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嗚呼旅順港閉塞船

 明治37年(1904)2月4日午後の御前会議において、同日午前に閣議決定されたロシアとの開戦決意が裁可され、日露戦争が始まった。

 日本は開戦当初より制海権の確保を第一とし、ロシア太平洋艦隊の拠点である旅順に奇襲攻撃をかけた。2月8日夜の駆逐隊による旅順口外夜襲、翌9日の連合艦隊主力による第一回旅順港攻撃に続き、14日にも第二回攻撃が行なわれるが、さほど戦果は上がらなかった。

 数の上ではほぼ戦力が拮抗するロシア太平洋艦隊と日本連合艦隊だが、ロシア側はヨーロッパからの増援を待って戦力温存を図る方針を立て、旅順港を動こうとしない。一方日本側にしてみれば、黄海一帯の海上輸送路が常に危険にさらされることになり、今後の作戦計画に大きな支障を来たしてしまう。
 旅順港在泊のロシア艦隊を外洋におびき出した上で決戦を挑み、一挙に壊滅して制海権を確保することを目論んでいた連合艦隊司令部の中には、次第に焦りの色が漂い始めた。こうして「旅順港口閉塞作戦」が計画されるに至ったのである。

 この閉塞作戦は連合艦隊参謀の有馬良橘中佐の意見具申によるもので、すでに開戦前から軍令部で検討されていたという。その方法は、老朽船に決死隊員が乗組み、夜間旅順港口に侵入した上で自沈し、脱出した隊員を水雷艇によって収容するというものであった。
 旅順は老虎尾半島に抱かれた湾の奥に位置し、その湾口は半島突端と対岸の黄金山山麓の間の270メートル余りでしかない。うち大型船舶が航行できる水路の幅はわずか91メートルであり、ここに船を自沈させてロシア太平洋艦隊の主力艦が港外に出ることを阻止し、さらにはヨーロッパから派遣されてくるであろうバルチック艦隊の入港をも不可能にする計画だった。

第一次閉塞作戦
 2月18日、東郷平八郎連合艦隊司令長官は旅順港口閉塞作戦を発令し、生還が期し難いとされた閉塞隊員を募集した。これに対する志願者は二千人を越え、中には血書を提出したものもいたという。この中から技量優秀、品行方正で家族の係累が少ないなどの選考基準を設けたりすることで、ようやく77人が選抜された。

表1 第一次閉塞作戦従事船舶
船名 総トン数 指揮官及び隊員
天津丸(嚮導船) 2,942t 有馬 良橘中佐 他16名
報国丸 2,766t 広瀬 武夫少佐 他15名
仁川丸 2,331t 斎藤 七五郎大尉 他15名
武揚丸 1,163t 正木 義太大尉 他13名
武州丸 1,249t 島崎 保三中尉 他13名

 2月20日08:30、5隻からなる第一次閉塞船隊は連合艦隊の護衛を受けて朝鮮の仁川を出航したが、荒天のため2日間仁川沖の巡威島で仮泊、22日午前ようやく旅順に向けて抜錨した。そして翌々日の24日01:30には旅順港外に達して突入の機会を計っていたが、04:15月没を期して一斉に進撃を開始した。

 嚮導船天津丸を先頭に一列縦隊を組んだ閉塞船隊は、速力8ノットで港口に向かう。と、突如4本の光条が閃いて閉塞船隊を捕捉した。探照灯の数はさらに増え、やがて旅順港を取り囲む様に布陣する山上の沿岸砲台が一斉に火を噴いた。
 閉塞船隊はひるむことなく前進を続けたが、探照灯の強烈な光芒は操舵手も指揮官も正視できないほどで、先頭の天津丸は幻惑されて進路を誤り港口付近で座礁してしまった。続く2番船報国丸は天津丸から「面舵を取れ」との信号を受け、続く3番船仁川丸と共に右へ回頭してさらに港口へと突き進んだが、5番船武州丸は砲弾に舵機を破壊され、やむなく予定地点の手前で爆薬に点火し自沈した。これを見た4番船武揚丸はそこを港口と錯覚して投錨後自沈したが、これも予定地点からは遠く離れていた。
 なおも航行を続ける報国丸と仁川丸に対し、沿岸砲台と港口水道に在った戦艦レトウィザンは砲火を集中した。報国丸はこの砲撃により操舵索を、さらに自沈用爆薬への点火線も切断されたが、続いて被弾した際に爆薬が誘爆し、ほぼ予定地点の港口灯台下に沈没した。続いて仁川丸も前進しようとしたが、沈没船と思われるものに接触して航行不能となったため、その場で自沈した。

