太郎発言集

芸術は爆発だ
初めてこの言葉を聞いたのはものすごく昔、小学校低学年くらいだったと思う。「芸術は爆発だ」ということばはインパクトがあった。
「爆発とは穏やかではない」とかいろいろいわれたと、本に書いてあったが、全くそんなことは思わなかった。ものすごくいいものに出会ったとき、頭がクラクラし、ぼーっとし、しびれる、胸がドキドキする、体温が上がっていくのがわかる、頭の奥のほうが広がっていく感じがする、といった症状が出る。この時のまさにこの感じが爆発なのかな、と思っていた。
でも、そういうことではなかったようだ。生き方の問題だった。
「爆発というと、みんなドカーンと音がして、物が飛び散ったり、壊れたり、血が流れたりする、暴力的なテロを考える。僕の爆発はそういうんじゃないんだ。音もなく、宇宙に向かって精神が、命がぱあっとひらく。無条件に。それが爆発だ。」 と、岡本太郎は言っている。
瞬間瞬間を完全燃焼している人でなければなければこんなことは言えない。
意味がわかった(気がしている)私も常に「爆発」していきたい、いや、人間としてこのように生きていかなければいけないと思った。


オレは進歩と調和なんて大嫌いだ
「相手も六割、こっちも六割、それで馴れ合っている。そんなのは調和じゃない。ポンポンぶつかりあわなければならない。それが調和だ」
なるほど。そうだ。遠慮してある程度受け入れてもらって納得して、中途半端に認めてもらってもなんとなく、ふに落ちなくて気分が良くないことはものすごくある。
そうではなく、意見をぶつけたその結果、お互いに納得し、いい気分でいられる結論それが調和だと思う。いや、ちょっと違うなあ。うまくいえないな。

いやいやしかし、さすが岡本太郎、丹下健三の大屋根を突き破るだけある(笑)。
でも、進歩(に、一見見えるもの)は私は結構好きだよ。


本職?そんなものありませんよ。ばかばかしい。どうしても本職っていうんなら「人間」ですね
私は、何でも屋になりたい。何でも自分でやりたいのだ。それは、絵かもしれないし、音楽かもしれないし、料理かもしれないし、掃除かもしれない。
自分でやりたい!と思ったことはプロアマ関係なく、利害関係も無く、ただ自分の欲求を満たすだけだ。
私は現在「本職」という形で仕事をしていない。さまざまな理由等があるのだが、今の仕事は自分の生活の一部、自分の欲求のちょっとしたところといったところか。
人間として生きていくためには、食べていかねばならない、欲求を満たさねばならない、生活を守らねばならない。
食うために仕事をし、欲求を満たすために絵を描いたり音楽を聴いたりし、生活を守るために炊事洗濯等の家事をする。
これができて初めて人間として生きていると思う。
なので、本職=人間というのは、人間としてあたりまえのことなのだ。

死んで何が悪い。祭りだろ
祭で死んだら本望!?私は祭と死を結びつけて考えたことは無かったので、「この人はいったい何を言っているのだろう」と耳を(いや活字を)疑った。
めでたい祭と悲しい死を一体にするんて。
でも、想像してみよう。死に物狂いで御柱に向かう若者。いや、ほかの祭だってそうだ。だんじりだってねぶただって、死に物狂いでやるのが祭りだ。
祭りで死んだってそれは、名誉ある死だろうし、変にお上品な祭りをやったところでこれが祭といえるのか。
太郎の言い方はかなりどきっとする感じで言っているが、これもあたりまえといえばあたりまえだ。

教祖?信者の一人もいない教祖だね
そういえば、私、教祖って興味が無い。だって、他人の何が信用できる?
神様はいるだろうけど、それを信じる信じないは自分自身の問題だろうし、他人が悟りを開いたところで
結局自分に残されることってあるのだろうか。
悟りを開いた人はすごいと思うし、尊敬に値すると思う。だが、教祖や高僧などは無償の祈りをしてくれるだろうが、
私は何ができるだろう。
私は、私を信じ、ただ、人として生きていくだけなのだ。
ま、himorin教の教祖、そして信じてるのは自分だけっていう(笑)。
ただ、岡本太郎の場合、あれだけの偉業を残した人なので、尊敬しているし、それは私だけではないはずだ。
岡本太郎は言っている、「芸術というものは自分ひとりで方法を発見してゆく、それ以外に無い。弟子になりたいなどと考えるやつは芸術家失格だ」と。
芸術は人生といっている岡本太郎なのだから、人生もまた他力本願でなく自分で開拓しなければ人間失格というだろう。
尊敬する人は数多くいるが、弟子になろうというよりも、自分でその人や作品を研究し、吸収することが大切だと思う。
そのためには、多くの人とふれあうべきである(話がずれたがいいこと言ったような気がする)。

字は絵だろ
太郎の字を見た。これは見たものしかわからないが、確かに字であり絵だった。
「字は絵だろ」という5文字はすごい的確な発言だ。

命がけで滑る度胸がなきゃ、本当のスキーなんてできないんじゃないだろうか
私は、小さいころは雪国で育ったので、スキーはたしなむ程度だがすべることができる。
さほど運動が得意でない私だが、スキーは人並みに滑れた。
ゆるい坂では物足りず、わざわざ急な坂を選んだりして「直滑降ー!!」とか言いながら飛ばしていたものだ。
ただ、その坂だが、やはり「急な坂は怖いけど、面白い。でも自分のギリギリの所」を選んでいるのだ。
命がけで滑れば、もしかしたら自分の意外な火事場の馬鹿力が見れるかもしれないし、面白さも150%増しかもしれない。
そのスレスレのところがクリアできないのが凡人たるところなのだが。
たまたま、太郎がスキーを好んでやっていたのでスキーが題材になっているが、これはあらゆることにも言えることだ。
岡本太郎のように、死に物狂いで突進できる勇気が欲しい。

わぁー。真っ白。まるでアルプスみたいだね。
「アルプススタンド」は太郎が命名したということはあまり知られていないように思われる。
太郎が子供のころに、甲子園球場がステテコに白編みのシャツのおやじさんでスタンドがいっぱいだったのを見て
「アルプスみたいだ」といったのがはじまりだそうだ。
雪山みたいとか、冬の富士山みたいではなく「アルプス」が出てくるあたりがすごい発想力だな、おもしろい!と思った。
それだけですが…。

ぱたぱたと羽をうごかしたりなんかしないんだよ。このまんま風に乗ってすうっと、いつまでも宙をまっているんだ。あれはいいねえ。
確かに、鳥が風に乗ってすうっと飛んでいる姿は気持ちよさそうだ。自由な感じもするし。うらやましいとさえ思う。
ただ、私は鳩や雀がパタパタと飛んで電柱から電柱に、または、群れでとんでいるのもまた、いいなあ〜と思う。
太郎はその辺をどう思っていたんだろう。


今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。