自転車の歴史

  1. 自転車の発明と発達について
  2. ツール・ド・フランスまでの長い道のり←工事中
  3. ・・・・←工事中

1.自転車の発明と発達について

 

<誰が自転車を発明したのか?>

二つの車輪をタテに並べた乗り物に乗って走っても転ばない、という発見は、人類の文化史の中で、まさに画期的な発明だったはずである。その発明者が誰かという疑問が出てくるのは当然のことである。レオナルド・ダ・ビンチやシブラック伯爵といった確証のない話も出てきたほど、諸説が重複しあっている。

自転車の発明の原点はどこにあるのか?と言えば、どんな機能をもった乗り物を自転車とするか、という見方によって幾通りにも議論がわかれてくる。多くの段階を経て次第に自転車が発展してきただけに、どの自転車の発明をもって、自転車の原型とするか、という視点によって意見がわかれるのは当然である。また、現代でもその視点が定まらないのは、あらゆる発明がヨーロッパ諸国にまたがっており、各国が元祖を主張し合って、容易に譲ろうとしないためである。

 

<ドライス男爵発明の"ドライジーネ">

多くの自転車史のうちで、比較的公平な記述をしているカウンター(C. F. Caunter)著「自転車の歴史と発達」(The History and Development of CYCLES)であろう。

ここでは、ドライス男爵が、1817年、ドライジーネをつくったのを自転車の始祖とみている。そして、1818年4月、ドライスは、パリのルクサンブール公園でドライジーネを公開したことになっている。一説によれば、ドライスがこの発明を完成したのは、彼の故郷マンハイム(Mannheim)で1813年だったともいわれているが、定かではない。

ドライジーネは、まだペダルもクランクもなく、地面を足で蹴って走る車にすぎないが、ハンドルを動かして自由に曲がることができ、ボーンからディヨン間37キロを二時間半、時速15キロで走破した。馬を使って走るほかに、これだけの速力が出せる乗り物ができたことは、人類の乗り物の歴史として画期的なできごとといわねばならない。

ドライジーネが発表されてまもなく、ロンドンではデニス・ジョンソンがドライジーネと同じ原理の自転車を作り、“歩行者用車”と名付けたという。ジョンソンの発明が、ドライジーネのコピーだったか、まったく創案のものだったかは不明だが、ドライジーネよりわずかだが遅れたことは確かであり、この型の発明者はやはりドライス男爵に帰することはやむを得ない。

このドライジーネはイギリスではホビーホースやダンディホースと呼ばれ、イギリス紳士の間で広まった一種の遊び道具だったことが想像できる。なお、ドライジーネの機構のうち、ハンドルと座席の間にあるものはアーム・レストといい、前傾姿勢で疾走するとき、肘を支えるために設けられている部分である。

 

<足が地面から離れたマクミラン型登場>

1839年、イギリスのダンフリーシャー州コートヒールの鍛冶屋カークパトリック・マクミランがペダルによる後輪駆動装置を発明した。これまでは、足で地面を蹴って前進していた自転車がはじめて足が地面を離れたのだから、マクミラン型の出現は、自転車発展史の中で忘れることができない発明だったといえる。後輪を駆動させるために、前輪より後輪の方が大きく、ハンドルのグリップを回すことにより、前輪にブレーキがかけられるようにつくられていて、マクミラン型の発想は、確かにこれまでのドライジーネに比べると大きな機能の進歩がみられた。

たしかに、マクミラン型は自転車発展史のなかでエポック・メーキングな発明にはちがいないが、テコ理論を応用した機能は、その後の自転車の発展にそれほど大きな影響をもたらしたとはいえないので、自転車発達の大きな流れの一つとして評価するのが正しい見方ではないだろうか。

マクミラン型は、自重が26キログラムもあり、上り坂などでは登攀力は優れていたとは思えない。当時といえどもあまりたくさん作られた形跡はない。

 