 各閉塞船の隊員を救出するため水雷艇隊が随伴していたが、先日からの荒天で海上は北東の風が強く、沿岸砲台から降り注ぐ砲弾の雨の中、波浪に翻弄されるカッターの収容は思うにまかせなかった。仁川丸と武州丸の隊員は遂に水雷艇隊と会合できず、4日間海上を漂流した後、通りがかった中国の帆船に救助されて帰還している。

 予想を上回るロシア側の反撃によって、閉塞船隊のうち予定地点まで到達し得たものは少なく、第一次旅順港口閉塞作戦は失敗に終わった。ロシア側でただ一隻戦闘に参加した戦艦レトウィザンは、6インチ副砲以下の小口径砲で計930発余の砲弾を発射している。港内に在泊していた他の艦艇は出動しなかったが、ロシア側の記録によれば、沿岸砲台が敵味方の区別なく砲撃を加えたからだという。閉塞隊では仁川丸の機関兵が1名戦死した。
 後に、この閉塞作戦に従事した77名の隊員を称える歌も作られている決死隊

第二次閉塞作戦
 第一次閉塞作戦が当初の目的を達せられず、その後の連合艦隊による第四回、第五回旅順港攻撃も成果をあげ得なかった。そして3月18日、再び閉塞隊員の募集が行われた。東郷司令長官は第一次作戦の失敗後、直ちに第二次を実行するべく軍令部に作戦準備を要請していた。

表2 第二次閉塞作戦従事船舶
船名 総トン数 指揮官及び隊員
千代丸(嚮導船) 3,778t 有馬 良橘中佐 他16名
福井丸 4,000t 広瀬 武夫少佐 他16名
弥彦丸 4,000t 森 初次中尉 他14名
米山丸 3,745t 正木 義太大尉 他14名

 呉海軍工廠における昼夜兼行の作業により準備が整えられ、4隻からなる第二次閉塞船隊が編成された。隊員には第一回作戦の参加者の大半が再志願したが、前回の経験を生かすため士官は第一回作戦参加者から、下士官兵は同じ人間を二度も死の恐怖にさらすのは忍びないという東郷司令長官の意向により、再出撃の意志が強かった2名を除いてすべて新志願者があてられた。

 3月26日02:40、第二次閉塞船隊は連合艦隊の護衛の下、巡威島を抜錨して旅順に向け針路を取った。一昼夜の航海の後、翌27日02:30に 旅順港外に達し、厚く雲に覆われた闇夜の中再びの突入を開始した。

 閉塞船隊が旅順港沖合いに近づくと、沿岸砲台から探照灯が照射され、艦艇も加えての一斉砲撃が開始された。ロシア太平洋艦隊の司令長官はつい先日交代しており、指揮を取っていたのは赴任したばかりのマカロフ中将だった。欧米でも名将として評価が高かった中将は、再度の日本軍突入を予測し、港口に駆逐艦及び水雷艇を待機させて閉塞船隊を待ち構えていたのである。

 まず1番船千代丸が狙われ、砲撃によってたちまち炎上、航行不能となって自沈した。2番船福井丸は千代丸の左を通過、そのやや前方で投錨して自沈を図り、杉野孫七上等兵曹は自沈用爆薬に点火するため船倉に駆け下りた。その時、ロシア駆逐艦シーリヌイの発射した魚雷が命中し、福井丸は次第に沈み始めた。
 3番船弥彦丸は福井丸の左からさらに前方に出て投錨、爆薬に点火して自沈に成功した。4番船米山丸は指揮官の正木大尉と指揮官付の中尉が砲弾で負傷、二等兵曹が指揮を執って港口水道中央部を目指していた。しかし、駆逐艦レシッテリヌイの放った魚雷が命中し、しばらく惰性で航行した後海岸近くで沈没した。

