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 第一章  食料戦士の名の下に


 昭和20年(1945)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾、太平洋戦争は終結した。この日、日本の主義主張を賭した戦いは終わり、日本が生き延びるための戦いが始まった。


一 敗戦、そして

1.終戦直後の食糧事情
 敗戦の衝撃を日本人の心に刻み、昭和20年の夏は終わりを告げた。しかし、収穫を祝うべき実りの秋はやってこなかった。生産設備の軍需転用や戦災による肥料の供給不足、徴兵による労働力不足に加え、夏には冷害と風水害が日本列島を襲い、稲作、畑作共に明治38年(1905)以来40年ぶりの凶作となった。冷害の原因は親潮の南下といわれており、イワシやサバなど大衆魚の魚影も沿岸を遠く離れ、漁船と労働力の徴用、戦災や燃料油不足で水産業が弱体化していたこともあって、漁獲高は大きく減少した。
 さらに、総計650万人を数える海外からの復員と引揚が始まり、流入する人口が食糧不足に追い打ちをかけた。日本は戦前でさえ年間の食料消費量のうち、およそ2割を植民地や海外からの輸入に頼っており、敗戦によってこれらが絶たれた今、食糧危機は、現職の大蔵大臣が新聞紙上で餓死者1,000万人の可能性を公言する事態に至っていた。

 終戦当時、主食の配給は1人1日に米2合1勺*1(297g)と定められていた。この年の7月、食糧不足からそれまで2合3勺(330g)だった配給を、1割減配としたものである。この2合3勺という数字ですら、昭和16年(1941)4月の配給制度施行時に、当時の米の供給量を基準に1人当たりの割当量を算出したもので、必要カロリーを考慮した数字ではなかった。前年の昭和15年における1人当たりの米の消費量は約3合(約450g)であり、およそ3割の減少である。当初は各家庭で副食を購入することで補えたものの、戦況が厳しくなるにつれて食料を手に入れることが困難になり、配給への依存度が高くなってくると、摂取カロリーの問題が露呈し始めた。
 米はつき減り防止のため七分づき玄米とされていたものが、やがて五分づき、二分づきと次第に黒くなり、総合配給と称して麦、とうもろこし、大豆、さつまいもなどの雑穀が代替食糧として配給されるようになった。これら代替食糧がカロリーではなく、米との重量比を基準に配給されたこと、戦争末期には大都市における配給の半分以上が代替食料となっていたことが、摂取カロリーのさらなる低下を招いた。遅配欠配も日常茶飯事であり、この年の東京における主食の平均遅配日数は18.9日であった。

 戦前に厚生省が発表した「日本人栄養要求量標準」によれば、『日本人平均一人一日栄養要求標準』は熱量2,000Cal*2、蛋白質70gとされ、標準的な労働者はそれぞれ2,400Cal、80gが必要とされていた。しかし、昭和20年の国民一人当たりの栄養摂取量は1,793Cal、65.3gと、その数字を大きく割り込んでいた。 しかも、配給食糧だけで得られるカロリーはその半分強でしかなく、人々は闇物資で糊口をしのいでいる有様だった。

2.「長門」貸します
 戦後の深刻な食糧危機の解決方法として、当時もっとも有力視されていたのが捕鯨であった。戦前から日本人の蛋白摂取量のほとんどは水産物によるものであり、飢えた国民に蛋白質を供給できる見通しが立つ唯一の方法でもあった。
 しかし、戦争終結直後の昭和20年9月に連合軍総司令部(GHQ)が出した「日本の漁業、捕鯨業の認可された区域に関する覚書」によって、日本漁船に許可されていたのは日本近海の一定水域内における操業のみであった。通称『マッカーサー・ライン』の設定である。捕鯨船やトロール船のほとんどが特設特務艇として徴用され、全滅に等しい被害を受けていたこともあって、日本の遠洋漁業は文字通り手も足も出ない状態だった。

 まず動き出したのは大洋漁業である。戦前は「まるは」の林兼商店として名をはせ、南氷洋捕鯨専門の大洋捕鯨を設立して南氷洋捕鯨の立役者となった。戦争中の漁業統制には最後まで抵抗し、昭和18年(1943)に林兼商店の内地水産部門と大洋捕鯨などを統合して西大洋漁業統制株式会社となった後、戦後水産統制令が撤廃されると西大洋漁業株式会社と名を変え、最後に「西」を取って大洋漁業の社名に落ち着いた。
 大洋漁業は統制会社設立の際、冷凍・冷蔵設備の買収に応じず、水産物の販売に対しても介入を許さなかったため、戦後の経営の立ち直りは比較的早かった。一方、戦前捕鯨のもう一人の立役者である日本水産は、戦争中「食料報国」の社是の下、経営の要である冷蔵・冷凍、加工・販売部門を統制会社に譲渡しており、戦後は占領政策による自主経営の大幅な制限を受けたため、再建に一歩遅れを取っていた。