<最初の量産車ミショー型>

パリの乳母車・三輪車(ベロシペード)の小メーカーだったピエール・ミショーが前輪の中心部にペダル・クランクをつけることを発明したのは、1861〜63年頃だった。いまでは、子供用三輪車に取り付けられている前輪駆動のペダル・クランクが発明されるのに、マクミランが一応のペダル装置を創案してからでさえ20余年の歳月を必要としたわけで、発明史・技術史の足跡は決して規則どおりにいかないことをよく現している。

ピエール・ミショーは、東フランスの小工業都市バルデュクの貧しい家庭に生まれ、十歳台でパリに行き、馬車製造業者の工場に奉公し、のちに独立して乳母車などをつくっていたとも、錠前屋であったともいわれているが、街の便利な鍛冶屋の店をひらいていたのであろう。ある日、友人からベロシペードの修理を頼まれ、できあがって、息子のエルンストが試走したところ、下り坂で足の置き場所に困ってペダル・クランクの装置を思いついたという。まさに、コロンブスの卵に等しい単純な思いつきだが、自転車の技術史にとってはたいへんな躍進だった。

ミショー型は、最初の量産車となった。量産されたということは、初めて実用に供されたということであり、その意味ではマクミラン型の創案を上回る発明といえる。ミショー親子は、1862年に142台のミショー型をつくったが、その3年後には、300人の職工が働く自転車工場に発展した。工場所在地は、パリ市シャンゼリゼと凱旋門をはさんで反対側の大通りグランダルメ街で、今も、この通りには自転車関係の会社が集まっている。

ミショー型は、イギリスに渡ってボーンシェーカー(背骨ゆすり)と呼ばれ、サドルのばねや、ブレーキの改良が重ねられ、夜間走行用にランプがついたりフレームの鉄部分にさまざまの装飾が工夫されたりして、1880年代まで世界中に広がり人々に愛用された。

このミショー型には、もうひとつの異説がある。ミショー工場の使用人だったピエール・ラルマンが、じつは、最初の発明者だったのに、せっかくの発明を主人のピエール・ミショーに横取りされてしまったというのである。このあたりの主人側と使用人との関係がどのようなものであったか、いまとなっては知るすべはない。車輪に、未知の世界だったペダル・クランクをつける段階で、ラルマンがミショー工場をやめてアメリカに渡って、コネチカット州のキャロルと言う人物と共同で1868年、アメリカにおけるボーンシェーカー型自転車の特許を取得していることだ。しかし、アメリカ大陸に自転車がなじむにはまだ早すぎたらしく、ラルマンは自転車工場の経営に失敗し、フランスに帰って一機械職工として終った。

日本に自転車が上陸してきたのは、慶応年間(1865〜68年)と推定されるが、このとき、日本に入ってきたのはミショー型だった。

1868年5月31日、パリのサンクールで有史いらい最初の自転車競走が行われた。距離は1200メートル、使用者はミショー型で、優勝したのはパリ在住のイギリス人ジェームズ・ムーアだった。たとえ”骨ゆすり”であっても、自ら運転し、自らの力で自由に乗り回すことができる乗り物ができたことに、当時の人々は大きな感激を覚えたに違いない。

翌1869年11月7日には、パリ〜ルーアン間134キロメートルのロードレースが行われた。長距離ロードレースとして記録にのこる最初のレースである。参加者200余人、うち女性選手が5人いた。優勝したのは前年の1200メートル競争の覇者J・ムーアで、所要タイム10時間25分、平均時速12.9キロだった。同年11月、パリのプレカタランでは、これも最初のサイクル・ショーが開催された。展示品には、ワイヤスポーク付の全金属製軽量自転車、中空パイプ使用のフレーム、中実(ソリッド)ゴムタイヤ、収縮バンド型前輪ブレーキ、スプリング懸架式前輪、ドロ除、フリーホイル、変速ギヤまであった。ショーには、一輪車、三輪車、四輪車も工夫をこらした姿を見せた。

