に、薪を補給するための新たな補給基地が求められていたのである。

 箱館を例にとると、1855年3月の開港から翌1856年までに、外国船の入港は43隻を数えている(『函館市史』)。このうちアメリカ船は23隻であり、さらにその内訳は捕鯨船11、商船7、軍艦4、不明1である。他にイギリス船、フランス船、ロシア船などが入港しているが、これらはすべて軍艦である。
 このことから、当時の箱館は北太平洋におけるアメリカ捕鯨船の補給基地、あるいは避港地となっていたことが分かる。日本の森林資源がアメリカ捕鯨業の一翼を担っていた、とも言えるだろう。

 1859年8月、ペンシルバニア州で穿孔法による初の油井が掘削され、翌60年には生産量50万バレルに達する。これは当時世界一の産油国だったルーマニアの50倍の生産量であった。石油から精製される灯油は、質量ともに鯨油を上回っていた。乱獲による資源の枯渇から衰退の傾向にあったアメリカ式捕鯨業は大打撃を受け、さらに1861年の南北戦争勃発によって、以後凋落の一途をたどることになる。

(以上)

公開:02/02/16


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