 大洋漁業は戦前の実績と経験を元に、小笠原捕鯨の基地捕鯨の許可をGHQに申請した。そして、昭和20年(1945)11月3付で日本本土の捕鯨基地を利用した近海捕鯨の許可を得た。11月30日には小笠原諸島を含む三万平方海里において操業する特別許可を得ることができたが、捕鯨海域はもとより、そこに到達するまでの航行区域までもがGHQによって定められていた。さらに、当時日本の領土ではなかった小笠原諸島の「領海」3海里*3以内に入ってはならない、との条件がついた。期間はこの年の12月1日から翌21年3月末までとされた。

 大洋が小笠原の母島に持っていた戦前からの捕鯨基地が利用できないとあっては、捕獲した鯨を処理するために捕鯨母船を持っていかなければならない。当時、大洋漁業をはじめ日本水産、極洋捕鯨の捕鯨三社は戦争で母船をすべて失い、手元にはわずかな数の捕鯨船を残すのみとなっていた。
 社内ではさまざまな母船の案が検討され、大きな筏の上で解剖する、捕鯨船を空母のように改造し甲板の上で解剖するなど、奇想天外な方法が真剣に議論された。最終的に、捕った鯨を舷側に吊り下げて解体する方法が検討され、現状ではこれが最適ではないだろうかという話にまとまりかけていた。もっとも、舷側解体はかつて19世紀にアメリカの捕鯨船が行っていた方法だが、鯨油の採取に主眼を置いたものであるから、鯨肉を食用にしたい日本には適さないというのが実情であった。

 ちょうどその時、横浜の浅野ドックで修理中の捕鯨船の隣にスリップウェイのついた軍艦がいる、という情報が持ち込まれた。それは都合がいい、何とかしてそいつを借りられないだろうか、ということになり、早速第二復員省(元海軍省)の軍務第三課に話を持ち込んだ。「鯨を取るから軍艦を貸して貰いたい」との申し出は、戦争中は元よりおそらく大日本帝国海軍始まって以来のことであり、請われた方は突拍子もない話に驚いたことであろう。

 しかし、「よし、何でも貸してやる」と示されたリストを見て、申し出た方も仰天した。なんと第一行目に『バトルシップ・ナガト、三万三〇〇〇トン、八万馬力、ダメージ』と記されていた。年明けて昭和21年(1946)1月のことである。

3.一等輸送艦奮戦す
 鯨を取るのにそんなに大きな船は要らない、こんな格好をした船だと説明すると、「その船なら横須賀にいる」と紹介された。翌日早速探しに行ったが、それらしい船は見当たらない。折悪しく、ちょうどその前日に入渠修理のため呉に回航されていたのである。
 こうして白羽の矢が立ったのが特別輸送艦第十九号こと、元一等輸送艦*4第十九号である。一等輸送艦はガダルカナルの戦訓を元に、敵制空権下での島嶼への強行輸送を目的として建造された高速重武装の輸送艦で、搭載する大発*54隻を短時間で降下させるため艦尾にスロープが設けられていた。これを捕った鯨を引き上げるスリップウェイの代わりに使い、甲板上で解体作業を行なおうというものである。
 昭和20年5月16日に竣工して以来、戦争中は瀬戸内海で回天の輸送、戦後は武装を撤去して復員輸送に従事していた十九号は、元海軍軍人の艦長以下全乗組員80名が、艦もろとも大洋漁業に貸与されるという前代未聞の事態を迎えることになった。何しろ前例のないことであり、元軍艦であるから検査証書もない、救命設備もない、総トン数も分からないという状態でのスタートであった。

一等輸送艦
一等輸送艦

(以後の画像はすべて同一縮尺)

 それでも十九号は翌昭和21年(1946)1月下旬から呉の旧海軍工廠で改装を開始、どうにか捕鯨母船の形を整えて、2月半ばには下関唐戸に入港し燃料を搭載した。当時、燃料事情は極度に逼迫しており、C重油の入手は困難であったため、魚油、大豆油、クレオソート、コールタールなどを混入したものを使用したという。そして2月24日、マストに大洋の社旗と軍艦旗を掲げた急造の母船は、進軍ラッパを高らかに吹き鳴らし、日新丸行進曲と軍艦マーチを流しながら漁場に向けて出港した。当日の新聞は『回天鯨取りに行く』との大見出しで報じたが、『帝国海軍のなれのはて』と余計な一言を書いて十九号乗組員の怒りを買った。

 一方、船団を構成する各船も相次いで各地を出港し、小笠原諸島の母島付近で母船と合流、捕鯨船団を組んだ。文丸(359t)、第二関丸(359t)の2隻の捕鯨船と、70〜80tの木造鯨肉運搬船新生丸級5隻、処理船第35播州丸(998t)の計8隻という小所帯で、船団長はこれを『おもちゃのような船団』と評している。こうして、世界捕鯨史上初の小型母船式捕鯨が開始されたのは3月1日のことであった。