この時代、自転車の生産、改良が最も盛んに行われたのはパリを中心とするフランスだった。しかし、1870年普仏戦争が始まり、フランス軍は自転車を斥候、伝令などに新兵器として活用したりしたものの、戦争の傷手が大きく、自転車の生産力、発展段階はイギリスに舞台を移すことになる。世界の自転車王国として第二次世界大戦前後まで、イギリスが質・量ともに世界をリードするきっかけは、この普仏戦争にあったといえる。

 

<オーディナリ型の時代の幕開け>

1870年ごろ、フランスのマギーは木材を使わない自転車を作った。これまでのミショー型の重く粗野な構造を抜け出すために、すべての部品をスチール、鉄、ゴムを使ったばかりでなく、前の駆動輪を大きくし(122cm)、あとの従輪を小さく(61cm)した自転車を工夫した。前輪駆動方式なら、同じ一回転で進む距離は車輪径の大きい方が効率が良いことは当然であり、マギーの発想はいたって合理性があった。

この貴重な改良型は、フランス本国よりもイギリスで注目された。のちに”自転車の父”と呼ばれるようになったジェームス・スターレイや、コベントリ市のコベントリ・マシニスト会社などはさっそくこのマギー車の形式を導入し製作するとともに、さらに改良発展させるために昼夜を分かたぬ努力を始めた。イギリスの自転車生産は、この時を起点として伸びはじめた。

ひとたび、前輪を大きく後輪を極端に小さくするオーディナリ型が出現すると、ミショー型はたちまち駆逐され、消えていく運命をたどる。1885年頃、オーディナリ型自転車は欧米諸国でピークを迎える。この型のきわめて優美で軽快、デザインとしてひとつの極致に達した姿は、当時の貴顕紳士といわれる人たちから熱狂的な支持を受けた。オーディナリは、同時に、そうしたファン層を十分堪能させるだけのスリル、スピード感をも兼ね備えていた。

現在でもこのオーディナリのデザインは、ペンダント各種アクセサリ、婦人服地やTシャツのプリント模様、ネクタイ、ベルトのバックルなどに絶えまなく使われている。もはや、アンティーク自転車としての記憶にしか過ぎなくなったオーディナリが、繰返しデザインとして使われているのは懐古趣味というよりも不朽といえる優れたデザインのためであろう。

オーディナリ型とは、いうまでもなく普通型という意味である。はっきりした命名の時期はわからないが、前時代のドライジーネや、ミショー型、ボーンシェーカー型や、オーディナリ型とは別コースとして少しずつ研究改良が行われていたセーフティ型などと区別するためにできた呼び名であったろう。オーディナリ型の事を、別名ペニー・ファージングというのは、イギリスの通貨1ペンスと1/4ペンス銅貨のことで、前後輪のサイズが極端に違っているので付けられた名称である。

このオーディナリ型の生産がいとぐちとなって、イギリスの自転車産業がどれほど伸びたかということは、下表のイギリス各地の工場数の増加率でも察することができよう。

この工場数の増加は、いろいろな示唆に富んでいる。初期オーディナリに根付いた自転車産業は、オーディナリ全盛期になって幼稚産業の域を脱け出し、三輪車をも手がけながら、セーフティ型生産に移行して成熟産業としての基盤を確立するに至るのである。

わが国にオーディナリ方が入ってくるのは、1877ごろと推定されているが、その頃の日本名は”だるま車”といった。高い乗車位置から落者するとコロコロとだるまのように転倒するから、という説もあるが、極端に大小の差の大きい車輪を持つ恰好から、当時の人たちが横倒しのだるまを連想した、というのが常識的な見方であろう。

 

<オーディナリの栄光と転落の足跡>

オーディナリ型として、明白な姿をあらわした最初の自転車は「ファントム」である。イギリスのレイノルズとネイズが1869年に開発したもので、自重24キログラムという重量は今日から見れば思い感じがするが、木製車輪としては精一杯の軽量化をはかってあり、従来のボーンシェーカーよりは軽く出来ている。前輪軽が86cm、後輪径は71cmまだオーディナリ型の特徴は十分でてないが、フレームは軽量鉄棒で構成された2個の三角形が共通の底辺で関節となっている。