 ロシア軍の砲弾はまだ海上に姿をとどめている福井丸に集中した。指揮官の広瀬少佐は総員退船を命じ、隊員はカッターに移乗したが、一人杉野兵曹の姿が見当たらない。
 沿岸砲台と港内の艦艇からの砲撃で水柱が林立する中、少佐は船内を隈なく探したが、船がいよいよ沈没に瀕するに及んで遂にカッターに乗り移った。その時飛来した一弾が少佐の頭部を直撃し、カッターから吹き飛ばした。あとに残されたのはわずかに二銭銅貨大の肉片のみであったという。この一弾で広瀬少佐の他2名が戦死、3名が重傷を負った。
 なお、福井丸を雷撃した駆逐艦シーリヌイは、閉塞船隊援護のため随伴していた水雷艇隊と砲撃戦を展開し、旅順港口付近で擱座沈没している。

 広瀬少佐の遺体は後にロシア軍に収容された。4月3日、旅順では閉塞作戦の戦死者を弔うため軍隊葬が営まれ、広瀬少佐の棺は日本の軍旗で包まれて楽隊と儀杖護送兵に送られ、丁重に埋葬された。

 第二次閉塞作戦における死傷者は15名を数えたが、大型艦艇の旅順出入港は依然として可能で、作戦は再び失敗に終わった。戦死した広瀬少佐は中佐に特進し、「軍神」として広く国民に喧伝された。杉野兵曹を捜す場面は歌にも唄われ広瀬中佐(1)/広瀬中佐(2)、戦後の明治43年(1910)3月には東京神田の旧国鉄万世橋駅(現交通博物館)前には2人の銅像が立てられた。なお、この像は太平洋戦争敗戦後の昭和22年(1947)6月にGHQの命令で撤去される。

 この閉塞作戦から30年ほど時代は下って昭和12年(1937)、三重県鈴鹿市にある杉野兵曹の実家の敷地内にも銅像が建てられた。銅像は戦時中に供出されたが、昭和35年(1960)銅像の台座の上に顕彰碑が建立されて現在に至っている。

第三次閉塞作戦
 第二次閉塞作戦の失敗を受けて、東郷司令長官は大本営に第三次作戦を要望する電文を発した。その後、4月13日に旅順港外において連合艦隊と戦闘中の戦艦ペトロパブロフスクが触雷沈没、座乗していたマカロフ中将が戦死して以来、ロシア太平洋艦隊の活動は再び不活発になっていた。
 こうした手詰まりの状態が続く中、旅順からわずか50kmしか離れていない大連湾に予定されている第二軍の上陸作戦の予定日が迫るに至り、当初これ以上船舶を閉塞作戦に用いることは海上輸送に支障をきたすとして渋っていた大本営も、ついに第三次の閉塞作戦を承諾、これまでで最大規模の12隻の閉塞船が用意された。

表3 第三次閉塞作戦従事船舶
所属 船名 総トン数 指揮官及び隊員
第一小隊 新発田丸(嚮導船) 4,200t 遠矢 勇之助大尉 他24名
小倉丸 3,340t 福田 昌輝少佐 他20名
朝顔丸 3,550t 向 菊太郎少佐 他17名
三河丸 2,320t 匝瑳 胤次少佐 他17名
第二小隊 遠江丸 2,380t 本田 親民少佐 他17名
釜山丸 2,920t 大角 岑生大尉 他17名
江戸丸 1,850t 高柳 直夫少佐 他17名
第三小隊 長門丸 2,120t 田中 銃郎少佐 他21名
小樽丸 3,000t 野村 勉少佐 他16名
佐倉丸 3,700t 白石 葭江少佐 他19名
第四小隊 相模丸 2,108t 湯浅 竹次郎少佐 他25名
愛国丸 1,650t 犬塚 太郎大尉 他23名

 第三次閉塞作戦は五月二日の夜と決定され、12隻からなる閉塞船隊は4つの小隊に編成された。隊員総数は214名に及び、砲艦鳥海艦長の林三子雄中佐が総指揮官となって、第一小隊所属の新発田丸に乗船して指揮をとることになった。

 5月1日17:00、前二回と同様連合艦隊の護衛の下、旅順港目指して出港した。翌2日、昼過ぎから吹き出した西北西の風は夜になってますます強さを増し、護衛の連合艦隊と別れた閉塞船隊の航行序列は乱れ、互いの姿を見失うまでになった。
 総指揮官の林中佐は、作戦決行後の隊員の収容が困難になると判断し、22:30過ぎ各隊に「行動中止」の信号を発した。しかし、荒天の暗夜とあって命令は徹底せず、新発田丸に従って突入を中止したのは12隻中わずか4隻にすぎなかった。