 この時期の小笠原近海はうねりが高く、北東の季節風が吹き荒れていた。母船は燃料節約のため常に母島付近で漂泊していたが、平底のためか波に叩かれる振動が激しく、まもなくジャイロコンパス、ついで撤去されずに残っていた二二号電波探信儀が壊れてしまった。武装を下ろしたため喫水が浅くなっており、潮流によって捕鯨船よりも早く流され、捕鯨船と母船が互いの位置を見失うことも多かった。

 捕った鯨は塩蔵にして運搬船で東京にピストン輸送されたが、何しろ木造船である。第一新生丸は母船の四角い船尾に接触、機関室に大穴を開けられ大破した。魚箱の蓋とキャンバスで応急修理の後、僚船の第七十六新生丸に付き添われて東京に向かったが、これが小笠原捕鯨で得られた鯨肉の内地向け第一便となった。本来第一便となる予定だった第三新生丸の如きは、同じく接舷時の衝撃で「撃沈」されてしまっていた。残りの運搬船も母船との接舷時に受けた損傷であちこちが小破し、満身創痍の見るも無残な姿であったという。
 また、母船の狭く傾斜した甲板の上での解体作業は困難を極めた。剥き出しの鉄板は太陽に熱せられ、その上で処理するため鯨肉が腐って異臭を放ち、倒れる作業員も出た。さらに燃料や清水を消費するにつれて重心が上昇し、ローリングが激しくなった。52フィート(15.8m)のマッコウ鯨1頭を引き上げるのに、何回も転げ落ちて半日以上かかったこともあったという。

 そして4月18日、燃料欠乏のため捕獲頭数113頭、油肉その他の生産量1,005トンをもって操業は切り揚げとなった。八丈島で作業員を捕鯨船に移して捕鯨船はそれぞれの母港へ向かい、十九号は下関を出港してからちょうど2ヶ月後の4月23日、東京へ帰港した。『ボロ雑巾のような』と酷評されたものであったが、東京ではこの塩蔵鯨肉が臨時配給され、食糧不足の中では貴重な蛋白源となった。

 翌昭和22年(1947)、大洋漁業は十九号に加え、十六号も動員して小笠原捕鯨を開始する。前年の「戦果」に懲りたのか、一方が母船となって操業している間、他の一隻は運搬船となって東京に鯨肉を輸送するという方法を取っていた。
 この年は極洋捕鯨も十三号を捕鯨母船に改装、日本水産と共同で捕鯨船団を仕立てて小笠原捕鯨に加わった。この頃撮影されたと思われる写真に、船尾のスロープ端部に「ハ」の字型のガイドを設け、スリップウェイ代わりとした一等輸送艦が写っている。

 しかし、敗戦国である日本は、残存した海軍艦艇を戦勝国である連合国4ヵ国(アメリカ、イギリス、ソビエト、中国)に引き渡すか解体処分し、海軍そのものを解体する戦後処理を行う必要があった。復員輸送と掃海任務にほぼ目処が立った21年夏以降、特別保管艦の指定を受けた駆逐艦以下の元海軍艦艇150隻が各地に集結を開始した。そして翌22年の7月から10月にかけて、最終集結地の佐世保からそれぞれの引渡し場所に向かって出港していった。
 捕鯨に従事したこれら元一等輸送艦もその例に漏れず、九号がアメリカ、十三号がソ連、十六号が中国、十九号がイギリスに引き渡された。ソ連と中国はそれぞれ自国の海軍艦艇として使用したが、アメリカとイギリスはスクラップとして日本の造船所に売却、十三号が昭和22年(1947)12月、九号が翌23年6月に解体されている。なお、昭和23年の小笠原捕鯨は、大洋漁業が賠償艦の指定を受けた九号を母船として行っている。

 こうして、一等輸送艦を母船とした小笠原捕鯨は終わりを告げた。戦後に残存した一等輸送艦6隻のうち、復員輸送中の21年9月に台湾の澎湖諸島で座礁放棄された二十号と、未成のまま解体された二十二号以外の全艦が捕鯨母船として捕鯨事業に従事したことになる。終戦直後の食糧難を支えた彼女達の活躍はほとんど知られていない。

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*1…米1合=10勺=約150gで数値が一致しないが、メートル法で算出した数字に尺貫法を適用したため。依然尺貫法が市場で通用していたための措置であろう。

*2…現在と単位が違うように思えるが、かつては1文字目を大文字"C"で表記した場合kcalを意味していた(大カロリー,1Cal=1kcal=1,000cal)。紛らわしいとの理由で使われなくなったが、確かにカタカナ表記がなされるとどちらの意味か分からなくなる。