ハンドルを動かすと、ロッドを介して2個の三角形が折れ曲がり、転向できる。車輪には、ワイヤ・スポークが両面にダブルで張られていて、テンションスポークをダブルに張る構造の車輪としては最初のものである。一本のワイヤをV字形に折り曲げ、この頂点のところを木製リムに植え込んだアイボルトに通し、ワイヤの両端は左右のフランジに固定されている。車輪に剛性を与えるためにはスポークに張力をかける必要があり、このため左右のフランジをクサビで広げる工夫がされている。この張力応用の車輪は1802年、バウアによってパテントが取得されていたが、最初に実用化したのがファントムであった。この構造の車輪の欠点は、心が狂いやすく、修正が難しいというところにあった。リムには中実のゴムタイヤをかぶせ、釘止めしてある。初期のオーディナリ型として、ファントムの存在は必須の車種である。

ジェームス・スターレイは、ファントムが公表されてまもなく”リボン”車輪の特許をとった。スポークは両面に本ずつがペアとなり、車輪全体のスポークに張力を与える方法として、ハブに固定されたクロスバーを使用し、このバーの両端からそれぞれ一本のタイロッドがリムに貼り渡されている。タイロッドのねじを回し、長さを調節する事によって、リムに対するハブの関係位置が相対的に回されるので、車輪両面のスポーク群に均等な張力が与えられることになる。

このリボン車輪を使ってスターレイは、スミス、ヒルマンと一緒にコベントリ市セントジョン街の自転車工場で「アリエル」を設計した。シェークスピア作品に出てくる”空気の精”から名付けられたアリエルは、1870年に公表されたが、全金属製の軽量車としては最初のものであり、美しいオーディナリ型の原形でもあった。

この車には、センター・ステアリング型ヘッドが初めて取付けられた。センター・ステアリングとは、現在の自転車がすべて採用している前ホーク上部がヘッドラッグを貫通している方式の事で、これができるまではソケット・ステアリングといい、前ホークの後側に受け金がついていて、この受け金が蝶つがいでフレームの前端とヘッドが連結されていた。

アリエルは前輪126cm、後輪35cm、ペダル調節用としてクランクにミゾ孔が空けられているので、クランクの有効長は12.6〜16.3cmまで変えられる。また、初めてスピードギアが取り付けられ、ギアによって前輪はクランク軸の2倍の速度で回すことが出来たので、スピードはほとんど倍化し、時速23〜4キロは出せるようになった。 

その後グロウドがつくった”テンション”、スターレイの”スパイダー・ホイル”など、活発な新車発表が行われた。前輪はいよいよ大きく、後輪はますます小さくなり、ついに、乗り手の足がペダルに着く極限まで前輪径は大きくなった。オーディナリ型の場合、背の高い人ほど、前輪径の大きい車に乗ることが出来たわけだ。

自転車の重量は、中空フレーム、中空前ホークの採用によって軽くなり、車輪軸には、1876年に円筒形や円錐形のプレーン・ベアリングが使われ、その3年後にはボール・ベアリング、ローラ・ベアリングが開発され、自転車の走行は次第に快適になる。1870〜1890年の約20年間、ヨーロッパで、ついでアメリカで、無慮数十種にも及ぶオーディナリが開発され、そのうちですぐれた性能を持つものは大量に生産された。だが、オーディナリ型では、クランクが前輪ハブに直結しているから”ギア数といわれるギヤ・レシオは、どうしても車輪の直径によって制限される。乗り手によって車輪に加えられるトルク(回転力)を変化させるためには、クランクの長さを変える事によって、レバーレイジ(テコ率、すなわち足を踏みおろす距離と、自転車の進行距離との間の拡大率)をわずかに変更できるにすぎない。