 各船は互いの状況も不明のまま、各個に旅順港口を目指した。日付変わって3日02:00頃、まず三河丸が先頭を切って突入を図り、二重に敷設された防材を突破して港口に向かった。次いで佐倉丸がその後を追い、さらに遠江丸がかろうじて集結できた小樽丸、相模丸、江戸丸、愛国丸の先頭に立って突入を敢行した。
 迎え撃つロシア軍の砲台と港内在泊の艦艇からの砲撃は以前にもまして熾烈なものになり、探照灯による眩惑と敷設された防材が閉塞船の行く手を阻んだ。ほとんどの船が予定地点に達することが出来ず、あるものは探照灯による眩惑で位置を錯誤し、あるものは機関を破壊され進退不能となって自沈していった。

 朝顔丸は作戦中止の信号を受け、新発田丸に従って途中まで引き返したが、僚船の決行を知って再び針路を転じ、単独で突入を図った。しかし、砲台からの集中砲火を浴びて黄金山付近で撃沈された。

 第三次閉塞作戦に従事した隊員のうち、佐倉丸と単独突入した朝顔丸からは遂に1名も還らなかった。国内ではこの決死的作戦に従事した隊員に対して賞賛の声が寄せられ、その活躍が歌にも唄われている閉塞隊
 東郷司令長官は大本営に対し「第三次閉塞作戦は概ね成功せり」と打電したが、その後もロシア艦艇の出入港は可能で、国内での評判とは裏腹に、三次に渡る閉塞作戦が失敗に終わったことを示していた。

図1 閉塞船沈没位置及び旅順要塞砲台概略図
旅順港口付近概略

 上掲図から、後期の作戦になるほど港口に近づくことが困難になっていることが分かる。戦力の逐次投入でロシア側に警戒され、港口における駆逐艦や水雷艇の待ち伏せ、防材の配置などを行う余裕を与えてしまったことが最大の原因であろう。

旅順港口に消ゆ
 閉塞船として旅順港口に自沈した輸送船は、いずれも海軍に徴用された「海軍御用船」から調達され、自沈用爆薬及び石塊とセメントが搭載された上、船橋など主要部分には防護用のマントレットが装着されていた。後期の作戦では戦訓から数門の機関砲を搭載したこともあったようだ。

 三次の閉塞作戦を通じて準備された船舶は計21隻59,112総トンで、明治38年(1905)における日本の総船腹量約93万総トンの実に6%強に及ぶ。実際に旅順港口に自沈した船舶は17隻46,532総トン、5%に相当するが、当時の日本にとって実に膨大な船腹の喪失であったと言える。

 日露戦争開戦時最大の海運会社であった日本郵船は、その所有船舶76隻約25万総トンのうち翌38年春までに9隻1万3千総トンを残してすべて徴用されており、この閉塞作戦にも10隻2万4千総トンが参加、8隻2万総トンが失われている。

表4 閉塞作戦に従事した日本郵船所属船舶
船名 総トン数 建造年及び場所 購入時期 参加次数
仁川丸 2,190t 明治10年(1876)10月 英サンダーランド 明治27年(1893)6月購入 三次
遠江丸 2,380t 明治16年(1882) 英サンダーランド 創業時からの継承船,鉄船 三次
相模丸 2,108t 明治17年(1883) 英ニューカッスル 創業時からの継承船,鉄船 三次
長門丸 2,120t 明治17年(1883) 英ミドルスブラ 創業時からの継承船 一次
三河丸 1,940t 明治17年(1883)5月 英サンダーランド 明治25年(1891)3月購入 三次
小樽丸 2,374t 明治19年(1885)5月 英ニューカッスル 明治29年(1895)11月陸軍省払下 三次
天津丸 2,908t 明治20年(1886)2月 英ウェスト・ハートルプール 明治28年(1894)3月購入 三次
小倉丸 3,340t 明治20年(1883)9月 英グラスゴー 明治29年(1895)11月陸軍省払下 三次
佐倉丸 2,953t 明治20年(1886)10月 英グラスゴー 明治29年(1895)11月陸軍省払下 三次

 日露戦争当時、海軍艦艇のほとんどが輸入されたものであったように、日本の商船隊もまたその船腹のほとんどを国外で建造された船舶に頼っていたのである。当時の日本の国力を如実に示すものであろう。

(以上)

公開:02/10/14
一訂:02/10/29


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