*3…上陸を禁止された、12海里(12kmの誤りか?)など資料によって異なる。

*4…一等輸送艦要目
排水量:1,800t
全長/全幅/喫水:89m/10.2m/3.6m
主缶:ホ号艦本式2基
主機/軸数:蒸気タービン1基1軸
出力:9,500hp
最大速力:22kt
武装:
 40口径12.7cm連装高角砲1基
 25mm機銃3連装2基、連装1基、単装4基
荷役装置:
 前檣:5tデリック2基(後位)
 後檣:13tデリック1基(後位)、5tデリック2基(前位)

*5…大型発動機艇の略。全長14.6m、全幅3.35m、排水量約20t、搭載量10t、速力約8kt。第二章の「三 極光の下に日の丸揚げて」注6参照。

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二 蛋白源を確保せよ

1.南氷洋への道程
 小笠原捕鯨での実績を元に、次はより成果の見込める南氷洋捕鯨を実施したい、との声が関係者から上がり始めた。政府、特に食料を管轄する農林省(元農商務省)は、蛋白源確保の切り札として熱心にGHQに陳情している。GHQとしても、食糧危機の対策としてアメリカの余剰農産物である小麦の供給は可能なものの、蛋白質・脂肪源までは手が回らない。戦争に負けた国の国民に、これ以上自国民の税金を使った援助は出来ないのである。
 もし母船式南氷洋捕鯨を再開すれば、鯨肉は蛋白源となるし、鯨油は輸出商品となる。当時、鯨油はマーガリンや石鹸、グリセリンなどの重要な原料であり、その消費量は植物性油脂の大豆油と並んで動物性油脂の筆頭に位置していた。戦前からの絹製品程度しか輸出品のなかった日本にとって、新たな外貨獲得手段が増えることになる。

 大洋漁業はすぐに出漁を決定したが、戦前6船団の実績をもつ日本が1船団では不足として、農林省は正式申請を延ばして日本水産に出漁の意向を打診した。しかし、日水は占領政策に基づく各種の経営制限を受けており、大きな赤字を抱えていたこともあって乗り気ではない。渋る日水の経営陣に対し、農林省は鯨肉の公定価格引き上げなどで「損はさせない」と説得している。
 こうして2船団出漁の申請はGHQに受理され、昭和21年(1946)8月8日正式に出漁許可が下りた。もっとも、内諾は2ヶ月以上前に通達されており、母船の確保など準備は水面下で着々と進められていた。戦後初の南氷洋捕鯨への出漁は、戦争の傷跡癒えぬ当時の日本にとって、まさに国家再建を賭した一大事業である。出漁に要する資金は大蔵省が斡旋することに決定された。

 この流れに乗り遅れたのが極洋捕鯨である。戦前の母船式捕鯨三社の一つである極洋捕鯨は、戦争で母船を始め捕鯨船を含む保有船舶のすべてを失うという大きな痛手を負っていた。この為、終戦直後から戦争中に台風のため奄美大島の名瀬港で座礁、放棄された捕鯨母船極洋丸の引き降ろしをGHQに交渉していたが、ついに許可が下りなかった。急いで母船に適当な船舶を探したものの時すでに遅く、この年の出漁は不可能となった。

 日本の南氷洋出漁にあたっては、「敗戦国が負けて1年も経たないのに1万トン以上の大型船を建造するのは早すぎる」との反対意見がオーストラリアやノルウェー、イギリス、ニュージーランドなどから出された。日本が戦前に国際捕鯨協定に加盟しなかったことによる不信感もあったのであろうか、イギリスとノルウェーは以後平和条約締結まで毎年抗議を行い、オーストラリアは後に第一次南氷洋捕鯨に出漁した2隻の捕鯨母船を戦時賠償として要求さえした。これらの意見に対し、アメリカは「反対する国は日本向けに一千万ドルの食糧援助をしてもらいたい」と出漁を強行させた。

2.捕鯨船団復興
 出漁にあたって、一番の問題となるのは母船の調達である。戦前日本にあった捕鯨母船6隻はいずれもタンカーとして徴用され、戦火の中ですべて海の藻屑と消え去った。今から新造船を作る時間はない。もしあったとしても、資材がない。母船に適した大型のタンカーを改装するのが最良の策であるが、開戦時に就航していた大型油槽船42隻のうち、無事終戦を迎えることが出来たのは船齢17年のさんぢゑご丸(7,269t)ただ一隻であった。残るは戦争中に建造された戦時標準船*1である。

極洋丸(初代)
極洋丸(初代) '44喪失

 それより前の昭和20年10月20日、GHQが敗戦で工事が止まっていた戦標船の建造続行を指示し、翌年1月には建造中止となっていた戦時標準船の建造工事の続行許可が発令されていた。