1885〜86年頃から開発が進んだセーフティ型の機能が、前と後のギア比を買えることによって自由に回転比率が選択できるようになって、オーディナリ型はたちまち陥落してしまう。しかし、オーディナリ型自転車が約20年間に果たした技術開発そのものは、決して無視することはできない。

1879年、ペイリス・トーマスのつくったオーディナリなどは、同型としてほとんど完成の域に達していた。中空の前フォーク、スターレイ・タイプのラジアル・スポークはネジ付ニップルで張力をもち、車輪軸はプレーン・ベアリングを使用、ペダルはゴム製、スプーン型ブレーキでタイヤを直接押さえるようになっている。

1883年製のマッチレスには、初めてボール・ベアリングが使われたし、1884年製のラージはレーシングマシンとして多くのレースに使われたが、重量はたった9.7キロにすぎない。1892年製ラージには、142cmの前輪に初めてダンロップの空気入りタイヤが装着された。

1878年、シンガーはギヤ付オーディナリ型として、エキストラ・オーディナリを発表した。この車は高速というより安全のために設計されたもので、左右のクランク・ピンはそれぞれ左右のレバーの中間点に連結されている。各レバーの上端は、前ホークの上部あたりにピン止めされた短いリンクに連結されているので、レバーの上端部には上下方向に円弧を描く事になる。

同年に出たカンガルーは、ギヤ付オーティナリとしても異色な存在であり、時代に現れるセーフティ型へ移行する中間的な自転車であった。前輪は91cmとだいぶ小さくなり、この前輪は、前輪軸より少し下がって配置されたクランクによって駆動する。両クランクのシャフトは結合されていないので、各クランクに各々チェーンホイルが取り付けられ、2本のチェーンを介して増速した動力が前輪に伝えられる。したがって、駆動輪を縮小したためのギヤ数の縮小は、増速伝導によっておぎなわれ、駆動輪とクランク軸との双方のスピードを最も効果的な比率に調整できる。1884年、スミスは100マイルを、このカンガルーに乗って7時間7分11秒で走破したが、この平均時速22.6キロは、当時のどんな自転車と比べても最高のスピードだった。

 

<一輪・並輪・三輪・四輪>

我々現代に生きるものにとって、自転車といえば無条件にタテ2輪の乗物を思い浮かべるが、自転車の発展段階では、2本の足を動かして走る乗物全てについて、できる限りの可能性を追及する実験が行われた。これらの乗物は、各々それなりに一応の完成した姿にまで達しながら、二輪の自転車の便利さに敗れて歴史の中に埋没していった。しかし、一輪・並輪・三輪・四輪などの”自転車”もいずれも捨てがたい魅力があり、いつの日にか、また復権しないとも限らない。

 

a.モノシクル

1868年以来、一輪車についてのテストは幾たびか行われた。長所としては、二輪車以上に軽快に走れるおもしろさがあるが、かなり訓練をしなければ前後方向、左右方向に、著しく不安定であるという欠点が災いして伸びなかった。

本格的な一輪車の開発は、1888年、イギリス人タッカーによってなされた。乗り手が車輪の頂上に乗り、駆動は、手回しクランクをつうじてするものだった。その後ハブにペダル・クランクをつけたもの、背の高いものは、チェーンを使用したものなどが市場に出たが、そうした曲乗り用はサーカスで使われたものが多かった。

 

b.ダイシクル

イギリス人オットーが、1881年にダイシクルを発表したときは、オーディナリの全盛だったが、二輪車や三輪車の全てにとって変わるだろう、という評価を得た。背の高いオーディナリより、はるかに危険性の少ない乗物の出現と思えたためである。オットーによって特許を取得したダイシクルは、バーミンガム・スモール・アームズ社で、たちまち1000台も作られたという。

ダイシクルはサドル1個とペダル付クランクが装備されている。乗り手の力は、クランクから両側のプーリーに伝えられ、さらにスプリングで張力の与えられた二環のスチール・ベルトを介して、左右の駆動輪まで伝達される。曲がろうとする側のハンドルに付いた引き金を強く握ると、その側のベルトがゆるみ、同時にプーリーが滑るので、車輪に軽く制動がかかり、他方の車輪はそれより早く回転するので、方向転換ができる。この操向方法は、後に戦車などに応用された。車輪の直径142cm、トラック幅81cm、自重43キロ、後方に尾のようなものが見えるのは、安定を保つとともに急ブレーキをかけるとき、状態をのけぞらせて使う。

ゆったりした車幅は、交通の混雑現象が日常化した今日、復活させることは難しいだろうが、いつの日か再流行しないとも限らない。

 

c.トライシクル

わが国で三輪車といえば、幼児用玩具の商品分類で扱われ、ようやく最近になって、主に家庭婦人の買い物用として小輪のものが出回ってきた程度に過ぎないが、欧米諸国では、2輪自転車と併行して多種多様のトライシクルが考案された。二輪車に乗る技術がなくても乗れるし、安定感があり、乗ったままの姿勢で自由に停止できるという大きな利点にささえられて、たくさんつくられた。ついには、五輪車(ペンタシクル)、並輪車で左右二人の座席のついたソシアブルなどまで作られた。多輪車の欠点は、自重が重く、そのため発進・推進がやや困難なこと、上り坂や向い風の時にはさらに困難であり、格納場所に大きな面積がいることなどであるが、タンデムや、トライシクルではかなりの成功を収めた。

三輪車に関する研究はたくさんあったが、商業的に成功したのは、スターレイのつくったコベントリ・トリシクル(1876年)だった。コベントリ型は、第1号では足を上下に踏むレバー機構だったが、1880年の第2号では、大直径の駆動輪への伝導は1本のチェーンでする方式に変更し、また、前輪の操向は、はじめはカジ棒を左右に振り動かす方式だったのを、手首をひねって操作するラック・アンド・ピニオン機構に変えている。名称がコベントリ・レバーからコベントリ・ロータリに変わったのは、足で回転運動をしてチェーンと伝導するようになったからで、商品名をコベントリ・ラージ三輪車として、10年以上のあいだ流行をみた。

コベントリレバーは、駆動輪径127cm、操向輪は前後とも直径61cm、ホイルベース152cm、トラック幅66cm、全長214cmであった。

ラージ・ロータリは、駆動輪直径122cm、操向輪は前後とも直径51cm、ホイルベース150cm、トラック幅63.5cm、自重36キロあった。両型とも左右非対称三輪車で、左側に大きな駆動輪1個をもち、右側に小さな操向輪2個がついている。

コベントリ型の成功が刺激となって、ダブルディ・アンド・ハンバー、オムニシクルなど、数多くの三輪車が生産された。その形式は大別すると、操向法として前輪型、側輪型、後輪型、直接型、間接型など、駆動法としては前輪型、側輪型、後輪型、変速ギア付型、単輪駆動型、複輪駆動型などに類別でき、これらがさまざまにコンビネーションされて、たくさんの車種が生まれた。イギリスだけでも1884年ごろまでに、200種以上の銘柄が輩出されたそうであるから、その盛況ぶりがうかがわれるが、1890年代になり、自転車が活発に進展するにつれて、急速に減っていった。

 

d.クォードリシクル

人力で四輪車を動かそうと考え、研究した歴史家は15世紀ごろから始まっている。ダビンチも、バネを使った車を考案してるし、そのほかにも、手動ハンドルを歯車で車輪に連動する車も実験されているが、いずれも実用に至らなかったのは、、脚力という人間の最も強い力の利用を思いつかなかったためであろう。

近代になってからの四輪車は、本質として三輪車とそれほど変わった機構ではなく、一括してコンバーティブル・トライシクルと呼ばれていたようで、本格四輪車としては、1888年にラージが開発したトリプレットがある。これは3人乗だが、四輪車は設計上、どうしても自重が重く人力で動かすには適しているとはいえないので、大きな伸びはなかった。