 大洋は三菱重工長崎造船所で建造中工事中止の状態で原爆に遭い、船台上に放置されていた3TLの型大攬(だいらん)丸を購入、製油工場設備を除いて6,291万円という大金を投じて改装した。同船は新契約建造第1350番船として進水し、昭和21年10月15日完成、捕鯨母船第一日新丸となった。3TLは元々主機関に出力1万馬力の蒸気タービンを搭載する設計であったが、どこでどう間違ったのか三菱では5千馬力ということになっており、大洋が気づいたときにはすでに出来上がっていて手遅れだった、という逸話がある*2
 主な改装部分としては、船尾にスリップウェイを開口し、原型である油槽船の上甲板上にもう一層甲板を新設して製油工場を設け、その上を解剖甲板とした。もっとも、この解剖甲板は全体に渡って歪みが多かったという。船体前後部に新たに作業員の居住区画が設けられたこともあって総トン数はかなり増加し、喫水が1メートル余り深くなって復元性能が悪化したため、数百トンの固定バラストを搭載して調節した。それでもなおGM値は大きい方ではなかったが、乗り心地がよいと評判の船ではあったようだ。

第一日新丸
第一日新丸 (3TL型) 大洋漁業所属,'47電探装備時

第一日新丸内部構造図
薄黄:製油工場 水:清水槽 濃水:脚荷水槽 緑:倉庫 赤:固定バラスト
濃灰:鯨油槽 灰:燃料油槽(含む脚荷水槽) 桃:主機械室/缶室 橙:居住区

 日水は自社所有船の1TL型橋立丸を捕鯨母船に改装することを決定した。同船は昭和20年1月に台湾で爆撃を受け大破、大阪に回航して繋留されたまま終戦を迎えており、日立造船桜島工場で捕鯨母船への改装工事に着手した。
 しかし、同船は右舷の4番油槽付近に直撃弾を受けており、被弾箇所付近の船腹は膨らんで甲板は波打ち、縦隔壁は跡形もなく吹き飛んでいた。さらに機関室は火災で全焼、船底は座礁のため全面に渡って損傷、おまけに船体が斜めにねじれているという有様であった。
 この半ば廃船同様の船をわずか5ヶ月の工期で母船へ改装するため、工事の内容は必要最小限にとどめられ、第一日新丸に比べて解剖甲板の面積も小さく、船内工場の設備も貧弱ながら、10月21日にはどうにか完成に漕ぎ着けた。

 両母船の建造は突貫工事で行なわれた。11月初めには出港しないと南氷洋捕鯨の漁期に間に合わない。許可が下りてからの期間はわずか3ヶ月である。
 しかし、造船所も戦争中の爆撃で被害を受けており、満足な食糧の配給もない工員たちは生彩を欠き、一向に仕事がはかどらない。インフレと低賃金のため、三菱長崎では随所に赤旗が翻っていたようだ。造船所のある長崎県や大阪府に米の特別配給を要請したり、工員達に支給する夜食を手に入れるため、漁船で魚を東北まで運んで米と交換するなどの非合法手段も行なわれた。時には「進駐軍命令」という超法規措置も動員し、なんとか完成に漕ぎつけた。

 捕鯨船団は鯨を解体し各種製品に加工する捕鯨母船の他、鯨を発見し捕獲する捕鯨船、母船から運ばれてくる鯨肉を加工・保存処理する塩蔵/冷凍工船、処理された鯨肉製品を持ち帰る中積運搬船、往航には船団の燃料油、復航には鯨油を運搬する中積油槽船などから構成されている。これらもほぼすべてが戦争で失われているため、新たに調達する必要があった。一番手っ取り早いのは現存する船、つまりは戦標船からの改装である。

 第一日新丸と同じく三菱長崎で建造中、艤装段階で原爆に遭遇し放置されていた3TL型ひらど丸は、新契約建造第1351番船として大洋の塩蔵工船天洋丸に生まれ変わった。購入価格は650万円であったが、その倍近い1,200万円を投じての改装である。なお、こちらは間違いなく1万馬力の能力を持つ蒸気タービンが主機として据え付けられたが、翌年主缶1基を取り外して第一日新丸へ移設したので、結局やはり5千馬力になったという逸話がある*2
 同じく神戸川崎造船所で建造中、艤装段階で工事中止となり放置されていた1TL型多度津丸は竣工後日水に売却され、塩蔵工船となった。こうして2隻共に第一次南氷洋捕鯨船団に加わっている。

 堪航性の高さを買われ、そのほとんどが特設駆潜艇として徴用された捕鯨船は、戦争中に多数が沈没または行方不明となり、終戦まで生き残ることが出来たものは僅かであった。これを補充するため日水は350t型、大洋は300t型と呼ばれる捕鯨船をそれぞれ1隻及び6隻発注し、川崎、三井、三菱神戸などの造船所が建造を担当した。
 日水、大洋共に、当時三井造船所が在庫として持っていた潜水艦用二二号ディーゼルを1台50万円で払い下げを受け、定格2,100馬力から1,600馬力にスペックダウンして主機に使用することとした*3。これに残存船も加えて日水は5隻、大洋は6隻が捕鯨船団に参加した。
 こちらでも工員達の食料を調達するため、近海捕鯨で取った鯨と米を物々交換し、いわゆる「闇米」を造船所に運び込んだこともあった。