10年程前、日本でも二人乗四輪車が発売されて話題を呼んだが、結局大きな需要につながらないで終ってしまったが、世を挙げてモータリゼーション時代に、悠然と車道を走る四輪車の姿は、ユックリズムの象徴として復活しないとはいえない気がする。

 

<セーフティ型になってから>

ミショー型からオーディナリ型への移行は、至って自然な流れであった。にわかに行動半径が広がったことに、多くの人々は熱狂したし、ちょうど乗馬と同じように歩行者の頭を見下ろす感じは、乗り手にとって優越感をそそる乗り物でもあった。しかし、のぼり坂は骨が折れ、下り坂で加速すると危険な思いをする厄介な代物でもある。それで、チェーンによる後輪駆動の自転車が世に出たとき、セーフティ型と名づけることに、誰も異論を唱えなかった。

1868年頃から、後輪駆動についての工夫研究は始められていた。1869年当時、フランス人アンドレ・ギルメ、イギリス人シャーリングらが、安全型の先駆者として名を残しているが、これらの事象は本当のところ確証に乏しい。

チェーン駆動により後輪を回転させる安定型を、はっきりした姿で最初に作り出したのは1879年イギリス人ローソンだといわれている。残されたその自転車を見ると、前輪が大きく、後輪が小さいオーディナリ型の影響を脱しきれないながらも、原理的には立派に安全型の形式をとっている。彼は、すでに1873〜74年ごろに着想していたといわれ、1879年に発表されたものは第3型であったというから、その発想は極めて早かったといえる。しかしこのローソン第3型が実用に耐える試作車として世に出たのは、1884年になってからのことである。

動力を伝導する役目を果たすチェーンは、精密な機構を要求されたから、安全型の原理は発見できなくても、その実現までにはかなりの歳月を要したのであろう。安全型の着想が実用になるまで、10年以上もの間、世を挙げてのオーディナリ全盛時代をじっと我慢し続けた辛抱は容易なことではなかったはずだ。ローソンは、この第3号車にビシクレットとフランス語を借りて命名した。安全型は、このときからフランス語でビシクレット、英語でバイシクルと呼ばれるようになる。

このころを契機として、安全型の新製品はイギリスを中心として、どっと製造されるようになってくる。ハンバー型はデザインとして、従来のミショー型や、オーディナリ型の影響をまったく脱け出し、安全型として独創的な形態をとったものとして注目されなければならないし、マクカモン型は一本のパイプによるドロップ・フレームをつくった。

1885年、スターレイは、ローバー号をつくった。前・後輪が同一サイズになったのもこのローバー号が最初であり、性能としても、当時、極限状態まで発達していた競争用オーディナリより走行力が優れていることを、スターレイの協力者だったゴルダーという名の競技者が証明した。

サドル・ハンドル・クランク軸の3者の関連位置が非常によく合理的に配置されており、歩行に比べて自転車走行の場合のエネルギー消費は1/5という定説は、このとき生まれたという。侍従17キロという目方も現在の実用車と変わらず、取り扱いも楽になった。

ローバー号が出現してから2,3年間は、現在、われわれが自転車のスタンダード型といえばすぐ思い浮かべるダイヤモンド型フレームが完成するまで、実に多くの型が現れ、実用に供された。

全体の外観は目に付きやすいが、それとともにフレームの材質、タイヤ、変速装置、サドル、チェーン、ランプなど、部品・アクセサリーも急速に進歩し、実用化していった。たとえば、車輪の外側を包むタイヤ部分についても、木製車輪を鉄の帯で巻いたものに始まり、中実ゴムタイヤ、空気入りタイヤへと発展した。空気入りタイヤは、1845年、トムソンによってイギリスの特許が取得されていたが、このアイディアはほとんど採用されず、1888年、イギリスの獣医、ダンロップによって自転車用の空気入りタイヤの特許が申請され、翌1889年認可された。

参照:自転車100年の歴史−市民権のない5500万台−

 

2.ツール・ド・フランスまでの長い道のり

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