興南丸
興南丸 (22号10型ディーゼル装備) 日本水産所属,'48竣工時

(この画像のみクリックすると拡大したものが見られます)

 乗組員や作業員*4には事欠かなかった。戦争で乗るべき船を失った船員や漁船員はいくらでもいた。職にありつくのさえ難しい時代、鯨の解体作業に従事する作業員の募集には応募者が殺到して、南氷洋に行くには捕鯨関係者に米1俵くらいの袖の下が必要、との真偽の定かでない噂が流れていた。
 国家的事業である捕鯨船団は、農林省をはじめ大蔵、商工、運輸、厚生各省が全面的に支援し、当時の食料不足と物資欠乏の中、主食は航海中は1人1日5合5勺(約825g)、操業中は8合(約1,200g)の米換算率で配給された。当時の米の配給量が2合3勺であったのと比較されたい。さらに、1ヵ月あたり砂糖2斤(1.2kg)と酒1升、1日あたりタバコ10本が特別配給になった。衣類は船舶工兵のものが支給された。捕鯨船団に参加すれば米の飯が食べ放題、これを目的に乗船したものもいたという。
 そして何より、金銭的な実入りが大きかった。捕鯨船団に参加すると、月給、諸手当以外に歩合金という生産トン数に基づく手当が支給される。その金額だけでも母船の下級士官で約16万円、作業員で約10万円というものであった。当時最も額面の大きい紙幣は百円札であったから、10万円ともなるとその厚さは10cmを超える。当時はインフレの真っ只中であったが、20万円あれば大都市の市街地に庭付の一戸建が買えた時代である。

3.氷海での闘い
 こうして両社共、出漁の期限までに何とか捕鯨船団を仕立てることが出来た。慌しく出港準備が行なわれ、母船が竣工してからそれぞれわずか3週間という驚異的なスピードで出港にまで漕ぎつけた。

 盛大な壮行会が催され、11月7日に捕鯨母船橋立丸、塩蔵工船多度津丸他からなる日水の橋立丸船団が大阪を、11月18日には捕鯨母船第一日新丸、塩蔵工船天洋丸、捕鯨船5隻他計9隻からなる大洋の日新丸船団が母港長崎を、相次いで南氷洋を目指し出港していった。
 それぞれの港には船団乗組員の家族や一般市民数千人が集まり、満艦飾の船団を見送った。船団に並走する紅白の幔幕をまとった見送りの船からは、万歳の声援と「蛍の光」、そして振られるハンカチの波が送られた。これらの船にはキャバレーのホステスや花街の女性まで乗船していたという。

 敗戦国日本の希望の星は、焼け跡から復興再建への期待と意気込みを背負って勇躍日本を発ったものの、にわか仕立ての悲しさ、船団にはたちまち問題が続出する。

 まず、日新丸船団の母船第一日新丸が、出航後一昼夜にして主機減速ギヤの軸受ベアリングを焼損し、長崎に帰る羽目になった。三菱長崎造船所の岸壁で修理を行い、2日後の22日に改めて南氷洋に向けて出港している。さらに、日新丸船団の塩蔵工船天洋丸も20日に二号主缶の空気予熱器のダンパーを焼損し、6日後にフィリピン沖から引き返してこちらも一週間ほど三菱長崎のお世話になっている。この時上陸の希望者は皆無であったというが、無理もないことであろう。天洋丸が再び出港できたのは12月5日になってからのことである。
 同じく大洋に所属する二十二号ディーゼルを装備した捕鯨船。主として東北地方からそれぞれの母港を出港し、洋上で母船に合流を果たしたものの、こちらは工作不良か、低質な燃料油と潤滑油か、はたまた取り扱いが悪いのか、頻繁に故障を起こして洋上修理を繰り返し、ただでさえ鈍足な船団の船足は一層鈍ることになる。

 こうして南氷洋までの航海に手間取っているうちに、ひげ鯨の解禁日(12月8日)を過ぎてしまった。当時、日本は国際捕鯨条約に加盟していなかったものの、他国の捕鯨船団に遅れをとったことになる。故障続きで手間取った大洋の日新丸船団が漁場に到着したのは、解禁日から半月遅れの12月23日であった。日水の橋立丸はまだしも順調で、15日に到着してすでに操業を始めている。
 出足につまづきこそあったものの、ここに記念すべき戦後第1回目の南氷洋捕鯨が開始されたのである。日本ではこの年の南氷洋捕鯨を一次として第何次南氷洋捕鯨(南鯨)という表現をするが、これは日本独自のものであり、世界的には1946/47年漁期と表記する。この年は他にノルウェー、イギリス、オランダ、ソビエトなどが南氷洋の母船式捕鯨に出漁している。

 日本の戦前と戦後の南氷洋捕鯨における大きな違いは、戦前は沿岸捕鯨との競合を避けるため許可されたもの以外は鯨肉の国内持込みが禁止されており*5、欧米式捕鯨と同様に鯨油の採取のみを目的としていたが、戦後は蛋白質供給のため鯨肉を塩蔵又は冷凍し日本まで運搬するという、新しい油肉併用方式を始めたことである。戦後も欧米諸国が採油コスト高を理由として、脂肪分の少ない赤肉を海中投棄していたのと対照的であり、これが後に南氷洋捕鯨船団の経営面において、欧米諸国との決定的な差となって現れてくるのである。

 しかし、時は未だ敗戦の翌年である。母船の欠陥は南氷洋で再び露呈した。大洋船団の日新丸では、パイプの接手やバルブで完全に締まるものがなく、ウィンチや暖房の蒸気が通りっぱなしになったり、随所で蒸気が漏れ放題になっていた。母船の船内工場では、鯨の骨や内臓など食用に適さない部分をクワナーボイラーに投入して鯨油を採取するのだが、蒸気を大量に使うため、製油工場が稼動し始めた途端に母船の速度は3ノットまで低下した。仕方がないので6基のうち半分の3基を止め、ようやく6ノットで走ったという。
 さらに、操業開始3日目にして圧力の落ちた主缶にクワナーボイラーの鯨油が逆流する事故まで起きている。日新丸はこの修理が終わるまで2昼夜に及ぶ休漁を余儀なくされた。ちなみに、橋立丸は日新丸が漁場に到着した翌日に同じ事故を起こしており、注意するよう連絡を受けた矢先の出来事だった。
 機関自体の故障も頻発していたらしく、船団長は機関長が近くに来る度に「また事故か」と冷や汗が出たという。なんとも頼りない母船達である。

 「5年も10年も使うような船には、今の手持ち材料ではとても無理だ」 造船所の技師が語っていた言葉は真実だった。

4.凱歌を上げて
 こうした苦難を乗り越えて操業は続けられ、翌昭和22年(1947)3月中旬に両船団とも切り揚げを迎えた。第一次南氷洋捕鯨の「戦果」は日本水産の橋立丸船団が捕獲頭数シロナガス換算(BWU)*6391.5頭、生産量は鯨油3,700t、鯨肉10,557t。大洋漁業の第一日新丸船団が捕獲頭数540.5頭、生産量は鯨油8,560t、鯨肉11,609.8tで、橋立丸船団に捕獲頭数149頭、生産量5,862tの差をつけて明暗が大きく分かれる結果となった。

 大洋の塩蔵工船天洋丸は、満載喫水線を超過するまで鯨肉を積み込み、入港前に搭載している水や燃料を捨てて喫水を調整するという、あまり大きな声では言えない作業を行なっている。一方の日水はというと、入港時に赤旗を立てて荷役拒否をやっている有様だった。

 なぜ両船団でこれほどまでの差が出たのであろうか。実は、橋立丸は母船への改装工事を南氷洋出漁に間に合わせるため、船体中央の船橋楼をそのままに後甲板だけを解剖甲板とし、製油設備もクワナーボイラーを3基設置しただけで急ぎ出漁したため、母船の処理能力が大きく劣っていたのである。
 しかも、例の如く配管からの蒸気漏れがひどく、主缶が1基不調で缶水が常に不足気味であった上に造水機の故障も頻発し、乗組員は不眠不休の修理に明け暮れていたという。このため、日新丸が1日当たりシロナガス鯨12頭程度の処理能力を持っていたのに対し、橋立丸はその半分以下であった。

 日新丸のクワナーボイラーも蒸気漏れは同様であったが、ボイラー自体にある仕掛けが施してあり、その能力に差があった。日新丸のクワナーボイラーは4時間で空になるらしいが、橋立丸のそれはなぜ4時間以上を必要とするのか。橋立丸船団の船団長以下、現場の作業員まで頭をひねって考えたが、原因はさっぱり分からずじまいであった。
 結局、GHQから派遣された監督官が船団幹部を率いて漁場で日新丸を視察し、ようやくその秘密が分かった。ボイラー内部の回転筒に原料を破砕する刃がついており、処理に要する時間が短縮されていたのである。早速橋立丸でも同様の改造が行なわれた。

 何はともあれ、第一次南氷洋捕鯨の結果、南氷洋捕鯨船団が日本にもたらした蛋白質は膨大な量に上った。当時、大量の肉を保存する技術がなく、お世辞にも上等とは言えない品質のものがほとんどであったが、食糧不足にあえぐ当時の日本にとっては非常に貴重なものであった。2月に中積運搬船によって運ばれた初荷は、東京都で都民1人30匁(120g)の配給となって食卓にのぼっている。
 もっとも、粗製濫造の結果、製品の評判はきわめて悪く、戦争中からこの時期にかけての塩蔵肉配給で徹底的な鯨肉嫌いとなった人も相当な数に上るようだ*7。戦前は捕鯨基地周辺を除き、ほとんど西日本でしか消費されることのなかった鯨肉が、庶民の食卓に上るようになったのも同じ時期で、終戦前後の食糧危機が戦後日本の鯨肉文化を形成したとも言える。

 この年の南氷洋における各国の鯨の総捕獲頭数はシロナガス換算15,304頭で、日本の2船団を合計しても932頭、わずか6%に過ぎない。1位のノルウェーは7船団で7,320頭を捕獲し50.6%、2位のイギリスは3船団で4,108頭26.8%を占めており、戦後日本の南氷洋捕鯨出漁に協力的であったアメリカの態度を含めて、まさに隔世の感がある。なお、この年は他にソ連、オランダ、南アフリカ連邦がそれぞれ1船団を南氷洋捕鯨に参加させており、以後これら捕鯨国の顔ぶれはほぼ変わらない。
 イギリス、ノルウェーは第二次世界大戦終結直後の昭和20年(1945)から南氷洋捕鯨に出漁しており、目的は不足していた食用油脂の供給であった。程度の差こそあれ、食料不足に悩んでいたのは欧州各国も同様だったのである*8

 なお、第一次南氷洋捕鯨には、太平洋戦争を唯1隻生き抜いたあのさんぢゑご丸も、中積油槽船として参加している。さんぢゑご丸は以後3度の南氷洋航海を経験し、昭和35年に船齢32年で解体されるまで、日本への原油輸送に従事している。

-***-

*1…戦時標準船とは、太平洋戦争における船舶需要の増加に伴って、統一規格で船舶を建造することによって生産性の向上を図ったものである。特に後期に計画されたものは短い工期と少ない資材で隻数を確保することが重要視されたため、速力や耐用年数の低下を忍んで構造や艤装が大幅に簡易化されていた。

*2…この2つの逸話は裏が取れていないが、後者のうち少なくとも『第一次南氷洋捕鯨後、天洋丸から21号水管缶改を1基陸揚げ整備し、第一日新丸に移設した』のは事実であるようだ。
 3TLは21号水管缶2基/蒸気タービン1基1軸/10,000HP/19.0kt(最大)が標準仕様である。戦後どのような改設計が行われたかは定かでないが、昭和30年の日本船舶明細書には第一日新丸(錦城丸)が水管缶3基/円缶1基、天洋丸が水管缶2基で登録されている。
 ただ、「天洋丸の主缶半分を転用した」ので5,000HPになったとの記述もあり、これに順ずると天洋丸は2基のうちの1基を供出したことになるが、整合性がとれなくなる。一般配置図も調査したが、詳細は現在のところ不明。

*3…当時捕鯨船に適当な舶用中速ディーゼルが他になく、旧海軍の二二号十型や二三号八型などが搭載された。よほど不調に悩まされたのであろうか、後に機関換装工事を行なっている船も多い(単に速力の強化を図ったという見方も出来るが)。
 なお、参考までに二二号十型は10気筒単動4サイクルディーゼルで、主として戦時建造の潜水艦の主機として用いられた。出力は2,350hp(高過給)〜1,850hp(無過給)。

*4…母船/工船上で鯨の解体や鯨肉の加工などの作業に従事する人員のこと。当初は季節労働者扱いだったが、大洋では組合が組織されると職員に昇格して事業職員と称するようになった。

*5…1939/40年漁期(戦前第六次南氷洋捕鯨)より許可が下りたが、この年の鯨肉の生産量は6船団を合計しても戦後第一次南氷洋捕鯨の2船団の4割弱に過ぎない。戦前南氷洋捕鯨最後の年となる翌1940/41年漁期では6割程度まで増加するが、第二次世界大戦勃発による食糧不足のためであろう。当時、南氷洋から日本まで鯨肉を持ち帰る保存技術がなかったこともその理由である。

*6…シロナガス換算(BWU:Blue Whale Unit):鯨の捕獲規制に用いられていた単位。ノルウェーの業者が経験的に定めたもので、シロナガス1頭で110バレルという採油量を基準とし、鯨一頭分から採取できる鯨油の量でシロナガス1=ナガス2=イワシ6などの換算率が定められた。当時、鯨種別の捕獲規制は難しいと考えられていたためこの換算方式で規制が行なわれたが、効率の良い大型の鯨を優先的に捕獲することになり、かえって鯨資源の減少を早めるとして後に鯨種別の頭数規制に変更された。

*7…冷凍技術が発達し、多数の冷凍工船が就役した後も、商業捕鯨末期まで塩蔵肉の生産は続けられた。主に鮮度の低下した品質の悪い鯨肉が塩蔵処理の対象となり、これが学校給食に供給されたため「鯨肉は硬い」「まずい」などの悪評を生んだと推定される。もっとも、これは鯨の竜田揚げを知らない筆者の想像でしかないが。

*8…この時イギリス政府は鯨肉の消費を奨励し、調理方法を記したパンフレットを国民に配布したが、保存技術が稚拙であったこともあってその味覚は受け入れられずに終わった。

公開:02/04/29
六訂:07/08/22

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